米津氏と駿河国駿東郡の大森氏 1 はじめに
かって『古代氏族系図集成』を編纂した際、最後まで考えが的確に整理できないと感じつつも、見切り発車的に考えを一応まとめた氏がいくつかあった。その後、十八年ほど経って、系譜や周辺事情・動向が少し分かってきたものが出てきたものの、相変わらず不明というものもかなり残っている。それだけ、系図研究の奥が深いというものか、残存資料が少ないという事情に因るのか、その辺は微妙なところではあるが、三河の米津氏はそのよく分からない氏の一つであり、小土豪から身を起こした譜代の小大名とはいえ、気になる存在であった。
この米津氏について、家系研究協議会会員の米津正治氏は、『米津家のルーツを尋ねる』(資料編、正・続編の計三冊)という私家本をこれまで上梓されており、その丹念な資料探索には深く敬意を表したい。最近、上記のうち近刊の二冊について恵贈をうけ、様々な示唆・関心を呼び起こされたところで、ここに検討を加え米津氏に関する雑文を書こうと試みた次第でもある。
2 米津氏の出自に関する諸説
米津氏の系図は江戸初期では祖先不明とされ、『寛永系図』未勘の部では、勝政以前の家系は不詳として勝政以降の系図が提出されている。その後、江戸期に祖先が架上された事情もあるようで、米津正治氏の整理も踏まえて出自に関する諸説、主として次の三説をあげると、次の通り。
(1)藤原朝臣姓 @関白藤原道隆の後、信濃守親康の子米津新大夫親勝の七代孫刑部少輔信勝が左馬助勝政の祖先という(『藩翰譜』)。A関白藤原道隆の系に出た駿河大森一族、親康の子新大夫親勝の後、小大夫信顕後裔の小大夫勝光が左馬助勝政の父(『諸家系図』)。
このほか、『系図纂要』も駿河の大森一族に出る藤原姓説で、親勝の七世信勝の子に勝政をおく。
(2)和邇部宿祢姓 富士浅間社大宮司富士氏の一族、大宮司直則の子大宮司則時の弟・三郎左衛門尉信政が三河に分かれる(『和邇部系図』)。鈴木真年翁の『華族諸家伝』では、信政を能登守和爾部国能の男と記す。また、同翁著『百家系図』巻43所載の「米津系図」では、富士三郎五郎員時の子に米津太郎時済をあげ、その子時勝−勝忠以下に続ける。これら和爾部姓は棕櫚紋の共通を傍証とされる。
(3)清和源氏 三河郡司米津太郎源時済十一代の孫左馬介義道が尾張国住人古渡和泉守藤原正忠の婿養子となり氏を藤原姓に改め正重と称し、その嫡子右馬助正種が本国三河に移り、勝政の父となる(『寛政譜』)。
これら諸説について時代をおって系統的に検討した米津正治氏は、「三河米津氏の系図は、正種までは遡及できるが、それ以前の藤原系図には疑問がある」と記述される。
ここで注意されるのは、大名家の初代田盛が承応三年(1654)十二月二十八日、従五位下出羽守に叙任したときの宣旨に「藤原」姓を用いた事実があるが、そうだからといって、これが正しい出自に基づくものではない。米津氏の藤原姓とは、駿河の大森一族の出自に因むものであり、実際には道隆流藤原氏のはずがない。当地の古族末流が藤原姓を仮冒したに過ぎないからである。江戸期に政敏公以降の米津氏が清和源氏を称しても、やはり同様である。系図に見える出羽守源光国その子光保と、それ以下の世代(光時−国正以下)とに実際の繋がりがないことは、『尊卑分脈』を見れば歴然とする。
その苗字起源の地が三河国碧海郡米津(現西尾市北部の米津)であることに異説はない。上記諸説の混乱は著しく、三説に分かれるものの、仔細に見ていくと相互に通じるものもある。清和源氏説は頼光流土岐一族に出るものであるが、これは世代数などで考えて明らかに仮冒にすぎない。しかし、中間にあげる祖・米津太郎時済が富士一族に出る所伝もあり(上掲)、要は駿河の大森一族か富士大宮司一族の出となるものである。そして、この両者はかなり通婚や養子の関係が見られるのだから、多少の相違は問題ないとも思われる。
3 米津正種の父祖
左馬助勝政の父とされる正種が『三河国諸家譜』や『三河国二葉松』に見える藤大夫道寿にあたるものか(なお、道寿は道膳の父とする所伝もある)。正種の父について、刑部少輔信勝の後裔米津新大夫正親と伝える系図(学習院大学史料館所蔵『米津氏系譜仮記抜粋』に記載の「米津家系図」)もあり、同系図には他書に殆ど見ない正種や勝政の兄弟があげられる。
これに関連して、国会図書館に所蔵の『本朝武家諸姓分脈系図』(以下、『分脈系図』という)所載の「米津系図」(巻13)が注目される。この『分脈系図』は、根岸信輔氏昭和八年八月十日寄贈と記される系図集であり、三河譜代の諸氏では酒井氏・板倉氏*1について真説に近いと思われる系図が記載され、また肥前・五島列島の宇久氏については古代の物部連一族大水口命以来の系図を記載している。この著作の成立経緯は不明であるが、貴重な所伝を記載する部分がいくつかあることに留意したい。そうした一環のなかでの米津氏系図であると考えてよかろう。
さて、「米津系図」であるが、記載は米津道善(居三州矢矧庄)に始まり、その子に新大夫正親・主膳兵衛・弥右衛門兄弟、正親の子に右馬助正種・新四郎・三郎兵衛・助蔵兄弟、正種の子に左馬助勝政・次郎兵衛・久三郎兄弟をあげるものである。詳しくは次に掲げる。
この系図に見える四郎右衛門については、『松平御伝記』第七巻に見える。すなわち、大永四年(1524)額田郡小美の米津四郎右衛門という者が清康君が岡崎城に移ってから一遍も来ないので、岡崎の下知を受けた岩津太郎左衛門長勝等により攻め滅ぼされたことが記される。前掲の「米津家系図」では、正種の妹の女子について、「嫁於三州小美村米津四郎右衛門亡後来于正種之許 有一女子」と註記されている。従って、両書が符合するものと知られよう。また、「米津家系図」では、始まりが「道善 正親」とあって、道善と正親とが同人のようにも受け取られるが、本系図により両者が親子であることも知られる。
こうしてみると、『分脈系図』所載の「米津系図」は貴重なものといえそうである。道善の実名は不明であるが、年代的に見て応仁・文明頃の人であり、上記の所伝に見え、応仁の乱に参加したと「諸家系譜」に見える正重にあたるのかもしれない。
4 初期の米津氏と大森氏一族
米津氏の初代については、大きくいって二説ある。第一は鎌倉初期頃に信濃守親康の子大森信濃守親家の弟・親勝が米津新大夫と名乗ったとするものであり、第二は富士大宮司和邇部宿祢国能(直則)の子の三郎左衛門尉信政が三州米津村に移って米津を名乗ったとするものである。信政の活動年代は、富士大宮司家の周辺の人々の年代等から推して鎌倉末期とみられるから、両説にあっては起源に百年余の差異があることになる。
この両説の是非を考えるため、駿河大森氏の系図を検討する必要がある。ところが、後年相模小田原の城主となる大森氏は、鎌倉期の動向が知られない。その系図は数種、現在に伝わるが、この一族の本宗はむしろ同族葛山氏のほうであった模様であり、『東鑑』には葛山氏が現れる(巻25の承久の変に参加の葛山太郎、葛山小次郎。巻36の葛山次郎)。『曾我物語』にも、巻1の相撲人として葛山又七が見えるから、既に平安末期には当地の豪族であったことが知られる。その本拠であった静岡県裾野市葛山には、富士浅間社が鎮座することに留意される。
葛山氏については、『系図綜覧』上巻所収の「武田源氏一流系図」には興味深い記事が註記として見られる。それによると、「頭書云、葛山大森一家藤原也、見神祖系図」として、新大夫維康(伊周公孫也、康平三年八月人甲斐駿河国司)、その子に大森信濃守親康(有子孫)・葛山次郎維兼をあげ、維兼の子の次郎維忠には「有故改長江蔵人頭頼隆、子孫皆称葛山、中四郎維重、中八維平其男也」と記し、その子に竹下孫八維正をあげる。『東鑑』巻一の頼朝創業の記事の中に「永江蔵人大中臣頼隆」や「中四郎維重、中八維平」が見え、後者二人は頼朝に従い石橋山合戦にも参加している。 葛山大森氏について最も信頼性のあるとみられる系図が『系図綜覧』下巻所収の「姉小路系図」であり、そのなかに惟忠(葛山一郎)の子に惟重には、「御宿殿、建久四年五月八日、頼朝富士藍沢御狩時御宿申、則号御宿、…(中略)…初号竹下孫八郎」と記され、葛山氏の系*2が続いている。曾我兄弟の仇討ちで有名な富士裾野の巻狩りの際に、頼朝は創業の功臣惟重(維重)の館に泊まり、その弟・中八維平は、奥州藤原氏討滅の後、出羽国由利郡を与えられて由利氏の祖となったが、この辺りが『東鑑』等の記事から知られる。この当時、葛山氏は伊勢神宮領鮎沢(藍沢)御厨に因んで「大中臣」姓を称していたのである。勿論、これも仮冒であり、本来、藤原姓でも大中臣姓でもなかった。その元の姓氏は不明だが(おそらく駿河郡領家の金刺舎人姓か)、一族から箱根別当も累出しており、当地の古代からの豪族であって珠流河国造(駿河。物部連一族)の嫡統的存在であったとみられる。この意味で、『中興系図』に見える「米津・物部、モン棕櫚葉、釘貫、五星」という記事は、特異であっても、かなりの信頼性があると考えられる。
大森氏は、この葛山氏庶流で駿東郡大沼鮎沢御厨の大森(現在の裾野市深良辺り。葛山の近隣)に起った。その「姉小路系図」には、大森信濃守親家の弟としては親勝という名は見えないうえに、「和邇部系図」には富士三郎左衛門尉信政の孫に四郎三郎親勝(四郎信頼の子)が見える。こうしてみると、米津氏の祖・親勝は室町前期の人とみるのが自然だということになる。米津新大夫親勝とその子孫とされる刑部少輔信勝や左馬助勝政との間を結ぶ系図は、殆ど見られず、僅かに鈴木真年翁『百家系図稿』巻11所載の「米津系図」(『古代氏族系図集成』に和邇部宿祢(二)として掲載)に見えるものの、その内容には多くの混乱があって信頼性が乏しいことも分かってきた。従って、三河米津氏の祖としては、富士三郎左衛門尉信政の孫の親勝を考えるのが最も自然であろう。
さて、信政ないし親勝が駿河から何故遠い三河まで遷住したのであろうか。おそらく、その地に駿河大森一族と同族(米津氏ないしその前身)が居って、その跡を継いだのではないかと推される。というのは、「米津・物部」と上述したことに加え、大森一族の祖で三河国額田郡高橋庄と関連が深い人物がいるからである。すなわち、大森葛山の祖・維康(惟康)について、「伊勢新二郎大夫、成高橋殿、三河国高橋庄領主故号、母実範三位女、外戚伯父伊勢権守令養育之」と上記「姉小路系図」に註記される。米津氏の祖先を見ても、刑部少輔信勝(信顕)など、この高橋庄に居たことを伝えるものがあげられる。
高橋庄は高橋郷(現豊田市高橋辺り)を中心に豊田市域の北部中央、矢作川中流を挟む一帯から尾張国境に及ぶ庄域をもった大荘園であり、十一世紀頃の開発とされる。安元二年(1176)二月日の八条院領目録に庁分御荘として参河国高橋・参河国高橋新庄があげられる。はじめの下司・地頭職は開発領主高橋(藤原)氏から長田氏に移り、元暦元年には頼朝の御家人小野成綱に同職が移ったとみられている。中世の高橋庄をもとに中世高橋郡ができ、その郡域は碧海郡の地も含むものであった。こうした事情から、この高橋庄・高橋郡辺りに、藤原惟康の子孫が残ったのではないかと推される。
次に、維康の孫大森与一親家の弟に大沼四郎親清がおり、大沼自体は駿東郡大沼鮎沢御厨に因むものであるが、この子孫で三河及びその周辺にあった可能性が推される諸氏がある。資料的にあまり裏付けがないが、具体的には、内海、河合、大原、菅沼の諸氏であり、これらを見ていくこととする。
(1)内海 尾張国知多郡内海邑(現知多郡南知多町大字内海)に因る苗字であり、内海は源義朝を害したことで著名な長田(内海)庄司忠致の領地であった。忠致が平治の乱の功で高橋庄の庄司となったことで大森一族と縁ができ、内海に移住したものが出たのであろう。駿河では、御殿場市二岡の沓間神社の社家に内海氏がおり、天文年間に禰宜内海神三郎、天正年間に同兵部大夫が見える。
『姓氏家系大辞典』では、大沼四郎親清の子に「信親−氏親−信忠……」以下を続けるが、内海氏関係の系図は「姉小路系図」には見えず、その関係は不明である。なお、米津氏関係の所伝には、尾張国知多郡大野のうち大草(現知多市南端に大草があり、その南に接して常滑市北端の大野がある)から渡海して碧海郡中根(米津の北方近隣)に来たと伝えるものがあり(米津氏姓譜、米木津城跡取調書など)、なんらかの訛伝であったことも考えられる。
(2)河合 大沼四郎親清の子に河合二郎清経(一に清とあり、実際には清綱か)がおり、大原殿と呼ばれたと系図に見える。河合は三河国額田郡の地名にあり(現豊田市南部)、これに因るものか。
(3)大原 三河国額田郡に大原氏がおり、『三河国二葉松』に大原左近右衛門親子が見える。太田亮博士は、甲賀の伴姓大原氏と同族なるべしと記述するが、私は(2)の河合氏一族ではないかと推している。額田郡には大原の地名があり(現額田郡下山村の中心地)、これに因るのではないか。 (4)菅沼 大沼四郎親清の子に菅沼五郎蓮心がおり、苗字は駿東郡菅沼の地に因るが、三河国賀茂郡にも菅沼があり(現豊田市東部)、賀茂郡寺部村の神主に菅沼兵部が見える(「式内巡拝記」)。徳川氏の譜代には菅沼氏がかなりの数あり、同国設楽郡菅沼邑より起こる土岐一族の流れと称するが、これは仮冒で、これら三河の菅沼氏はみな同族ではないかとみられる。設楽郡の菅沼氏については、「菅沼五郎蓮心−同三郎忠茂−同七郎忠遠−太郎定遠」とあり、定遠は代々住設楽郡菅沼村と註される。 これらの一族が三河米津氏の同族であったとみられ(とくに内海氏との関係が深いか)、その跡を継いだのが信政ないし親勝だったのではなかろうか。戦国期の米津氏が米津村で勧請・奉斎した神は津島天王(=素盞嗚神)であり、明治五年まで牛頭天王社と称し、いま米津神社となっている。物部氏の一族が熊野大神(素盞嗚神)信仰をもち、駿東郡大森に含まれたとみられる旧須山村には牛頭天王社・浅間神社が鎮座することも符合しよう。これら信仰事情から見ると、米津氏は大森一族の出自とみられる。一方、米津氏の棕櫚紋が和邇部姓富士大宮司につながることが考えられ、駿東郡には富士神社関係の神社の分布もあったという事情も先に述べたところである。 5 一応のまとめ
初期の米津氏の系譜はきわめて難解であって、発生期から戦国期末までの時期のものとしては、全体像として信頼すべきものは見つからないが、以上の検討等を踏まえ世代・伝承等から総合的に推測してみると、概略は次のようなものではなかろうか。
「○富士三郎左衛門尉信政−四郎信頼−米津新大夫親勝(実は大森与一惟頼の子という、実母は富士大宮司能信女)−刑部少輔信勝(刑部丞信顕とも同人か)−新大夫政広(勝正とも同人か。妹は大森信濃守頼春妻)−正重(道善か)−正親−正種−勝政−政信」
以上で、米津氏の検討をとりあえず終えるが、まだ解明というところまでにはいたらず、今後とも課題として考えていきたい。
(主に02.7頃に記し、04.7に補筆)
〔註〕
*1板倉氏は一般に流布する系図では、足利一族渋川氏から出たとされるが、『分脈系図』巻80に所載の系図では、駿州岡部氏から出た板倉左近次郎重高が渋川刑部大輔義季に属して義季とともに建武二年武州で自害し、その子孫の善助重任の子が八右衛門好重、その子が伊賀守勝重であると記載される。深溝松平氏に属した板倉氏の地位から考えて、こちらのほうが信頼性が高いと考えられる。 *2『群書類従』巻385所載の「豆相記」には「葛山者天智天皇末孫、竹下孫八左衛門之後昆也」と記されており、葛山氏の系譜にも諸伝あったことが知られる。 (04.7.25掲上) |