古樹紀之房間

        江戸後期の譜牒学者、田畑吉正

                                 宝賀 寿男



 江戸後期の系図研究者で、一部から「系図偽作者」とも評価される田畑吉正について、この三十余年にわたり彼の著作に関係してきた執筆者が、その系図に具体的にあたり、悪い「世評」が妥当かどうかを検証するものである。
 この者は、系図研究の原点をいろいろ探るなかで浮上してきたものであり、彼の研究諸活動を通じて、江戸後期の系図研究者の実態や限界を探ろうとするものでもある。



 はじめに

 私が田畑吉正なる系図研究者の名を目にしたのは、おそらく鈴木真年とその関係者に対する研究のなかではなかったかと思われる。具体的に、どの書によってとは端的に言えないものだが、例えば真年所蔵本を明治になって写したとされる『諸氏本系帳』(東大史料編纂所蔵)には、田畑本などにより同書第8冊に記載の国枝氏の系図が記されるとある。ほかにも、真年の系図研究の師匠たる栗原信充とか加藤直臣とか、江戸後期頃から明治期にかけて、多くの国学者が併せて系図研究も行って、その関係史料を現在にまで残してくれている。
 ところが、この田畑吉正については、「系図作り、系図偽造者」という悪評もかなり見えるのである。その記事の有名なところでは、太田亮博士の昭和五年(1930)六月刊行の『家系系図の合理的研究方法』には田畑吉正・小野一郎親子の系図偽造の話がかなり書かれる。これを承けてか、近藤安太郎氏の『系図研究の基礎知識』でも「田畑喜右衛門」を、沢田源内・佐々木玄信らとならぶ江戸期の系図偽造者としてあげる。最近、大量かつ精巧な古文書偽造者として、江戸末期の椿井権之助政隆の名が言われており、この者もかなり偽造系図を手がけたとされる。
 田畑吉正が本当に系図偽造者なら、その関与した系図は、すべて要注意であって歴史研究に使用してはならないものであるが、私には、どうもはじめにあげた当初の印象からは、「系図偽造者」とは思われない面もある。そこで、史料的制約はいろいろあるものの、現存史料を基にして、田畑吉正なる人物とその手がけた系図類を具体的に検討しようとするものである。「系図偽造者」という非難には、この辺の実証的研究が欠けているように思われるからである。実のところ、栗原信充・鈴木真年や中田憲信についても「系図偽造者」の嫌疑をかける研究者も見られ、この辺を含め、江戸後期・末期を中心に「系図偽造」の実態を考えてみたいということなのである。


 田畑吉正なる人物についての記事の概要

 田畑吉正は、明和7年(1770年)に生まれたようだが、その没年については、天保4年(1833)7月に病死という説と弘化2年ないし同3年(1845ないし1846)に死んだという説を目にする。
 そこで、19世紀天保年間の『広益諸家人名録』を見ると、同書は、序文により「江戸に遊学し諸名家へ投刺せんとするにこの一冊を」と書かれ、当時の江戸在住の文人・学者(画家・書家や国学者・儒学者など種々雑多)を集成した人名録であって、その居所も示される。そのうち、天保7年(1836)校正とある「当時現在広益諸家人名録」には、「田畑喜右衛門 名吉正、字子帛。譜牒学。牛込払方町」と見える。記事はこれだけなのだが、譜牒学(系図学)の権威として牛込払方町に住んでいたと分る。ところが、亀田綾瀬の序がある天保12年(1841)の「江戸現在広益諸家人名録」には田畑吉正の名が見えない。そうすると、天保12年には吉正関係の活動がなくなったということかもしれない。
 田畑吉正の身分は江戸浪人ということであったが、通称のほうは、喜右衛門(喜右ヱ門)のほか、喜左衛門、喜衛門とも書かれており、左右のいずれが正しいのかは不明である(時期により双方を使ったのかも知れないし、どちらかが親子なのかもしれない)。そこで、本稿記事では名前は「吉正」を原則として使い、あとは出典に応じて「喜右衛門、喜左衛門」を使い分けすることにせざるを得ない。


 吉正を「系図偽造者」とする史料

 管見に入る限り、系図偽造者とみるのは『古事類苑』が最初のようであり、その「姓名部五 譜牒|系譜偽作」として「牛込払方町に罷在候浪人田畑喜右衛門と申もの」をあげる。それによると、文政五年(1822)五月十四日伊勢守殿御直御渡として、「此度、先祖書調に付、追々被仰出候通、万石以上以下、御目見以上之面々、先祖書取調罷在候処、焼失又は書継も不致、等閑打捨置、書留も無之、不相分、当惑致候者も有之候由」とまず記されて、「然る処」として田畑喜右衛門の記事をつなげる。
 そこには、「諸家系譜之儀、委敷鍛錬致し、右喜右衛門へ、追々手寄候能、家譜串鑿為取調、喜右衛門儀は、都能書上之認振迄も心得罷在、右故、万石以上以下共、家譜取調申付候者不少、仲には清書おも申付候者も有之由に能、弟子共四五人も有之、取調出来之上は、過分之価お貪、基外筆耕料頼み、身分に寄、格外之直段に能、夫々取調遣候由之事」と見える。すなわち、喜右衛門は学識もあって能書でもあって、弟子の四、五人も使って、家譜取調ができない者に代わり家譜を調査・作成し清書もしたが、身分に応じて過分の報酬も受け取ったと見える。その際に、家譜のない者の家譜をも偽造したものだろうと解したのであろう。
 『古事類苑』とは、明治政府により編纂が始められた「類書」(一種の百科事典)であり、文部大書記官西村茂樹の建議に基づき1879年(明治12)文部省により編纂が始められた。事業は東京学士院、皇典講究所、神宮司庁に引き継がれ、1907年(明治40)に編纂が完成し、全1000巻に及んだ。その刊行は、1896年〜1914年(明治29〜大正3)になされ、古代から1867年(慶応3)までの様々な文献から引用した例証が分野別に編纂され、日本史研究の基礎資料とされてきた。日本最大にして唯一の「官撰百科事典」で、明治期の国学者による一大事業であった。(以上は、各種の紹介記事の要約

 次に、太田亮博士『家系系図の合理的研究方法』では、この『古事類苑』「市中取締類集」の記事を引きつつ、更にその子の小野一カにまで話が及んでいる。 
 すなわち、「父の喜右衛門は幼年の頃から系譜を好んで相当儒学もできたらしく、文政六年(1823)には喜右衛門が編集した「書籍」を学問所へ留め置き候由にして、松平伊豆守殿の御指図で、銀拾枚を頂戴することもあった由という。喜右衛門儀、困窮ものに付き、諸家よりあい頼まれ系譜調べ遣わし、謝礼を受け、右にて暮らし方致しまかりあり候よし。その子小野一カは、学問手跡共にできなかったものの、天保四年(1833)七月の父の死後はその病死を知らぬ者から系譜等の件を頼まれれば、父の業を嗣いで活動した。父が売残した諸家系譜などを引き写したものの、出来が悪く、その後は依頼もなくなった、という。
 この辺が、田畑吉正の活動に関する実態ということであれば、かなり貧窮で病状(眼病)もちであって、田畑親子が系図作成に関与したとしても、殆ど全てが父・吉正の作ということになる。そして、現存する関係系図類などでも、同じ筆跡で書かれている。現在に残る田畑吉正関係の系図史料の実態は、相当に膨大であり、その内容に問題がないかどうかである。田畑吉正という浪人一個人が、どうしてそうした膨大な系図集の材料を集め得たのだろうか、という問題でもある。
 もう一つ、自家の家譜に田畑吉正の関与があって、疑わしいとの記事もある。それが、東大元総長加藤弘之の記したもので、東大文学部のデータベースにあり、次のように記される。
 「「藤原姓 方穂家譜」(是レハ江戸浪士田畑喜左衛門ト云フ人ニ取調ヲ托シタルモノ不実否ハ不分明ナリ)」、
  その表紙には「■分信スベカラズ 弘之」、「今日ヨリ見レバ杜撰甚タシキモノナリ」と朱書きあり。和綴じ(大和綴じ)。」
 この記事の「方穂」とは、現・茨城県で、もとは常陸国筑波郡大穂村、即古方穂郷であって、その地の一ノ矢八坂神社(茨城県つくば市玉取)の境内に加藤弘之が建設した碑がある。


 田畑吉正が編纂、執筆した系図史料

 東大史料編纂所の所蔵史料をデータベースで探索すると、次の三つの書が田畑吉正の関係だと知られる。
 @『幕府諸家系譜』:穂積重年旧蔵(不存蔵書、砂礫蔵書の印記あり)で、原蔵者は田畑吉正(喜右衛門)の手写。
 A『参陽松平御伝記』
 B『断家譜』:内閣文庫(千代田区皇居内)が原蔵。
 このほか、『改定史籍集覧』第19冊に所収される「儒職家系」(林家など幕府に儒学で仕えた諸氏の系譜)が田畑吉正の編著とされ、そこには幕府に儒学で仕えた46家の家譜・事績が記される。例えば、林羅山などの林家や室鳩巣(諱は直清)、新井君美(白石)、荻生徂徠の記事はもちろん、巻五には深見新八有能があげられるが、その祖は、薩摩・長崎出身の江戸時代前期の儒学者で、書家・篆刻家の深見玄岱名は貞恒。高玄岱ともいう。生没が1649〜1722)であり、その家系まで記されるのだから、驚くしかない。このような著作が偽造できるわけがなく、だからこそ『史籍集覧』に収められたものであろう。田畑吉正には『監察豫掌』という著作もある。

 まずこれらから見ていこう(以下の@〜Bの記事紹介は、ネット上などの記事を要約して記したのが主なので、その辺は御宥恕されたい。私としても、@については割合よく参照はするものだが)。
 @『幕府諸家系譜』40冊:池田、生駒に始まり、……須藤、杉浦で終わる、イロハ順で配列した幕臣の系図。

 A『参陽松平御伝記』10巻4冊:徳川家康の祖先と称される清和源氏の頼義・義家の記事及び松平氏の関係系図であり、家康の祖父・清康、父・広忠など松平氏歴代の伝記や、長沢松平・大給松平をはじめとする三河の諸松平氏の系譜・家伝について記される。参考文献をあげ、系譜考訂まで提示されるから、まじめな研究書と言えよう。
 岩瀬文庫所蔵本には、本書巻末に同文庫の開館間もない明治42年の旧西尾藩主であった大給松平家当主の松平乗承子爵(のりつぐ。生没が1851〜1929)による自筆奥書がある。それに拠ると、「この本は田畑喜右衛門の著書である。さる明治17年8月(東京から)郷里三河国幡豆郡西尾に行った際に賀茂郡長の田中正幅からこの珍しい本のことを聞き、いずれ貸してもらう約束をして戻った。著者に興味を持ったので、当時勤めていた修史館(明治政府が太政官正院においた歴史史料編纂のための機関)の高麗環(こま・たまき)に質問すると詳しく教えてくれたので、これを、家令の笠原光雄を通じて田中へ知らせたところ、田中は非常に喜んで本の写しを作成し送ってきた。乗承はこの書をたいへん珍しく貴重なものと思うが、未だ岩瀬文庫には所蔵されていないので、この度新たに写しを作らせて文庫に寄附するものである」。
 松平乗承は日本赤十字運動の中心人物として活躍するともに、旧藩士たちと共に旧領地西尾の教育や歴史研究にも力を注ぎ、岩瀬文庫の草創期、西尾の教育文化の拠点としての同文庫に大きな期待を寄せた西尾の文化人たちは、このように本を積極的に寄贈して、その充実のために協力した、と岩瀬文庫では伝える。 

 B『断家譜』30巻:文化六年(1809)成立:この自序によれば,江戸幕府の創業した慶長年間以後文化年間に至る200年間に絶家となった大名・旗本・官医の880余家をいろは順に掲載する。本支紀伝・旧記や寺院所蔵の檀越の紀伝に基づいて編纂しており、近江堅田城主堀田正敦の斡旋で林家を介して官庫に進献したもので、遺漏については後日の補正を期している。これを、斎木一馬・岩沢愿彦両氏が校訂したものが続群書類従完成会から全3冊で刊行された(なお、斎木氏は、東大史料編纂所助教授、大正大学教授・名誉教授などを歴任した古文書・古記録学の専門家)。
 内容は、旗本の絶家が全て収録されるわけではなく、御目見以上が原則記載、それ以下の御家人では菊の間で襲封した者を収録する。絶家ではないが、改易などで減封されながら存続となった家も載せる。大名・旗本別で分類され、それぞれの家の系図を示すほか、譜伝を記載する。武家の廃絶の様子を示す史料であり、『寛政重修諸家譜』など断絶した家を欠くような系譜史料を補う役割もある。特に断絶家のみだが、この『寛政譜』が記載しない寛政10年(1798)以降から文化年間までの系譜が収録されており、貴重な系図史料となっている。 武家の廃絶の様子を示す類似の史料には、『廃絶録』『徳川除封録』があるが、廃絶大名の年次別単独記載であり、『断家譜』とは記述方法が異なる。
 『断家譜』には、算学者の関孝和家が記されるのが見つかり、話題となった。当該記事は、『断家譜』に「関 某 桜田殿御勘定、寛文五年乙巳八月九日没、葬牛込浄輪寺、法名雲岩宗白──孝和 新助 実御天守番内山七兵衛永明次男 江戸生、桜田殿御納戸頭、賜二百俵、宝永元年甲申十二月十二日西丸御納戸組頭、同五年戊子十月二十四日没、葬牛込浄輪寺」とあって、孝和の養父は関某とされており名が記されない。
 田畑吉正は上記の『広益諸家人名録』で見たように「牛込払方町」に住んでいて、この地は浄輪寺から一キロメートル程にあり、当然、浄輪寺の過去帳を見ていたであろう。この過去帳と『断家譜』とは大事なところは殆ど一致しており、『断家譜』は信頼してよい文書となったとの指摘もある(新宿法人会のHP「新宿歴史よもやま話」第84回)。


 『本朝武家諸姓分脈系図』の編纂者は誰か

 私が『古代氏族系譜集成』をなんとか刊行した1986年の数年後となる1980年代の終わり頃に、国会図書館で『本朝武家諸姓分脈系図』という大部な系図集と取り組んでいた。ほとんど大部分が中世武家諸氏の系図集であるが、その活動地域の範囲が広く、陸奥あたりから九州に及ぶものであり、しかも冊数も膨大で合計では297冊もある。系図集の編纂者や編纂の事情がまるで知られず、昭和8年8月10日に根岸信輔氏が寄贈とされ、蔵書印から根岸武香の旧蔵書「冑山文庫」のものと知られるくらいである。現在までの国会図書館の調査でも、この系図集の編纂者等が不明とされている。
 その当時、私は鋭意取り組んで三百冊弱のすべてを一応、目を通し終えたが、そこには中世武家の他所では見ないような系図も多く掲載される。それらの例を列挙すると、米津(第13冊)、大町(第14冊)、酒井(第31冊)、宇久(第37冊)、仙石(第75冊)、板倉(第80冊)、成瀬(第84冊)、奥平(第91冊)、赤松(第95冊)、有馬(第105冊)、西郷(第111冊)、斎藤(第112冊)、猪狩(第140冊)、長崎(第133冊)、岩城(第140冊)、榊原(第179冊)、朝比奈(第220冊)、富士(第279冊)、庵原(第294冊)、等々である。これら諸氏について世に通行し知られる系図と相比べて見ても、とくに不審な点は感じられない。

 私は何年か前に、この『諸姓分脈系図』の字体から見て、すべてが田畑吉正の筆によるものと判断していたが、その内容には系図偽造を思わせるものがなかった。
 この膨大多数な系図集のなかで、唯一、古代から系を起こしているのが「宇久系図」である。肥前国五島列島の幕藩大名、五島氏の先祖の系図で、孝霊天皇のときの物部氏、大水口命から系を起こし、その十四世の多伊古から歴代が具体的にあげられるが、多伊古には、文武天皇四年(西暦700年)に筑紫惣領の石上朝臣麻呂に謁見して末羅国主に任じられたという記事がある。その子孫歴代は平安後期頃まで歴代一人の直系でつなげられるが、内容的にとくに疑問なところは見当たらないように思われる。この「宇久系図」の後ろには「五嶋系図」も掲載される。
 江戸期にあっては、所伝の系図は殆どが中世に始まり、江戸期に及ぶものであって、古代部分の系図造作は難しく、ここまでは誰も手がけなかったと考えてよいのではなかろうか。

 同名の『本朝武家諸姓分脈系図』が東大史料編纂所にも五冊あり、そこも全てが同じ字体だが、編纂者・筆記者の名前は不明とされる。東大史料編纂所にあるのは、幕府崩壊の時に新政府に引き渡された「幕府引継書」の一部と考えられており、新政府から東京帝国大学図書館蔵書を経て東大史料編纂所の所蔵となったとされる。ところが、最近調べて見ると、『国書総目録』にはこの系図集が掲載され、更に東京都町田市の無窮会神習文庫(井上頼圀旧蔵の文庫)にもあることが分かり、無窮会では図書目録に「諸姓分脈系図」と見えて「武家 田畑正吉ママ)自筆」と記載される(これが、今は国文学研究資料館の史料検索にも、ほぼ同様に「田端正吉写一〇冊」と掲載される)。
 それが、更にこの系図集の冊数がまだあって、それが遠い福井県にあるのが分るから、ネットの力は偉大である。現在、福井県文書館が管理する旧藩主松平家の松平文庫のなかに「本朝三家分脈系図紀伊中」とあり、その巻頭題題が「本朝武家諸姓分脈系図」、作成者・著者が田畑喜右衛門とされる。しかも、同県の小浜市立図書館には、組屋旧蔵の「御答」と記された書信二通(二月廿日〜年月日未詳)があって、差出人等が田畑喜左衛門とされる。
 これら諸事情から、『本朝武家諸姓分脈系図』が全て、田畑吉正の手による系図集だと判じられる。江戸後期のなかで、これだけの膨大な作業をすべて自らの筆写で行ったのだから、吉正が眼病を患っていたと伝えるのも無理がない。

 福井県には、まだ田畑吉正に関わるものがある。それが、「田畑喜左衛門先生頌徳碑」である。
  

  福井県坂井市三国町覚善11-84(三国神社駅の北方近隣、三国駅の東北方近隣)に位置する。現地には何か伝えるものがあるのかもしれないが、誰が何時、どのような理由で建立したのかなどの事情・経緯については、ネット上からはこれ以上は知られない。ただ、田畑吉正に対して相当に大きな恩義を感じて故の建立かと窺われるものである。

 <一応のとりまとめ>
 ここまで、田畑吉正について現存史料から知られるところを、実際に調査に当たってきた者として記してきたが、読者の皆様は、彼が「系図偽造者」だった、と思われるだろうか。沢田源内や椿井政隆のように、自己の家系に関するような系図は手がけていないと思われる(『諸姓分脈系図』には田畑系図は見えない)。

 私には、『古事類苑』の上記の記事は、吉正の子の行状と相俟った明治期の国学者の誹謗中傷的なものではないかと総論的には思われるところである。ただ、その一方、個別の武家の系図調査にあたっては、インチキくさいことも時に行ったようで、それが、福井県文書館のネット記事「山本勘助と福井藩士菅沼家」に経緯が見える。そうすると、僅かであっても、黒ないしグレーの部分が吉正になかったでもない、というところだったのかもしれない。
 ともあれ、「世評」や学界の権威の言・記事というものでも、十分、自らの手で実地にあたり実物を検証される必要があり、たとえ太田亮博士の著作であっても、それが必要だとお分かりになるものと思われる。そして、田畑吉正には再評価の必要があると感じるものでもある。

 (2020.12.16に掲上。その後に追補)



 (備考)最近では史料のデータベース化がかなり進み、ここで取り上げた田畑吉正関係の史料は、多くが東大史料編纂所や国会図書館などについてネット閲覧ができるし、ものによってはダウンロードも可能だから、ご関心の向きは是非、原典にあたってご自身でご検討下さい。

 
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