辰王の系譜、天皇家の遠祖 −騎馬民族は来なかったか?− 宝賀 寿男 |
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一 はじめに−騎馬民族説をめぐる議論 上古の朝鮮半島南部に扶余系の「辰王」という特異な存在の王があり、この流れをひくものがわが国に侵入し、北九州さらに畿内に転じて征服王朝を建て、崇神・応神にはじまる上古の王統につながった。こういう発想の学説が戦後出されて、古代史学界の大きな問題となってきた。 今から五十数年前、戦後の混乱が続いていた昭和23年(1948)のことであるが、江上波夫氏により提起されたいわゆる「騎馬民族説(騎馬民族征服王朝説)」は、戦後になって出された多くの新説の先駆け的な存在であった。そのなかでも一世を風靡し大きな反響を呼んだのが同説であったが、その後の様々な検討がなされてきて、現在の学界ではこれを支持する研究者は極めて少ない。 提唱者の江上博士以外では、独文学者で古代史研究をした鈴木武樹氏*1や考古学の奥野正男氏が支持者として目に付くくらいではなかろうか。その修正説的なものとしては、「ネオ騎馬民族説」ともいうべき説を出した水野祐氏*2があり、最近では、山崎仁礼男氏が『新・騎馬民族征服王朝説』を著している*3。ただ、騎馬民族説を一つの学説として高く評価した学者には井上光貞氏*4もおり、水野氏のいう王朝交替説を批判的に継承して、九州に出自を有する応神新王朝の存在を説いてもいる。また、考古学関係でも森浩一氏が騎馬民族説に一部、共感を示しており、比較神話学・人類学・言語学関係でも、発想等に共感をもつ学者が見られる。 江上説の根拠の主要部分が古墳文化後期の特徴(応神朝以後の古墳文化が前期と対比して根本的に異質とみる)などの考古学的知見にあったように受け取られて、そのため多くの考古学関係者からの強い批判・反論が出されてきた。なかでも佐原真氏は『騎馬民族は来なかった』という著書や関係論考を著している。このほか、同名別書の著作をもつ安本美典氏からも、文献的な観点からみて「ひょうたんナマズの構造」を持つ説(とらえどころのない学説)だとして強い批判がなされている。総じて、古代史分野のみならず関連する学界も含めて、いわば孤立無援の状態にあるともいえそうである*5。しかし、こうした数多くの批判・評価等ははたして正鵠を得ているのだろうか。 江上氏の所説は多くの批判に応じて変化してきて融通無碍だという指摘もあるが、吟味してみると必ずしもそうとはいえない。 その「騎馬民族説」の骨子としての内容が、 @東北アジア系の騎馬民族である扶余系の民族が、朝鮮半島南部の馬韓に行って辰王となり、その流れをひく部族が四世紀初め頃に、任那を基地としてそこから北九州に侵入し、倭人を征服して崇神王朝が成立した(いわゆる天孫降臨で、これを第一次建国とみる)、 Aさらに、四世紀末から五世紀初めにかけて北九州から畿内へ移動し、その地を征服して応神王朝が成立した(大和朝廷の創始で、第二次建国。これが神武東遷伝承に反映)、 というものとされる。 こうした理解であれば、私としても、江上説を支持する点は少ない。なぜなら、古墳文化の前半期と後半期との連続性と変化の意味づけなど、考古学的観点で疑問が大きいばかりではなく(この点については、多くの考古学者の批判・指摘が概ね妥当であろう*6)、騎馬関係の文化や技術は海外との交流によっても受容されることが考えられるからである。 また、崇神・応神の出自等をはじめとして、天皇家や朝廷の主要豪族の動向などの事情からいって、古墳期に関しては、文献的にも江上氏の説く騎馬民族説を支持しそうな資料は、管見に全く入っていない。応神にせよ、崇神にせよ、部下も組織もなしに、一人で大々的な征服戦を遂行できるわけではないが、それにもかかわらず、外地から随行してきた具体的な部下や配下氏族の名が史料に全く見当たらない*7という事情にもある。英雄一人だけの歴史行動を考えるような英雄史観は、まったく現実的ではないし、極めて問題が大きいといえよう。しかし、これら問題点は江上氏の想定した内容での「騎馬民族説」が疑問である(とくに時期に関して問題が大きい)、というだけのことである。反映説的な考え方も、拙見では、疑問が大きいものではあるが。 従って、提起された問題はこれで終わり、ということではなかろう。 江上氏のいう「騎馬民族説」については、これをそのままの形では認めないにしても、古代日本の国家形成について東アジア史という外的・国際的要因や民族学などの学際的なアプローチから捉えようとした点を評価する立場も見られる。現に、「日本古代の民族・言語・神話など文化的諸要素の特質の解明にも示唆を与えるものが多い」と『日本史広辞典』(山川出版社)では記述されており、笹山晴生著『日本古代史講義』でもほぼ同旨で記される。いいかえれば、民族・言語・神話など文化的諸要素の特質については、列島内に騎馬民族ないしツングース系民族との関係を思わせる要素が強く見られるものが現実に多数あり、その観点からの検討を抜きにして、上古日本ないし日本国家の起源の探索ができないではなかろうか。騎馬民族研究の大家、護雅夫氏は江上氏の騎馬民族説そのものには総じて否定的のようであっても、ほぼ同様な指摘をされている。東北アジア史の大家三上次男氏も、江上説には時期等で疑問を感じても、一概には否定していない。 これらの見解を念頭に置いて自分なりに考えてみると、江上氏の説いた騎馬民族の渡来・移遷の時期が疑問大であることについては、多くの批判説と同様、私としても全く異議がない。しかし、むしろ別の時期等々、活動の舞台を変えて考えたとき、「騎馬民族説」は再考できないのか、むしろ妥当する部分もかなりあるのではないのか、という検討が本稿の主題である。 とくに江上氏の終始変わらぬ主張の根幹が、「いまの天皇家の先祖が騎馬民族(ツングース系の夫余族)の出であった」ということであれば*8、十分な検討に値するものと考えられる。江上説の論理構成には粗さが確かにあっても、また文献的な史料解釈に誤りがあったとしても、その論拠は『騎馬民族国家』などの多くの著書・論考に示されるように、考古学だけの問題ではなく、民族学的、歴史学的研究の総合的な検討結果から導かれたのが騎馬民族説であったからである。 また、先駆あるいは同様な説も、大正期に喜田貞吉の「日鮮両民族同源論」(1921年)、昭和初期に金沢庄三郎の『日鮮同祖論』(1929年)、さらには佐野学の匈奴分流説(『日本古代史論』1946年)、あるいはアルトハイムの鮮卑征服説(『古代世界の没落』1952年)など、既にいくつか出されていた*9。こうした事情を思えば、これらの説を「気宇壮大なホラ話」「かって騎馬民族説という仮説があった」などと簡単に片づけるような姿勢も、学問研究の態度としては如何なものかと思われる。 もう一つ留意しておきたいのは、騎馬民族説がいわゆる「皇国史観」とのからみで激しく批判されてきたことである。記紀の神話・伝承を史実の反映と江上氏がみる点には、方法論として問題が大きいという批判も強いが、これは、反映の基となる史実の見方に問題ありという意味のようである。私は、津田学説亜流の頻りに用いる「反映論」は論理的に何ら記紀の否定論にはなりえないと考えるし、それとともに、江上氏のいう記紀の反映論的説明も同様に問題が大きい、と考えている。 民族や国家の起源に関わる議論が、日本の過去の朝鮮半島(及び中国東北地方)に対する支配の正当化あるいは同化政策や、逆に朝鮮民族の日本に対する優越性等々の差別史観の主張に用いられるとしたら、これまた日韓(朝)両国にとってたいへん不幸な事態といわざるをえない。その一方、過去の征服なり侵略なりの道義的・倫理的な問題は勿論あろうが、古代における史実の探求は、これとは別問題である*10。皇国史観という語は、学界の江上説批判の所説に対しても用いられて、いわば両刃の剣でもある。すなわち、鈴木武樹氏の表現によれば、江上説に対する批判のほうが、「依然として《皇国史観》の桎梏から遁れえずにいる論議」ということになる。 従って、本問題については、こうした主観的な立場を離れて、日韓(朝)両地や中国などに残る史料や遺物等を踏まえ、冷静かつ論理的総合的な検討を進めることが必要だと考えられる。 問題検討の視点 騎馬民族説についての諸議論の推移を見ていくと、いくつかの混乱があり、その要因が「騎馬民族」の定義のしかた等にもあったようにも思われる。そのため、本稿の検討に先立ち、ここで騎馬民族の定義を確認するとともに、検討すべき問題点等をはっきりさせておくこととしたい。 まず、「騎馬民族」とは、狭義には、ユーラシア内陸部において馬を飼育して衣食住ばかりでなく、対外的な活動の主体とした遊牧民系の民族・種族をいい、中央アジアのスキタイ人に始まるとされる。「馬が活動の主体」の意味としては、「機動性豊かな騎射戦術を生命とした」(護雅夫氏*11)とか、「馬を多数飼育し騎乗による機動力を自己の日常の生産活動から対外活動に至るまで利用した」(吉田順一氏*12)とか表現されている。 この「騎馬民族」について、東アジアでは具体的には匈奴、高車、突厥や後のモンゴル(蒙古)などモンゴル語族・トルコ語族系の遊牧種族を本来、意味したものと考えられる。これは、中国古代のいわゆる「北狄」を基本的に念頭に置いたものであり、平凡社東洋文庫では『騎馬民族史』という題のなかに「正史北狄伝」という副題をつけている。この北狄の東方ないし東南の森林地帯に在った民族、すなわち半牧半農あるいは半猟半農の「東夷」たるツングース種については、なかに騎馬民族的な色彩を相当強めたものがあった(騎馬民族化した)としても、これを一概に「騎馬民族」と呼ぶことには多分に疑問があろう。『広辞苑』でも、「中央アジアなどに住み、馬の機動性を利用して遊牧と軍事力を発展させ対外進出を行なった民族」として、西方のスキタイ・フン、中央の烏孫、東方の匈奴等をあげており、これらに夫余・高句麗などを加えることもあると記述している。 江上氏は、狩猟民族や半猟半農、半猟半牧、半牧半農という非遊牧民系騎馬民族もまた多くの場合、隣接した遊牧民系騎馬民族によって触発された結果として騎馬民族になったと考えるが、遊牧民系か否かという区分や、非遊牧民系の場合にはその性格が本来どうだったかということは、やはり重要なものではなかろうか。例えば、江上氏は東北アジアには、農主牧副民系あるいは半農半猟民系の騎馬民族が少なくないとして、扶余、高句麗、靺鞨、渤海などをあげている。扶余族はそれが主体となって扶余・高句麗や百済などを建てた種族であり、ツングース種に属したので、これを一義的に「騎馬民族」と呼ぶのは必ずしも適切ではない、と私には考えられる。現に百済では王家が扶余から出たと伝えても、国家としてみれば騎馬民族としての色彩があまり強くなかったようであり*13、また、江上氏による個別の騎馬民族検討の対象とはされていない(江上氏は、本来、百済をもっと研究すべきではなかったのではなかろうか)。 こうした事情にあるにもかかわらず、江上説においても反対説でも共に、扶余を当然のことのように「騎馬民族」として取り扱っている。そのため、本稿でもそのように扱わざるをえないが、扶余が本来的な狭義の騎馬民族には当たらないことには十分留意しておきたい。しかも、騎馬民族化する前の段階にあった扶余までをはなから「騎馬民族」と表現するのは、更に妥当ではないということである。 なお、「渡来否定論」のなかでも、佐原真氏の反対論は、上古における馬の存在や、乗馬、肉・乳製品の愛好、去勢、祭祀の生贄(犠牲獣)といった風習における騎馬民族の類型的特徴から検討して、騎馬民族が日本列島には来なかったと主張しているが、これは明らかに議論のすれ違い(江上説の真意を取り違えたうえで否定論を展開するもの)ではなかろうか*14、と思われる。 扶余の分流ないし同様な種族が大陸・朝鮮半島を南下して、高句麗や百済となるにつれて騎馬民族的な性格が多少とも薄れてくる傾向があり、佐原氏もこうした事情は認識されている。そのうえで、「王侯貴族が、組織的な騎兵隊をたずさえて到来し、王朝をたてることはなかった」というのが「騎馬民族は来なかった」という意味だと氏は記しているが*15、「組織的な騎兵隊をたずさえて到来」というのは余分な定義ではなかろうか。百済でも新羅でも、建国にはツングース系の流れを汲む民族が主体的に関係したとみられるが、組織的な騎兵隊が来たとは所伝や文献に伝えないし、ましてや、それより南方へ遠く海を渡ってまで馬を伴う騎兵隊が行くものだろうか。すなわち、江上説は、いわゆる「騎馬民族」の流れをひく部族が到来し、それが主体となって征服王朝を建てた、という意味に限定されるほうがよいと考えられる(ただ、江上氏にも「中心になる騎馬隊」という表現が見えるのだが)。その意味で、江上説は端的に「扶余系民族征服王朝説」とでもいったほうが、検討対象としてまだ的確ではなかろうか。 次に、古代の日本列島には大陸・朝鮮半島から様々な契機で多くの人々や種族の到来があったが、とくに七世紀後半の百済・高句麗の滅亡の際に流入した人々も多くおり、いわゆる「騎馬民族系」とされる人々が何ら来なかったとはいえないはずである。 現に南匈奴単于一族の後裔と称する系譜をもつ氏も、『姓氏録』に見える。左京諸蕃に掲載の和薬使主がそうであり、その祖・大山上福常が孝徳朝に牛乳を献上したことが『三代格』(五定秩限事、弘仁十一年二月官符)に見える。しかし、問題は単に騎馬民族系の人々が来たか来なかったとかいう話しではない。「騎馬民族」とされる一群の種族・部族が、上古代のいつかの時点に日本列島のどこかに到来し、主体的に王族として建国し、それが畿内に起った大和朝廷の母胎となったかどうか、というのが検討の主題である。 以上、二点を明確にしたうえで、以下に検討をすすめていきたい。わが国における騎馬民族や天皇家の出自に関する従来の議論においては、朝鮮半島・中国における学界の検討や問題意識が不思議なくらい欠落しており、本稿ではこの辺にも十分検討を加えたい。 その際、李丙氏の著『韓国古代史』(1979年、六興出版)や、金両基氏の諸著作(『物語韓国史』1989年、中公新書。『韓国神話』1995年、青土社。その他)、さらに中国関係では白川静氏の『中国の神話』(1975年、中央公論社)等の著作、袁珂氏の『中国の神話伝説』(1993年、青土社)には、多くの教示を仰いでおり、これら業績・学恩に対して、厚く謝意を表しておきたい。 なお、「学界で通用していない学説が一般に受け入れられている」とか、騎馬民族説の理解者・支持者は素人に多い*16、とかいう記述も江上説批判にしばしば見られるが、当然のことながら、学界の多数説がつねに正しいとは限らない。とくに、それが倫理的あるいは思想的な色彩を帯びたときは要注意である。佐原真氏等の著作・論考には、江上説が正しいか、佐原(否定)説が正しいか、という二者択一的な発想も見られるが、実のところ、この発想自体に問題がある。すなわち、両方が正しいとも、両方が間違っているともいえるのではないか、と私には考えられるのである。 まだ (続く) 〔註〕 *1 鈴木武樹「《騎馬民族征服王朝説》について」『論集騎馬民族征服王朝説』(1975年、大和書房)。同氏は、「『日本書紀』の内実批判を徹底させてそこに新しい古代史像を求めたうえで」、江上説批判をなすべきと主張するが、その記紀の無視ないし否定の見方は、多分に疑問が大きい。 *2 水野祐氏の説は、『日本古代国家』(1966年、紀伊国屋新書)等で記述される。そこでは、「日向神話は、大陸北方系の森林狩猟騎馬民族系(別の箇所では、「ツングース系騎馬民族」とも表現)の部族が日本列島にわたり、北九州から南九州、日向の地域に移って、それが土着の漁撈民や、水稲耕作農民の部族を統一支配して、原始国家を形成したときに、そうした歴史的事実を反映させてつくられたものであると思う」と記して、その民族移動時期を紀元前二世紀頃と考えている。 記紀の「日向神話」の舞台を現在の日向国と理解し、南ツングース系騎馬民族の建てた国を狗奴国(日向南部にその中心)として、奴国と同種で、これが北九州の女王国連合体を征服して九州を統一支配したと考える点などや、さらには記紀神話の反映説的な理解等々、水野氏の所説には、疑問が大きい点もいくつかある。その一方、その民族移動時期を江上説よりも遥かに遠く遡る時期を考えた点等は、高く評価されるのではなかろうか(ただ、紀元前の時期とまでみるのは、遡り過ぎではないかと考える)。 *3 山崎仁礼男著『新・騎馬民族征服王朝説』(1999年5月、三一書房)。同書では、江上説の欠陥ともいえる年代の問題点など修正し、紀元元年頃に箕子朝鮮系の王族関係者が日本に渡来して征服王朝を開いたもので、マルクス史観がいう内在的発展ではなかった、など注目すべき見解・指摘をかなり出している。その一方、九州王朝説など古田武彦氏の説く諸点を堅持して、記紀捏造・盗用説を説き、「国造本紀」の奇妙な利用法なども含めて問題点も少なくない。 同書には本稿の最終段階で気づいており、私見を変更するほどの点は殆どなかったが、騎馬民族説関係では私見とかなり似通ったり(種族系統や渡来時期)、補強する点もいくつかあって、こうしたメリットは十分評価したい。 *4 井上光貞著『古代史研究の世界』(1975年、吉川弘文館)など。氏は、江上説を有力な学問的な仮説として高く評価して、「否定論の論拠が薄弱と考えられるのと、江上氏の仮説が日本古代の政治や社会の制度・文化の様式を理解する上で、一つの有力な武器になると考えられるためである」と記述する。さらに、「江上氏側からの共通性の指摘を手がかりとして積極的に、前向きに、江上説と対決することは、こんどは日本人古代史家に課せられた責務ではないかとおもう」とも記述するが(同書、58頁)、残念ながらそうした試みが学界では従来、なされてこなかった。 *5 『歴史と旅』1994年12月号(第21巻第19号)では、その特集として騎馬民族説に対して多くの歴史関連視点から検討を加えている。特集の副題が「壮大なる仮説は、今や伝説となったか?」というものであり、同誌に掲載の諸論考を見ると、江上説はまさに集中砲火を浴びて孤立無援の状態にあるともいえそうである。 *6 江上氏の古墳前期・後期についての所論が考古学的観点で疑問が大きいことについては、多くの考古学者の批判・指摘が概ね妥当であろう。従って、本稿ではこれを更に繰り返して記すことは差し控えておきたい。 なお、その後、江上氏や奥野氏が、朝鮮半島南部の遺跡・遺物や北九州の福岡市老司古墳・甘木市池上古墳群の遺物等から、騎馬民族の渡来を示すミッシング・リンクが見つかったように主張するが、渡来の証拠としては散発的かつ微小であって、根拠が極めて弱い。北九州に侵入し、この地を席巻して畿内を征服するような勢力の存在を裏付けるものは、古墳時代においては、考古学的にも文献学的にもわが国では見られないといえよう。 *7 江上氏は、天皇氏の周辺には物部、大伴、蘇我などの有力氏族があって、これが大陸系騎馬民族の中心勢力となっていた、と考えていた。しかし、物部・大伴の祖の活動は早く記紀の神武段等に見えており、『姓氏録』の記述などから見ても、これら諸氏が崇神天皇とともに朝鮮半島から渡来したという文献資料は全くない。従って、どうして江上氏のような考えになるのか、私には不思議でならない。また、蘇我氏については、応神を支えたと伝える重臣武内宿祢から来たものであろうが、武内宿祢後裔という系譜はそもそも仮冒であり(百済の重臣木氏の後とみる説は、それ以上に疑問が大きい)、説得力が全くない。 *8 『騎馬民族の道はるか』NHK取材班等編の14頁。 *9 先駆の諸説のうち、喜田貞吉博士の説は、天孫民族が夫余族と比較的近い関係を有し、なかでも高句麗・百済と最も深い関係を有するものではないかとするもので、江上説に近いが、騎馬民族にはとくに言及がない。それが発表された大正当時では、とくに論争的なものは生じなかったといわれる。また、アルトハイムは、騎馬民族たる鮮卑が朝鮮半島を経てイヅモ国家を建設し、既に三世紀には九州の稲作農民層の上にこの騎馬兵の支配層があったと考えた。鮮卑系のイヅモ国家などは疑問もあるが、渡来時期などの見方には興味深いものがある。 佐野学とほぼ同じ時期に、プロレタリア文学者で民間史家の白柳秀湖が、天孫族がツングース系で鉄器・三種の神器に深い関係をもち、東アジア大陸の高天原から天孫降臨して日向に移遷したことを記述した(『民族日本歴史 建国篇』1946年、千倉書房)。これは、江上説発表の少し前の時期であるが、白柳秀湖説については白崎昭一郎氏のご教示によるもので、その当初発表は1938年とのことである。 *10 騎馬民族説を否定する立場の諸説が、皇国史観・旧式史観とか差別史観、侵略史観とかいう言辞を用いて倫理的あるいは扇動的な批判をくりひろげているのは、古代における史実探求の姿勢として問題が大きい。マルクス主義史観で批判するのも、同様である。こうした情緒的あるいは信仰的、観念的な姿勢や議論が、論理的整合性を追求するはずの人文科学の分野で堂々とまかり通ることに、私としては不思議さを感じざるをえず、それが考古学専攻の学者に多く見られる傾向があるのも、気になる。 これら否定説への疑問については、奥野正男氏が「それでも騎馬民族はやって来た」という論考(前掲『歴史と旅』1994年12月号)で、「その姿勢はどこかおかしい」として丁寧に論駁されている。その記述には同感の点が多く、私見として言いたいことはほかにもあるが、本稿ではこれ以上触れない。ただし、これに関する奥野氏の反論記述が妥当であっても、江上氏の騎馬民族説をほぼそのままの形で支持する奥野氏の所論も疑問が大きく、私は全く採らないところである。 また、大和岩雄氏も「「騎馬民族征服王朝説」と前方後円墳」という論考で、最近の江上説批判には同調できないとして、主に考古学関係者の論調に対して的確な反論をしている。その掲載誌『東アジアの古代文化』82号(1995年冬)には、奥野正男氏も前掲の趣旨を基礎に考古学的知見を併せた論考が掲載される。 *11 護雅夫「内陸アジア遊牧民の世界」、『人類文化史第四巻 中国文明と内陸アジア』(1974年、講談社)に所収。護氏は、「歴史的概念としては、内陸ユーラシアを中心として騎馬生活において独特の生活を生み出し、また、騎馬戦術を用いて農耕地域を掠奪、征服、あるいはそこへ移住した多くの民族の総称である」とも記している(『ブリタニカ国際大百科事典』1988年改訂版)。 *12 吉田順一氏執筆の平凡社『世界大百科事典』(1988年初版)の騎馬民族についての記事。 *13 百済において、騎馬民族的な性格をもつものを考えてみると、五部の制や左・右賢王、祭天神事などがあげられる。『梁書』百済伝では、現在、百済の言語・衣裳は高句麗とほぼ同じであると記述し、『隋書』百済伝では、人々は騎射を重んじ、葬喪の制は高句麗に似ていると記す。従って、高句麗等と類似する点は認められるが、全体としては騎馬民族的な色彩は、百済では弱まっているとみられる。 *14 騎馬民族の類型的特徴から論ずることに問題があることは、護雅夫氏も前掲大百科事典で同様に記述する。すなわち、騎馬民族化する前の性格が異なっていれば、一口に騎馬民族国家といっても、その性格が相互にかなり違っていることは当然予想され、「騎馬民族の類型」として一括することは問題であろう、と指摘する。奥野氏の前掲論考でも、「いくつかのクッションを経た人の渡来・移住は、故地の文化要素をそのまま再現するとはかぎりません」として、佐原氏の議論展開には疑問を呈している。 また、江上氏は騎馬民族が朝鮮半島を通過して性格を変えた部分もあることをあげるのに対し、融通無碍な説だと強く批判されている。しかし、水上静夫氏は、中国上古の殷族について、もと北西ユーラシアの遊牧民の一種であったのが、「北方の沙苑文化地帯上辺通過、または、渭水沿いに河南の地に帰農・牧畜を営む種族となったものと思われる」と記して、種族の性格変化の例をあげている(『中国古代王朝消滅の謎』)。なお、「沙苑」とは、陝西省中東部の渭河・洛河が形成する三角地辺りをいい、中石器時代の細石文化をもつ遺跡が多くある。 *15 佐原真「騎馬民族は王朝をたてなかった」(『日本古代史@日本人誕生』一九八六年、集英社)。 *16 専門家のいう「素人・民間」がどの範囲を指すかは不明な点もあるが、戦後も民間史家とされる人々に渡来民族征服王朝説が多く見られ、管見に入ったところでも、沢田洋太郎氏(『復元!古代日本国家』1993年、彩流社)、渡辺光敏氏(『古代天皇渡来史』1993年、三一書房)、山口順久氏(「征服王朝としての河内王朝と日本の古代」『季刊/古代史の海』第11・12号、1998年)などがある。山口氏も、大方の考古学者の見方に対し問題点を指摘している。 (続く) |
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