二 扶余系民族が日本に来た可能性 江上氏の唱えた騎馬民族説には、渡来時期等で大きな問題があったとしても、日本人の形成や古代国家の起源といった問題を考える場合、朝鮮半島ないしはその北方につながる方面から日本列島に渡来した民族が全くなかったとはいえないはずである。現に、岡正雄氏は、天孫降臨神話が朝鮮半島経由で日本列島に入ったこと、その担い手はアルタイ系の遊牧民文化的要素を強くもっており、おそらく皇室の先祖だった、と考えた。大林太良氏も、この岡説に賛意を表するとともに、これが征服騎馬民族によってもたらされたかどうかははっきりしない(その一方で、「皇室の祖先は、アルタイ語族系の征服者であった」ともいう)、とも記している(『日本神話の起源』1961年、角川新書)。 このように、仮に列島に渡来してきて天皇家につながる民族があったとしたら、どのような民族で、どのような性格・習俗であったか、その渡来時期はいつだったか、という問題を具体的かつ十分に検討する必要があろう。 騎馬民族が渡来した可能性のある時期 先に掲げたように、江上説では、時期のポイントが二つある。その第一は日本列島への渡来時期であり、第二が北九州から畿内への移遷時期であって、それらについて、@四世紀初め頃、A四世紀末から五世紀初、として捉えている。しかし、こうした時期の把握に問題が大きいことは、先にも少し触れたところである。まず、この関係について考古学・文献学の視点から改めて見ていこう。 考古学的にいえば、第二の畿内の征服・移遷時期が明らかにおかしいということになろう。すなわち、江上氏のいう古墳文化の前期・後期、現在一般的な学説による古墳前期・中期の境が「四世紀末から五世紀初」にあったとしても(現在の多数説では、両者の境界時点をもう少し前におくのかもしれない)、また中期に大陸的・騎馬民的な色彩が強まるのは確かであったとしても、前期中期を通じてわが国の古墳文化が継続して漸次発展してきたものとみられ、両期の間に異民族による畿内征服事件というほどの大きな断裂があったとは到底考えられない、というのが多くの考古学者の見解であろう。ある個別の古墳(例えば、津堂城山古墳とか室宮山古墳とか)が前期中期のどちらに属するのかが必ずしも明確に区分できてはいない現状を考えると、その間に一本の境界線を明確に引くことが極めて困難であることが分かってくるはずである。 第一の「四世紀初め頃」という渡来時期は、古墳発生あるいは古墳時代の始まりを何時と考えるかという問題にも関係する。古墳の発生ないし発生期古墳については、確定しがたい面も多々あるが、それが北九州に発生とか、北九州に畿内と並立して特異な古墳文化があったいう史実は、認められないようである。時期的には、現在の考古学者の多くが邪馬台国畿内説のもとで発生期古墳を三世紀中葉頃とみているので、この立場だと、当該渡来時期も否定されることになる。しかし、発生期古墳の具体的な時期について、邪馬台国畿内説や三角縁神獣鏡輸入説から考えるのは、前提条件に問題がある(従って、結論的には、三世紀後葉ないし四世紀初頭前後の頃に、前方後円墳が畿内に発生か)、と私は考えるので、この場合には、三世紀後葉ないし四世紀初より前の時期においてであれば、騎馬民族かどうかはともかく、異民族による侵入・征服という事件がなかったとは、必ずしもいえないことになる*17。 江上氏が四世紀初め頃という渡来時期を考えたのは、中国北部では西晋の崩壊と五胡十六国時代の始まりの時期に当たり、北方騎馬民族の大規模な南下や楽浪郡・帯方郡の滅亡(313年頃)という事件が起きたことを踏まえてのものかとみられる。しかし、騎馬民族とはいえ、朝鮮半島を経由しての日本列島への到来がいかにも迅速すぎる(さらに、到来後の建国、政治権力の確立も、あまりに迅速すぎる)という問題点があり、朝鮮半島南部では百済・新羅などが既に初期国家段階にあったとみられることとも矛盾し、これら諸国の成長過程の例と比較しても疑問が大きい。 次に、文献学の視点から検討してみる。 戦後、水野祐氏による三王朝交代説が提起されて、@崇神に始まる王朝、A応神ないし仁徳に始まる王朝、B継体による王朝、の三王朝があって、それらが交代して継体以後は現代まで続いてきたと主張された。このような説では、「四世紀末から五世紀初」という時期はAの王朝に対応することになるが、応神ないし仁徳の王朝が異民族的・外来的色彩を持っていたとは、まず考えられていない。資料的にも、江上氏のように記紀を理解することには、疑問が大きい。 応神ないし仁徳のときに前王朝の系統とは別の系統から大王が出たと考える説は、井上光貞氏も支持しており、現在かなり多くなっている模様でもある。こうした王朝交代説であっても、いずれも国内の系統のなかでの交代とみるわけである(なお、私見でも、基本的にはこの頃に王統交替したとの立場だが、天孫族のなかでの交替とみる)。 応神が筑紫(具体的な地については、記紀等に諸説ある)で生まれたという伝承があったとしても、これを直ちに異民族に結びつける思考方法には問題もある。しかも、応神の祖とされる崇神ですら、記紀には畿内を根拠として四囲にその勢力を拡大させたと記すように、外来的色彩が全くないといってよい。任那と「ミマキイリヒコ」の「ミマ」とが同じだとして、崇神が北九州を本拠としたとみる江上説は、無理なものというしかない。なお、こうした観点を踏まえてからか、井上氏は、「応神天皇その人が海を渡って日本に侵入したのであったとしたほうが仮説としては合理的とおもっている。ただこの点は種々の方面から証明を要することである」とも記している。しかし、応神に外来・異民族の色彩がないことは、先に述べたところであり、井上氏の見解も同様に疑問が大きいということになろう。 いずれにせよ、こうした一般的な理解だと、四世紀前葉の崇神の時代より前ではともかく、四世紀以降では列島外部からの大きな侵入は考えられない。記紀に記される朝鮮半島との交渉記事をどう解釈するかという問題にもなるが、四世紀後葉以降では大和朝廷はむしろ半島方面に出ていっており、この時期に半島からの侵入・征服事件があったとみるのは、侵攻方向が逆転しているということにもなろう。 江上説でも、崇神の王朝は南朝鮮と北九州とに地歩を築いて、そこから近畿地方に侵攻したものと考えているから、必ずしも片道通行ではないが、こうした同時両面作戦では、好太王碑文に見られるような倭の大規模な侵攻が、朝鮮半島中央部まで及ぶ形で間断なく展開できたのだろうか。藤間正大氏にも同旨の指摘があるように、それはまず考え難いことである。 しかも、私見では、崇神の王朝はこの時期、畿内を中心基盤として勢力圏を大きく拡大して日本列島内の最大勢力たることを確立したとみるが、それでもその時期の大和勢力が北九州に及んだことは史料から読みとれない。 崇神の王統は二世紀後葉の神武東遷に始まり、それ以降継続してきたものであった*18。神武の開基以降、この王統は近親親族の内で推移して、外部からの系統にとって変わられるという事態は見られなかった、というのが記紀等の記すところである。これに大きな疑念を挟むべき資料は、「仲哀−応神の間」を除くと、管見に入っていない。神武自体の出自についても、それが直接、外地から渡来したとは考えられない。記紀にいわゆる「天孫降臨」が南朝鮮からの渡来だったと考えたとしても、それは神武の二世代前から三世代前の時期に渡来したものとなろう。それでも、天孫降臨を主導した高皇産霊尊が主宰の「高天原」には外地的な雰囲気が見られず、わが国への渡来時期としては、それより更に遡る時期を考えることになる。 以上、文献学的に見ても、考古学的に見ても、少なくとも四世紀代以降に(さらに、私見では二世紀代以降に)、征服民族の日本列島渡来・移遷を考えることには、大きな無理があろう。 こうした考えは、現在の騎馬民族説批判説とほぼ同様である。喜田博士等も天孫族の弥生期渡来を考えており、岡正雄氏もおそらく二、三世紀の頃として、江上説より少し早い時期を考えている。それでも、騎馬民族に関する議論はこれで終わるわけでないのは、最初に記した通りでもある。 列島に来た可能性のある民族系統 上古代のある時期に日本列島に渡ってきて先住民を征服し、建国した民族があったとしたら、それはどのような民族だったのだろうか。 日本列島の成立が一万数千年ほど前ではないかともいわれるので、渡来の時期が上古代のいずれにせよ、朝鮮半島南部を基地にして、そこから舟で渡って来たと考えるのが最も自然であろう。(なお、列島内にもともと牛馬が殆どいなかったとすれば、当時の航海・造船技術ではこれらを舟で運んだとしても頭数には限界があるので、上古朝鮮半島南部に騎馬組織をもつ政治統合体があって、この騎馬組織をまるまる保持しつつ日本へ渡来したと考えることには、そもそも無理がある。) まず検討する必要があるのは、列島にあたる地域に最初に居住した人々がそのまま内在的に発展して、古代の日本人につながっていったのだろうか、という問題である。しかし、こう考えることには大きな疑問が出てくる。それは、古代からの習俗、神話、言語あるいは出土人骨等には、いくつかの異なる要素の混合が顕著に見られるからである。 こうした要素混合の事情を内部発展とか文化伝播だけで説明するには極めて無理があり、中国大陸に現在居住する多くの少数民族の習俗・伝承を調査すれば分かってくることも多い*19。例えば、鵜飼一つとってみても、中国では淮河辺りを南北の境界として、その南方に分布するが、わが国古代でこの技術を担ったのは稲作文化をもつ海神族系の部族であった。殷周時代には、この淮河の線辺りが殷・周王朝の勢力圏の南限で、南方の楚の北限であったとみられている(貝塚茂樹・伊藤道治著『古代中国』)。『魏志倭人伝』等に見える倭人の入れ墨も、越など中国南部の習俗であった。 こうした諸事情から見て、日本は本来、多民族国家であったことは疑いない。樋口清之氏も、現代日本人の顔つきをじっくり見れば、これは明らかで、複雑な敬語体系はその証拠と述べられる(『逆・日本史3』)。観念的なマルクス主義の社会進化論だけで、わが国の上古史の動向が説明できるものではない。 神話についてみれば、「神話の誕生も現実生活に基づくものであり、人類の頭が空想したものではない」(ゴーリキーの言を引き袁珂氏が記述*20)。そうであれば、異なるか相矛盾するような神話伝承は、単なる文化伝播では成立するはずもない。わが国の宇宙起源についての神話には、三つのグループがあったことを大林太良氏が指摘する。 これら古代の構成要素には、大別して海洋沿岸(江南)系と内陸部(北東アジア)系とがあって、前者は稲作と青銅器の文化、後者は鉄器と粟・黍作の文化という各々大陸系の色彩が濃くみられることから、弥生期に入ってからも、まず海洋沿岸系、つぎに内陸部系の順で民族が渡来してきたことが考えられる。その前には、狩猟焼畑文化をもった人々もおり、これが倭地先住民(「縄文人」としてよいか)としてあったとみられているが、この原住の人々もまた一様ではなかったかもしれない。こうした起源の相違が各々種族の色彩を残す古代氏族の個別具体的な性格にも脈々と流れているのである。 弥生期に金属文明(とくに鉄器)をもって渡来してきた可能性を考えるべき民族としては、朝鮮半島からその北方の中国東北地方に古代時に居住したものがあげられる。具体的には、扶余のほか、匈奴や鮮卑・烏丸といった東胡系の民族もあった。 匈奴には、天の子と称した君長(単于、可汗)、万世一系の王統(単于位は冒頓の男系子孫に限定)、王統と特定異姓氏族との通婚、即位儀礼、シャマニズム、嫂婚制・姉妹婚制、殉死などの特徴があり、これらは皆、上古の天皇家(遠祖)をめぐる状況に通じるものがある。匈奴では、紀元前三世紀末の冒頓単于による建国始期から単于位をめぐって分裂、抗争が度々繰り返されたが、とくに紀元前一世紀中葉の五単于の並立とそれに続く東・西匈奴の分裂事件(前58〜前36年)は興味深い。しかし、この時の単于一族関係者が朝鮮半島を経て日本列島に渡来した可能性について、種々検討してみたものの、モンゴル高原から長駆し韓地を経て渡来したという兆候は見いだすことができなかった。おそらく、匈奴系の部族が一団として朝鮮半島北部に入ることも、なかったのではなかろうか。 東胡系の烏丸(烏桓)や鮮卑にあっても、匈奴と同様な特徴(嫂婚制、シャマニズムなど)があったが、王統の確立の時期がやや遅いようであり、説明がつきにくいようにも考えられる。 東胡の民族系統がどのようなものであったかは諸説あるが、鮮卑が一世紀末の北匈奴の崩壊後、その故地と遺民を多く吸収・併呑して民族性を大きく変えた可能性も考えられる。牧主農副の烏丸・鮮卑の渡来ならば、匈奴よりも可能性があろうが、その原住地は、遼寧省西部のシラムレン・ラオハ両河流域ないしその北方とみられており、その東方から朝鮮半島にかけての地域には貊系の民族が多く分布していた。また、匈奴・突厥等に狼祖伝承があることは、熊を女系先祖にもち卵生伝承をもつ伝承のある朝鮮関係王統とは明らかに異なる。わが国の天皇家のトーテムは必ずしも明白だとはいえないが、鳥関係の色彩が強く、また熊野大神が祖とあれば熊とも関係しよう。 東胡系統のトーテムは不明だが、烏丸の名や烏丸・鮮卑の大人に烏氏(鮮卑の烏倫は率衆王に封ぜられた)があったことからして、鳥トーテムに関係があったのではなかろうか。『魏書』蠕蠕伝に東胡の子孫と記される蠕蠕(柔然)に関して、その西移した一枝が六世紀中葉にヨーロッパに侵入しドナウ河流域を中心に勢力圏を築いたアヴァール族だったとみる説(内田吟風氏)がある。アヴァールはそののち九世紀末頃に、東方のウラル山脈中・南部方面からやって来たマジャール族に併わされてハンガリーとなるが、この建国神話にも鳥が活躍する。マジャール族が族長アールパートに率いられて南ロシアからハンガリーへ進入したとき、この軍が疲れ果てていたところ、鳥(鵄または鷹の一種)が現れて勇気づけられ、その先導でハンガリーの地に到り建国を果たしたので、この鳥は国家的民族的象徴となったという。 これは、神武の八咫烏・金鵄の伝承にもつながるが(日本のほうが時期が古い)、紀伊の熊野大社には八咫烏神事(宝印神事)があり、熊野神の使いとされた熊野烏の姿を印刷する熊野牛王神符を調製する。このように、王朝創業者と鳥との密接な関連をもつ伝承は、蒙古諸族・トルコ諸族・ウラル諸族に分布しているといわれる。アヴァールは烏丸の古音Awanに通じて、アヴァールと烏丸とは同名とみる説もあり、これはおそらく妥当か。マジャールのほうも西戎・東夷系の種族であろう。『後漢書』では、烏丸の男子は弓矢鞍等を作り、金鉄を鍛えて兵器を作ることができた(烏丸伝)、鮮卑は良質の金や鉄を皆保有し、武器の鋭利さは匈奴を凌ぐ(鮮卑伝)、という記述があって、これらにも留意される。 そうすると、ほかに特別の事情がない限り、朝鮮半島からその北方にかけて広く分布するツングース系(貊系)か東胡系の民族かが日本列島へ渡来してきたとみるのが、最も自然であろう。この系統の民族でも、「天の子」とか天孫という思想や太陽神信仰が顕著に見られ、高句麗や扶余の建国神話には神武東遷伝承や吉備平定伝承に通じるものがある、と指摘されている。また、南朝鮮の六伽耶国の建国伝承が、内容的に瓊瓊杵尊の天孫降臨伝承に多く類似するという指摘(亀旨峯と触の対比など)も、従来多くなされてきた。 民族渡来の具体的な証拠はあるのか いったい、どのような証拠があれば、征服王朝を作ったような民族の渡来・移動があったといえるのであろうか。この点に関して、文化伝播と区別して明確にするのはたいへん難しい話しであり、仮に物証的なものが相当多く出されてきても、議論を決着させるほどの強い立証力をもつものは殆どないと言えよう。それでも、種々の観点から具体的に検討する必要がある。 まず、文献的にみると、系譜史料も含めて、天皇家ないしどこかの地域の君長の祖先が朝鮮半島から渡来してきたと伝えるものは、『姓氏録』の諸蕃氏族を除くと、殆どない。では、皆無かというと、そうともいえない記事が『書紀』に見える。 それは、『書紀』の第八段(宝剣出現)の一書第四および第五の記事であり、素戔嗚尊がその子・五十猛神を率いて新羅国に天降り、そこから舟を作って出雲に渡ったとあり、また、五十猛神が天降りの際に多くの木種を将来したが、韓地には植えずに、筑紫より始めて列島内に木種を播いたと記される。そうすると、韓地からの渡来地はむしろ筑紫であったことにもなる。素戔嗚尊の関係の地として、ソシモリやクマナリがこの記事に見えており、ソシモリが牛頭の意、クマナリが熊川・熊津であれば、朝鮮半島内にはいくつか、これに該当しそうな地名もある*21。日本でも、牛頭に通じる牛頸・牛頸山が筑前国御笠郡(現福岡県大野城市南部)にあり、同地には伽耶に源流をもつ須恵器の窯跡群(日本の三大窯跡群の一)がある。 五十猛神については、記紀に見えるのはこの箇所だけであるが、『播磨国風土記』の餝磨郡因達里条には、息長帯比売命が韓国を平定しようとして渡海する際、先導神として御船前におかれた伊太代の神がこの地(姫路市街地の北部)に鎮座すると記される。これが、餝磨郡式内の射楯兵主神社(姫路市本町に鎮座)となるが、イタテ神が神功皇后の先祖とされる天日矛にも通じるとしたら、祖神の加護を受けてその祖国の韓土に進攻したことになる。 五十猛神は、わが国では伊達神(射楯神)とか韓国伊太神、伊太祁曽神ともいわれて、延喜式内社の奉斎神としてはかなり多く、十五社を数える。とくに、出雲には最多で六社あり、意宇郡・出雲郡にそれぞれ三社あるが、意宇郡では玉作湯社や揖夜社に付属して鎮座する(これらは出雲国造一族の奉斎に係るものか)。そして、出雲国内の六社が全て、韓国伊太神と記されて、式内社では類例の少ない「韓国(辛国)」が冠として付けられていることにも留意される。他の式内社では、「韓国」が冠される薩摩国曽於郡(国分市上井)鎮座の韓国宇豆峯神社も、五十猛神(又の名を韓神曽保里神)を祀るとされる。 これらの事情も、この神の韓国からの渡来を示唆するのではなかろうか(千家俊信『出雲式社考』にほぼ同旨)。出雲の西隣、石見国では現・大田市五十猛町に近隣して韓神新羅神社・五十猛神社の両社が鎮座することも留意される。真弓常忠氏は、「帰化系の韓鍛冶によって奉祀せられた神」とみている(『古代の鉄と神々』)。東国でも上野国多胡郡韓級郷の辛科神社(現・多野郡吉井町神保)は、速須佐之男命・五十猛命を主神とするなど、「韓・辛」を名づける神社にはこの両神を祀るものが多い。 式内社では筑前国御笠郡の名神大社、筑紫神社も注目される。前掲の牛頸の東南近隣で、基山の東麓、筑紫野市原田(社地を含む一帯が古くから筑紫と呼ばれた)の丘陵に鎮座する同社の祭神は五十猛神とされており、『筑後国風土記』逸文に見える筑後国号の起源に関連する。それに拠ると、筑前・筑後の国堺に麁く猛き神が居て往来の人の半数が死んだので、「人の命尽しの神」と呼ばれ、筑紫君の祖・甕依姫を祝として祀ったと記される。同社の北方五キロの宮地岳(標高339M)は天山(あまやま)とも呼ばれ、その南麓にはこれに因む天山(現・筑紫野市の大字)という地名も残る。『太宗秘府略記』には、「伊猛神を韓神・曽保利神と号す」と見えるが、『延喜式』所載の宮内省に坐す神として韓神社二座があり、毎年、二月春日祭直後の丑日及び新嘗祭直前の丑日という「丑」(牛)の日に韓神祭が行われる。このほか、筑前の糸島地方に多く分布する五十猛神については、後述する。 豊前の宇佐八幡でも五十猛神がその祭神として見え、応神天皇家や宇佐国造など天孫族一派の実際の祖として考えられる。弘仁五年(814)の太政官符や『宇佐託宣集』等に拠ると、宇佐郡の小倉山の麓に八つの頭が一つの身体についた奇異な風体をもつ鍛冶翁がおり、金色の鷹となって示現し、その姿を見ようと近づく者の半数が死亡したが、神官(辛島勝乙目とするのが原型か)の祈祷に応じて三歳児童の姿で八幡神が出現し、「我は始め辛国に八流の幡となって天降り、日本の神となって一切衆生を度する釈迦菩薩の化身なり」と託宣したと記される。宇佐祭神の一、八幡大神にも擬せられる応神天皇は、その実際の系譜は宇佐国造一族の支流の流れをひく鍛冶部族息長氏に出ており、その遠祖は神武に始まる王統と同じで、高魂命であった。 また、素盞嗚神という神は、海神族たる大己貴神(大国主神)の父祖としても伝えるが(記紀ともに見えるが、『古事記』のほうに多く伝える)、その一方、熊野大神として、天孫族系統の物部連や鳥取部によって祖神奉斎された。これら氏族の祖たる天津彦根命(天若日子)やその兄弟は、素盞嗚神と天照大神との天安河原の誓約の際に息吹きのなかから誕生したと伝えられる。こうした両様の素盞嗚神は、その行動や性格からみて、明らかに別神(同名異神)であった。なお、こうした見方は、私の氏族研究の結論的な部分だけを記したので、分かり難いという批判もあるかもしれないが、紙数や論旨展開上の見地から、本稿ではこのくらいに止め、別途、詳論を記述することにしたい。 次に、民族移動の足跡を残すものとして、朝鮮半島・大陸と日本列島で共通に見られるとしたら、それは何であろうか。既に江上氏が『騎馬民族国家』で多数あげた祭祀・婚姻・習俗・伝承などの諸点がある。このほかに、それらより強い説明力として使えそうなものがないかと考え直してみると、次ぎの諸点があげられよう。とくに、人の生死に係る伝承(祖先一族の伝承や系譜も含む)や儀式・信仰・遺物は、たいへん重要な点といえるもので、これらは文化・技術の単なる伝播では生じえないと考えられる。それが、天の子あるいは天孫という血統思想や、鳥トーテム・鉄鍛冶技術、石神・巨石への信仰に様々に関連することに留意される。喜田貞吉も、日神を祖先と仰いで卵生伝承をもつと共に、神社の鳥居が満州・蒙古の方面に類似の俗が見られることや言語組織の類似を重視している。 「天孫思想」は、匈奴の「単于」(天の子の大いなる者)ばかりでなく、夫余・高句麗・鮮卑などや古代朝鮮半島の諸王家に広く分布しており、わが国の「天皇」の呼称や『隋書』倭国伝に見える「日出処天子」という表現も、これと深い関係があろう。 鳥と鍛冶とは関係が深いことは、アジア・アフリカなどの神話伝承に広く見られており、鉄鍛冶屋とシャーマン(祭司)・鳥とは、北アジア等で親縁性がみられるという田村克己氏の指摘もある。日本でも、鳥と鍛冶に関連する神話・伝承の例が多い。金屋子神が白鷺に乗ってきたという『鉄山秘書』(1784年成立)に見える伝承ばかりでなく、八幡神も鍛冶屋と縁が深く、この神自身、鍛冶の翁として現れ、金色の鷹や鳩となること、こうした信仰が対馬の天童伝説を経て、朝鮮新羅王第四代の昔脱解(もと鍛冶屋という)につながる可能性も指摘されている*22。日本の鍛冶神・天津麻羅(金屋子神)とは、天孫族の一員で天目一箇命という名をもち、わが国最大の鍛冶部族額田部氏族(三上氏族)の祖であり、その同族の流れからは、応神天皇を出した息長氏族や鏡作・玉作の諸氏族、宇佐国造など、多くの氏族が出た。 @地名……日鮮の上古史研究における地名の重要性は、新井白石・金沢庄三郎などの指摘にある通りで、多くの場合、「地名は民族と移動を共にする」とされる。 先に挙げてきた「朝鮮・日向」といったもののほか、天山・嵩山などの地名は興味深い。天山という名は、中央アジアの天山山脈、モンゴル共和国のオトハン・テングリ山、遼寧省西部で東胡系民族の本拠地辺りの天山(阿魯科爾沁旗。大興安嶺山脈の東南麓にある内蒙古自治区の地名で、シラムレン河の北方、烏丸山の付近)などがあり、西から東へ続いている。わが国でも、肥前の天山(標高1046M)を中心としており、それが「天」(高天原の領域)から天降ったものとして伊予国伊予郡の天山、阿波のアマノモト山、大和三山の天香具山などがある(『風土記』逸文)。 嵩山(嵩岳)は、上古中国の羌族・殷族が崇拝した聖山で、古く泰山に次ぐ中原第二の高山(標高一四四〇M)であり、中原の西側の河南省(洛陽の東南の登封県北部で、黄河の南岸)にある。わが国でも、出雲や周防大島、三河等に同名の山が数か所あり、「だけさん」と訓まれる。これが音通する岳山、御嶽山、御岳山としても同じもので、これらの山名はわが国に多い。わが国では嵩山忌寸という姓氏も見え、これを賜姓した孟氏・張氏ともに、姫姓周王室一族の後裔と称した者が名乗った氏であった*23。 この周王朝の遠祖が后稷以来、稷官(中国上古の夏王朝の農政責任者)の地位にあり、代々世襲したと伝えられる。周の出自は北狄系であったと白川静氏がみているが(『中国の神話』*24)、むしろ東夷(西戎)の色彩が強いようであり、ないしは東夷・北狄の混合の可能性もあろう。 『春秋左氏伝』(成公十六年条)に見える呂の夢を占う記事には、「姫姓は日なり、異姓は月なり」という言もある。「稷」とは五穀の一つ「たかきび、コウリャン(高粱)」のことで黍(きび)の同種であり、粟に通じて、もと北東アジアの民族が主食としたものであった。仰韶期文化の著名遺跡、半坡村の聚落遺跡(陝西省西安付近で、周の本拠の付近)では、彩陶とともに大量の食用・種子用の粟が出土して、粟が主穀であったらしいとみられる。 また、北狄系という夏王朝の先祖・鯀は崇伯と呼ばれるが、嵩山と関係があるかもしれないと白川氏が述べる。鯀・禹親子には熊となった伝承があり、禹の子の啓は嵩山の石から生まれたといわれ、扶余の王・解金蛙も石から生まれたと伝える。 天山のある大興安嶺の東方地域については、田中勝也氏の記述も注目される。氏は、『孟子』告子篇にいう黍しか生育しない貊の地とは、大興安嶺東部の平野部であり、これこそが貊族の故地とみている(『環東シナ海の神話学』177頁)。そうすると、ここは烏丸の地でもあり、烏丸・鮮卑と貊・扶余との同族性が窺われるが、田中氏は、騎馬民族とされる「烏桓も、まずしくはあるが一定の定着農業を営む社会を併せ持っていたのである」と記述する。 Aトーテム……鳥トーテムや、始祖の卵生伝承*25であり、これらは天孫思想に通じるものとみられる。天皇家には、倭建命の霊魂が白鳥となって飛び去ったという白鳥伝承があり、半島南部の弁辰(弁韓)でも、死者を天上に飛揚させるため大鳥の羽根を用いて死者を送るという風習があった(『三国志』魏書弁辰伝)。神武の大和侵入に際しては、八咫烏が道案内し、金色の霊鵄が皇弓の筈(弓の弦をかける所)に止まって抵抗する長髄彦軍の平定に助力したという伝承もあり、天孫の徴表が天羽羽矢であったとも記される(『書紀』)。 鍛冶神たる天目一箇命の父・天若日子は、自ら雉を射抜いた反し矢によって殺害されたが、その葬儀に際して、川鴈・雀など多くの鳥が役割を担ったと『書紀』に記される(割註では、本文より多くの鳥の名をあげる)。これは、『左氏伝』(昭公十七年条)に見える山東省南部の夷系の国、子国の多くの鳥官に通じるようであり、また、松本信広氏は、死者の魂を他界に連れていく鳥の観念と関連すると説く。水上静夫氏も、中原東方には子国など鳥トーテムの諸氏族があり、殷族がこれらと一群であったとみている*26。 鳥の名をもつ人名(神名)も天孫族系統にかなり見られる。素戔嗚尊が須佐能烏命とも書かれ、このほか、天日鷲翔矢命・天白羽鳥命の親子もおり、前者は少彦名神にあたる神であった。出雲国造の遠祖とされる天夷鳥命(天鳥船命、武日照命)の実体が、鍛冶部族の祖・天目一箇命に通じることは別稿(「出雲国造の起源」)で述べたところでもある。同国造の初祖は鵜濡渟命と伝える。これと同祖の鍛冶部族・三上氏族でも、鳥鳴海命(三上祝祖)、速都鳥命(穴門国造祖)、意冨鷲意弥命(師長国造祖)等の名が見える。応神王統に見える大雀・隼・根鳥・雌鳥・鷺などを名にもつ王族も、また同様であろう。 わが国の天皇家には、端的な卵生伝承は見られないが、これは天孫降臨の際の真床覆衾に関連するといわれる。真床覆衾は、殷の王権・即位の儀礼に見られる「綴衣」という先王の用いた衾に通じると白川氏がいわれる。殷は東夷系で、玄鳥(燕)の卵を呑んで懐妊した女性の子・契が始祖という卵生説話をもっていた。その先祖の王亥は鳥形神の字形で表されるなど鳥トーテムの強い色彩があり、王は巫祝としてシャーマニズムが盛んであった。殷の子孫が周王朝の祭儀に客神として参加して降服の儀礼を再演し白鷺の舞を献じたことは、同様に記述される。殷の伝承などから、貊民族の一分派であるとかツングース族とみる見解(文崇一、シロコゴロフ)があることは、白川氏が記述する。ただ、殷の起源については、その祭祀・主食などから考えて、西方からの侵入説(羌族等と同じく西方系の遊牧民族の一派とみるもの)を水上静夫氏が唱えており、おそらく妥当であろう。 高句麗の祖・朱蒙(東明)は、日の影に感精して生まれた卵から成長し、弓の上手であった。また、鶏卵のような精気が天上から降りてきて女が妊娠し生まれたとも伝える。こうした所伝は早く、好太王碑文にも見えて、始祖鄒牟は天帝の子で卵を割って出生したと記される。『魏書』や『隋書』等の高句麗伝では、高句麗の高官や使者は冠に「二本の鳥の羽」を挿すと記されており、これも鳥トーテムに関係しよう。「東明王編」には夫余の祖・解慕漱が頭に鳥羽冠をかぶり五竜車に乗り、百余人のお供はみな白鵲に乗って天降りしてきたと記される。この解慕漱が河伯の娘・柳花を娶るに際して、河伯との変身合戦で最後に鷹に変じて圧倒したので、ほんとうに天帝の子だと認めたという記事もある。高句麗には烏骨という城(遼寧省鳳城市に残る鳳凰山城で、高句麗最大の山城)、烏拙という大官(十二官位のうち第六)もあり、鬼神・社稷・霊星(農業神)を祀った。 鳥トーテムとシャーマニズムの関係では、1996年2月、もとの筑前国怡土郡にあたる前原市(現・糸島市)の上鑵子遺跡では、鳥の羽飾りをつけた鳥装の司祭の絵を刻んだ木板が見つかった*27。その前年には、佐賀県神埼郡東脊振村(現・吉野ヶ里町)の瀬ノ尾遺跡から羽飾りをつけた鳥人とみられる絵を刻んだ弥生期の土器が出土した。同郡神埼町(現・神埼市)の川寄吉原遺跡からも、頭に羽をつけた人物を刻んだ鐸形土製品が出土している。今日でも、韓国のシャーマンは雉の羽をつけた帽子をかぶるといわれる。 B考古学遺物……支石墓など巨石文化であり、積石塚も高句麗・百済や新羅王都の慶州、わが国に見える。好太王陵墓に比定される太王陵や将軍塚も大型積石塚であり、桓仁・集安などにも積石塚が散在する。わが国での積石塚は、長崎県対馬の根曽古墳群や香川県の石清尾山古墳群などで、古墳前期〜中期のものが見られる。 三上次男氏の『満鮮原始墳墓の研究』(1961年)に拠ると、支石墓について興味深い点がいくつかある。これらを挙げてみると、その築造者は前三世紀末〜二世紀初ごろから活動期に入った貊人(後の高句麗人と系統を同じくするもの)であったに違いないこと、分布は遼寧地区と朝鮮半島を中心として山東やわが国の北九州にも僅かながらあること、後の高句麗人は支石墓の分布地帯を舞台として政治的発展を遂げたこと、支石墓は石棺墓の巨大化した形式とみられるが、両者の拡がりは朝鮮半島において完全に一致し、南朝鮮においては両者が合して複合形を取るものさえあること、などである。支石墓には北方式と南方式(地上の表面におかれた巨石を複数の小石で支えて、その地下に死者を埋葬する方式)があり、南朝鮮においては北方式も僅かにあるが、主要な地位を占めるのが南方式であった。南方式は巨石使用という北方式のアイデアを受け入れつつも、南朝鮮を舞台として独自の発展を遂げたものであった。少なくとも前一世紀中には、この形式の支石墓が姿を見せていた、ということである。 わが国の支石墓は、朝鮮半島南部地域に多く見える南方式であり、九州北西部の長崎・佐賀・福岡の各県に天山を中心として点在する。一般に、佐賀県唐津市付近から拡散したとみられている。これらは縄文終期から弥生中期にかけて伝播したともいわれるが、わが国伝播の始期は前掲の例からみて、主に前一世紀以降ではなかろうか。西紀後になると、支石墓と石棺墓とが複合するようになり、おそらく西暦二,三世紀、場合によっては四世紀まで続いたらしい、と三上氏は記述している。さらに、別の論考*28では、北九州に支石墓、箱式棺墓、甕棺墓など大陸人と密接な関係にある特殊な墓が造られたのが概そ西暦紀元前後であることや、権威の象徴たる青銅器の出現期を考えて、前一,二世紀から後一世紀にわたる時期に大陸の人々が断続的に移住があり、それが日本在来の社会や文化に強く影響を与えた、と三上氏は記している。 積石塚については、その淵源を考える上で注目されるのは、遼寧省大連地方の崗上墓・楼上墓・臥竜泉墓などであるとされる。高句麗系積石塚は、ソウル市東郊の漢江下流域に石村洞古墳群などがあり、ともに三世紀以降の築造とされる。 こうした支石墓や積石墓という大陸の文化をもって到来したのが、天孫族の系統ではなかったろうか。支石墓の副葬品は少ないが、志登支石墓など糸島半島を中心に大陸系遺物が見つかる場合がある。能登の式内社、宿那彦神像石神社など、天孫族系統の氏族には巨石文化や石神信仰が顕著に見られる。 ただ、弥生期に大陸文化を日本列島に伝えた民族には、大別して二系統あり、先に青銅器・稲作文化を伝えた南方的色彩ももつ民族、次に鉄器・粟作・巨石文化を伝えた北方系民族の渡来があった、と私は考えている。そうすると、後者の到来時期は紀元前後頃ともみられよう。日本の式内社などの古社で、巨大な岩石や立石・環状列石などが見られる例が多いことから、そうした古社の起源が縄文期まで遡るのではないかという見方(西田長男氏など)もあるが、個別に奉斎した部族・氏族を考えていくと、巨石や石神への信仰を伝えたのも主として天孫族であったとみられる。 次に、朝鮮系無文土器も、この関連で興味深いものがある。福岡県小郡市教育委員会の片岡宏二氏は、その近著『弥生時代 渡来人と土器・青銅器』(1999年、雄山閣)で、後期無文土器を出土する遺跡のうち、内陸集中タイプで土生タイプが弥生前期末から中期後半にかけて現れ、それが定着型で渡来集団によりもたらされ作成されたことを示している。土生タイプとは、天山の南、佐賀県小城郡三日月町の土生遺跡から多量多種で出土した土器の類であり、その辺りから筑後川流域にかけて濃密に分布する。後期無文土器には、福岡市諸岡で出土する諸岡タイプもあり、これら両タイプは筑前では那珂川以西、怡土郡にかけて多く分布することにも留意したい。これら後期無文土器の担い手は、時期・分布等からみて支石墓の担い手とも重なるもの、と私は推している。 李丙『韓国古代史』に拠ると、無文土器は朝鮮半島の青銅器時代を代表する遺物であって、時期と地域によって形式に多くの変化がある。早い時期に出現したものは半島の北部に多く分布するが、その遅いものの特徴的な土器には粘土帯土器があって、主に中部以南で発見されている。これは、口唇部に丸い粘土帯を巻いて付けた深鉢形の土器で、現在まで全羅道を除いて南部の全地域から出土しており、最も稠密な分布は漢江流域である。忠清南道の大田槐亭洞と牙山南城の石棺墓遺跡からは、細形銅剣を始めとする青銅器遺物とともに出土して、銅剣文化と密接な関連のあることを示す。日本の九州地方からも粘土帯土器が出土していて、この土器とともに韓国の銅剣文化が日本に渡っていったことを物語る、とのことである。牙山とは、天安・天原の付近で、辰王が居住した地域でもあったことに留意しておきたい。 鉄器使用については、朝鮮半島北部ではほぼ前四〜三世紀頃から始まったことは、竜淵洞遺跡などで伴出する燕の貨幣・明刀銭から知られる。これら鉄器類の器種・形式も燕の鉄器文化に近似する。この鉄器文化は半島中南部へは、前二〜一世紀を通じて次第に普及していったとされる(武田幸男編『朝鮮史』)。そうすると、海を渡って日本列島に伝わるのは、それより少し遅いということになる。 また、古市古墳群にある津堂城山古墳は、前期末ないし中期初の巨大古墳であるが、私は倭建命の陵墓に擬している(『巨大古墳と古代王統譜』)。そうでない場合でも、当時の大王関係者の陵墓とみられており、一辺17Mの方墳状の特殊な施設には、巨大な水鳥形埴輪三体が配されている。この水鳥はおそらく白鳥ではなかろうか。さらに、多鈕細文鏡については、次の人骨に関連して記述する。 C人骨等……弥生人の人骨等であり、この関係は、専門とする埴原和郎氏等の見解*29を踏まえて記述することにしたい。それに拠ると、金関丈夫氏は1950年以降、山口県豊浦郡豊北町の土井ヶ浜、佐賀県神崎郡東脊振村(現・吉野ヶ里町)の三津永田という弥生遺跡から発掘された人骨が、北方モンゴロイドに近い特徴をもっていることに注目し、弥生時代に朝鮮北部から渡来した集団があったことを、ほぼ完全に実証したと記される。この人骨の特徴は、身長が高く、顔が扁平で面長であり、特異な列石等を伴うとされる。埴原氏の分析では、さらに北方の北蒙古・中国東北地方・バイカル湖以東のシベリアに住む典型的な北方民族(新モンゴロイド)に極めて近いといわれるが*30、この地域には、狭義の蒙古系民族やツングースなど多くの民族が住んでいた。これらの事情を踏まえて、縄文人を土台として、これに渡来系の北東アジア民族の影響を受けるという、いわば二重構造が日本人の特徴を形成していると、氏は考えている。 1976年には、韓国の釜山付近の礼安里という遺跡から、日本の弥生・古墳時代に相当する人骨が発見され、そのデータは土井ヶ浜人・三津人と酷似することが分かり、骨の例は少数であったが、土井ヶ浜人・三津人は渡来人そのものであったかもしれない、とも埴原氏は記す。しかし、礼安里遺跡から出土した人骨は、かなり新しい四〜七世紀のものであることが明らかになってきたともいわれる。 これらの見解に対して、私見を記してみる。本稿では詳細は記せないが、これら遺跡は天孫族の移遷の経路(筑後川中流域から関門海峡を通じ、日本海沿岸を経て出雲方面へ)の上にあり、出土した人骨は天孫族関係集団の構成員のものではなかろうか。ただし、同集団内で通婚すれば、形質が変わらないことを考えると、同族内通婚が継続したり集団がかなり大きい場合には、日本列島渡来後に数世代を経ている可能性も考えられるので、土井ヶ浜の例はこのケースではなかろうか。ここの人骨は箱式石棺に入れられたものもあり、約三百体のなかには、胸の上に鵜を抱く形で鉄製の副葬品をもって埋葬された巫女の遺骸(第一号人骨)も見られて、鳥トーテムの関係でも留意される。土井ヶ浜が面する響灘に浮かぶ蓋井島には、盆になると鳥形の船で魂を西の海に送る風習があるといわれる。弥生期の遺跡からは、鳥形の木製品がしばしば出土しており(朝鮮半島でも同様)、また、鳥の姿をした司祭者が描かれた土器もあるという。 土井ヶ浜遺跡の南方約三十キロには、弥生中期の梶栗浜遺跡(下関市安岡)があり、箱式石棺のなかに多鈕細文鏡・細型銅剣など大陸系の遺物が入って出土したことで有名である。これまで九基の箱式石棺等が確認され、副葬品として銅剣・銅鏡・管玉が見られる。その近隣には蒲生野・熊野という地名や、「アヤ・アラ」に由来しそうな綾羅木・穴門も見える。この綾羅木川の流域と周辺台地の地域を支配したのが穴門直践立の一族であったとみられ*31、そこには長門最大の仁馬山古墳(全長74Mの前方後円墳)のほか、多くの古墳群がある。住吉三神の託宣により、韓地征討に功績のあったその荒魂を、践立が神主となって当地の山田邑に祀ったことが、神功皇后摂政前紀に見える。これが式内の住吉坐荒御魂神社(現・住吉神社)であるが、同社(長門一の宮)及び近隣の忌宮神社(二の宮)では、特殊神事「スホウテー(数方庭)」があり、竹竿の頭に羽根を挿し鈴をつけた道具を用いる風習がある。このような竹竿は、朝鮮半島の「鳥杆」(杆頭に木製の鳥をつけて寺院の入口等に立てられ、ソッテーなどと呼ばれた)や「蘇塗」(大木に鈴鼓を懸けて鬼神を祀った)につながる。 穴門国造の系譜は、「国造本紀」には桜井田部連と同祖と見えるくらいであるが、具体的には鍛冶神天目一箇命の後裔で天孫族の三上祝の一族であった*32。なお、鳥杆に似たものが、佐賀県神埼郡千代田町の託田西分遺跡で見つかっている。 多鈕鏡*33は漢式鏡とは異なり、朝鮮北部を中心に中国東北・沿海州及び日本に分布する。その祖型は中国東北地方にあり、遼寧省朝陽十二台営子ではこの地特有の遼寧式銅剣とともに勾連文三鈕鏡を出土した。多鈕粗文鏡は、遼寧式銅剣より発展して朝鮮独自の武器となった細形銅剣・天河石製飾玉・小銅鐸を伴うといわれ、粗文鏡より発展した精文鏡の段階で日本に現れる。朝鮮半島と同様、細形銅剣・細形銅矛・細形銅戈を伴うことが多い。わが国ではこれまで八例の出土があって、福岡市西区の吉武高木遺跡や佐賀県唐津市の宇木汲田遺跡などあげられる。 とくに吉武一帯は日向峠・飯盛山の東麓、室見川西岸に位置し、天孫・瓊瓊杵尊が降臨した「日向」に含まれたとみられる地域にある。この早良平野には野方久保など域内にまんべんなく青銅器の出土が見られて、唐津や福岡平野のそれと匹敵し、糸島平野を凌ぐほどである*34。高木遺跡の三号木棺墓(俗に早良王墓という)は多鈕細文鏡とともに細形銅剣・細形銅矛・細形銅戈など三種神器原型の出土もある。わが国の多鈕細文鏡副葬の時期は、弥生中期初頭頃とされており、これらを主として天孫族が朝鮮半島からもたらしたとしたら、その渡来時期は弥生中期頃ということになる。 D言語……日本語の成立・源流についての研究から、日本人の起源を説明することは相当に難解であるし、ここで簡単に記述することも難しい。そのため、岸本通夫氏の「比較言語学入門」(『古代の東アジア世界』に所収)や大野晋氏などの研究等を踏まえて考察した結果を、一応の試論としての概要だけ記しておきたい。 すなわち、日本語の基層としては、オーストロネシア語系とかクメール語系(南方語系)、タイ語系(江南語系)及びアルタイ語系(ツングース諸語)などがあったようであり、前三者ないし二者の語彙をもつ民族群がアルタイ語系の文法をもつ民族に服属したことも考えられる。語順などの文法では、アルタイ語族系の影響力の強さがうかがわれる。また、喜田貞吉博士等は、他に類似なしといわれる日本語数詞が、高句麗の数詞と殆ど同一であって、比較的近い親類であるとみている。さらに、前三〜二世紀に始まる支石墓の南下が、満州の遼東地区から朝鮮半島を経て北九州に至る地域のアルタイ語化を顕わしているのではないか、という見方もある。 こうした関係で管見に入った重要な指摘を、次に紹介しておきたい。 村山七郎氏は、「下層言語は時間的により古い層であり、これに対して上層言語はより新しい層であって、文法面において、下層のそれよりもその存在が鮮明である、と一般にいえると思う」「語彙の面からみれば日本語は南島語とツングース語との混合言語といえるが、名詞の格変化、動詞の活用形の細部において、日本語はツングース・満州語と共通性をもっている。そこで、日本語は南島語要素を下層としてツングース語要素を上層とする重層言語と規定することができる」と記している(「日本語の系統」『日本民族と日本文化』1989年刊、山川出版社)。 大野晋氏も、「国家体制をつくり上げたのは、弥生時代に朝鮮を経たアルタイ系の言語を使う種族であった。この人々の言語が第三次の日本語を形成し、それはまた日本の上層部に母音調和を持ち込んだ」と記述している(『日本語の世界1 日本語の成立』1980年刊、中央公論社)。 江上博士の提起した騎馬民族説について、様々な角度から概観的に検討を加えてきたが、多くの否定論や猛烈な個人攻撃にかかわらず、むしろ多くの点で、有力な部族が上古に大陸方面から渡来してきて政治支配的な力を列島内に強く及ぼしたという可能性が相当程度に高いことを認識せざるをえない。 なかでも、天孫族の鉄鍛冶部族性・鳥トーテム、敬天シャーマニズム・太陽神信仰と天降り神話(この神話に見える多くの要素)、姉妹婚・嫂婚制、支石墓、言語の構造などの諸点に、東北アジアに分布した民族との共通点が顕著である。これら全てが文化伝播であったのだろうか。田中勝也氏は、古代日本を形づくった人々の間に、北方・遊牧民系の習俗(アンダ〔義兄弟〕の習俗など)が根強く存在したと指摘する(『環東シナ海の神話学』)。神話・伝承などから渡来部族の系統を考えると、父系は東夷系(鳥トーテム)の色彩が強く、母系には北狄系(熊トーテム)の血もかなり濃く入っていたのではなかろうか。そこには、犬狼トーテムや竜蛇トーテムは殆ど見られないことにも留意したい。 以上の検討を総合的に考えてみると、東北アジアの特徴を顕著にもつ東夷系の種族が日本列島に渡来して支配層となったと考えるほうが、自然であろう。 ただ、その渡来・移動の時期については、考古学界からの批判が強い西暦四世紀は、取り得ないことを再三述べてきた。わが国における支石墓築造の時期は、一般に紀元前の時期とみられているようであり、姉妹婚・嫂婚制についても、記紀では神武朝及びそれより前の日向三代の時期に既に見えている。前掲のアンダの習俗は、天照大神と素盞嗚神との天安河の誓約にも類似例が見られるといわれる。石田英一郎氏も、日本民族文化における基本的な内容は、大部分、「魏志倭人伝」に記述される時代には完成していたとみている*35。 これらの事情や天皇家系譜の年代論等からいって、江上説よりも遥かに早い時期(具体的な検討を要するが、弥生中期頃で、おそらく西紀一世紀代)の渡来を強く示唆するものであろう。 関連する山崎仁礼男氏の記述を引用させていただくと、「これらの諸家−形質人類学・言語学・照葉樹林帯論者・文化人類学−の見解は、いずれも、古冢(弥生)期に朝鮮半島からツングース系の相当の渡来人が来て、日本文化に「何かが起こった」ことは確実な史実としているのです。しかし、肝心の古代史学・考古学では、この様子が皆無なのです」ということになる(『新・騎馬民族征服王朝説』)。このような差異や間隙について、古代史学・考古学が埋める努力を怠っているといえるのではなかろうか。 なお、弥生期の段階で半島から渡来してきた民族がいた場合には、それが東夷ないしツングース族と同系であっても既に騎馬民族化していたこと(さらには、騎馬部隊で到来したこと)は、きわめて考え難いことである*36。 〔註〕 *17 日本古代の考古学的文化が「縄文−弥生−古墳」と連続的に発展したとみる前提で、列島外部からの大量移住や侵入者による征服がわが国の文化発展に著しい寄与はなかったというのが考古学者の常識であり、現在でも同様である、と穴沢光氏は記す(「騎馬民族はやってきたのか」『争点日本の歴史2』1900年)。 しかし、これは戦前の考古学の知見(及びマルクス主義史観)を基にしたもので、こうした考えが戦後の多くの発掘発見からみて成り立つとは到底思われない。日本人が数多の異なる民族が長期のうちに渾然融合してでき上がった複成民族である(喜田博士)と認めるときには、縄文以降の内在的発展は考えられない。文化的にも身体・骨格的にも、縄文と弥生の間に明らかに断絶があり、考古学的に連続性が認められるのは弥生後期ないし末期以降ではなかろうか。 なお、「民族移動や移住を考古学的に立証することは以前考えられていたほど容易ではない」と穴沢氏は記すが、一方、これを考古学的に否定することも同様である。考古学の知見からだけでは様々な限界があることも、強く認識されるべきであろう。 *18 拙稿「邪馬台国東遷はなかった」(『季刊/古代史の海』第20・21号)を参照。 *19 現在、中国には55の少数民族が居住しており、様々な習俗・文化を伝えるが、具体的には『概説 中国の少数民族』(馬寅主編、君島久子監訳。1987年、三省堂)、『稲を伝えた民族』(萩原秀三郎著。1987年、雄山閣)、『中国西南の少数民族』(古島琴子著。1987、サイマル出版会)等を参照されたい。 *20 袁珂『中国の神話伝説』。水上静夫氏も、同様に「およそ神話や伝説というものは、人間の実際の社会的生活の反映が多く、古代の社会的状勢の直接の投影に過ぎない」とし、聖化・美化された部分を排除して「本源を窺うと、案外と生々しい当時の様相が判明するのである」と記述する。 *21 朝鮮半島におけるソシモリ(牛頭、牛首)については、中国神話上の炎帝神農氏が人身牛頭の薬神・太陽神であり、素戔嗚尊が牛頭天王と称されたこと等と関係しよう(なお、少彦名神は薬神とされる)。「牛頭」という地名は、江原道春川の牛頭山ほか、慶尚北道の慶州・金泉、慶尚南道の陜川・居昌、江原道の原州、咸鏡南道の甲山、全羅南道の光州に合計八箇所ある、と朴成壽氏が指摘する(「牛頭山と素戔嗚」『古代海人の謎』)。氏の指摘には、いくつか興味深い点があり、それをあげておくと、 @春川の清平山南方に牛頭大村があるが、これが貊国の昔の都邑地である、 A牛頭山は最高の山、山のなかの山という意味で、具体的には白頭山(太白山)を指すが、その一名を根山、阿斯達ともいう。 なお、太白山(太伯山)や白岳山阿斯達は、桓雄や檀君に関係深い地名であることに留意される。伽耶の安羅の付近にも牛頭山があり、これは慶尚南道の伽耶山(標高1430M)のことである。このほか、『三国史記』には新羅の牛頭州(巻二)、楽浪牛頭山城(巻二十三)、『書紀』欽明13年条に「新羅之牛頭方」の記事があり、そのうち後二者は平壌ないしソウルの付近とみられる。 また、クマナリ(熊川、熊津)については、伽耶の地に慶尚南道昌原郡熊川面(現・鎮海市熊川で、金海の西南近隣の海岸部にあり、原三国時代の主要遺跡がある)があり、また、百済の都の熊津は現・忠清南道公州となっているなど、半島内にはいくつか該当地名もある。 *22 鳥と鍛冶との関係については、田村克己「鍛冶屋と鉄の文化」(『日本文化の探求・鉄』1974年、社会思想社)等に見える。八幡神と新羅の昔脱解とがつながる可能性は、三品彰英氏が『増補 日鮮神話伝説の研究』で指摘される。 *23 『姓氏録』には嵩山忌寸を名乗る氏が左京諸蕃に二系統あげられており、この孟氏・張氏ともに、姫姓周王朝一族の末裔と称した者が名乗った氏であった。すなわち、現代中国の『姓氏詞典』(王万邦、河南人民出版社)等に拠ると、孟氏は姫姓魯王室一族の孟孫氏(魯桓公の子の慶父の後裔)に出、張氏は姫姓晋王室一族から出た戦国七雄の一、韓王家と同祖(晋の荘伯の弟・韓万が祖)といい、祖の張開地は韓の昭王〜襄哀王の相であった。 張氏には、五帝の一にもあげられる少昊金天氏(少昊青陽氏)の後で、弓正(弓矢の管理責任者)の職にあった者の後裔という系統もあって、総じて東夷系統の諸族・諸氏には、金氏(新羅王家の慶州金氏も含む)など少昊金天氏の後と称するものが多かったことに留意したい。少昊の「昊」とは、「太陽のかがやく大空の意」とされる(『新字源』)。少昊は東方の海上に赴いてその臣僚百官が全て鳥という国を建てたといい、西方の故郷に帰るときに人面鳥身の子を残したと伝え、また、北方の海のはてには「一目国」という少昊後裔の国もあったといわれる。『逸周書』にも、少昊が鳥師に任ぜられたとしているとのことであり、日本の少彦名神が鳥取部・弓削部の祖とされることに相通じる。後漢の『説文』では、帝少を姓としており、そうすると秦や趙、、徐なども、東夷の系統とされることになるが、秦にも鳥首人身の祖や卵生伝承が見られて、鳥トーテムが濃厚である。本文に記した鳥官をもつ子国は、『左氏伝』に見える山東の夷系の国であり、また、『博物志』には徐(前掲のように、秦と同祖)の偃王にも感生帝説話(卵生伝承)があったことを記す。 *24 姫姓周王朝の出自・系統については、神話伝承が乏しいため判断がつきにくい面もあるが、帝の正妃たる姜原が巨人の足跡を踏んだことで妊娠して生んだ子・棄(后稷)が祖と伝え、この巨人は熊の意とみられているので、その場合は白川静氏がいう北狄系は妥当か。その一方、周の始祖后稷は帝高辛氏(少昊の子か孫)の子とされ、この帝は帝舜と異名同神であり、ともに岳山に葬るとも伝えることを氏は記すので、むしろ東夷系としたほうがよさそうでもある。私はトーテム等からみて、東夷は西戎に由来し、北狄は南蛮の源流にあるのではないかと考えている。 なお、中国古代王朝の系統について白川説とは異なる見方もあり、例えば、岡田英弘氏は、夏は東夷、殷は北狄、周と秦は西戎とみている(『世界史の誕生』)。総じて、白川説が妥当か。 *25 韓国の建国始祖の卵生の神話伝承について、三品彰英氏はその著作『日鮮神話の研究』等で、南方地方の影響を受けたもの、南方型(北方型の天孫降臨に対比するもの)と主張したが、これは疑問が大きい。たしかに、大林太良氏が『アジア歴史事典』神話伝承の項で記すように、東南アジアではビルマ・タイやインドネシア諸列島、中国南部の地域で卵生神話が広く見られるが、これらを伝えた民族が最初からこの地域に住んでいたわけでもない。また、その卵生神話の全てが同じ系統の神話とも限らない。現在は南方に居住のビルマ族やタイ族は、大陸北方起源とみられており(タイ族系の中国少数民族もいくつかいる)、本文に記すように、天と鳥とは密接に関連しているので、韓国については北方型とみるべきであろう。 *26 水上静夫『中国古代王朝消滅の謎』(1992年、雄山閣) *27 上鑵子遺跡・瀬ノ尾遺跡など鳥人や鳥関係の記述等で、中村俊介著『古代学最前線』(1998年、海鳥社)に多くの教示・示唆を得た。 *28 三上氏の別論考は「日本国家=文化の起源に関する二つの立場−天皇族は騎馬民族か−」。初出は『歴史評論』第四巻第六号、1950年、後に『論集日本文化の起源2』(平凡社)に所収。 *29 人骨についての埴原和郎氏の記述は、主に「日本人の起源とその形成」(『日本古代史1 日本人の誕生』)に拠る。また、「民族移動と日本人のルーツ」(『騎馬民族の謎』所収、1992年、学生社)という論考で、基本的に江上説に賛成といい、江上説とは時期がずれるかもしれないが、まず東南アジア系の人々がいて、その上に北アジア系(ツングース系)の人々がかぶってきたと記述している。これはほぼ妥当な見解であろう。 *30 埴原氏のほか、土井ヶ浜遺跡人類学ミュージアム館長の松下孝幸氏の見解も興味深い。松下氏は、「土井ヶ浜弥生人のほうは、山東半島およびその北側の吉林省や黒竜江省、朝鮮半島からロシアの沿海州あたりから渡来した可能性がある」とみているが(『日本人と弥生人』1994年、祥伝社)、その一方、「人骨の形態的な研究では、ヒトの渡来を論じることはもはや不可能である」とも記している(「人骨から見た騎馬民族と原日本人」、前掲『歴史と旅』誌に所収)。これらの分析等からみて、渡来があった場合には、おそらく朝鮮半島北部から中国東北地方にかけての地域を経て来たのではなかろうか。 本稿の記述では、土井ヶ浜遺跡関係の記述で松下氏の著書・論考を種々参考にさせていただいた。このほか、吉野ヶ里遺跡の周辺地域からは、三津永田、志波屋六本松乙、朝日北、二塚山、詫田西分貝塚人など、弥生人骨が続々と出土したという記述もある。ただ、氏が土井ヶ浜の人骨を前一世紀頃と考えているのは、時代が古すぎるのではなかろうか。 *31 豊浦郡の綾羅木川の流域を中心に穴門直践立一族が支配したとみるのは、伊藤彰氏の見解(『日本の神々2』住吉神社の項)である。これは妥当な見解で、践立の後裔は山田大宮司として永く住吉坐荒御魂神社(現・住吉神社)を奉斎した。この付近には四世紀中頃から五世紀前半にかけての古墳が集中し、仁馬山古墳は四世紀後葉の築造とみられているから、践立か近親の墳墓とみられる。 *32 穴門国造の系図については、『姓氏家系大辞典』ナガト条・アナト条や拙著『古代氏族系図集成』を参照されたい。そこには、天目一箇命を遠祖とする歴代が記載される。 *33 多鈕鏡については、『日本歴史大辞典』(1985年、河出書房新社)の下條信行氏執筆の記事等に拠る。 *34 吉武高木遺跡や早良平野等の弥生遺跡については、高倉洋彰氏の「筑紫の弥生遺跡」(毎日グラフ別冊『古代史を歩く3 筑紫』)。 *35 石田英一郎「日本民族の形成」。初出『日本のあけぼの−建国と紀元をめぐって−』1959年、のち『論集騎馬民族征服王朝説』に所収。また、後出の書に所収される後藤守一氏の「上代における貴族社会の出現」では、三種の神器等の事情から見て、皇室やそれをめぐる貴族の発生は弥生式文化時代にあり、と考えている。 *36 白川静氏は、中国などの神話を分析したうえで、騎馬民族説について、「わが国にローマ的、あるいはノルマン的征服が行なわれたとみるべき徴証は、何もない。文化領域的にみても、文化集合体としても、北方騎馬族との関係は何ら本質的なものではない」と記述される。 ただ、その直後に続けられる白川氏の文章が、「論者の主張するような社会構造や氏族の編成、王権の継承とその儀礼というような主軸的な問題については、そう容易に移植しうるものではない。またそれらの継承関係は、みだりに断絶し、変更しうるものでもない」と言うのであれば、これは、むしろ騎馬民族説を肯定するか、あるいは北方系民族の渡来のほうに考えるべきではなかろうか。たしかに、文化の波動(伝播)がそのまま民族の移動に外ならないというわけではなく、民族移動については十分慎重に考える必要もある。しかし少なくともわが国の事例については、「わが国における降臨神話の成立の時期は、古墳時代より遠く遡りうるものではないとされている」という白川氏の基礎認識が、その全体的な判断を誤らせているのではないか、そのように、私には思われる。 (各論に続く予定だが、現在未掲載) |
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