御井神の系譜
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一 はじめに
鶴岡八幡宮が発行する季刊誌『悠久』第98号には、齋藤盛之氏が執筆して、「古社ノオト」のノオトその三で、「多数の神が坐す古社」を取り上げておられるが、そのなかに興味深い記事があったので、これに触発されて私なりに検討を加えてみたのが本テーマである。 その古社とは、「五座社」にあげられる和泉の積川(つがわ)神社であり、祭神がイクイ(生井)神など五柱とされているが、それが御井神と深い関係をもつわけである。
日本神話には「御井神」という水利を所管するとみられる神がいる。『書紀』には見えず、『古事記』にのみ見えて、同書では、大国主神と稲羽の八上比売との間の子神とされる「木俣神」の別名と記されている。
とすると、この系譜では、出雲神(海神族とされるが、検討を要する)の系統に属する神ということになり、当初、私もそのように思い込んでいたが、この神の分布を見ると、こうした理解は疑問と感じざるをえない。このことは、かって拙稿「卑弥呼冢補論」にも若干記したので、そちらも併せて参照されたい。
二 御井神の性格
御井神の性格については、『神道大辞典』の説明が総じて適切なようであり、その命名の由来を「処々に井を作りて民利を起し給へる功徳あるに依るものか。また座摩神五座のうち、生井・栄井・綱長井三神の汎称とも云はる」とされる。すなわち、生井・栄井(福井)・綱長井の三神とは、その実、御井神一神ということでもあろう。因みに、座摩神五座のうち、他の二神とは波比伎神・阿須波神であり、この二神も『古事記』では大年神が天知泓ャ美豆比売を娶って生んだ九神のなかに竈神二神・大山咋神らと並んであげられるから、この記事に拠る限り、やはり出雲神(一般に海神族とされることが多い)の系統に属する神ということになる。 しかし、座摩五神は大宮地の霊であり、本来、天孫族系統の部族・氏族が奉斎する神であった。そのことは、祈年祭祝詞のなかに座摩の御巫の皇神として宮中に祀られており、座摩五神を祀る坐摩神社は摂津国西成郡渡辺(現在は大阪市中央区久太郎四丁目渡辺に遷座)に鎮座して代々、天孫族系統の凡河内国造一族などの奉斎するところであったことから知られる。波比伎神・阿須波神と兄弟にあげられる大山咋神とは、山末之大主神ともいわれ、近江の日枝山(日吉神社)に坐すとともに山城葛野の松尾(松尾神社)に坐す鳴鏑の矢をもつ神で、鴨県主一族が奉斎する神であった。山城鴨は天神とされ、天孫族系統の氏族である。そして、座摩五神のうち、「井」に関係する三神がその実、一神であれば、波比伎神・阿須波神の二神のほうも同様に一神であって、こちらは御井神と同神か近親神ではないかと考えざるをえない。
三 積川神社の奉斎氏族
座摩五神は越前の足羽山の足羽神社にも鎮座し、それに因って福井(=栄井)の地名が生じたものでもあるが、畿内では和泉国和泉郡の式内社積川神社でも祀られていたことは、最初に挙げた。この積川神社の奉斎氏族は何であったろうかとの疑問もここに生じる。 積川神社の氏地は、和泉郡のうち旧山直上村・山直下村・八木村・北掃守村の四ヶ村であり、その鎮座地はいま泉南郡山直町域にあるから、ごく素直に考えて、山直(ヤマノアタヒ)氏が奉斎氏族ということになる。八木村・北掃守村は、海神族の八木造及び掃守造の古代の居住地であり、八木造一族の氏神である布留多摩命(海神和多罪豊玉彦命の子)を祀る夜疑神社が岸和田市中井町に鎮座している事情にもある。山直氏とは、天孫族系統の出雲国造の支族であり、泉南に遷住してきたものである。積川神社の近隣には、同じく式内社の山直神社(同市内畑町に鎮座)も鎮座する。
『姓氏録』和泉神別には「山直」をあげて、「天穂日命十七世孫日古曽乃己呂命の後なり」とあり、承和三年十二月艪ノは「和泉国人右大史正六位上山直池作、弟池永等、本居を改めて左京五条に貫付す」、同六年十一月艪ノは兄弟が山宿禰姓を賜ったが、その先は天穂日命の後より出ると記されている。 この一族の系譜は、鈴木真年翁編の『諸系譜』『百家系図稿』などに見えており、それらに拠ると、出雲国造の祖・伊佐我命の兄弟に当たる伊勢都彦命(出雲建子命。実際には甥とするのが妥当か)が神武朝に東国に遷住し、その後裔で武蔵国造等の祖・忍立化多比命や新治国造の祖・比奈良珠命の兄弟に当たるのが日古曽乃己呂命であって、その子の大中伊志治命が播磨の山直の祖であった。大中伊志治命については、『播磨国風土記』賀古郡条に見えて、景行天皇朝の人で賀毛郡の山直の祖で「息長命、又名伊志治」とある。その十四世孫が上記の池作・池永兄弟であって、池作の子孫は代々左右の史官を務め、その四世孫の文宗は、『政事要略』廿五に記載の天暦五年十月一日太政官符に右少史正六位上山直(ママ)文宗として見えている。
和泉の隣国摂津の山直は、別の流れであって、『姓氏録』には天御影命十一世孫山代根子の後とあり、また物部連一族には長谷山直(大和神別)もあった。天御影命は三上祝・凡河内国造・山代国造等の祖であった。
実は、凡河内国造も出雲国造も物部連も皆同族で鍛冶部族であり、天孫族高木神(高魂命)の子の天津彦根命(天若日子)を遠祖とする系譜をもっていた。出雲国造の実際の祖神は天穂日命ではないこと、出雲国造と物部連とは同族であったことは、拙稿「出雲国造家の起源−天穂日命は出雲国造の祖か?」(『季刊/古代史の海』第22号(2000/12)に掲載)で記述したとこである。
四 御井神の分布
さて、こうした観点から御井神と御井・三井の地名の分布を見ると、なかなか面白い事情が各地で見て取れる。そうしたものをアトランダムで挙げてみると、次のようなものがある。 1 出雲国出雲(簸川)郡直江村には式内の御井神社が鎮座し、八上媛の出産伝承とともにその産湯として生井(安産の水神)・福井(産児幸福の水神)・綱長井(産児寿命の水神)の三つの井戸が使われたとされる。同国には秋鹿郡の式内社としても御井神社がある。
2 近江の三上祝は、天津彦根命系統の嫡流的な存在であったが、その支族蒲生稲置の領域に「三井」の地名が残り、中世の三井氏(その後が伊勢出自の豪商越後屋三井家)がこの地に起こった。同国志賀郡の三井寺(園城寺)は日吉神社(大山咋神と妃鴨玉依姫神を祀り、鴨県主一族の祝部が奉斎)と密接な関係にあった。 3 東山道の美濃には御井神社の分布が顕著であり、とくに各務(稲葉)郡三井郷及び養老郡多芸村金屋に式内社の御井神社が鎮座するが、前者は物部連一族の三野後国造・村国連の領域であり、後者からは同じ一族の物部多芸連が起こっている。 各務は鏡であり、金屋といい、鍛冶部族に関係する地名でもある。
4 大和の宇陀郡檜牧に御井神社があり、宇陀主水部・宇陀県主の奉斎を受けた。これら一族の系譜は不詳であるが、主水部の職掌をもつ鴨県主と同族であったかと推される。「檜」は肥伊であり、火であった。 5 讃岐の多度郡にも三井郷があったが、伊勢国桑名郡の古社である多度神社は、天津彦根命を祀り三上祝の一族桑名首が奉斎した。 6 但馬国養父郡の式内社・御井神社(兵庫県養父郡大屋町宮本)も祭神は御井神であるが、他に大屋比古命・大屋比売命を祭神に追加する説がある。氏子に大屋谷十二ヶ村等があり、かって岩井牛頭天王といった。素盞嗚尊の子で木に関係する神として大屋比古命がおり、またの名を五十猛命とされる。同国には気多郡にも式内の御井神社がある。 7 五十猛神を祭る紀伊の伊太祁曽神社の摂社には、元宮かとも思われる御井神社がある。 8 周防の熊毛郡光井邑は、天孫族系統の周防国造の本拠地域にあった。 9 なお、御井神は、「大井神」とも密接な関係があったようで、上記秋鹿郡には式内の大井神社もあって、熊野大神の朝夕の御食を献ずる地に存したとされる。 丹波国桑田郡、とくに亀山市には大山咋命を祀る松尾神社、その妻神市杵島姫と御井神を祀るという大井神社、五十猛神を祀る伊達神社が鎮座することに留意される。この大井神社は洛西松尾大社から大堰川を遡上した地にあるが、洛西にも同名社が嵯峨渡月橋の近くにあり、大堰川の守り神で、乙訓郡式内社の大井神社の後裔社であろうとみられている。筑後の御井郡にも大堰神社(大刀洗町冨多)があり、もと水神社といったが、近隣の久留米市には有名な水天宮があり、筑後川の水神であった。
五 筑後の御井郡
問題は筑後国御井郡である。 この地域には古来の著名な「井」があり、高良大社には至聖の霊地が三か所あったといわれるが、この地域こそ日本列島の地名「御井(三井)」の源流であり、天孫族系統の部族が中心となって建てた邪馬台国の本拠地であった。そして、この地域が記紀神話の「高天原」で、高木神が主宰神であった。同地の名山高良山には古社の高良神社が鎮座し、高良玉垂命を主神として八幡大神なども祀ってきた。高良とは、「高+羅(朝鮮語の国・地域の意)」で、すなわち高の国である。御井郡には、この地の地主神で高牟礼神(同、牟礼は村の意)とも高魂命ともいう祭神を祀る高樹神社のほか、式内社として伊勢天照御祖神社もあった。
こうしてみると、「御井」「高」という固有名詞には、天孫族の五十猛神・高魂命の系統に密接な関係があったことが分かる。「御井神」の名ににもっとも相応しいのは高木神となろう。
太田亮博士は、筑後平原を天孫族の物部氏族の起源の地とし、高良社はその氏神とみており、私もこれは基本的に妥当な見解とみている。というのは、高良玉垂神か近親神に比定される「天明玉命(玉祖神)=天目一箇命(鉄鍛冶神で、天津彦根命の子神)の父」こそ、物部氏族の遠祖神とみているからである。高良内町には赤星神社・富松神社があって弦田物部の祖・天津赤星を祀り、近くには物部祖神・経津主神(これも実体は天目一箇命か)を祀る楫取神社もあり、これら物部系の小社の中心が高良大社とされる。
筑紫君磐井の乱にあたって、物部の族長たる麁鹿火大連が討伐に向かったのも、こうした背景があったものとみられる。物部連一族には水取連がいたこと(『姓氏録』)にも留意されるが、美濃の水取部も同族であろう。 以上見てきたように、御井神の実体は、やはり、高木神(皇室や物部氏族等天孫系氏族の遠祖)ではないかとみられる。同神は、朝鮮半島からわが国・日本列島に渡って来て樹木の種をもたらしたとされる五十猛神の子神とされるが、御井神のまたの名が木俣神というのも、こうした系譜に由来するものであろう。天孫族の奉斎する素盞嗚神とは、五十猛神・熊野神のことであり、この神のときに天孫族は韓地から日本列島に渡来してきたものであった。その時期は、西暦一世紀の中葉頃までではなかったかと推される。
御井神の父神については、「延喜式注」のいう素盞嗚神ではなく、『古事記』では大国主神と記すことは上述した。この関係についていえば、大国主神の異名として掲げられる「八千矛神」とは、本来、素盞嗚神ないし五十猛神(射楯神)であり、また八幡神にも通じるものであるが、これが大国主神の異名と混同された結果、御井神(木俣神)が大国主神の子神とされたのではないか、とみられるのである。
「波比伎神・阿須波神」については、拙稿「波比伎神の実体」をネット上のHPに掲載しているので、これをご覧いただきたい。
六 結論 (附・三星堆の神樹)
座摩五神とは、以上の検討の結果、「波比伎神・阿須波神」は二神一体で五十猛神、「生井神・栄井神・綱長井神」は三神一体で御井神すなわち高木神ということになり、両者は親子で皇祖神に位置づけられる。 樹木の神は、樹木を涵養する水(井泉)の神でもあり、樹木に宿る鳥の神であり、また東海に生える伝説の「扶桑」の神樹なら、天帝の子の十個の太陽の住処で太陽神に通じる。帝堯の時代に天空に現れた十個の太陽は、酷暑に苦しむ人々を救うため、弓の名手(ゲイ)によりその九個が射落とされたが、その実体は三本足で黄金色の烏であったと中国神話に伝える。熊野神の使いである三本足の烏「熊野烏」は、神武東征の先導を務めたという伝説の「八咫烏」のこととされ、鴨県主の祖・鴨健角身命に比定される。熊野神については、素盞嗚神(五十猛神のこと)とされ、紀伊で奉斎したのは物部連一族の熊野国造や穂積臣であり、出雲では出雲国造が奉斎した。
古来、太陽神「天照大神」は男性で、高木神の息子神であったが、これが後になって女性に転訛したのは太陽神の巫女で女王たる卑弥呼の影響があったのだろうか。
なお、上記「神樹」について付言しておく。
中国人研究家の徐朝龍氏は、長江上流の中国四川省の三星堆遺跡から出土した樹木状の巨大な青銅器(「神樹」という)こそ、『山海経』に見える「扶桑」を象ったものであるとする。神樹は太陽が宿る樹であり、これは太陽信仰の証しとされる。三星堆遺跡の文明を担ったとみられるのが古代の羌族(あるいはその同族の族)であり、わが国の天孫族もこの系統を引くものであった。
出土した巨大な神樹には、九羽の鳥がとまっており、一羽が天空を運行中とされるが、林巳奈夫氏著『中国古代の神がみ』によると、この鳥は体型的にイヌワシ(鳥類の王者といわれるタカ科の大型ワシ)とされる。そして、イヌワシ形の火の神は竈神であったとのことである。徐朝龍氏は、これを「カラス」と表現しているが、いずれにせよ、これら鳥類である。 蜀・三星堆の初代王といわれるのが「蚕叢」であるが、養蚕を発明し「民に蚕桑を教えた」(馮堅『続事始』)ことから「蚕の神」として尊ばれた。わが国にも蚕神がおり、山城国葛野郡の式内社、木島坐天照御魂神社(京都市右京区太秦森ケ東町)の境内に蚕養神社(いわゆる「蚕の社」)がある。丹波国桑田郡の大原社も蚕飼いするものの信仰する神社といい、これら神社は、当初鴨一族葛野県主が奉斎し、遷住してきた秦氏も蚕養神社を奉斎したものであろう。木島坐天照御魂神社がその名の通り太陽神奉斎であれば、有名な「三柱の鳥居」は三本足の烏や神樹の根本が三つに分かれていることに通じるものであろう。この鳥居には、方位的に太陽祭祀の意味が読みとれるとされる。また、陸奥の会津郡式内社として蚕養国神社、常陸国筑波郡にも蚕飼神社があるが、ともに三上氏族系の国造たちの奉斎にかかるものであったとみられる。上記「蚕叢」の後となる「柏灌」(川鵜を指すか)、「魚鳧」(ぎょふ。魚鳧とは川鵜か鴨のような水鳥を指すか)という三星堆の王を表す青銅鳥頭の黄金の杖も出土した。
天孫族が鍛冶部族で鷹・白鳥・烏などの鳥トーテムとも関係深く、この流れを引く者の名前などに「三、五、八」という数字が頻出すること(上記のほか、崇神の名の五十瓊殖〔イニエ〕、垂仁の同・五十狭茅〔イサチ〕、景行の同・五十瓊敷〔イニシキ〕、成務の同・五百城〔イホキ〕など)に留意される。この部族は、中原の西北方にあたる黄河上中流域の森林牧草地帯にその遠い故地を有し、そこで牧羊をしていた。それが山西→山東→遼西→朝鮮半島という経路で日本列島に入って来ても、先祖以来の習俗・地名(羌族の聖地たる「嵩山」など)を伝えてきたのである。
(04.9.19 掲上) |
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