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 考古学者の古墳年代観 2

 
  4 白石説の検討など

  先に都出氏の紹介する白石太一郎氏の見解をあげたが、白石氏の記述を、前掲「近畿における古墳の年代」(1979年)等の論考・著作に基づき、もう少し詳しく見てみよう。幸い、白石氏はこれまで発表した諸論考を『古墳と古墳群の研究』という著書に整理して、2000年9月に刊行されており、また『古墳の語る古代史』(同年11月)、『古墳とヤマト政権』(1999年4月)等の最近の著作も多い。
  その結論は、「箸墓古墳に代表される定型化した大型前方後円墳の出現年代は、おそらく卑弥呼の没年より十年あまり遅れる」が、この成立が、「邪馬台国連合の変質、すなわちヤマト政権成立という大きな画期と対応するもの」と理解される、とのことである*17
 
  白石氏の古墳年代論は、小林行雄氏の修正論であり、小林説とは三角縁神獣鏡の同范鏡による古墳年代論であったと記す。その内容は、「現在の応神・仁徳陵の比定を間違いないものとして、古墳時代中期初頭の年代を五世紀初頭とし、そこから古墳時代前期の始まりは四世紀初頭を大きくさかのぼりえないとするものであった」と記す。この説においては、「三角縁神獣鏡の同范鏡を分有する古墳のうちで最も古い古墳と最も新しい古墳の年代差が一世紀には至らない」という想定があった、と紹介する。
  しかし、小林氏の前提には伝世鏡論などで大きな問題があったと考え、辛亥(471年)銘をもつ稲荷山鉄剣などから須恵器等を含めて、古墳年代の再検討を行い、その結果、中期の始まりが四世紀後半に遡ること、さらに弥生時代後期が二世紀及びそれ以前であることなどから、古墳の出現が三世紀後半に遡ることを主張した、とのことである。
  従来、多くの研究者が出現期古墳の年代想定に規準としたのは、椿井大塚山古墳で出土した鏡群であり、当初、白石氏の三世紀後半説もこれに基づいていたが、三角縁神獣鏡のなかには景初三年(239)や正始元年(240)の銘をもつものが含まれることから、「一・二期の三角縁神獣鏡しかもたない前半期の古墳については、その造営年代が三世紀中葉すぎまでさかのぼる可能性が大きくなってきたのである」と記される。
 
  次に、年輪年代法による研究成果にもふれられ、白石氏はこれにかなりの信頼性をおかれるが、これも主として三角縁神獣鏡の年代研究の成果に基づくものであろう*18。三角縁神獣鏡の疑問の大きさについては、既に述べたから、ここでは、年輪年代法も大きな疑問があることに触れておく(なお、C14法もほぼ同様である)。
 年輪年代法による遺跡・遺物の年代推定については、先にも少し触れたが、ただ一人の研究者が詳細な基礎データを示さず、誰も検証ができない同法の数値について、これをそのまま受け入れることの問題点は、既に何人かの指摘がある。この問題については、わが畏友・小林滋氏が『古代史の海』誌(第26・27号)に年輪年代法についての批判論考を掲載しているので、これをご覧いただきたい。
  彼との数十通にのぼる意見交換を通じて、本来の稿は膨大で、個別具体的な問題点をきわめて多数あげられることが分かった。それも、掲載量の制約から殆ど割愛して掲載の形となったものであるが、その綿密かつ科学的な考察を通じて、自然科学的手法の装いや奈文研という専門研究組織に対して先入観なく冷静かつ合理的に対処すべきことを強く教えられた。原理的に正しくとも、個別具体的に数値が正しいこととは別問題である。
  要は、少なくとも現段階(2020年に至っても)までの年輪年代法の研究成果は、個別の年代値算出の過程に大きな問題があり、信頼するに値しないものであって、古墳年代さらには弥生年代の繰上げの論拠には全くならないということである。にもかかわらず、最近、これに影響されて古墳年代の引上げ傾向を示す学説動向が顕著に見られるのは、どうしたものであろうか。どうして、考古学学界のいわゆる主流派は、考古年代の引上げに熱心なのか、私には理解に苦しむ。
 
  なお、白石氏の古墳年代論に関して、もう少し触れておくと、その掲載表では、大和の巨大古墳でも、箸墓と西殿塚だけを三世紀代後半に築造の古墳とする。この二巨大古墳を四世紀前葉という時期に位置を置き換えると、私見と概ね大差がなくなる。また、応神や仁徳の現陵墓治定を否定する見解が、森浩一氏の指摘以来現在ではかなり多い模様であるが、これだと古墳年代をむしろ引き下げる方向に働くものである。しかし、その論拠で埴輪・須恵器・副葬品などの枝葉部分のほうを重視する姿勢は疑問があり(相対的な編年は十分重視してよいと考えるが)、むしろ古墳本体の型式を取り上げて考えるべきであろう。応神陵・仁徳陵の年代引下げをした場合だと、これら巨大古墳の被葬者をいったい誰に比定するというのだろうか。『書紀』などの文献を考古学界のなかでは最も重視したはずの森浩一氏にあっては、矛盾する姿勢ではなかろうか。
  古墳の型式論から導かれる結論は、上田宏範氏にみるように、両巨大古墳の現治定を疑うものではない。野上丈助氏が様々な論拠を示していうように、応神天皇の陵墓はやはり現応神陵であり、記紀や倭五王に関する中国史書等から十分に再検討しても、小林行雄氏のいう現応神・仁徳陵の比定はやはり妥当だと考える*19
  要は応神・仁徳等の治世期間についての誤解が否定論の基礎にある。『書紀』の紀年論について、考古学界はもっと丁寧に的確な検討をすべきことは言うまでもない。
 
  更に、須恵器の初現時期を五世紀初頭ないし四世紀末葉まで遡る可能性が大きくなったこと、古墳時代中期の始まりが四世紀後半に遡ること、という白石氏の主張については、石野博信氏(『全国古墳編年集成』)と同様、私としてもあまり異議がない。
  私見を述べておくと、須恵器の初現も古墳時代中期の始まりも、ほぼ軌を一にして、370年代に始まる大和朝廷の朝鮮半島出兵とそれに続く一連の活発な対外活動により影響されたものだと考える。その意味で、「四世紀後半」という漠然とした年代ではなく、端的には380、90年代の頃を大きな境目としたほうが妥当であろう*20
 
  こうした「古墳時代中期」の開始時期について白石氏とほぼ同様な前提(私見のほうがまだ早いくらい)に立ちながら、古墳時代前期の開始をきわめて異なって考えるのは、「古墳時代前期」の期間をどのくらいの長さと捉えるかの違いである。
 古墳時代は、近藤義郎編の『前方後円墳集成』では十区分であり、そのうち最初の四期が古墳時代前期とされる。この一期分が私の考える“標準世代”の一世代(約25年)にほぼ相当するが、これを前提にして計算すれば、75年ほどにすぎない(巨大古墳の数等からみて、近藤氏の言う第一期と第二期は統合して実質的に一期とすべきものと私は考えており、その場合さらに短縮する)。
  これを、多数説は一・五倍〜二倍ほどに引き延ばしていることになる*21。ちなみに、国産の三角縁神獣鏡は、前期のうち後ろの50年ほどの期間内(4世紀の中葉頃)に配布・埋葬されたものであろう。次の古墳中期も、暦年代では五世紀中葉の終り頃まで(すなわち、雄略治世期は既に古墳時代後期ではないかとみる*22)、と私は考えるから、古墳前期とほぼ同様な長さの期間とみているわけである。
 
 
  5 その他年代繰上げの論−白崎説と三木説

  前項及び前々項では、都出・白石両氏の見解に主に反駁をしてきた。しかし、考古学界の古墳年代繰上げの趨勢は、両氏のあげる論拠だけにとどまらない。ここでは、その他の繰上げの論拠とされるものに対して補足的に検討を加えることにしたい。
 
  白崎昭一郎氏は、私信(平成13年8月)を通じご教示を受けたところでは、@古墳、A銅鏡、B土器、の諸点で年代繰上げの必要性を考えられるとのことである。私には、能力不足によるものか、その文意に理解が及ばない面もあるが、この辺をお断りしたうえで検討してみたい。
(1) まず、古墳の問題である。かっては、関東地方で古墳発掘をすると、畿内の古墳と似たところがあっても半世紀ほど引き下げて築造年代を考えたものだが、今は逆に神門三、四、五号墳の調査によりそれが三世紀ということになると、そのあとに続く古墳がなければならないということで、その結果、畿内の古墳の年代も上がってきた、と氏はいわれる。
  この「神門(ごうど)古墳」は、千葉県市原市の国分寺台にあり、1970年代に三基発見された。共伴した土器から、それらが「三世紀中頃〜後半」のもので東国最古の古墳と多くみられている。その形状は、円形の周溝墓に四角な部分がつき前方後円墳に近い形をしていて、まだ墳丘墓の段階だとみる説もかなりある。
  神門古墳群のなかでも神門四号墳(推定復元全長約50M弱)はとくに注目され、纒向型古墳の系列に入る前方後円墳に近い形で、特殊な祭祀施設を持ち、出土した土器は畿内系や東海西部系の要素が認められるとされる。その墳頂部出土の供献土器は、関東のどの前期古墳出土例よりも先行するものとされ、概ね廻間(はさま)2式4段階(布留0式への転換期頃)と併行かともいわれるから、土器に対するこの見方が正しければ、箸墓古墳の併行時期かその少し前にほぼ対応しよう。同墳は畿内の古墳要素と在地要素とが複合したものの模様である*23
  しかし、共伴する土器だけで三世紀中頃築造の古墳だとすることは、確定できない。すなわち、土器の編年も古墳編年同様、たいへん難しく、弥生式土器ないし古墳時代初期とされる土器だけで、古墳の築造年代が確定できるものではない。神門四号墳の出土土器が発掘者の田中新史氏により当初、庄内式古段階併行(庄内1式で、纏向2式にあたるか)、のち庄内式直前とみられて、その結果、築造年代が三世紀中葉頃と推定されるが*24、これは全くのトートロジーにすぎない(なお、墳型が纒向型というのも考慮されたか)。
  大塚初重氏は、上掲の土器型式について1986年刊行の『東国の古墳文化』では、「四世紀代の初頭に位置づけられるのではなかろうか」と記す。普通に考えれば、古墳や土器の関東伝播にも若干の時差がおかれよう。
 
  各地の前方後円墳の起りについては、畿内のヤマト王権の大王と何らかの従属関係があった(都出氏のいわゆる「前方後円墳体制」に通じるか)、と一般に考えられている。これに先立つとされる「纏向型」の前方後円墳*25でも同じで、寺沢薫氏は、「初期ヤマト政権の中枢たる纏向遺跡との政治的、祭祀的関係のもとに」、汎日本的に造営されたと考えている*26
  市原市の養老川下流北岸に位置する国分寺台の北方近隣、山田橋には、稲荷台一号墳(径約28Mの円墳)がある。その出土鉄剣に銀象嵌の「王賜」を含む十余の文字があることで有名であり、この「王」が畿内の大王の可能性は高いとみられる。銘文は数文字しか読めないが、稲荷台の首長が王の配下にあったことを意味しよう。同墳は須恵器・土師器や甲冑・鉄鏃等の出土遺物から五世紀中葉頃の築造とされるが、最近の須恵器年代観や木棺直葬からみて、もう少し繰り上げられる可能性がないだろうか。
 
  市原市の村田川から南の養老川にかけての地域は、古代の菊麻国造の領域であり、この国造は「国造本紀」に拠ると、「志賀高穴穂朝(成務)御代、无邪志(武蔵)国造祖兄多毛比命児大鹿国直定賜国造」と記事がある。市原・木更津の辺りは東京湾の交通・軍事的拠点として早くから中央政権が重視した地域であったと思われ(大塚初重氏に同旨*27)、そこに相模・上総(上海上)・武蔵の諸国造と同族という系譜の一族が勢力を持っても不思議ではない。
  菊麻国造は歴史に現れないようだが、実は『書紀』仲哀二年正月条に早くも登場する。すなわち、仲哀天皇の妃の一人、「来熊田造祖大酒主の女・弟媛」がそれであり、「来熊」(ククマ)が菊麻のことである*28。鈴木真年翁の『日本事物原始』によると、この大酒主とは大鹿国直と同人異名とされる。かって私は、「仲哀紀の来熊田造氏」(『姓氏と家紋』第52号、1988年)という論考を書いているが、大和朝廷の東国への勢力伸張が崇神朝に始まり、景行・成務朝頃(その時期は、私見では四世紀中葉頃)までには征服戦の一区切りがついて各地に国造が設置された、という記紀や風土記、国造本紀に記される事実は認めて良いと考えている。
 そうすると、問題の神門四号墳の築造時期は、私の年代観ではいくら遡らせても四世紀前葉であろうし、大和の纒向型古墳の年代も、多数説とは逆に引き下げられるべきものとなろう。
 
(2) 次に、銅鏡の話は、埋蔵までの期間をかなり長くおいてみたが、近頃は比較的短く見積もるようである、と氏は記される。
 これは一概に伝世鏡論をとらないということであれば、私としてもあまり異議はない。問題は銅鏡の実際の製作時期や製作地であり、鏡の種類や銘文だけに依拠する年代推定がそのまま信頼できるとは思われない。四国の高松市にある積石塚前方後円墳(墳丘墓)の鶴尾神社四号墳から出土した方格規矩四神鏡は、伝世鏡論のヒントになったものでもあるが、鏡が副葬された事情は個々の鏡や古墳によって違いがあろう。
  同墳は撥形の前方部をもち、椿井大塚山古墳と同じモデルに基づいて築かれたことは確かだと岩崎卓也氏が記述しており(『古墳の時代』1990年)、そうだとすると両者はほぼ同時期の築造とみられる。森浩一氏が具体例をあげるように、鏡は中国などの製作地において伝世したものもあろうし、日本でも埋蔵までの期間を昔は長くみたのが間違いだったとは、必ずしもいえないのではないか(一部、伝世した鏡もあった)、と思われる。
 
(3) 更に、土器編年の点であり、出土する土器が非常に多数で、かつ墳丘の多範囲に及んで、その編年の時間的な広がりが大きくなった、と白崎氏はいわれる。これについては、私はいわれる趣旨が良く理解できないが、相対編年の土器によって、具体的な古代の暦年代確定ができるとはとても思われない。
 
  三木太郎氏は、井原鑓溝遺跡出土の方格規矩鏡は明らかに王莽期の前漢末の製品であるから、「これを後漢鏡として推定された同遺跡は、当然のことながら、五〇年から一〇〇年は遡ることになり、それに接続する古墳年代も、同じ程度の幅で遡る」と記述される。
  しかし、このような論理がどうして通用するのだろうか。遺物そのものの年代が確定できたとしても、それが直ちに当該地に運ばれ、直ちに埋葬されるとは限らない。王莽期の貨泉でも、各地で発掘が進んできており、遙か後世に埋められた例がかなり呈示される*29。最古級の古墳の可能性があるといわれるとはいえ、岐阜市の観音山古墳(美濃観音寺山)から出土した方格規矩鏡(王莽鏡)もある。
  また、井原遺跡の年代自体が、具体的に西暦年号で指定できるとも思われない(古墳年代同様、きわめて困難であろう*30)。従って、直ちに井原遺跡の年代繰上げにもならないし、ましてや、古墳年代の繰上げにも結びつかない。北九州の個別の弥生遺跡と畿内の古墳文化とが、年代的に緊密に連絡するという議論はないはずである。
 
 
  6 まとめ

  ここまで見てきて、現在の古墳年代観の大勢が基礎としてきた三角縁神獣鏡魏鏡説や年輪年代法による算出数値が何ら依拠できないことが分かってくる。従って、古墳の立地と墳形、墳丘外表施設(葺石、埴輪)、埋葬施設、副葬品など多面的総合的に古墳の相対編年をしっかり行い、そのうえで様々な角度から十分に文献資料と突合して絶対編年(暦年代)を求めるべきであろう*31
  予断・思い込みにとらわれず、原点に戻って検討することである。誰が裸の王様であったかを拙稿「卑弥呼の冢補論」で示唆したつもりである。まともに考えて、文献研究者なら、「考古栄えて歴史滅ぶ」などとは恥ずかしくて言えるような話ではないが、考古学者のほうも、いつまでも「象牙の塔」に閉じこもっての唯我独尊ではなかろう。お互いにかみ合った討論のうえ、手を取り合って上古の歴史的事実の解明に向かうべきであり、そのためにも開かれた議論の場の設定が強く望まれる。
  なお、古墳年代の推定の基礎に立って、その被葬者の比定もなされのが望ましいが、乏しい文献史料のなか、不明で残る点も多いと思われる。その場合、記紀など各種文献を合理的に的確に把握して行うことが必要とされる。

  応神天皇より前の古代諸天皇や記紀の記事を簡単に切り捨てる津田博士の論法では、古墳被葬者の比定などできるはずがない。あのような「厳密な史料批判」とは到底、言えないような「造作論」「反映論」を振り回すのはもう止めて、予断なく冷静・合理的に各種文献を総合的に把握したうえで行うのが妥当である。
 ちなみに、大きな歴史の流れを踏まえ、記紀登場人物やその関係者の「5W1H」を具体的に検討していくと、津田史学が切り捨てた倭建命・武内宿祢や成務天皇、神功皇后(ただし、仲哀天皇の皇后ではなく、成務皇后の日葉酢媛に相当する)は、確固たる存在として実在することが分かる。彼らの実在性を否定する論者は、年代論など総合的な検討を抜きにして思込み・信念で論じているにすぎない(神功皇后については、詳細は拙著『神功皇后と天日矛の伝承』をご参照)。
 
  本稿には、読み方によっては多分に刺激的、挑発的な表現が多いのかもしれない。それは、いわゆる考古学専門家の顰蹙を買うのを承知のうえで、自己の主張(学界大勢に「後ろ向き」ではなく、学界動向にむしろ先行するものと認識する)をはっきりさせるため、また何らかの討論が起きることを期待して、曖昧な表現を避けたことに因るものである。ただ、考古学関連の書・論考をかなり読み込んだつもりでいても、管見に入らなかった研究・論考もまだ多く、種々のご指摘をいただく部分もあろう。また、説明が簡略にすぎるため、ご理解いただけない部分もあるかもしれない。本稿は試みとしての問題提起であり、諸賢兄のご教示を得て、書直しができることをむしろ期待するものでもある。
  そうした条件のものではあるが、私が言いたかったのは、主義・教条にせよ学問にせよ、人間不在のもの(人間性を欠如したもの、歴史事件関係者の人間関係を無視したもの)は砂上の楼閣に過ぎず、いつかは崩壊する、ということである。「殷鑑遠からず」とは、新入生であった頃、職場の大先輩から良くいわれた言葉である。それが、河南省安陽の殷墟の地に現実に立って身近に実感したものでもあった。そして、いま視野を東アジアにまで拡げれば、2020年にあっては、殷王統に先行するのではないかとみられる中国・陝西省のシーマオ遺跡や寨山遺跡などの発掘調査が進んできており、それに連れて、新しい考古事実も次々に提示されてきている。



 〔註2〕 
 
*17 箸墓古墳の規模からみて、都出比呂志氏も「権力の成熟度を如実に示す」と考えており(「日本古代の国家系正論序説」『日本史研究』第三四三号、1991年)、部族(国家)の連合という性格をもつとは考えられない。その意味で、「連合の変質」という観点は重要である。だいたい、「政治連合」という弱い政治形態で、日本列島広域が武力を背景に纏まるとは考えられない。
私は、「連合」という語よりも、軍事のもとでの「統合」というほうが妥当と考えるが、学者によっては、「連合」に「従属・連合」の意味を含めて用いる人も見られる。

*18 白石氏は、総合的・長期的な暦年代観を樹立することや、文献史料と考古学的な相対的編年研究とが相互補足的な役割を果たすことの必要性を説くが、これ自体はまったく異議がない。とは言うものの、実際には白石氏の前期古墳年代観の主な根拠が三角縁神獣鏡魏鏡説であることに疑問を強く感じる。これが倭鏡だと判じた時に、どのような考古年代観になるのであろうか。

*19 野上丈助氏の「応神天皇の陵墓は「応神陵」か」(『歴史読本』臨時増刊、1986年)。白石氏も応神陵は現治定で妥当だとみるが、その治世を通説(井上光貞説)により考えて四世紀の370〜90年とし、従来の応神陵の見方を25〜50年繰り上げて四世紀末葉の築造、仁徳天皇も五世紀初頭の人とみる。しかし、この井上説の年代観への疑問は本文で記した。
  記紀等に記載の応神以降の王統譜は基本的に問題なく、倭五王の記事等からみて倭讃にあたる仁徳の治世は430年代迄であり、現・仁徳陵の否定はできない。都出氏も史料批判のうえ両陵を肯定される。

*20 白石氏の古墳年代論(1979年当時)では、中期の開始時期を「四世紀末〜五世紀初頭」としており、その初頭期に仲津媛陵古墳・巣山古墳・室宮山古墳をあげる。
しかし、これら古墳については、私見のほうが更に早い時期を考えている。具体的には、巣山古墳は埴輪編年からみて前期古墳であり、白石氏も最近は前期とする。残り二墳は380、90年代の築造かもしれないが、その前後の幅を考えたほうもよいか。
森浩一氏は、第一期前半の須恵器は南鮮海岸地域に分布する金海式土器と器形や製作法が酷似すると指摘する(「日本の古代文化」)。

*21 白石氏は、大王陵が古市古墳群に出現する以前の時期で、大王級の超大型前方後円墳が大和に九基(?。十基か)もあって、それぞれ時期差があることから、大和の大型古墳の出現が三世紀代に遡る可能性の強さを指摘した。
これに対し、甘粕健氏は、男王・女王の共同統治から考え、大和の前期の巨大古墳10が男王・女王の二基の古墳が対になって一世代の王墓を形成し、実際には五ないし六世代の王墓であって、前期を五十〜百年未満(≒15年×5ないし6世代)だと考え、この時点では、最古の古墳の出現期を四世紀初頭か三世紀末頃と考えた(「古墳の形成と技術の発達」『岩波講座 日本歴史1』1975年)。ただし、後になって甘粕氏は、出現期についての考えを改め、三角縁神獣鏡を基礎に三世紀中葉頃とした。私としては、甘粕氏の「一世代」は「一代」とし、この一代は古代天皇の平均在位期間約12年としたほうが妥当と考える(従って、計算では「≒約12年×5代」)。
白石氏は、「男女一対」の甘粕見解を苦しい解釈と評するが、私は具体的に被葬者比定を考えた過程を通じて、甘粕見解のほうを妥当と考える。遺骨鑑定で女性被葬者が明確になった熊本県宇土市・向野田古墳の例もある。もっといえば、男女一対のほか、一世代には男王が複数いた例が多く(古代雄族との世代比較により、具体的には垂仁と景行、仲哀と応神が一世代)、応神の世代の僅か三世代前が崇神の世代に当たる(崇神〜成務で合計が三世代ということ)。従って、最大で三世代×25年ほど(古墳築造の間隔を考えれば、二世代×約25年+α)という計算となる。
また、古墳規模だけで大王墓かどうかの判断はできない、前期の巨大古墳10のなかには大王ではない重要な巫女や近親王族、重臣の権力者の例も含まれる、と私は考える。現治定や所伝等で、女性が巨大古墳の被葬者とされる事情も無視しがたい。森浩一氏も、大王に近い王族も巨大古墳の被葬者の可能性がある、と記される(『記紀の考古学』)。

*22 私見とほぼ同旨なのが山内紀嗣氏で、その論考「横穴式石室の成立」(『倭王と古墳の謎』学生社、1994年)では、河内大塚山古墳が雄略にふさわしい規模であり、同墳が本当に横穴式石室を主体部としているならば、日本の天皇のなかで最初にこの型式を導入したのが雄略ではないかと憶測している、と記される。傾聴すべき見解とみられる。

*23 小林三郎氏の「関東の古墳と地域首長の成立」(『新版古代の日本8関東』角川書店、1992年)。氏は、「神門古墳にみる関東の初期古墳の前兆は、まさに周溝墓から古墳への大きな変革」で、「そこには西日本の影響による古墳成立要素と、在地勢力のなかから成長・発展した要素との両面をみることができる」と記述される。

*24 田中新史氏の「神門三・四・五号墳と古墳の出現」(『邪馬台国時代の東日本』六興出版、1991年)。
田中氏は、「三〜五号墳を三世紀中葉前後の短期間(約半世紀)とみる最近の私見に対する異論は聞かない」と記述されるが、庄内式の実年代についての見方が古墳出現期の見方に依存していることを忘れてはならない。また、三〜五号墳出土の土器も廻間2式とみる見解のほうが強いように思われ、総じて田中説は年代を遡らせ過ぎるとみられる。

*25 「纏向型」の前方後円墳は、一般に箸中山古墳よりも先行するとされるが、果たしてそうであろうか。箸中山古墳を実は崇神陵とみる私見では、纏向遺跡あたりに最初の大規模宮都(磯城瑞籬宮)をおいたこと、同墳以前に築造されたという大王陵が見あたらないこと、などの事情からみて、纏向型の古墳(墳丘墓)は同墳とほぼ併行する時期か、先行した場合でもさほど早い時期ではないと考える。
森浩一氏も、「箸墓古墳を盟主として、陪墳的な五基の中型〜小型の前方後円墳」という表現をしている(『記紀の考古学』)。近藤義郎氏も同様であり、古くみて箸墓古墳築造の時、多くは築造後間もない時期の所産とみられる(「箸墓古墳研究の現状」、北日本新聞1995年4月2日朝刊)。こうした場合、土器では纏向3式と庄内3式(布留0式)、廻間2式が併行となろう。

 *26 寺沢薫氏の「纏向型前方後円墳の築造」(同志社大学考古学シリーズW、1988年)。

*27 大塚初重氏の『東国の古墳文化』。大塚氏は、木更津市小浜の手古塚古墳(全長60Mの前方後円墳)から国産の三角縁神獣鏡や典型的な布留式土器の甕などが出土しており、さらに同市太田の鳥越古墳(全長約25Mの前方後円墳)は方格規矩鏡・玉類・鉄器などを出土していて、手古塚に先行する可能性があると記される。

*28 仲哀妃となった弟媛の叔父、五十狭茅宿禰(上海上国造の祖)は神功皇后征韓に供奉し、のちに仲哀天皇の子の香坂皇子・忍熊皇子兄弟に味方して応神(皇位簒奪者)と戦い、敗れて死んでいる(『書紀』神功元年二月・三月条)。

*29 森浩一氏は、貨泉は製作期間が比較的限定されることで、遺跡の実年代決定資料として重視されてきたが、最近の中国での考古学の発達に伴い、後漢代はもとより東晋の頃の遺跡まで出土報告があり、「貨泉の示す考古学的年代とはいっても、正式流通期間と非正式流通期間も考慮にいれておく必要がある」と記述される(「巨大古墳出現への力」『日本の古代5 前方後円墳の世紀』1986年)。大塚初重等編『日本考古学用語辞典』でも、貨泉は日本列島で30余ヵ所で発見されるが、弥生後期と中世の遺跡が多いと記される。

*30 白石氏も、「弥生時代後期の暦年代を直接中国鏡から求めることが困難である」と例をあげて説明し、佐原真氏の弥生時代終末の暦年代を決める材料は弥生文化の側にはないという見解も紹介する(「弥生・古墳時代の暦年代」、『古墳と古墳群の研究』所収)。

*31 白石氏は、「実際の年代想定作業で強く要請されるのは、一面的・部分的な年代比定をさけ、その前後の時期をも含めて合理的な説明のつく、総合的・長期的な暦年代観を樹立することである」(「弥生・古墳時代の暦年代」)、文献史料が「純粋に考古学的な相対的編年研究とともに相互補足的な役割をはたしあって、より正確な年代観が組み立てられなければならない」(「記・紀および延喜式にみられる陵墓の記載について」)と記される。
  
              (了。2002年1月上旬に記、後に2020.11.08などに若干修正)

  (2004.6.13 掲上し、その後も補訂あり)
  

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