前へ


           考古学者の古墳年代観

                             宝賀 寿男

 
                           
  1 はじめに−多少の随想

  顧みると昭和四十年前半から三十余年にわたり(本稿掲上時の年数。現在では約50年)、古代史や考古学の進展を見てきたが、この関係の多くの研究者のうち、白崎昭一郎氏や三木太郎氏はその検討や見解が傾聴すべき数少ない研究者として、私は敬意を払ってきた。白崎氏の『東アジアの中の邪馬臺国』『広開土王碑文の研究』、三木氏の『魏志倭人伝の研究』『倭人伝の用語の研究』は多くの有益な示唆を与える著作として、読むたびに新しく検討課題を教わり、その学恩を深く感じるものである。
  さて、『季刊/古代史の海』第26号には、拙稿についての三木氏の評が記載されているが、そのなかに、当初、一読して意味が分からなかった部分があった。それは、「白崎氏が、宝賀氏の古墳四世紀説を時代に逆行されるものと批判されたのは妥当」という行である。具体的には、そのなかの表現「時代に逆行」の意味であり、普通に受け取れば、やや大仰な表現ではあるまいか。あたかも、昔の感覚なら「大逆罪」を宣告されたような、いまどきなら「皇国史観」を信じ込み鼓吹したような評価である(なお、白崎氏のもとの表現は、「学界の大勢に対し後ろ向き」ということであり、やや意味合いは弱いが、三木氏のように受け取られても仕方がない面もあるのだろう)。
 
  しかし、果たして真意はそうだったのだろうか、……。少し考えて、あんな偉い先生たちが、時代とともに必ず学問的進歩があるとか、多数説がいつも正しいというような「事大的」な価値判断を良しとする学問姿勢であるわけがない、また、そう受けとられるような表現をするはずがない。
  きっと別の意味があるのだろう。すなわち、「世(時代)におもねず衆(多数)にへつらわず」、自己の学問的良心に従って常に批判的・懐疑的な姿勢を安定して保ち、合理的・多角的・総合的な見地から冷静かつ着実に研究を重ねていくことが科学的な歴史研究の基礎となるものだ、と私は信じるからである。いわゆる定説・通説が新知見により覆った例は多数挙げられるし、いかなる説にせよ、おかしいと思ったら、まず十分に検討を加えるのが学問の基本であろう。あるいは上記の「時代」は「事大」の誤変換なのか(そう願いたい感もある)。
  いずれにせよ、三木氏からの「励ましの言葉」と受け取るのが妥当であろうと考えたいものである。
 
  いまから25年前(1977年のこと。本論考が当初発表された時期を基準)の春四月、花開き砂塵舞う中国・西安の飛行場に降り立ったことを思い出す。文化大革命や天安門事件の後あまり日が経っていないこともあって、西安の街は文化面では殆ど騒がれずにいた。そうしたなか、なんの仕切りもしておらず極く平凡そうな小高い丘のように見えた「秦始皇」(中国での表現)の陵墓には、日本の巨大古墳と異なり、偉容感を与えるものは殆どなかった。
 ガイドの許しを得て、その秦始皇陵に直に歩いて上がり、頂上から周りを見渡しても、誰からも何の注意も払われなかった。大量の兵馬俑が出土する前の時期のことである。楊貴妃が浸かったという華清池の温泉源はまだ枯れずに残っているという呼込みに釣られ、当時の値段で三元(当時の換算価格で日本円約450円相当。因みに、今は一元=約15円)を払って、一人悠々と温泉風呂で寛いだのも、懐かしい。今の中国と比べると、文化面でも、あるいは人心といい経済といい、遙か悠久の月日が光速の如く通り過ぎたようでもある。僅か四半世紀のなかでの急激な変化の実感を誰が忘れようか。
 中国の政治・社会体制を取り上げても、確固として見えた「共産主義」の壁が崩壊して初めて分かることもある。当時、世界の資本主義は社会主義の過程を経て着実に共産主義に向かう、と進歩的学者に理解されていたのではなかったのか。「社会主義の過程にある」と当時の中国でも喧伝された、その中国に二年間現実に暮らしていてさえ、昨今の資本主義への道のりに向かって実は進んでいた!、などとは夢にも思わなかった。当時の中国各地での熱病のような「走資派」批判は何だったのか。最今の中国社会の歩みは、果たして退歩なのか進歩なのだろうか。
 
  日本の古代史学・考古学とその関連分野でも、近年の急激な変化は同様であった。戦後になってからタブーが解かれて多数の発見・発掘があり、様々な知識の集積が大きいことは誰の目にも明確である。しかし、それは、これらが有効かつ有機的に利用され学問の進歩に結びついたのか、そのことを直ちに意味するものではない。各分野で狭い専門化が急速に進展しただけ(研究のタコ壷化の進展?)、総合的に歴史の流れを捉える均衡感覚が衰えているのではないか、とすら感じられる。学生の受験技術が向上しても、総合的な知識水準が上って学問が進歩したのではないことは、わが国社会を見れば一目瞭然である。歴史学・考古学と共通している事情もあろう。
  考古学分野では、知見急増の事情を受けて従来の通説・年代観の再検討がなされた。そのなかで、古墳・土器等の年代観が総じて繰上げ傾向を示すとともに、考古学界では邪馬台国畿内説が大多数となっているとされるのは周知の事実であろう。是非はともかく、九州在住の研究者ですら、畿内説を採る者が圧倒的多数であるとさえ、関係者のなかでいわれてきた。文献学者においては、さすがにこんな極端な傾向を示していないのが、救いといえば救いである(問題は、それ以上に沈滞化が進むようでもある)。
  しかし、数の多さや声の大きさ、あるいは学問権威的な存在の言動が、歴史的事実を決定するものではない。なによりも重要なのは、現在までの考古学的知見だけでは、弥生期・古墳期の具体的な年代決定ができないという限界があることである(今後ともそうであろう)。記紀などわが国文献を全く顧慮せずに、不確かな外国文献*1のみを頼りにした研究手法では、体系的な考古年代も古墳被葬者も確定できないはずである。そして、こうした認識に考古学者が乏しいことである。
  わが国の考古学者は決して歴史学者ではない、ということでもある。そうした考古学者が、人間行動と歴史的事件の集積である歴史、とくに日本の上古史・古代史を「人間無視(不在)のまま」書きうるのかという問題にもなる*2
 
  「現代のわが国考古学者」と総じて言うことには、多分に問題があろう。しかし、著名な考古学者の著作をいくつか取り上げて見ても、記紀・神祇・祭祀・習俗、地名学・古代暦・氏族そして東アジアの関連する様々な歴史事情などについての無視・無知は、かなり甚だしい感がある。ましてや、数学・統計学という自然科学系の学問に至っては、何をかいわんやというところであろう。津田史学(及び亜流)の「古色蒼然とした結論」を自分の手で具体的に検証せず鵜呑みで依拠して、そこに新しい考古学的発見を当てはめるのは時代感覚が全くズレている。そうした考古学研究者がいくら大勢集まっても、「群□象を撫づ」(※□は敢えて伏せ字)に過ぎず、北東アジア史の大きな流れのなかでの日本古代史の諸問題について、総合的整合的体系的に的確な結論がでてくるとは到底思われない*3
  考古学者のなかでは記紀に最も親しんでいるような森浩一氏の『神話の考古学』『記紀の考古学』を読んでみても、考古学分野では多くの卓見を随想的に示めされるものの(きちんとした考古学論考を適宜、遺してほしかった気持ちがある)、それでも記紀関係の理解はかなりもの足らない気もする*4。神武東遷の出発地「日向」が宮崎県だという認識など、疑問を抱く部分がいくつかあるからである。ましてや、記紀等わが国文献を頭から排除して取り上げようともしない他の考古学研究者では!、である(これが津田博士の説に拠るのだとしたら、津田説の結論では、邪馬台国は北九州にあったとされる)。
 それでは、最も重要な外国文献たる『魏志倭人伝』などはどうかというと、この取扱いにしてもやはり疑問が大きい。そのことは、先の拙稿「卑弥呼の冢」で取り上げたような冢の規模、殉死等の問題をみても分かる。そして、卑弥呼が朝貢した魏王朝の当時の「薄葬令」すらまったく無視して、大きな予断のもとで卑弥呼の墳墓を比定しようとする。こんな視野狭窄の研究姿勢で考古学は良いのだろうか。
 
  旧石器捏造の問題に限らず、考古学を職業ないし専門とされる人々の間で、十分な議論・討論もせず、仲間内だけの認識で年代繰上げを営々と続けてきたのが戦後の考古学の特徴ではなかったのか。問題は藤村捏造事件に見られる「旧石器」に限定されるのだろうかという指摘も、このところ散見する。学問の進歩と共に様々な学際が生じてきて、多くの学問交流が進んだ当今、考古学のあり方は珍しい存在である。これでは、「考古学は科学になれるか?」(ネット上のわが国最大の某掲示板での人気スレッドの名。本来は旧石器・縄文期を扱う)と揶揄されても不思議ではない。
  これまで具体的な基礎データを示さず一切の検証(験証)を拒んできた年輪年代法の結論的な年代数値が、現代考古学の常識の一端であるのなら、わが国の「考古学者の常識は科学者の非常識」とでもいわざるを得ない(2023年現在までも、奈文研はその基礎データの公開を拒んでいる)。ブラックボックス的に出てきた試算数値が何かの数値に偶々合致・符合したからといって、安易にこれを採用するのは、学問的姿勢の放棄にすぎないのではないか。紀元前の日本列島南方で、鬼界カルデラの大爆発約7300年前ともいう)という異常自然現象が起きて、その噴出灰が宮城県あたりまで及んだとされるから、その後の長い期間、日本列島全体の炭素濃度が異常な状態にあったはずで、そんなときに年輪年代法による機械的な算出数値が適正なものを示すのだろうか。それをどのように補正(較正)できるのか。これが、根本的な疑問である。
  こんな「学問」が科学的手法として通用するのなら、わが国の経済社会同様、厳しい「構造改革」の対象にされるべきものであろう。こうした流れの基礎には、マスコミ関係者の過剰な思入れ加担もあろう。しかし、主な責任がどの分野にあるかは改めて指摘するまでもなかろう。
 
 
  2 古墳年代についての通説的説明

  随想的な前書きが長くなったが、そろそろ、本題に入ろう。
 
  古代史や考古学関係の多くの書・論考を見ると、従来、古墳の発生ないし成立の時期について諸説あることが分かる。海外の中国から比較的中立的にわが国考古学界の動向を見ていた王金林氏の整理によると、1980年代の半ば頃では、「意見はまだ統一されていないが、三世紀の終わりか、四世紀の初めには古墳がすでにあったことについては一致している」とのことであり、その代表的な学者として小林行雄・直木孝次郎氏の説をあげる(同著『古代の日本』191頁)。
  個別の古墳の築造年代については、この通説を基礎において年代設定がなされてきた模様であり、体系的で具体的な個別年代の説明は、戦後の1960年代以降では、小林氏以外の誰からも殆どなされなかった、という趣旨を白石太一郎氏もいわれる。ここでも、検証抜きで考古年代の議論が進み、曖昧なかたちで多数意見が形成されてきたことになる。こんな状態にある多数説なら、批判や異論提起(保持)の対象に十分なりえよう。
 
  どこかに古墳年代の体系的な説明がないだろうかと探したところ、都出比呂志氏が日本考古学協会の場で陳述したものが「古墳時代イメージの革新」として整理され、『日本考古学を見直す』という書(2000年4月、学生社)として刊行されていた*5
  そのなかで、都出氏は過去五〇年間の古墳時代研究の成果として、三つの話題を取り上げ、その第一として、「古墳時代の始まりの年代観が五〇年前と現在では少し変わってきたこと。前方後円墳の大きなものが出現する年代は三世紀の半ばごろであろうと今の私は考えておりますが、そのように考えるようになった最近の状況をひとつは話してみたい」と記述される。この著名な考古学者の記述を、先ず検討させていただくこととしたい。
  なお、ここまで「古墳」という語を所与的に使ってきたが、その定義は人によって違うといわれるものの(纏向型前方後円墳から古墳時代が始まるとみる説もあるが、この辺が一つの基準か)、都出氏同様、箸墓古墳のような巨大で定型的な前方後円墳の登場時期について、検討を加えるものである。
 都出氏の記述を踏まえその要点を私なりに整理して、まず記させていただく。
 
(1) これまでの長い期間の通説としての小林行雄説の説明
  巨大な前方後円墳の開始時期についての通説は三世紀末であるということで、小林行雄氏がきちんとした手続きを示して提案した。これが高校教科書の検定基準にもなって、「三世紀末から四世紀初」と書くことになっている。小林説の根拠は大きく二つあって、@伝崇神陵古墳(たんに「崇神陵古墳」とも、「伝」や「現」を冠したりする。具体的には、纏向の行燈山古墳を指す)、A三角縁神獣鏡の伝世論、とされる(『古墳時代の研究』1961年、等)。
 
@ 伝崇神陵古墳……現治定の同墳を崇神天皇の陵墓と考え、その没年は『古事記』の崩年干支の戊寅を西暦換算して318年説をとる。ところが、同墳は型式としては発達した完成されたタイプのもので、ほかに最古の前方後円墳があり、それが四世紀初よりほぼ一世代(約30年)前の頃として、三世紀末に古墳の始まりを考えた。
A 三角縁神獣鏡の伝世論……椿井大塚山古墳を最古の古墳の候補としてとらえ、その副葬品で多量出土の三角縁神獣鏡が卑弥呼の頃の魏鏡であって、ほぼ一世代の伝世を経て、初期大和王権から下賜され副葬されたと考えた。
  この@及びAの事情、すなわち、卑弥呼の死亡から30年、伝崇神陵が築造された時よりも20〜30年前という、「ふたつの年代の間のサンドイッチ法による推定から古墳出現年代を280年頃」だと小林氏が考えた、と記述される。
 
(2) 白石太一郎氏の見解……小林氏の伝世鏡論は疑問だとして再検討。250年頃に倭地にもたらされた鏡が畿内に一括秘蔵され、三世紀末以後に各地の首長へ配布、さらに古墳に埋葬されたとするのは、苦しい論理だと批判して、三世紀後半の古墳発生を主張した(「近畿における古墳の年代」『考古学ジャーナル』164号、1979年)。詳細は後述
 
(3) 都出比呂志氏の修正案……伝世鏡論をとらず、三角縁神獣鏡の細分等により小林説を補強する。その根拠は大きくいって次の二つである。
@ 三角縁神獣鏡をT群からZ群までに細かく種類分けして、そのうちT群は最古で同向式であり(卑弥呼の鏡)、U・V群は型式の連続性からみてT群同様に魏鏡で、卑弥呼の没年である250年前後の時期までに製作・輸入されたと推測する。個々の古墳の年代は出土鏡の最も新しい製作年代より古くすることができないので、W群の鏡まで含む椿井大塚山古墳は最古級としても、それよりも古い可能性のある古墳(黒塚古墳等)がある、
A 三角縁神獣鏡のU群のもの(注:都出氏呈示の三角縁神獣鏡の分類表では、T群のみ出土の古墳はあげられない)を入手した三世紀半ばから暫くして前方後円墳が登場したということになると、卑弥呼の墓が前方後円墳である可能性が出てくる。結論的には、卑弥呼が巨大な前方後円墳に葬られていた可能性が年代的に高いと考え、彼女の死亡が節目となって前方後円墳の時代になった、と考える。すなわち、「卑弥呼の墓の造営以後は前方後円墳の時代になる、という考え方が成立しうる」と都出氏は結論づける。
 
  以上が多数説の概要である。これが金科玉条なら、なんと粗雑な論理が基礎にあるのであろうか、と私には思われる*6。要は、@三角縁神獣鏡魏鏡説、A「伝崇神陵古墳=崇神陵」とする見方、及び崇神の崩年干支の比定、更にはB卑弥呼墓が巨大古墳だという推測、が考古学界の多数説の古墳年代推定の基礎にあっただけである*7
  現在までの考古学の進展・成果を享受したうえ考えてみると、上記の三つの見解(@、A,B)は全て誤りだ、と私は考えている。従って、時代の流れとはいえ、考古学界の多数説に従わないのは、むしろ理の当然である。以下に、私見の概要を記述することとしたい。
 
 
  古墳年代についての私見(概要)

  考古学の専門家でもない私が、専門家の見解に対して自説を披瀝できることをまず感謝いたしたい。これも、戦後憲法下での学問研究の自由と知識の集積・公開のおかげであろうか。
  ここでは私見を記述するが、個別の問題点ごとに論ずるとそれぞれ相当な分量になるので、要点的に概要を記すこととしたい。なお、先に当『古代史の海』誌に発表した拙稿「卑弥呼の冢」等で具体的に論述した諸点もあるので、これら論考も参照されたい。
 
(1) 三角縁神獣鏡魏鏡説の是非
  三角縁神獣鏡が本場の中国や朝鮮半島では全く見つかっていない、という指摘が森浩一氏からなされたのが有名な1962年の論考「日本の古代文化−古墳文化の成立と発展の諸問題−」(『古代史講座』三)においてであり、その後既に40年(現在では70年)の歳月が経過している。考古学的な発見・発掘の著しい進展はひとりわが国ばかりではない。お隣の中国・朝鮮半島でもほぼ同様である。特に注意をもって三角縁神獣鏡が見られるようになって、それでも、相変わらず現在まで、大陸ではいまだ一枚たりとも発掘されていないという事実がある(一度、中国で発見されたという報道があって、日本からも研究者が訪れたことがあったが、出土状況などがまったく不明であって、後世の偽造品もどきではなかったろうか)。
  都出氏のいうT〜V群の三角縁神獣鏡が魏の時代にその領域で作られたのなら、いくら魏の時代が短く、その墓が少ないとしても、中国では、相変わらず出土皆無という状況はどうしたことであろう。中国の考古学者王仲殊氏も、日本鏡説で詳しい論拠を示される。これに対して、「特鋳鏡説」なども出されるが、いかにも便宜的で論拠のない想像論だと考えられる(白石氏も、四段階ほどの鏡とし半世紀ほどの製作期間からみて、特鋳説は成立しがたいと考える)。だいたい、考古学とは具体的な物に拠って成り立つ学問ではなかったのか*8
 
  最近では、森博達氏が三角縁神獣鏡銘文から魏鏡説に疑問を呈するなど、学界でも国産鏡説のほうが説得力を増し、多くなっている模様でもある(最近では、殆どの学者が国産説になっていると聞く)。その場合も論者により多少差異があり、私についていえば、全てが国産鏡だとみる説をとるものの、呉の工人が関与したかどうかは疑問もあり、三角縁神獣鏡のうち最古式のものの何らかの原型は卑弥呼の時代にその領域内で少数製作されたものではないかという可能性も多少は考えている(ただし、「伝世鏡論」は必ずしも採らず、U群と同時出土のT群の鏡は後代の畿内で倣製のものであろう)。
  卑弥呼の鏡が何かについては確定しがたいが、弥生期の出土品等から考えて、獣帯鏡・内行花文鏡あたりの型式のほうが可能性が高い(『古代史の海』誌第24号掲載の白井良彦論考でもほぼ同説)。椿井大塚山古墳が最古級の古墳という思込みは、三角縁神獣鏡からいっても土器等の出土品からいっても、もう放棄されるべきであり、現にそうなってきている。
 
(2) 崇神天皇の陵墓と崩年
 王権の及ぶ領域を、畿内から大きく日本列島内の主要部に拡大して、いわゆる大和朝廷(ヤマト王権)の基盤を確立した実質初代大王としての崇神(御間城入彦五十瓊殖)の存在を、私は否定するものではない。しかし、現在宮内庁がその陵墓として治定している行燈山古墳伝崇神陵古墳)を真の崇神陵だとは、まったく考えない。古来、崇神陵の比定については諸説の変遷があり、記紀あるいは『延喜式』の記述だけからでは決定しがたいものである。
 
  古墳型式・埴輪型式の変遷や崇神の宮都・磯城の水垣(瑞籬)宮の位置等から考えると、結論的にいえば、いわゆる“箸墓”としてしられる箸中山古墳が崇神陵に最も相応しい*9。同墳は形態や埴輪などから見て、わが国最古の巨大古墳だと、現在の考古学者の多くからみられており(異論もごく僅かあるものの、その論拠が弱い)、被葬者はともあれ、実質的なヤマト王権の初代大王の墳墓とみる見解も最近かなり見られる。
  ヤマト王権の初代大王が誰かというと、治績的に見て端的に言えば崇神天皇であり、その墳墓は宮都から遙か離れた天理市柳本町に築かれるよりも、宮都近くの箸中集落辺りに築いたほうがごく自然である。纏向遺跡の発掘が進むとともに、二つの大溝・導水施設など「水垣宮」の名に相応しい状況が分かってきており、その宮のピークの時期が箸中山古墳の築造時期と合致するとされる。同墳は後世まで祭祀の対象であったが、これは須恵器の甕の中に小型須恵器を入れたものが周濠の中島で出土した事情からも知られる。
  いわゆる「箸墓」については、崇神紀の倭迹迹日百襲姫命の陵墓記事を見ると、「葬於大市」(大市墓)とあり、これに相応しいのはむしろ西殿塚古墳のほうである*10。規模的にも、旭日の如き勢いにあったはずの大和朝廷の実質初代大王の墓が、いかに偉大だったにせよ、同時期の女性司祭者(巫女)のそれより小さいはずがない。百襲姫の『書紀』に見える活動だけで、箸墓のような巨大古墳が築かれるのだろうか。この辺は、「箸墓伝承」に囚われすぎというしかない。これが、上古代でも人間の常識というものであろう。
 
  また、崇神の崩年干支の具体的な比定は、ひとえに文献研究に因るはずのものである。そして、この適切な年代比定はできないと考えるのが妥当である。
 『古事記』の崩年干支の比定問題については、古くから論じられてきて、信頼性の点で大きな問題があることは確かであろう*11。仮に「戊寅」という崩年干支が信頼できるとしても、それが、具体的に258年か318年しか選択肢がないという訳でもない(いわゆる「倍数年暦論」で考えれば、比定年は不定と言うしかない)。『書紀』を仔細に見れば、少なくとも七世紀後半くらいまでいくつかの古代暦があり、その暦により干支の意味する具体年代が異なったことが分かる*12。友田吉之助氏の大作『日本書紀成立の研究』を読んでみられれば、暦や干支についての見方が変わるはずである。
  井上光貞氏は、崩年干支は不確かとして、これに拠る年代推定をやめて、別途に年代算出を考えている。すなわち、在位年代のほぼ確実にわかる応神天皇から世代をもとに逆算して、崇神を270〜290年頃の人とみている。しかし、この算定については、応神天皇の時代を370〜390年頃として、一世代20年、崇神を応神の五代前とする前提自体に問題が大きいと考える(それでも、極めてバラツキの多い「天皇一代」の治世年数を基礎とする推定よりは、生物学的にブレは少ない井上博士のみる治世時期は、総じて各々20年ずつ早すぎるとみられ、古代諸氏族の世代から考えると、崇神天皇は応神天皇の三世代前の天皇となるのが原態だ、と拙考ではみている)。

  私は、古代雄族諸氏の世代比較等から、これらに対応する計数を異なる形で考えており(具体的には、応神天皇の時代は390〜413年頃、一世代約25年、崇神を応神の三世代前の人)、崇神天皇の在位期間を315〜331年頃と推定している*13。出発点の小林行雄氏の崇神崩年でも、まだ年代の繰上げ過ぎということである。従って、崇神の陵墓が寿陵として築造されていたとしても、その完工は330年代前半ということになる。
 なお、安本美典氏は、行燈山古墳が崇神の真陵だとみて、これが四世紀後半の築造とみる斎藤忠氏の見解を踏襲するが、この考古年代観は明らかに誤りであり、ここでも安本年代観が破綻している。
 
  崇神の陵墓に先立つ可能性のある大王級の巨大古墳としては、それがあるとしたら、倭迹迹日百襲姫命の大市墓が考えられるのみであり(これも、おそらく無理か)、その場合でも、時期は崇神陵の築造時期をあまり遡らないと考えられる。そうすると、これも四世紀前葉のなかに収まることになる*14。巨大古墳の築造開始時期が三世紀中葉と考えるのは、計数的に根拠がなく、まったくの想像論にすぎない(三世紀後葉でも早すぎており、巨大古墳は四世紀に入ってからとみるのが合理的である)。
 最近発掘されたホケノ山古墳や天神山古墳等の銅鏡出土例からみて、それらと同時期かやや先行する崇神の陵墓(その真陵比定が箸中山古墳であれば、とくに)から三角縁神獣鏡が出土する保証はまずない。石野博信氏も、とくに近年、土器からみて三角縁神獣鏡をもつ古墳よりも古い古墳から方格規矩鏡や双頭龍文鏡だけをもつ前方後円墳が増加していると指摘し、「もし同型鏡による三角縁神獣鏡体制が存在するのであれば、非三角縁神獣鏡体制を考慮しなければならない」と記述される(『全国古墳編年集成』1995年刊)。
 
(3)卑弥呼墓の形状
  『魏志倭人伝』の記述から当時の中国・韓地・倭地の国際情勢を考えて考察すると、卑弥呼の墓は巨大な前方後円墳ではありえない。このことは、拙稿「卑弥呼の冢」で詳述した*15。当時の魏朝の薄葬令から考えて、これに朝貢する倭国が宗主国たる魏朝の陵墓を凌ぐ巨大古墳を作ると考えるのは、極めて不自然であることに十分留意したい。当時の朝鮮半島にいた魏朝の帯方郡太守等高官の墳墓規模(約30Mほどか)を凌ぐことさえ、無理なことであろう。
 当時の中国・朝鮮半島の支配階級の墳墓規模を念頭に置かないような独立独歩の倭国であったのであろうか。この辺も、政治の常識の問題であろう。そもそも、卑弥呼の領域が北九州の一部の範囲に留まる場合には、その領域内の争乱や狗奴国との緊張状態が続くという状況のもとで、巨大古墳を作るような社会的経済的基盤がないことはいうまでもない。
 
  なお、記紀等わが国の文献を邪馬台国所在地の議論に先ず用いないのは当然のこととして、最後まで全く排除して良いものかは疑問でもある。安本美典氏のような邪馬台国と「高天原」、ひいては卑弥呼と天照大神とを結び付ける取扱いは疑問が大きいが、静岡大学の教授であった原秀三郎氏のように“否定的な形”での使い方は十分できると考えられる。
  すなわち、記紀の記述に拠ると、四道将軍派遣の所伝からみて、初期大和政権の崇神朝ですら、まだ北陸・東海・丹波・吉備の範囲しか勢力圏に収めていなかったことが分かる。仮に、邪馬台国が畿内大和にあったとすると、邪馬台国(=崇神朝の初期大和政権、と考える)の勢力圏は北部九州に及んでいないので、崇神と卑弥呼の時代(両者の時代が同じだとは拙見では考えないが)、すなわち3世紀代の倭地では畿内の初期大和王権と北部九州の邪馬台国が対立・並存していたことになる(この辺は、津田博士も同説)。大和王権が邪馬台国をはじめ西方55国を平定し、国土を統合するのは、景行朝のヤマトタケル以後の時期である、と原氏は考えられる*16。この崇神朝の四道将軍伝承を頭から否定する姿勢は疑問であり、各地の遺跡・氏族分布に傍証がある。記紀の記事を誇大だと考える立場が歴史学界に多いのに、その記事よりも大和朝廷の版図を更に拡大して考える考古学者のアンバランスな見解には唖然とせざるをえない。

  『旧事本紀』の「国造本紀」を見ても、大半の九州の国造が纏向日代朝(景行朝)及び志賀高穴穂朝(成務朝)に設置されたと記される。なお、宇佐国造・津嶋県造の神武朝、火・阿蘇両国造の崇神朝という設置時期は『風土記』等の記事からいって信頼できないから(起源譚としては考慮しうるが)、これら諸国造もやはり景行・成務両朝頃の設置であろう。

 
   ※まだ次ぎに続きます。


〔註〕
主なものについて註を付けたが、古墳論等については、長大な論考の準備があるので、いずれ何らかの形で公表を考えたい(これについては、拙著『巨大古墳と古代王統譜』に記述)。
 
*1 現存する『三国志』などの中国文献が、テキストとして十分な批判対象としなければならないことは、いうまでもないが、この関係では、『季刊邪馬台国』第18号(1983年冬号。とくにそのなかの尾崎雄二郎氏の論考)や榎一雄氏の畢生の大作「『魏志』「倭人伝」とその周辺−テキストを検討する」(榎一雄著作集第八巻に所収。1992年)を参照されたい。

*2 事件報道の5W1Hの集積である歴史の流れを、考古学者が体系的に記述しようとした試みはこれまで何度かあったが、どれも「日本の古代史」としてはどうであろうか。例えば、小林行雄『女王国の出現』(1965年、文英堂版国民の歴史1)、寺沢薫『王権の誕生』(2000年、講談社版日本の歴史第2巻)などの書は、考古学的には優れた記述も多いが、記紀を用いることを避けるため、肝腎の具体的な人間の活動が描かれていない。これを、客観的とか科学的とでもいうのだろうか。
他の考古学者も、卑弥呼の時代から応神・仁徳の時代までの期間をとって、試みに歴史の流れを考えてみたら如何であろうか。150年〜200年ほどという期間を歴史的に(人間の活動として)埋めることの難しさを実感するとともに、研究の視野が相当広がるのではないかと思われる。

*3 騎馬民族説をとってみても、考古学界の偏りと学界あげての江上説批判の大合唱は、異常で信仰的ですらある。物だけ見て判断する研究者に、どれくらい民族・種族や人間の行動(祭祀・習俗を含む)が分かるのだろうか。白石太一郎氏は、さすがに「いささか違和感を覚える」として、「「騎馬民族」はやってこなかったという先入観でものをみると、日本列島における初期騎馬文化受容の実態を見誤る危険がある」と指摘する(『古墳の語る古代史』2000年)。上古代の倭地や東アジアの歴史研究において、習俗・トーテミズムや祭祀を無視することは許されないと思われる。
 ただし、拙見では、大陸・韓地方面からの部族移動を認めるが、その時期は、江上説のような遅い時期ではなく、遙かに早い西暦紀元1世紀代前半くらいが妥当だとみている。
*4 森浩一氏は、一般読者向けで掲載量制約のある雑誌掲載稿をそのまま書籍で刊行するのではなく、その記事や論拠について考古学的、文献的に十分な註を追補してほしい、と思われる。これでは、考古学の大衆化に寄与したとしても、まともな批判や掘り下げた討論がおきることは考え難い。
森氏の厖大な著作や対談・シンポジウム関係の書を通じて、その総合観や個別指摘には様々な教示を受けてきて学恩に深く感謝するが、考古学界の大勢と異なる見解が多いだけに、論拠等を詳細に註として記した論考を残されることを望みたいと思っていた。この望みを叶えずして、ご逝去されたのはまことに惜しまれる。

*5 都出氏は、「総論―弥生から古墳へ」(都出比呂志編『古代国家はこうして生まれた』1998年、角川書店)でも同旨を記述するが、最新のものを基礎に本文を記した。

*6 森浩一氏も、三角縁神獣鏡魏鏡説に基づく古墳年代観は「こじつけを強く感じる」と記述される(『記紀の考古学』タケハニヤス彦とミマキイリ彦の戦い)。

*7 甘粕健氏の優れた論考「天皇陵古墳の実年代」(『季刊考古学』第58号、1997年)を見ても、古墳の具体的年代を決定できる数値は、三角縁神獣鏡魏鏡説からしか求められないようである。

*8 舶載鏡論者は、中国や朝鮮半島に三角縁神獣鏡の祖型(ないし類似型)があることを根拠にあげられるが、それは実物そのものではなく、鈕孔等の類似部分とか同じ銘文とかあげて間を推測で繋ぐものであり、根拠としては弱い。寺沢薫氏も、考古学的現況を総合的に考えて倭国製作派に与すると記す。いまや、舶載鏡論は信仰にすぎないのではなかろうか。

*9 箸中山古墳についてその被葬者を端的に崇神天皇と主張するのは、和田萃氏(『大系日本の歴史2 古墳の時代』1988年。しかし、1999年刊行の『山辺の道』所載論考「山辺の道の歴史的意義」では西殿塚古墳に変更して、箸中山古墳は女王台与の墓と推測)、及び辻直樹氏(『箸墓の秘密』1992年)。最近、森浩一氏もその立場に変わった(『記紀の考古学』2000年)。箸中山古墳は現在の水垣郷(初瀬川と纏向川に挟まれた三角地帯)から少し外れるが、旧来の水垣郷の地域に入ることを和田氏は示す。
なお、森氏は、現・崇神陵たる行燈山古墳が渋谷向山古墳(現景行陵)をより後行するとみて、前者を景行、後者を垂仁の陵墓にあてるが、将来の研究で順序が逆転すれば被葬者も逆転する、と記される。私は、古墳型式等の考察から見て、「行燈山古墳が垂仁陵、渋谷向山古墳が景行陵」とする見方が妥当と考える。考古学界でも、大勢は行燈山古墳→渋谷向山古墳の順とみている。

*10 石部正志氏が指摘するように、いわゆる箸墓、すなわち倭迹迹日百襲姫命墓の正式名は「大市墓」とされており、『書紀』天武元年七月条に見える壬申の乱のときの「箸陵」が現在の箸中山古墳を指すことは、ほぼ確実とされる。しかし、これが当該記事の「箸墓」であったとしても、それは七世紀後半当時の人々の認識であり、築造された崇神朝当時の「箸墓=大市墓」であったとは、必ずしもいえない。続けて、氏は、「現在、地元で「大市」と俗称しているのは、天理市南部の大和神社から萱生町の西殿塚古墳にかけての限定された区域であって、箸中や金屋の辺りではないことも注意されます」とも記す(石部正志「「天皇陵」の現状と問題点」28〜34頁、『続・天皇陵を発掘せよ』1995年、三一書房)。

*11 拙稿「「真理は中間にあり」か」(『季刊/古代史の海』第17号、1999年)。

*12 例えば、友田吉之助氏の大作のほか、松木裕美「欽明朝仏教公伝について」(『東京女学館短期大学紀要』1、1978年)、笠井倭人「『三国遺事』百済王暦と『日本書紀』」(『古代の日朝関係と日本書紀』2000年)などを参照されたい。

*13 拙稿「邪馬台国東遷はなかった−安本美典氏の邪馬台国論批判」(『季刊/古代史の海』第20・21号、2000年)。

*14 古墳築造期を十期(ないし十一期)に分けて古墳編年を考えるものに『前方後円墳集成』や甘粕説があり、この十期は、大王級古墳(大王・后妃の陵墓等)の編年等で私が考える「標準世代」にほぼ対応する。さらに具体的にいうと、前期・中期に相応するT〜Z期は合計でせいぜい約1世紀と3/4世紀ほど(175年=7世代×25年。なお、私見では実質6期)であり、中期は五世紀中葉頃までと考えるから、古墳時代前期の開始は概ね四世紀初頭頃以降となる。ただ、準備段階を考えれば、開始時期はもう少し前でも良いかも知れない。

*15 卑弥呼墓の規模・性格については、拙稿の前掲両論とほぼ前後して、在野の研究者・生野眞好氏が『陳寿が記した邪馬台国』(海鳥社、2001年7月)を著して、私見とほぼ同様な見解を記される。ただ、糸島市の平原墳丘墓を卑弥呼墓とする生野氏の見解には従えないが。

*16 原秀三郎氏のさよなら講義「日本民族の起源と国家の形成」で、邪馬台国は九州で決まりだとして、邪馬台国の所在地論はいい加減に切り上げ、早く古代国家論に移るべきだと説いた。その概要は、毎日新聞・平成10年2月6日掲載の「歴史万華鏡」欄で紹介される。
私見では、崇神朝の治世時期を原氏よりも更に70年ほど遅くみるが、記紀の崇神朝には部族連合の色彩は読みとれず、古代国家論から邪馬台国を取り上げることには賛意を表したい。


(次へ)



                 古代史 ホームへ       Next         ホームへBack