「断蛇剣」をめぐる諸事情
─ 備前の物部と赤坂郡石上布都之魂神社 ─
 
                  宝賀 寿男    


  これまでも齋藤盛之氏の神祇研究に有益な示唆を受けてきたが、最近発表の論考に示唆を受けて、私なりの観点から検討してみたのが、次の稿である。
 とりあえずの検討結果であるから、問題点は多々あろうが、これを叩き台として考えていければと思う次第です。



 一

 神祇研究を通じていつも学問的刺激を与えていただける齋藤盛之氏「剣はいま吉備にあり」という論考を『古代史の海』誌第四七号(2007年3月)に発表された。その内容は、出雲で素戔嗚尊(以下では、当論考に準じて「スサノオ」と記す)が八岐の大蛇を斬った剣が『日本書紀』の一書に「いま吉備の神部のところにあり」と記されるので、この剣の由来、伝えた者・鉄師集団や吉備の神社、大和の石上神宮(天理市布留町の石上坐布都御魂神社)について検討されたものである。

 スサノオの断蛇伝承は神話的なものであるから、この伝承の事件のときに現実に神剣が得られたとするのはあたらないが、伝承が示唆するある事件を通じて、その当時最新の韓地の鍛冶技術によって造られた剣(韓地から将来されたのか、日本列島内でその技術を用いて造られたかを問わない)が蛇の「韓鋤(からさび)」「麁正(あらまさ)」と呼ばれたのであろう。だから、それが数本あっても構わないわけで、『書紀』一書には、いま吉備の神部のところにありと記し、他の一書では大和の石上にありとも記されても、とくに不思議ではない。大和の石上では、大正期の由緒書で、剣はもと吉備にあったとの記載(奈良県官幣大社石上神宮御由緒記に「備前の国赤坂の宮にありし」と記載)があり、両方で同じく伝えるのだから、剣はもと吉備にあり、大和に遷った後は備前のほうは留守宮でミタマを祀ったと斎藤氏はみられる。それというのも、吉備のほうも備前国赤坂郡に掲載の石上布都之魂神社(いそのかみのふつのみたま。以下「当社」ともいう)であり、その祠官家も物部と称しているからで、この物部同族間で当該剣の奉遷があったとみられるわけである。
 ところで、備前の石上布都之魂神社の祠官家は、どのような系譜の物部だったのだろうか。これを検討することなどにより、同社で祀られた当該断蛇剣(布都御魂、十握剣)が造られた諸事情や大和奉遷の有無などを検討してみたい。これが本小論の目的である。

 
 

 古代で物部を名乗る者は多く、その管掌氏族も出自・系譜に応じて、古代の大連を出した物部連を筆頭に物部君(上毛野君や筑紫君の一族)、物部臣(出雲国造一族)、物部首(海神族系の和邇臣一族)、物部直(武蔵国造一族)などや無姓の物部、さらには物部匝瑳連・物部鏡連など物部□□連などの複姓や狭竹物部・赤間物部などの□□物部があり、物部連の系統をみても「八十物部」ともいわれるほど多くの支族があった。大和国山辺郡の石上神宮の奉斎者も、神別の物部連と皇別を称する和邇氏族の物部首であった事情にあるから、同じ「物部」を名乗っても、同じ氏族とはいえないわけで、すべての物部諸姓や物部の部民を大和にあった物部連氏が統括していたわけでもない。だから、備前の物部がどういう系譜を持つのかが問題になるわけである。
 
 吉備には部民としての物部は、備前の磐梨・御野郡、備中の都宇・賀夜郡、備後の神石郡で史料に見え、美作でも肩野物部の伝承がある。そして、美作の肩野物部は、物部を名乗っても配下のほうの物部(とその部民)であって、氏族系統は山祇族系の久米氏族(部族)の流れではないかとみられる。中央の物部連の一族が史料的には吉備にほとんど見えないのも、問題を複雑にする。後に吉備にも、中央の物部連の一族が居たことが分かってきた。これは、大和朝廷による吉備平定、すなわち吉備の草創期の歴史検討を通じてのものであるが。

 吉備の物部で、史料に系譜記事があるのは御野郡の物部で、これは『続日本紀』に和気朝臣の一族と称したことが見える。奈良時代後期に従三位民部卿にまで昇進し備前美作両国造を兼ねた和気清麻呂を出したことで有名な和気朝臣氏は、備前東部の和気・磐梨・赤坂三郡を中心に繁衍して、もとの姓氏を磐梨別君〔いわなしわけ〕。石生別、石成別、石无別などの表記がある)といい、垂仁天皇の子の鐸石別命(〔ぬてしわけ〕。大中津日子命)の後と称していた。
 この一族が上記三郡を中心に吉備各地に住んでいたが、清麻呂・広虫の姉弟が奈良朝廷で立身出世するに応じて、別部(わけべ)・忍海部・財部・物部ら六四名が同族と称してもとの姓氏である石生別公に改姓を願い出て、これが認められた記事が見える(神護景雲三年〔769〕六月条)。そのなかに、御野郡の物部麻呂らの賜姓記事もある。『和名抄』を見ると、物部郷は吉備では唯一、磐梨郡にあげられるから、これが吉備における物部分布の中心の一つであろう。備中国では、賀夜郡多気郷に物部里も見える。
 備前の石上布都之魂神社は江戸期には布都明神といい、その鎮座する旧赤坂郡石上村(現赤磐市石上)は、『延喜式』当時は石生別君の領域であった赤坂郡の宅美郷に属したが、その後に隣の御津郡に属した事情などもあり、改姓された物部が石生別公一族であったことは認めてよかろう。また、同社が和気氏と縁が深かったことは、天保期の『東備郡村誌』にも見える。同書の赤坂郡竹枝荘大田村の條に、
「下谷に妙國寺と云ふ佛刹あり。昔此寺に日本晦望録・備前風土記・日本私記・和気譜・民部省例等の書数部あり。…(中略)…日本私記は和気氏に上古より記傅する處の史書。和気譜は和気代々の家譜也。民部省例は朝家の旧礼・古事・諸家の美談・逸事等のことを記す。
 是みな和気清麻呂の著述にて、和気広虫・和気広世等の書なりとぞ。惜いかな此寺元禄五年の春回禄して、此書巻悉く灰燼となる。此書もと石上フツ霊神社の社蔵なり。然るに応永の頃、松田元成下知して此寺に納むるもの也。」
と記される(『式内社調査報告』)。

 さて、当社の祠官家はいま物部というが、これは江戸時代の十七世紀後葉になって岡山藩主池田綱政が祠官金谷肥後に命じて物部に復姓させ、式内社を再興させたものである。金谷氏の本姓が何であったか具体的には不明であるが、「金谷」という苗字からいっても鍛冶を職掌とした物部の後裔という所伝が同家にあったものであろう。同じ金谷の苗字は宇喜多氏家臣のなかにもあり、備前美作に後裔があると『姓氏家系大辞典』に見える。
 こうした諸事情をみれば、備前の物部が石生別公の一族であって、大和の物部連の同族ではなかったようである。現祠官家の伝承では、六世紀後葉に蘇我氏に滅ぼされた物部守屋の一族が落ちのびてきたというが、時代が合わず、本来の所伝が失われた結果の造作であろう。

 
  

 石生別公の実際の系譜は、応神天皇が出た息長氏族と近い一族であり、ともにわが国の鍛冶神天目一箇命の後裔という天孫族の流れを汲んでいて、物部氏族や出雲国造族とも遠い同族関係にあった。わが国天孫族はスサノオ(その実体は子とされる五十猛神)を始祖として、弥生中期頃に韓地から渡来してきており、著名な鉄産地・伽耶での製品と技術を携えてきた。出雲などで五十猛神すなわちイタテ神を祀る神社に、「韓神」の冠詞がつけられるのも、その故である。明治の事情とはいえ、備前の当社が祭神をスサノオに換えたのは、必ずしも誤りではなかったということでもある。論社に宅美郷新荘村の熊野神社、伊田村の八幡があげられるが、いずれもスサノオが祭神の実体である。
 和気氏の先祖の弟彦王が応神天皇に味方して、針間と吉備の堺あたりで仲哀天皇の遺児である忍熊王らとの合戦に功績を挙げたと伝えるが(『姓氏録』右京皇別の和気朝臣条、『続日本紀』延暦十八年二月条)、これも自然である。この功績で備前東部の磐梨県(藤野県ともいい後の和気郡・磐梨郡を中心とする一帯)を領したと伝え、領域を中心に鍛冶などの職掌も扱った。『播磨国風土記』讃容郡(備前・美作との国境にある佐用郡)の条には、別部犬という者が鹿庭山の谷で鉄を発見し、孝徳朝にその子孫がはじめて献上したという記事が見えるが、これも和気氏の同族ないし配下とみられる。讃容郡も古来、鉄の産地で名高く、式内社に鍛冶神天目一箇命を祀る天一神玉神社が鎮座する。
 和気氏の先祖が鐸石別命というのも、鍛冶部族にふさわしい。「石生・石成」というのも、奉斎する当社が元々あった旧地(明治期の社殿焼失まであった風呂ノ谷山頂で、「本宮」という)の背後の巨岩一帯が磐座として禁足地にされている巨石信仰だけではなく、現実に岩のなかから鉱物資源を取り出していたことを意味する。
 実際、当社が水源となる新庄川の流域には、佐野、伊田に銅鉱があり、銅以外にも銀・鉛・亜鉛・硫化鉄が採掘されてきた。また、「鍛冶屋・金汁・金道・金子坂・風呂谷などの金属・鍛治関連地名が集中していることなどから古代から新庄川流域では鉱脈露頭からの採集や初歩的な掘削が繰り返し行われて来たのではないか」とみられている。こうした資源のもと、宅美郷では剣工を輩出したが、わが國で剣工といえば、備前の赤磐郡・邑久郡とその周辺で中世ではとくに長船・福岡(現瀬戸内市長船町)の刀鍛冶が名高いものの、最初の古剣工は宅美剣工を以て第一のものとする研究もあるとのことである。この宅美は「工」の意味で、備前の工部の所在と考えられている(『姓氏家系大辞典』)。邑久郡も藤野県に含まれた地域があったようで、上記の賜姓のなかには邑久郡の別部比治があげられている。
 古代に藤野県の地域で物部・別部など石生別君一族・配下の手により造られた名作の剣に対して、スサノオの故事をもとに「断蛇剣」という名をつけ、同社の神体としたり、大和に送られ石上神宮の禁足地に埋納されたものであろう。吉備から大和に送られた時期については、崇神朝とも仁徳朝ともいい、前者だと石上神宮が創祀される時にあたるが、石生別公の当地到来の前で、やや疑問がある。いずれにせよ、吉備の剣は大和朝廷の武器庫・宝庫(天神庫)の役割を果たした石上神宮に対して何度か送られた可能性もある。備前も大和も社名が「フツノミタマ」であっても、前者が留守宮と考える必要はなかろう。備前の当社も、磐座など禁足地の調査がなされれば、新しい発見の可能性も考えられる。大和とも吉備とも関係のないスサノオの渡航路のなかに位置する壱岐島にも、石田郡に物部郷があり、式内社として物部布都神社が鎮座するが、これも同様な事情であろう。


  

  和気朝臣の一族には大和国山辺郡に因む山辺公『姓氏録』右京皇別)がおり、『古事記』垂仁段に見える山辺之別の後とみられる。『皇胤志』所載の系図では、弟彦王の弟・阿鹿王が山辺君の祖と見える。山辺郡には石上郷の近隣に石成郷の地名があり、国史見在の石成神社(『続日本紀』神亀三年〔七二六〕条に弊帛を奉る記事)も見えるから、この意味でも備前の石上布都之魂神社と大和の石上神宮との縁が深かったことが分かる。
 天理駅の西側の田井庄町には、式内社夜都伎神社の論社の八剣神社やつるぎ)が鎮座する。「石上振神宮略抄」に見える由緒には、夜都留伎の神は八岐大蛇の変身で神体は八つの比礼、小刀子なりとして、スサノオが大蛇を退治し八段に切ったので八つの小竜となって天へ昇り、水雷神となって叢雲の神剣に付き従って「布留河上の日の谷」に天降って鎮坐し、貞観年中には八剣神として祀られた、と見える。この「八剣神」については、都祁郷に属した天理市長滝町日ノ谷の竜王神社(同市滝本町の石上神社の上流の「桃尾の滝」のさらに上流域)とみる説があり、『天理市史』によると、滝本町の石上神社の前身が上記の石成神社とされる。『大日本地名辞書』は石上神宮前の王子宮かというから、石成神社の比定は難しいのだが、このあたりにも八岐大蛇伝承がつきまとう。
 ついでにいうと、大蛇から取り出された神剣「天叢雲の剣(草薙の剣)」を収める尾張の熱田神宮には、式内社の八剣神社があり、別宮とも下宮とも称されて、いま八剣宮という。『尾張国内神名牒』には、「正一位、熱田皇太神宮・八剣名神」と双璧に掲げられる。尾張・美濃・三河には同社から勧請されたという八剣神社があり、とくに美濃に多く分布するが、草薙の剣に因んでか祭神は日本武尊とするのが多い。
 
 諸国一宮の研究をされておられる斎藤盛之氏は赤磐の現地を訪れたとのことでもあるが、これも当社が備前一宮の候補の一つとされる事情にあるからである。現地を見ないで検討することには様々な限界があり、本稿には思い至らぬ欠陥もあるかもしれないが、神社祭祀や古代の刀剣などについて有益な示唆を与えていただいた斎藤氏に感謝して、ひとまず、これを終えることとしたい。
 
 (07.3.23 掲上。5.4微修正)
  
  ※本稿をさらに増補した文を『古代史の海』第48号(07年6月)に掲載しておりますので、そちらもご覧下さい。
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