より)

 Uの2 平山朝治氏の推計方法への疑問
 
 <概説>

 安本氏が賛同する平山朝治氏の推計方法やその基礎的な考え方には、様々な問題点がある。その説明・検討がここでは長くなるので、まず概略的に記しておく。
このUの2の部分は、かなり分かりにくい内容でもあるので、すこしクダクダした重複的な表現・記事もでてくるが、この辺はご寛恕されたい
 
 ちなみに、平山氏の推計式は上古天皇の即位年を推定するものであって、退位・崩御の年を求める拙見とは異なるが、その推計式が「Y=265.72+10.34H」であり、これをTで記述した私見の推計式に置き換えると、「Y=276.06+10.34X」(R:0.991682、R2:0.983434)となる。

 この推計方式の問題点は、少ないデータ母集団を基礎にして、ずいぶん離れた時期の数値を無理に推計する点にある。具体的には、「31用明〜49光仁」という合計で僅か19個のデータを基礎にして、それから30代も前の神武、あるいは35代前の天照大神を推計する形をとる点である。
 また、19個のデータのうち、異質なデータをなぜ除外しないのか(重祚、廃帝、弘文天皇で、すべてが係数を小さくする方向に働く)という問題点がある。
 「31〜49」代の天皇に範囲を設定する合理的な理由にまったく乏しい。同質的なデータという性格を考えると、上限も下限も更に拡大することが十分に可能であり、仮に、上限のほうを上記拙見推計のように27安閑まで引き上げて、データ総数を23個にした場合には、算出される推計式は「Y=241.40+10.92H」(R:0.992975、R2:0.985999)となる。これら数値では、平山氏の上記推計式よりもR及びR2の数値があがり(推計精度があがる)、かつ、平均在位期間が10.34→10.92とかなり増加し、その結果、神武の推定時期が276年から252年に24年も繰り上がることになる(それでも、上記のA、B、Cの3ケースよりもR、R2が低い数値を示す)。
 
 普通、推計式を出そうとする場合には、幾つかのケースで試算することになるし、こうした試算を平山氏が当然にやっているのではないかとも思われるが、もしそうだった場合には、ご自身が恣意的にご都合主義的に推計式を算出したのではないかと思われるし、そうでない場合には、推計式算出の基本を、この時はご理解していないものと思われる。
 ともあれ、平山氏の推計式が、いかに恣意的に範囲とデータを設定したのかが分かる。
 このほか、平山氏が2論考(下記)のなかで示された考え方や算出された推計式には、問題点が多々あるということである。


 検討のはじめに

 安本氏は、平山朝治氏の推計方法について、「この方法によれば、私が、『新考・邪馬台国への道』(筑摩書房)などのなかで行った推測統計学的な方法よりも、推定の幅が、はるかにせまくなる」と高く評価している(『卑弥呼と邪馬台国』1983年)。
 ところが、安本氏の推計の理論的統計的基礎の一部をなしてきた平山氏の推計方法には、大きな疑問がある。それは、基本的には歴史的知識の少なさ(ないしは独自の歴史見解)に起因するところが大であり、だからこそ、推計の前提の基礎データの選択という過程において大きな誤りを犯したのである。基礎データ集団の少なさという問題点もある。
 総じて言えば、安本氏の推計方式(簡略して、ここでは「安本方式」という)の支持・賛同者は皆、歴史的知識が乏しい(ないし、具体的な歴史事情を考慮しない)という特徴・傾向がある。統計学の知識だけでは、対象データの同質・異質の判断ができるはずがなく、そうした基礎では歴史的事実につながる推計ができないわけである。そこでは、統計学専門家と自称する人々がいくら大勢、検討に参加しても、何の役にも立たない。早い話が、立派な学究の肩書きがあっても、古代史関係では妄説を平気で唱える人も多く、これがいわゆる「古代妄想」の原因ともなり、様々な邪馬台国関係の問題が、未解決のまま現在に来ているような見かけを呈することにもつながっている。
 
 平山朝治氏が1983年に『季刊邪馬台国』第16号に発表した論考が、「女王卑弥呼の年代─最小二乗法による推定」である。この考え方と結論が、安本方式の理論的支柱となってきていると思われる(これより前にも、同誌第8号、1981年に発表された吉井孝雄氏の推計法があるが、数頁ほどの割合簡単な記事なのであり、具体的な論拠の知られる平山氏のほうを主にとりあげる。本稿は学説史の研究ではないので、吉井氏のほうは説明を省略する)。
  その後も平山氏は、続いて同誌第44号(1991年冬号)には安本氏を支える論考、「坂田隆氏の古代王権年代論に関する批判的検討」という論考を発表されており、安本氏と同調して主張する。ここでは、この平山氏の二論考と安本氏の諸書(とくに、「コンピュータが幻の王国と伝説の時代を解明する」との副題をもった『卑弥呼と邪馬台国』〔1983年刊〕)に見える「安本方式」を検討の対象とする。
 ちなみに、平山氏は、その著作等に拠ると、東大教養学部教養学科第三相関社会科学分科を卒業され、1983年当時は東大経済学部大学院の院生で、1991年当時は筑波大学社会科学系の講師(経済思想史担当)であり、現在は筑波大学社会科学系の教授である。経済学博士で、「経済学、社会学などの社会科学諸科学と人文学の融合を目指して」研究活動を続けられているとの紹介(Wikiなど)もあるように、専門は経済学、社会学ということで、歴史学の研究者ではなく、かつ、若い時代の研究・著作の活動なので、現在における考え方は不明だが、議論の関係上、かつての諸著作を取り上げる次第である(もし考え方に変更がある場合は、過去の考え方の検討ということになる)。

 また、私がここで取り上げるデータや推計式などは、基本的に誰でも入手できる史・資料に拠っており、かつてはコンピュータでしか計算できなかった推計式も、いまではPCのEXCELで誰でも計算できるものだから(私も、平山朝治氏の計算を検証してみた)、ご関心のある方々は、是非ともご自身の手で研究、検証されることをお薦めする次第である。


 検討の前提

 安本氏も平山朝治氏(併せて、「安本・平山両氏」、ないし「両氏」という)の推計方法も、データの採り方に言及するが、信頼できるデータをできるだけ多く集めで、そのなかで同質的な諸天皇のデータを精査の上、これを基礎に比較・推計しなければならないし、異質データを混入させたまま、それを基礎とする推計では、推計手法としてはおおいに疑問がある、ということに基本的な異論はないはずである。現に、そうした観点でデータ選択をしているような記述「飛鳥・奈良時代の在位時期の確実な天皇だけに基づかなければならない」もあり、彼ら両氏の諸著作に見られる。平山氏の論考にも、「等質の母集団」という表現がある。
 ところが、安本・平山両氏は、実際にはそうはしていない点が多々あり、これが、例えば、中村武久氏(「年代論からみた「邪馬台国=畿内説」」。『季刊邪馬台国』第44号所収)や坂田隆氏(『卑弥呼をコンピューターで探る』1985年刊)などによって批判されてきた。その反面、中村・坂田両氏はそれぞれの結論が、「邪馬台国=畿内説」とか、「卑弥呼=百襲姫」ないし「卑弥呼=倭姫」とかいう、いわばあさっての方向にはじけてしまい、その結果、彼らの論考の本質的な価値が貶められている。だから、こうした疑問な結論を導き出すために、基礎となる推計数字が採用されたのではないかという嫌疑さえかけられている。しかし、これはまったく同様に、安本方式についても言えることなのである。
 
 ちなみに、私見はというと、安本方式のような単純な一元一次の推計式で、上古の天皇・為政者の活動時期を推計する方法には大きな疑問を感じており、これ(単純な一元一次の推計というやり方)を採るものではない。また、安本方式のように、きわめてブレの大きく、年代幅が広い数値である、「天皇一代の在位期間」を用いて、上古の長い昔に遡って推計することの疑問も、当然感じている。
 日本の古代の天皇の在位期間を見ると、最小は一年未満から、最大のほうでは推古の35年余、欽明の約31年など、「天皇一代の治世が約十年」を大幅に上回る例が現実にあるわけで、推計対象の時期でも、応神天皇、仁徳天皇や雄略天皇などの天皇が長い治世期間をもったと窺わせる事績が記紀に記される。闕史八代の諸天皇の存在を、安本氏同様に私も認めるが、この八代の天皇において、長い治世の者がいなかったとも限らない。
 だから、安本氏より前には、天皇の治世期間(即位者数)を基に上古に遡って推計しようとする試みが、歴史学者により殆どなされなかった。先になされたのは、1世代が20年ないし30年ということで、簡単な遡上計算がなされたくらいであろう。これも宜なるかな、と思わせる。
 しかも、安本方式による推計値には、なんら検証がなされていない。ご本人は、好太王碑文に見える倭の朝鮮侵攻が神功皇后の事績に当たるなどの説明をされるが、390年代より前に見える倭の韓地交渉や石上神宮所蔵の七支刀銘文などから、倭の韓地における活動が早くも360年代後半頃からだと一般にみられているから、説得的とはとても言えない。『書紀』などでは、神功皇后遠征が未知の地たる韓地に対する大和朝廷の侵攻の最初だったはずである。すなわち、安本氏の推計には、説得力のある裏付けのある説明が殆どなされていないということで、これが大きな問題点である。おそらく、現在の歴史学専門の学者にあっては、神武〜雄略の諸天皇の在位年代について、安本氏の当該推計値を採るものは殆どいないのではなかろうか(もっとも、これは、多数決で決める問題でもないし、歴史専門家にも数理的統計的な誤りや謬説は多々見られるものであるが)。


 安本・平山両氏のデータ選択などへの疑問

 抽象論ばかりでは始まらないので、基本的に安本方式には大きな疑問を持ちつつ、具体的に両氏のデータ選択などの個別の検討を以下にしていこう。なお、平山氏の導き出された推計式は、「Y=265.72+10.34H」(R:0.991682)というものである。
 ※私の行った推計とは変数の内容が異なるので、それと区別する意味で、変数をHとここでは記している。Yは即位年を求める推計であり、変数のHは即位の代数(何代目)としている。データ母集団の数は僅かに19という少ないものにすぎず、しかも、次ぎに記述するように、データ母集団の数値にも多くの問題がある。算出された上記係数は、私自身も回帰分析を行って確認している。
 
(1) なぜ、「31用明〜49光仁」の19代の天皇という短い期間のデータを基礎とするのか。
 この区間の切り方は、安本氏の考えに拠るのだろうが、次の様々な点で、きわめて恣意的であり、それだけで推計式の信頼度を落とすものである。 

@上限としては、天皇の在位期間として信頼できるのは用明天皇からだという安本氏の説明があるが、これには疑問が大きい。
 a 『古事記』の崩年干支と『書紀』の紀年で見て崩年が一致するのは、最初が安閑天皇(535年)であり、これ以降の崩年干支の記載5例について、記紀の崩年はほぼ一致する(年単位で見る場合。安本氏もこれを承知していて、季44〔『季刊邪馬台国』44号〕の69P)。ちなみに、用明の前代の敏達の崩年については、上記5例のなかで一番差異があって、その崩年の記事では1年4か月も記紀で差があるのに、なぜ用明から在位期間が信頼できるとするのか、疑問が大きい。用明の崩年の年月日は、記紀で6日の差異しかないが、その即位時期が前代の崩御の後で同年と受けとれば、上記のように差異が出る。そうすると、上限を安閑とするのが自然である。
  要は、約30年という長い在位期間をもつ欽明をデータから除外したかったのであろう(欽明天皇の元年を540年〔即位は前年末〕とするのは、諸説のなかではむしろ遅いほうであるが、この数値の場合、欽明〜光仁では平均が11.47年となり、欽明〜桓武では平均が12.09年にもなる。なお、欽明の即位を531年だとみる説もあるが、仏教公伝に関しての誤解とみられるし、遅い即位年代を採用することは、むしろ両氏の立場に利するのではなかろうか)。

 b 欽明の『記』崩年干支は記載がないが、『書紀』に記す32年在位して、572年崩御はほぼ信頼してよい(享年は不明)。その場合、敏達の在位期間は14年となって、なんら不自然さがない。その弟が用明天皇であって、用明はこの属する世代において最初に天皇になった人物ではなく、しかも在位期間が僅か二年弱である。この同じ世代で最後に天皇になった推古天皇から光仁天皇までの在位期間を考えると、平均は11.12年、推古から桓武まででは平均が11.89年にもなる。こうした数字の動きを見るだけでも、いかに恣意的に数字をとって無理に10年台にしたのかが分かる。

 c 『書紀』の紀年記事の分析からみて、20安康ないし21雄略から、元嘉暦により記載されたことは異説がない。しかも、この時期から等倍年暦(1年が現行の暦と同じ長さ)の紀年記載がなされているとみられる(貝田禎造氏『古代天皇長寿の謎』では、雄略の次の清寧から等倍年暦とするが、疑問であり、雄略からとするのが妥当)。百済滅亡や武寧王碑文に見える生没時期などについての『書紀』の朝鮮関係記事や『三国史記』の記事との対比から考えても、書紀紀年は雄略(元年が457年とされるが、朝鮮関係各種記事から見ても456〜458年とほぼ合致)以降では実態(史実原型)にほぼ符合する。この雄略元年の数値と実態との差異は数年、せいぜいでも十年以内しか認められないはずである。

 d 継体天皇の即位(元年)は、実際には415〜417年という説が学界では多いが、これを差し置いても、継体崩御時期は安閑天皇即位・元年の534年としてよい(『記』の崩年干支が指すとみられる527年は疑問)。『書紀』では531年の崩御と記すが、三年間の空位は不自然であって、「継体崩御=安閑即位」が同年とみるのがよい。この同年即位が否定されても、差異は三年しかないから、上限は安閑即位・元年の534年としておくのが無難である(安本方式に不利になる数値ではない)。
 
A下限として、49光仁天皇をとるのは極めて不自然である。これも、安本氏の考えであるが、奈良時代の天皇と平安時代前期の天皇を区別する意義が、そもそもまったくない。この区別も、両時代にまたがる50桓武天皇(在位期間が25年で、奈良時代に13年入る)をデータから除外する意味しかない。いったい、光仁天皇と桓武天皇との間にどういう政治的性格の差異があるのだろうか。傍系から擁立された王権基盤の弱い、しかも即位時は62歳という異例の存在たる光仁(それでも11年弱在位)よりも、むしろ桓武のほうが実権を備えた上古代の天皇像にふさわしいし、桓武一人を奈良時代に加えるだけで、平均在位期間がかなり伸びる(加える場合には、11.05になろう)。平山氏は、即位年で推計式をたてるのだから、即位年が奈良時代に入る桓武を奈良時代の天皇に入れないのはおかしく、在位の長い桓武を奈良時代、平安時代のどちらかに入れるかにより、両時代の数値に差異が大きく出る(この辺にも、恣意的な操作が感じられる)。
a 上古代の天皇の性格に似ているのは、60醍醐、62村上までであり、だからこそ、王政復古を目指した後醍醐天皇がこの「延喜天暦の治」への復帰を大目標に掲げた事情がある。醍醐も村上も、共に崩御まで在位しており、この辺の事情は上古代と同じ実権をもった王者である。

b 奈良時代の天皇は生前退位が多く(持統、元明、元正、聖武、孝謙、淳仁、光仁と殆ど)、645年の乙巳の変(大化改新)の皇極退位を最初とする生前退位は上古の天皇にはなかった。これも、上古代の天皇との同質性で問題となる

 基礎とするデータ集団は、同質性(等質性)が確保される限り、大きいのが望まれるのは、理の当然である。具体的に見ていくと、村上天皇の次代の冷泉天皇は、摂関政治で藤原氏への権力集中が進み、村上崩御に伴い17歳で即位したものの、在位2年弱の969年で退位し、その後に1011年まで生存した。次いで即位したのが、その弟で僅か10歳で即位の円融天皇であり、この天皇は984年まで在位したものの、崩御は991年である。
 天皇が実権を失い、こうした摂関家など政治実権者による恣意的な退位・譲位を繰り返すようになった時期のデータが、上古代の諸天皇と大いに異質となったことは明らかであって、同じ「天皇」という称号を持つとは言え、冷泉・円融の後の諸天皇のデータを入れて推計したり、平均在位年数を議論するのは、同質的データの観点から問題が極めて大きい。坂田隆氏の全データ採用の立場に対して、データの等質性が必要だと、おおいに異を唱える平山氏にしては杜撰な取扱いと言えよう。
 
(2) 「31用明〜49光仁」という期間のデータのうち、異質なデータをなぜ除外しないのか。これは、きわめて不自然な取扱いである。 
 @既に中村武久・坂田隆氏なども指摘するように、記紀に典拠するのがデータ選択の基礎として妥当である。こんなことは、議論の余地すらないはずである(歴史常識、歴史感覚の有無の問題であり、「歴史の無知」は武器にはならない)。明治三年(1870)になって初めて公的に天皇扱いをされた39弘文天皇を計算に入れるのは、極めておかしい。もちろん、『書紀』では、弘文が天皇扱いされていないし、史料を見ても、ずっと後代の平安後期に成立の『扶桑略記』で初めて天皇として取り扱われた者である。
 もし、『書紀』に天皇(及び天皇同格)として表記されない者も恣意的に加えるのならば、『古事記』に天皇と同格の扱いで事績が記される十人(飯豊青尊や「神功皇后=日葉酢媛」、倭建命など)からも取り入れて加算されるべきだし、神武の長男・手研耳命(匈奴社会などにも見られる嫂婚制により、神武の嫡后を受け継いで自己の后妃とした)だって、記紀の記事内容から見て加算すべきである。

 A逆に、『書紀』では天皇と同格に扱われ、巻立てされて69年もの長い治世(摂政?。地位はともかく執政と把握されよう)の期間をもつと記される神功皇后を除外するのは、理に合わない。

 B重祚は、日本でも飛鳥・奈良時代の二人の女帝にしか見られず(上古の天皇について、重祚の所伝がほかにはまったくない)、各々、これを併せて一人とカウントするのが自然である。民族的に祭祀的に同種、同様の傾向を示す古代朝鮮半島諸国にあっては、女帝が新羅に三例あるが、重祚は見られない(生前退位も見られない)。こうした極めて例外的な事例が、応神以前の上古の諸天皇にあったというのだろうか。両氏は、データの同質性の必要を論じて反対説を批判しながら、この辺を無視する感覚がとても理解しがたい。

 C一人の重祚者に挟まれて、かつ、廃帝とされた淡路廃帝こと、淳仁天皇(しかも退任後もまだ生存)はカウントしないほうがむしろ、自然である。淳仁は、在位中は実権ももたず、その退位も政治の動きに左右された事情がある。

 以上の取扱いをするだけで、「飛鳥・奈良時代」の諸天皇の平均在位期間はかなり大幅に伸びる(安本・平山両氏の言う「飛鳥・奈良時代」という時代の定義・区切りにも問題があるうえ、桓武の在位期間全部まで平安時代に入れることで、「飛鳥・奈良時代」の在位期間を大幅に縮めた操作が感じられる。こうした調整を加えれば、上代に遡るほど、在位期間が長くなると言う安本氏の思込みも違ってくる)。そのうえ、天皇同格として加算されて神武までに遡る人数が増えることでもあり、神武の活動時期も自ずとかなり遡上する。しかも、奈良時代の諸天皇にあっては、生前退位者が殆どという特殊事情もあり、この辺の考慮も要する。

 上記@〜Bは、たいへん重要であり、この取扱いが安本説の当否を大きく左右するが、要は、歴史感覚と同質性の認識の差異につながる(安本氏側の統計学者たちが皆、安本氏のデータの採否をまるっきり同じく踏襲するのだから、結論が安本説どおりになるのは当然であって、こんな見解をいくら多数出してきても、安本氏の説に対して、なんら補強にならない
 
(3) 推計式が「Y=265.72+10.34H」なのに、これを尊重した推算を両氏はしていない(平山氏の推計式は上古天皇の即位年を推定するものであって、退位・崩御の年(これと次代の即位年とが同年だとしてつながるが)を求める拙見とは異なることは先に記した。私の推計式に置き換えると、Y=276.06+10.34X となる。
 この着眼点の違いが、退位や崩御の諸事情を無視する傾向につながるのかもしれない)。
 
 @天皇一代平均が10.34年(正確には10.34386)ならば、これを0.34年切り捨てて、10年までに切り下げるのは不自然であり、例えば、21雄略から初代・神武まで20代も遡上すれば、合計で約7年も差異が出る遡上になる。

 A初代神武の即位年が平山推計式の中心値で276.1年ならば、266年に西晋に遣使したと記録に残る欠名女王(一般に台与とみられている※。これが天照大神にも当たるというのが安本氏の主張)の次代の天皇くらいに神武があたるはずなのに、記紀では、天照大神と神武天皇との間には四代もの歴代が置かれている。安本氏のように推算した場合でも、両者の中間に約40年ほど置かれなければ矛盾する。
『日本書紀』の神功紀に引用の『晋書』起居註に秦始2年(266年)に、倭の女王の使者が朝貢したとの記述があり、これが台与にあたるという見解が多い。私見でも、これに賛同する。安本氏は、天照大神を二人の人格とみて、天岩屋戸事件後の天照大神は台与に相当すると考えるとのことである(この見方自体にも大きな問題があるが、それはさておき)。
 
 B神武から応神までの諸天皇には、傍系相続の回数がかなり入っていると考えられ、その結果、「天皇一代の平均在位期間」が約十年になったとしたら、天照大神と神武天皇との間に入る四代については、記紀に見える名前の命名法や事績の所伝から見て、傍系相続が殆ど考え難く(殆どが直系相続になろう)、この上祖の時期について、「天皇一代の平均在位期間」をそのまま適用するのは問題が大きい(実際には、姉妹婚の具体例や古代諸氏族の世代比較から考えると、天照大神と神武と中間に入るのは、直系で三世代だと私見ではみる)。
 両氏は、天照大神と神武天皇との間に、直系世代で考えると何代分が入るとみているのだろうか。仮に直系歴代だとしたら、三、四代で約75〜100年という長い期間(一世代が20年と仮にみたとしても60〜80年となる)が必要である。安本氏の言う天照大神二代目の台与が、天忍穂耳尊(神武の玄祖父にあたると記紀に位置づけ)の妃であったとしても、中間に三世代が入るはずである。このときの1世代は、約十年という短いものであるはずがない(これでは、世代交代ができない)。
 
(4) 全部で19という少ない母集団のデータを用いて、その35代先(初代神武まで30人、神武から5代先が天照大神で、合計35人)まで推計するという、きわめて無理な推計を両氏はしている。時代が遡って数が増えるほど、推定の幅が広がる事情がある。
 当方の上記推計では、32ないし33の合計データ数を用いて、例えば神武なら、その27代先ないし26代先の者の活動時期を求めることになるが、どちらが正確性が高いかは自ずと分かると思われる。
 具体例として、平山朝治氏の推計式による推定値を見ると、この数値は、信頼度95%で見ると、神武が244.4〜307.8で幅が63.4年であるが、その五代先の天照大神だと189.7〜258.9と幅が69.2年に拡大する。
 
(5)「全世界的に見て、古代ほど王の平均在位年数は短くなる」という安本氏の見方(平山氏もこれに賛同する)に立って、棒グラフを書き、古代天皇の一代の在位期間が約10年を正当化する安本氏の主張はまったくの錯覚にすぎない。

 @坂田隆氏は、前漢〜後漢の平均在位年数が14.4年であるなど、古代でも平均在位年数を大幅に超える場合もあるなど、具体例をあげて反論するし、平山氏はこの事例も認識して卓見と評価している。しかし、卓見ということではなんらなく、お隣の朝鮮半島の例を見て、古代の三韓とも呼ばれた高句麗・百済・新羅の例を具体的に考えると、いずれも平均在位年数が十年を遥かに超える。高句麗の故国原王・長寿王、百済の近肖古王など、在位年数が長い王は上古代でもいた。
 a 高句麗の建国時期は、初代の朱蒙の建国が『三国史記』では前37年とされ、それから668年滅亡の第28代宝蔵王まで見ると、平均在位年数が25.18年にもなる。朱蒙は『漢書』王莽伝の高句麗侯?に当たるとしてよいが、この者が実際には後(西暦)12年に殺害されたとしても(その死亡時期が『三国史記』よりも31年後になる)、27代で平均24.30年である。ちなみに、初期の高句麗王には数代の欠落があるのではないかという見方(井上秀雄氏)もあるが、中国史書などから年代的にほぼ信頼できる第9代故国川王(在位が179〜197とされ、国都を集安の地に遷した王だと井上秀雄氏がみる)から宝蔵王までの平均在位年数も24.45年である。ちなみに、長寿王(在位期間が413〜491)の78年在位は世界で最長級であるが、安本氏の講演ビデオでは世界最長在位の王はフランスのルイ14世の77年としていて、高句麗の諸王の事績が眼中に入っていない。

  百済では、その最盛期を現出した第13代近肖古王(在位が346〜375で、29年)から後は、年代的にほぼ問題がないとされるが、その滅亡時が第31代の義慈王のときの660年で、この19人で平均在位年数が16.5年になる。
   安本氏は、『三国史記』の成立年代が遅くて信頼できない記事もあるとして、近肖古王を除外して残り18人で考えるが、その場合でも15.8年である。ちなみに、近肖古王・近仇首王親子が高句麗の首都平壌まで攻め込んで討ち取った高句麗の故国原王の在位も331〜371年討死と長く、この事件は近肖古王治世の晩年に起きているから、346年の近肖古即位はほぼ信頼してよさそうである。百済のもっとも肝腎な王で、かつ、在位年数の長い者を、ここでも安本氏は除外している。

  新羅では、初代の朴赫居世の即位として『三国史記』にいう前57年には、暦の換算に問題があるが、その重臣で倭人の瓠公が神武の兄弟という伝承があり、これに信拠するなどの事情から、初代王の即位が170年頃になろう。その場合、白村江を戦った第30代文武王(在位661〜681)までの30人で、平均在位年数が17.03年ほどとなる。

   以上に見るように、いずれも朝鮮半島三国の古代王の平均在位年数が十年を遥かに超えている。そこには、重祚の王も、廃位された王も見られない(廃位・弑逆は実際にあっても不思議ではないし、それらしき王も高句麗にはいるが。日本で弑逆を受けた安康・崇峻をとくに除外していない)。
   ともあれ、一代の在位が約10年というのが、東アジアでは、いかに不自然な数字だと知られよう。その生じた原因が、日本の他の時代や他国の古代に殆ど例を見ない事象の「重祚」(中国では、唐王朝の武則天の前後の中宗・睿宗に例があるくらい)であれば、これを除外・調整するのは、統計数理上、まったく当然のことであって、こんなことは議論をするほうがおかしいものである。
 
 A安本氏の思込みの、日本における立証の重要な基礎に「飛鳥・奈良時代の諸天皇」、あるいは「雄略〜敏達天皇及び飛鳥・奈良時代の諸天皇29代」の在位期間の平均10.33年があるが、そのなかに重祚・弘文、生前退位の頻出など異質要素を多く含んでいる。しかも、上端の21雄略を『宋書』その他によるとして「西暦478年ごろの人」とするが(この表現が即位なのか崩御・退位の年なのか不明だが、同氏の他書の表現では即位年とされる)、この年代には問題が大きく、これが即位ではなく、実際には雄略の後期ないし晩期であれば、雄略一人分が計算に加わることにもなる。下端の天皇についても、奈良時代のうちに即位しているにかかわらず50桓武天皇(治世期間が25年と長い)を除外している点も問題が大きい。

 上端の21雄略についてもう少し述べると、「西暦478年」というのは、確かに雄略が在位していたと私も認めるが、これは、雄略の在位時期のほとんど終わりかけの時期である。その前年477年に雄略が遣使を出すが、これを即位年と安本氏がみるのは誤りである。こんな時期に雄略即位年を考えている倭五王の歴史研究者は皆無である(最近は、462,3〜480という期間を安本氏が考えているとも聞いたが、この変更も根拠不明である)。
 すくなくとも雄略朝からは元嘉暦で『書紀』紀年が記載されていると学界で広く認められており、しかも、「書紀の紀年は雄略天皇頃から朝鮮側の史料(『三国史記』)とも一致してくる」と小林敏男氏も述べる(全邪馬連会報の「邪馬台国新聞」最新刊第5号)。雄略の書紀記載の在位年数を恣意的に短縮することは疑問であるし、書紀紀年で言う雄略元年が457年に当たることを根拠なしに変更することもできない。
 
 上記のような操作・加工された目眩ましの年代を基に論じるのだから、その歴史感覚・歴史知識を疑わざるを得ない数値が立論の基礎にある。こんな簡単なチェックすらできないで、平山氏は安本氏の説をそのまま受け入れているのである。
 だいたい、実質的な「王」の地位を失った諸天皇(村上天皇の次代・朱雀天皇以降)とを上古代の諸天皇とを在位年数で比較して、なんの意味があるのだろうか。これも、歴史感覚の問題である。この関係で安本氏が描く年代別の棒グラフはまるで意味がないし、数値の採り方も上記で具体的に見たように、かなり恣意的である。


 平山氏の推計値への疑問

 
平山氏の推計式「Y=265.72+10.34H」(Y=276.06+10.34X
から推算される即位年の推定値中心値)は主な天皇については、次のようになる(小数点以下4捨5入)。
   

 この平山推計値を安本氏が支持して、神武から遡って天照大神を卑弥呼・台与に当てる考えを示されるが、継体以前の上記数値は各々20年ほど(あるいはそれ以上)の繰上げがなされるのが、実際に考える場合に妥当なところではなかろうか。
 まず、継体については、『書紀』紀年に基づけば、その元年は507年とされるが、学界では515〜517年くらいとみる説が強い。この基礎から既に約20年ズレている。欽明天皇だって、その即位を遅くみる説でも、『書紀』元年が540年とされるから、平山推計値は、この出発点近くで早くも25年の誤差が出ている。こんな基本的な基礎に、どうして疑問をもたないのだろうか。

 次ぎに雄略は、『書紀』紀年に基づけば元年は457年とされ、『三国史記』の百済滅亡記事や武寧王碑文記事などの対比から、元年は456〜458年ほどとされることが多く、拙見では、武烈天皇の在期間8年が継体と重複があるとみるので、465年とみている。なぜか不明だが、現在の安本説では462即位〜480年崩御とのことである(もし、この数値であれば、安本説が、なぜ書紀紀年の23年をこのように短縮できるのかきわめて不可解。きわめて、恣意的な数値操作ではなかろうか)。ここでも、平山推計値が、20年とかそれ以上の乖離を示している。これら平山推計値が、どうして妥当と言えるのだろうか。数字の感覚がおかしいとしか言いようがないし、こういうことを平気で行うのが「数理歴史学の大家」なのだろうか。私には、到底、理解ができない。

 上記の平山推計値によってか、安本氏は、応神を倭王讃、仁徳を倭王珍に比定して、両者を兄弟とするような酷い無理までおかすが(明らかに記紀の記事に反するし、仁徳の父親は誰なのか。これが『記・紀』を尊重するという姿勢なのだろうか。この辺は、無理を許容する「頭の構造の限界」の問題としか考えようがない)、それそれ20年超ほど引き揚げると、倭王讃は通説の仁徳に無事に収まることになる。同様に、崇神・神武も20年超引き揚げれば、神武は250年代の即位となって、倭女王台与と重なり合うことにもなろう。
 
 このように見ていけば、平均在位年数を10年とか10.34年とみることの破綻と、「天照大神=卑弥呼・台与説」の破綻が生じるのは明らかである。
 要は、平山氏(併せて安本氏)の推計値には、その推定結果を裏付けるものがまったくない、検証がまるでなされない、という大きな問題がある。『書紀』紀年の解釈や『古事記』の崩年干支すら、検証に使われない。ところが、この両書に記載の崩御年月日が殆ど同じだという理由で、両氏が用明天皇から後のデータを採用するのだから、その支離滅裂ぶりには驚愕する。これが恣意的と言わなくて、何というのであろうか。
 こんな形の推計値が正しいわけがないが、それも、無理矢理、おかしな基礎データの選択をして、その上で無理に年代引下げを行ってきた結果である。これがデータ歴史学と自称するものなのだろうか。歴史研究者はもっと数理の知識と技能をもち、「紛い物」の論理は打破しなければならない。


 その他の平山氏の所論への疑問

 その他、平山氏の所論・見解には多くの疑問があるので、主なものについて簡単に列挙して、反論をしておく。

 @「四世紀以後の日本においては、王朝交代はなく、皇位継承においては血統が尊重されてきた」との坂田隆氏の所論を否定し、かつ、「日本の王朝が安定的に存続し始めた時期」が桓武天皇以降とするが、早川庄八氏の見解を基礎にするが、疑問が大きい。定型化した「即位宣命」なんていう、形式的なものが、これを裏付けるはずがない。
 古代の東アジア地域の王権相続で、血統原理が尊重されないものなど、そもそもありえない。東アジアのツングースや匈奴、蒙古などで、王位継承に当たり血統原理が厳しく作用してきたのは、これら諸国・諸民族の歴史を見れば、明白である。もちろん、日本列島にあっても、広義のツングース系の流れを汲む大和朝廷の王統では、厳しく励行されてきたのは言うまでもない。
 ちなみに、日本の天皇の「万世一系」は広い範囲で見た場合であって、応神が前王統から王権を簒奪し、割合近い同族(ともに息長氏系統)の関係とはいえ、継体が応神王統から王権を簒奪したのだから、その意味では「王朝交代」はあった。平山氏の言う天武系統から天智系統への変化も、ある意味、これに含めてよいかもしれない。ただ、それらの場合にも、簒奪者・継承者が、前王統(系統)の女性を嫡后的な地位に立てて、自己の王権の正当化が図られたから、これも血統原理が尊重された故のことだといえよう。

 A上古における王朝交代はないとする坂田説を否定するのは、私も同意だが、その王朝交代を認めたとき、平山推計値はどう変わるのか。その推定にあたって、数値のなかになんら変化がなければ、交代を認めようが、認めまいが、同じことである。
 拙見では、王朝交代があった場合には、その前王統では弱小化した王権状態のもとで、総じて在位が短期になると思われる。清寧〜武烈の四人の天皇については、例えば、在位年数半減などの調整がはかられるべきものと考える。だから、私見の試算Bケースでは、〔参考〕@ケースとして、神武崩年は203年、応神が404年、雄略が484.5年となることを示した。
 
 B「天皇の機能は幼帝でも果たし得るものとなった」のが、平安前期だと平山氏がするのは間違いである。外戚藤原氏による摂関政治で天皇が政治の実権を失ったのは、平安中期の村上天皇の後からであってそれまでにも清和・陽成など弱い天皇も見られるが、奈良時代の天皇でも実権が弱い天皇はかなり見える)、その時から以降は天皇の地位は形骸化したものである。桓武天皇の実権をもった行動や薬子の乱、あるいは藤原氏による一連の苛烈な他氏排斥活動をどう説明するのだろうか。
摂関政治の始まりは、醍醐天皇末期において朱雀天皇に関して見られる(941年に朱雀天皇が成人すると、藤原忠平は摂政としての辞表を出したが、改めて関白に任命された。同時代記録から確認される天皇の成人に伴う摂政から関白への地位異動の初例とされる)。忠平の死後、村上天皇の親政(天暦の治)で摂政・関白の座は空位となって、醍醐天皇の延喜の治と村上天皇の天暦の治は後世においては、摂関が置かれず天皇が親政を行った時代として理想視されることになる。
 
 「平安前期を境に、王権のみならず、日本の社会・文化の構造や動態は根本的に変化した」「平安前期を境に天皇の在り方に本質的な変化が生じた」とみる平山氏の見解は誤りである(「幼帝」が平然と存在したのは平安中期の冷泉天皇以降であり、この時から天皇の本質が変化したものだと言えよう。拙見で、データの選択範囲を村上天皇までとしたのも、この理由からである)。
 上記の狭い範囲のデータ選択に当たって、こうした平山見解が基礎にあるのなら、そもそも間違った見解に基づくデータ選択としか言いようがない。そこには、奈良時代と平安時代にほぼ半々に跨る桓武天皇を、推計の基礎データから除外する理由にはまったくなっていないという致命的な欠陥がある。
 
 Cニニギが南九州に降臨後に、その子が畿内に東征するのが神話の原型だとするのが日本史学界の有力な説だと平山氏が記すが、その場合には、だから神話は虚構であって、史実原型ではないとする結論につながるものである。すなわち、安本氏のように神話のなかに史実原型を見る立場(私見でも同様)とは、まったく反する。
 そもそも、天孫降臨の地たる「日向」とは、南九州ではなく、北九州の筑前海岸部であるからこそ、史実原型としての現実性を帯びるものである。ちなみに、津田左右吉博士も、神武の出発地を北九州とみた時期もあった。安本氏のように、現在の島根・出雲に居た大己貴命が北九州まで勢力を伸ばしていたとみるにしても(これも無理な想定なのだが)、なぜ出雲屈服後に天孫が南九州に降臨するのだろうか。新支配地を治めるための降臨だから意味があるのであって、おおよそ、支離滅裂である。
 
 D上古に遡れば遡るほど、王の在位年数が短くなる傾向があるとみる安本氏の説を平山氏が支持するが、これは疑問である(この項の記事は、多少重複がある)。
 政治が安定し、王の実際の権力が強くなれば、総じて在位年数は長くなるが、王朝・王統の末期などで、不安定期・混乱期が続くと当然、それが短くなるものであって、これは、いつの時代も変わらない。また、女帝が多く、併せて、生前退位者が多いという上古の天皇とは顕著に行動が異なる奈良時代の諸天皇を基礎に考えるのは、極めて問題が大きい(『季刊邪馬台国』掲載論考で安本説が裏付けられるというが、安本氏選別のデータの基礎で検討するのだから当然の結果で、お話しにならない。統計学に詳しい者〔実は、歴史的検討をしっかりなされていない方々〕がやった論考という見せかけに、読者は誤魔化されてはならない)。
 上古に遡れば、生物的に次第に短くなる傾向を示すのは、「1世代の年数」であって、これは、ずいぶん長い期間で見ると約30年→約25年くらいに少し短くなる可能性があるが、これと同じ傾向を王の在位年数が示すとは限らない。
 在位者数よりも、「1世代の活動年数」のほうが明らかに生物学的に安定的であるが、こうした事情も、安本氏側の論者は認識がない。
 
 E平山氏や安本氏の表現には、微妙だが気になる表現がある。それは、自分らの出した推定式、基礎データの採り方だけが合理的で、他の研究者のそれらが自らに都合の良いものを意図的に選んだ結果だとする言い方である(これを、重祚や弘文の取扱いについてまで言うのは、もう開き直りである)。
 ここまで見てきたところでは、むしろ平山・安本両氏のほうが恣意的であって、その傾向が強い。安本氏は、「言葉で言い負かそうとしても駄目だ」、合理的なデータに基づく推計が必要であると強調するが、これは、そっくりそのまま安本氏側の表現に当てはまるべきものだと実感する。どうして、そこまで自説に自信を持てるのか、不思議だと思わざるを得ない。
 要は、上古の諸天皇に存在しない重祚や、記紀に認めない天皇を加算し、記紀が天皇同格と認める執政者を除外する計算のどこに合理的なものがあるのか。このような根本問題があるのに、これを認識しないような歴史感覚で対応することに不思議さを感じるものである。


 <とりあえずの総括>

 以上の検討に見るように、安本氏の主な結論、すなわち@上古代の天皇一代の治世期間が約10年、A「卑弥呼・台与=天照大神」、B邪馬台国本国の東遷が実際にあって、これが神武東遷であること(支分国の東遷なら、「邪馬台国東遷」とは言わない)、などはいずれも疑問が大きいということになる(ただし、拙見でも、「神武東征」を否定するものではない。これは、伊都支分家の庶流の者が新天地を畿内方面に求めた分家活動であった)。

 今回、この関係の推計作業を改めてやってみて感じたのは、上古日本の大和朝廷では、王統の衰退・交替が、@応神のとき、A継体のとき、と二回あって(拙見でも、坂田隆氏の見解には反対であることは前掲)、こうした政治混乱・王権簒奪が皇室系譜や天皇の在位年数などに大きく影響した、ということである。
  だから、表づらの数値だけを見て、歴史の背景や本質を考えないで、歴史の的確な感覚・知識のない「統計関係者」がごく単純に推計作業をすることの危険性も実感する次第である。そのためには、適切な検証も必要とされるのだが、これが意外なことに十分認識されていない。

3 今回、本件検討をするに際し、推計式の基礎となるデータの範囲をいろいろ変えたり、1つの変数の場合、2つの変数の場合など、十通りを超える形で様々に試算してみたが、変数が2つの場合にはあまり大きくは影響が出ないものの、変数が天皇在位者数の1つだと、当然のことながら、きわめて大きく数値が振れることを改めて実感した。だから、その場合には、「データの同質性」についての精査がたいへん重要になってくることも分かる。 
 
 (2017.9.01掲上) 


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