T 安本美典氏からの批判に対するお応え(説明・反論・反批判)
     

   T 安本美典氏からの批判に対するお応え(説明・反論・反批判
                         

                                            宝賀 寿男

 
 はじめに
 古代史に関する私見は、もともと井上光貞氏の著『日本の歴史第1巻 神話から歴史へ』(1964年刊)で記述される内容を基礎に、これまで長く検討を重ねてきており、具体的な歴史事情などがそれに反すると考えられる場合には、それに対する疑問・反論の立場から見方を変えたり、立論したものの集成なので、大概のことについては合理的な説明・反論ができると思っている。安本美典氏におかれても、この出発点は同じもののようである。
 
 ちなみに、当初の私見では上記書などに基づき、例えば、@邪馬台国東遷説を採っていたので、神武と崇神との間に入る中間世代は2世代ほどとみており、A闕史八代の諸天皇についても名前の付け方から2名ほどの天皇(抽象的な名をもつ孝安、開化あたり)の実在性に疑問をもったり、B事績の乏しいということで存在性を疑問視される成務天皇の存在を否定したり、なども考えていた。また、C天照大神は女性神で、卑弥呼や台与に通じるのではないかということも、まったくの当初はそのような可能性があるとも考えていた。
 しかし、これら諸点のうち@〜Bは、すべて疑問説・否定説のほうがおかしい、すなわち記紀の記事を信頼してこれを基礎として良いという見方にその後に変わった。すなわち、神武東征はあったが、邪馬台国本国の東遷説は疑問(その結果、神武と崇神との中間世代は概ね4世代とみる)、闕史八代はそのままの八人の天皇として存在を認めてよい、成務天皇は『古事記』序にも特に取り上げられるように立派な事績もあって、存在は否定できない、などと変わったわけである。
 Cについては、その後の系譜(わが国の神統譜)検討の進展や宮中で祀られる神々、東アジアを含む諸外国の太陽神・月神の例を考えて、史実原型では女神とするのは間違いだと強く認識した(記紀編纂当時には、編纂者たちが、天照大神は女神という認識に既に変化していたことを否定するものではない)。
 
 ここでは、安本氏の拙著へのご指摘・批判(2017.7.23の「邪馬台国の会」における安本氏の講演資料に基づく)について当方が把握した範囲で、その主なものに対するお応えとして、当方からの説明・反論及び反批判を取りあえず、書き連ねることにしたい(内容は、拙著『「神武東征」の原像』を丁寧に読んでいただければ、そこに書いてあることと殆ど同じであって、要は、私の説明が不足していたか、安本氏のご理解・把握が足りないものではないかと思われるものなのだが。なお、これら主要事項の掲載順はアトランダムとなる)。

○神武天皇など初期諸天皇の治世年代の把握方法について
(1) 私見における初期諸天皇の治世年代の推定は、拙著『「神武東征」の原像』222,223頁掲載の表やその根拠記事に見るように、書紀の紀年・治世期間を基礎として、これを四倍・二倍・等倍の年暦に割り振った作業を基本として算出されており、天皇の世代数と在位者数による相関式だけによって算出したものではない。
 当該相関数式(変数が二つであれ、一つであれ)は区間推定にすぎず(中心値の推計で、区間推定では幅での推定とか数字のチェックとして利用するのが無難か)、『書紀』紀年記事の解釈・把握(拙考の場合は、四倍年暦等による配分とその調整)でしか、具体的な時期の推定ができないということである。
 この四倍年暦等の倍数年暦については、貝田禎造氏の著作『古代天皇長寿の謎』(1985年。六興出版)の説明などを基にして、私は上記書の記事を書いている。そこでは、仁徳天皇の治世期間87年や、新羅の諸王の『三国史記』の在位年数(応神天皇とほぼ同世代とみられる15基臨王〜18実聖王の四名の在位期間が合計で百年超もあったと記載あり)、などから見て、『書紀』紀年の仁徳朝までの記事では、四倍年暦という内容の古暦が存在したことを受け入れて考える必要があるという基本がある。こうしたことを基にして上古の年代を考えるのが合理的だと考えたものの結果である(ちなみに、四倍年暦は、『古事記』の雄略求婚譚でも窺われるし、『書紀』の記事から考えると、日本の七世紀後葉頃までの上古の時期ではいくつかの暦の並存が考えられる)。有坂隆道氏も、『日本書紀』の暦日が古代史を解く鍵だと指摘する。
 
(2) 天皇の世代数と在位者数の相関式
 @安本氏が天皇の在位者数に着目して在位期間の推定を行うまでは、それまでの研究者は世代数を基礎にして年代遡上計算を行ってきた(先駆者は数人いる)。那珂通世が一世代を30年、井上博士の上掲書でも一世代を約20年とする計算が見られる。これは、「人間の一世代(one generation)」が日本語でも英語でも、今は30年とみられており、生物学的な行動としてもこれが比較的安定していて、的確な数値把握につながるのが理由であることは言うまでもない。
 一方、一人の天皇や王の在位期間は、前王の死没(弑逆・討死も含む)、退位の時期や権力をもつ部下・重臣の意向により左右されることが多々あって、王朝の末期など混乱期も含め、総じて数量的に不安定である。奈良時代では、殆どの天皇が生前退位をしているという特殊事情もある。この在位期間の数値でごく短いのは1年未満もあり、長いのは日本の古代では推古天皇35年の例があるが、上古の近隣海外でも、高句麗の長寿王78年のように極めて長い期間もあり、在位期間で見ていくと幅も大きすぎることが分かる。
 
 Aところで、日本の古代天皇の世代と朝廷の主要古代氏族諸氏の世代の対応は、応神天皇以降ではほとんど完全に合致している。それ以前の時期は、どうかというと、倭建命の例外を除き直系相続の形で、記紀記載の神武以降の天皇家の上古系譜が続いているが、当時の主たる通婚先の磯城県主家などとの世代対応から考えると、このなかには実は傍系相続もかなり含まれるとみるほうが不自然さがない(だから、直系相続で続く系譜は、後世の偽造でまるで信頼できないとするのは、論理の飛躍である)。安定的で的確な世代を、上古天皇家(具体的には、応神までの初期段階の天皇家)について把握するのが困難だとみられがちだが、これは誤解である。
 大和朝廷を構成する主要氏族について、拙著『古代氏族系譜集成』などの記載に見るように主要30弱ほどの諸氏(地方の国造を含むで具体的に示されるように、かつ、その代表例を『「神武東征」の原像』196,197頁で大和朝廷の代表的な九氏族で掲示(神武から天武までの18世代について提示)したように、応神から初代の神武まで遡っても、更にその先の神統譜として天照大神の世代まで遡っても、それぞれの氏で安定的な世代対応を示す。これを、『古代氏族系譜集成』では「標準世代」という形で提示しており、上記多くの諸例を基にして帰納的に上古の世代配分を求めることができる。
 具体的な世代配分は、上古では、天照大神…(3代)…神武…(4代)…崇神…(2代)…応神…(3代)…継体…(4代)…天智・天武兄弟という形になる。
 神武から天武までが、両端を含め合計で18代(私見の神武活動期推計まで含めた場合、具体的な数値では、治世期間合計約510年、一世代平均28.33年)となる。これが、拙見における大掴みでいう「古代の標準世代」の配分とみており、拙著『「神武東征」の原像』でもこの辺を説明している。
 
 Bこの関係では、最近、思うところがあって、東北アジア地域(一に、端的には「満鮮地方」とも呼ばれる、中国東北部・ロシア沿海地方及び朝鮮半島あたりまで含む広域)の諸王家まで検討してみたところ、新羅3王家の前期段階の世代は、日本の上記標準世代と合致することがわかった。神武とその活動期間にほぼ対応する新羅初代王・朴赫居世から、下端は七世紀後半の天智・天武天皇兄弟と新羅・文武王(白村江合戦で倭と対峙。百済や高句麗を滅亡させたときの王)までの範囲である。
 超長期の在位期間をもつ王がいる高句麗についても、神武とその活動期間にほぼ対応する時期、故国川王の世代から669年滅亡時の宝蔵王まで、世代数でほぼ合致する(『三国史記』などに掲載の高句麗王系の記事には若干の疑問もあって、高句麗のほうが一世代少ないのだが、私見では実際には合致しているのではないかともみている。宝蔵王の先々代の嬰陽王までは、日本の世代配置と合致する。後者は、前者の伯父とされるが、実際には、この両者は「祖父世代─孫世代」という関係だったか)。百済でも、唐・新羅により滅ぼされた関係か、『三国史記』では系譜等に疑問がある箇所も異伝もあるが、実態を考えて調整すると、日本の標準世代と合致するといえよう。
 このように、東北アジアの諸王家では、世代で捉える見方では、安定的かつ的確に世代把握ができる。だから、世代数だけの1変数で過去に遡上して王の在位期間の推定範囲を捉えてもよいくらいである。ただ、これだけだと即位者が複数いる世代の在位期間の長さについては、実態に応じた適切な調整ができないので、世代毎の即位者数の変化を加味したものを推計のなかに入れてある。すなわち、拙見は、1世代に一人の天皇しかいない場合や複数いる場合、あるいはゼロの場合という、その個別世代の即位実態に応じて考えたものである。
 
 C私が『「神武東征」の原像』などで用いる「天皇の世代数と天皇在位者数の相関式」にあっては、天皇の世代数をどう考えるか、在位者数をどう考えるかという基礎的な問題がある。記紀などの資料の把握の仕方によっては、算出される相関式(推計式)の基礎データにも、そしてその結果、算出される推計式にも差異がでてくる。
 現に、私の試算過程では、何本か別の推定式案も出てきたが、そのうち代表的なものとして、同書に掲載の相関式を次のようにあげたものである。
   Yi=174.7 +13.0Gi +7.8ΣNi   標準誤差:8.73   R2 :0.998
      (上記相関式のGは世代generationの数、Nは在位者の人数の関係を示す
※上記相関式では、2006年当時の算出であったため、同書の基礎データ表に見るように、神功皇后はNの数には入れていないことにご留意。
 
 D当該相関式(上記Cで言うもの)は、世代数(X1=Gi)と在位者数(X2=Ni)という2つの変数を入れた数式であるが、当然、基礎の数字が大きい「世代」(X1)のほうがそのなかで大きな影響力を持つことになろう。これは、生物的にも社会的にも、より安定しているということにつながる。
 Eちなみに1世代の在位期間年数(X1)は、総じて言えば、二十年ほどから三〇年ほどの範囲のなかで、当時ではおそらく25〜28年くらいを中心にほぼ安定しており、在位者数(X2 )は世代によって変わるが、「0から∞(実際には多い方は4,5)」ほどの範囲のなかで幅がある(殆どの場合に、「一人」というのが、まずX2の基礎にはありますが、ゼロの場合もある)。2つの変数(X1、X2)は、お互い影響を与えない独立した変数であることは明らかである。だから、安本氏の言う「双方が関連性をもつ」ということになるはずがない(なぜ関連性があるのかという安本氏の説明が、先ず、合理的とは思われない。かつ、安本氏のいう複数の変数のマルチコ〔多重共線性〕が仮にあった場合でも、予測の推計式が無効ということにはならないことは、本HPの別項「安本氏のマルチコ批判に応える」を参照のこと)。
 なお、在位者数(X2)では0が出る場合が少ないが、現実のわが国には推古天皇の後に天皇即位者0の世代があり、同様に、高句麗でも在位の長い長寿王の次の世代には0が見られる。安本氏の言う双方が関連性をもつというのは、在位者数(X2)では「世代の1を必ず内包する」という意味かも知れないが、要は「在位者数−1」だと完全に独立であるし、この辺の「−1」は、推計過程では定数部分の計算にすぎない。
 
(3) 天皇在位者数だけで期間推定する推計方式(「安本方式」と仮に言う)の場合の問題点
 @在位者数については、ここまで述べてきたように、一代の治世期間の年数は総じてきわめて不安定である(だから、安本氏より前には、そうした不安定な推計方法は、若干の研究者を除いて、試みようとはされなかった)。上古の時期の天皇・王が実質的にも支配者(最大の権力者)であったことを前提に考えて行かねばならないが、そのためには、生存期間中に譲位・廃帝を含む退位や弑逆・暗殺などの不慮・不安定な事情が生じたときに、これらをどう考えるかの問題が出てくる。ともあれ、推計される対象の時期のほうにおける諸天皇の性格を十分調べたうえで、これと同質的なデータをできるだけ多く集めて、それを基礎に検討することが、当然必要になる。
 
 A天皇1代が約10年ということは、平均10年の在位だと、1世代の当時の長さから考えて、1世代に二人以上の即位者がいたことになり、例えば一人で20年超という長い在位者がいる場合に(具体的にその可能性がある天皇は、応神以降でも、応神・仁徳・允恭・雄略や推古などであって、かなり多い)、その者の在位期間を推定するのも難しい問題を抱えることになる。また、全体の半数ほどの者がこの平均在位年間を超えることにもなる。
 (この関係の推計式算出と問題点については、別項〔神武天皇の治世時期の推定〕をご覧下さい
 
 B拙見では、実のところ、安本・平山両氏が批判する中村武久氏の推算の仕方も、坂田隆氏の推算のそれにも(関係記事は『季刊邪馬台国』44号に掲載)、拙見では、ともに疑問とするところがかなりあるが、こうした多少の差異を考えても、そうした中村氏などの推算の基本的主旨は概ね賛成ということである。ちなみに、安本氏も、「上代についての推算は、上代についてのデータをもとに行うべきである」と記述されるとのことであり、これはデータの同質性ということに基づくということであれば、この同質性というデータ選択の姿勢を是非、徹底させていただきたいと思われる。
 C安本氏が典拠する資料の基本を『記・紀』及び六国史とするのであれば、A『書紀』に天皇と数えない弘文天皇を代数に入れて推算するのはおかしく、かつ、B『書紀』に巻第九として、仲哀天皇と応神天皇の間に置き、その執政(治世)期間を長期の69年と記す神功皇后を計算にいれないのは、まったくの疑問である。
 ちなみに、『古事記』の天皇関係記事を分析して、砂入恒夫氏は、その論考「崇神・垂仁系王統譜の復元的考察」(『歴史学研究』314号。1966年)では、天皇として扱われないが、『古事記』に天皇と同格の表現がなされている者が十人いると指摘しており、そのなかでは「日葉酢媛、神功皇后」の二人(実際には両者が同人。拙著『神功皇后と天日矛の伝承』を参照)もあげられる。安本氏は、天皇の数は確実に伝えられるとするが、誰を「天皇」として数えるのは、実は相当に難しく(後代の編者の判断だけに拠ってよいものではない)、異説がいくつも出てくる問題なのである。
 中村武久氏も、神功皇后は統治者であったとして、この者を推算から排除することの疑問点を指摘する。このAB2点の調整だけでも、かなり神武の活動時期が遡ることになる。
 
 もっと総括的に言えば、次の2点が言えよう。
@安本方式とその結論の同調・支持者(「安本氏側」と記す)については、基礎データの採り方に大きな問題がある。すなわち、推計基礎となるデータ集団のなかに同質的なもの、異質的なものが混在してあるにもかかわらず、これらを的確に分別せず、混淆して使用している。これは、これら安本氏側の関係者には揃って天皇などに関する歴史知識の乏しいことが背景にあって、分別の必要性を感じないからだとみられる。
 すなわち、基本的に、安本氏側の論者は、安本氏が選別するデータをそのまま鵜呑みで用いており、このデータ選択自体に基礎的本質的問題があるのだから、そうした基礎では、安本氏の主張に沿った結論が出てくるのも当たり前である(←批判者の側にある中村武久・坂田隆あるいは久保田穰などの諸氏は、適切なデータ分別の必要性を説くが、安本氏はそれを受け入れない。この分別作業をすると、神武天皇や天照大神の活動時期がさらに遡上するが、これを嫌うからではないかと思われる
 
A安本方式により導出される推計値は、あくまでも区間推計の数値(中心値)であって、それを具体的な歴史原型のなかに当てはめるには、別途の作業を要するはずだが、これをやっていない。基礎となるデータ集団にあっても、その採用値(「天皇一代=約10年」)と史実数値の乖離は、かなり大きいものがあるのだから、そこから推計作業を行っても、同様に数値乖離が出るはずなのに、これを無視している。
 
B安本方式により導出される推計値について、その検証・裏付けがなされていない。あるいは、合理的な裏付けがまったくない。安本氏の説く倭五王や神功皇后に関する説明は、歴史学界で多数のみるものとは大きく異なる、独自の解釈に拠るものにすぎない。応神と仁徳とを兄弟に考えざるをえないところまで、安本推計では狭い時期に押し込められる。
 安本氏は、自説に都合の悪い歴史データについて、知らないか隠していて、推計の計算のなかに入れない。あるいは、これらをデータとして掲載しない歴史辞典類のデータを精査せずに基礎データに使用するから、「データ使用が恣意的」と受け取られかねない(本当にこの辺の歴史事情を知らないのなら、そこに大きな問題がある)。
 例えば、百済の全盛期を現出した近肖古王(在位が346〜375年)、長寿王や欽明天皇の取扱いに問題があり、『記・紀』の記事に反する神功皇后・弘文天皇の取扱いも同様であって、これらへの対応は、皆、一代の平均在位年数を少なくする方向のものである。
 「水かけ論」という表現も、安本氏が時になされるが、この関係の議論でそうした言い方は適切ではない。統計的数理的な処理に対して、こうした言辞を行うのは、遁辞である。
 
C神武から天照大神までさかのぼる推計まで、安本氏らは行うので、この関係にも併せて言及しておく。
 問題は、神武から先は、『記・紀』に見える事績や命名から考えて、歴代はほぼ直系相続に近いのではないか。そうすると、約十年で世代交代(親が子を生んで、次の世代に交代する)をすることになるが、そんなことは生物学的にありえない。従って、わずか50年というほぼ二世代分のなかには、天照大神と神武の間の人々の行動が収まりきれない。そもそも、瓊瓊杵尊自体が「天孫」ということであるのに、記紀に言う「天照大神の孫」ではないのか、ということである。 また、卑弥呼に夫婿なく、従って子もいないのではないか。天照大神が「卑弥呼と台与」の二人の人格の合成したものと安本氏がみるとしても、太陽神祭祀の巫女的な位置づけは、卑弥呼から台与が同様に継承したはずであり、その場合、台与に夫婿や所生の子があったとも、到底、考えられない。

○安本氏算出の「天皇1世代=10.33年」への大きな疑問
 ※ここでの安本美典氏の説明記事は、神武天皇の治世時期の算出に関係することで、同氏の著『神武東遷』(1968年刊、中公新書)に主に拠ることにする。
 
 同書p133以下の「天皇の平均在位数は十年(飛鳥・奈良時代)」という項の記事には、大きな疑問がある。安本氏の主旨は、概ね次の通り。
 (1)30敏達からあとの天皇の在位数は、記紀でほぼ一致。この飛鳥時代(30敏達〜42代文武)の平均在位年数は10.21年である。
 (2)この10.21年は、それに続く奈良時代のそれ10.57年よりやや短く、それ以降の各時代の平均年数とのつながり方が、自然である。(10.21年との10.57年のほぼ中間値の10.33年が、飛鳥・奈良時代の平均在位年数だと安本氏が把握する
 (3)これらに対し、初代神武〜29欽明の頃までの『書紀』記載の在位年数は、そのままでは信頼できない。
 
 <これらの3点についての疑問>

 (1)について
 @敏達からあとの天皇の在位数は、記紀でほぼ一致はその通りだとして、27安閑以降は、『古事記』の崩年干支と書紀紀年とがほぼ一致するから(宣化・欽明は崩年干支は不記載。敏達が1年差)、この安閑から考えねばならない。
 A30敏達からとすることで、在位年数の長い29欽明(在位32年)を意識的に除外している可能性がある。
 B飛鳥時代の「30〜42」の13代の天皇には、『書紀』が即位者として記載しない(在位を認めない)39弘文が入っている。弘文は明治3年になって初めて、天皇のなかに追加された存在である。他の史料で見ても、平安時代後期の『扶桑略記』で初めて天皇に数えられた存在であり(現在の学説でも、即位を認めない説のほうが多そうだ)、仮に在位したとしても約8か月にすぎない。
 C 「30〜42」の13代の天皇には、わが国で先例のまったくない重祚の女帝、皇極・斉明天皇がおり、これを二代と数えるのは、異質なデータを前代の諸天皇の在位時期の推定に用いることになり、推計的に疑問が大きな手法である(もう一人の重祚女帝についても、まったく同様に問題が大きい)。
 安本氏は、重祚女帝や弘文の取扱いについて、「水かけ論」という語を使うが、まったくのお門違いの言い方である。要は、歴史のなかに類例があるかどうか(同質的なデータを基礎に推計作業が行われているか)、準拠資料に適切に則っているかどうかのことで、この辺は客観的、冷静に判断できる(だからこそ、坂田隆氏、中村武久氏が指摘し、久保田穰氏がこれらを支持する事情がある。一方、安本氏側の吉井孝雄氏、平山氏などの論考は、重祚や弘文をまったく無視する)。
 →以上の@〜Cを調整すると、「30〜42」の13代の天皇でも、平均在位年数が12.07年となる。27安閑〜29欽明の三代の合計40年を加算すれば、これら16代(実際には14人)の平均在位年数が12.34年にもなる。
※ちなみに、「飛鳥時代」の定義には差異があるが、推古天皇の時代を中心として、その頃から約百年ということで、崇峻以降から考える説もあり、『日本史広辞典』では「六世紀中葉〜七世紀前半の約一世紀をさす」と記される。継体天皇即位前後の政治的動揺がおさまり、次第に安定してきた時代で、飛鳥周辺に都があった時代とされる。
 
 (2)について:@奈良時代の「43〜49」の七代の天皇には、初代・神武から奈良時代末までの諸天皇のうち、唯一の廃帝(淳仁)がおり、それが重祚の女帝、孝謙・称徳天皇により治世時期の前後が挟まれている。しかも、皇極女帝に始まる生前退位が、奈良時代の殆どの天皇について見られる。実に特異な期間であった。
 このような事情は、継体天皇以前の日本の上古史のなかには考えられず、データの同質性の観点からは、三代の天皇を併せて「一代」として計算するのが妥当であろう。その場合、僅か五代の天皇となるから、平均在位年数が14.8年と大幅に増加し、10.57年という短期間ではない(だから、時代ごとに見ていくと、古くなるほど在位年数が短くなるという安本氏の指摘も誤ったものとなる。敢えて言えば、「数字の魔術」というところか)。この異質要素について、安本氏が無視するのは推計手法として疑問が大きい。
A桓武天皇の治世は、西暦781〜806年の25年であり、794年の平安遷都がほぼ真ん中に位置するが、若干奈良時代に多く入り、即位は明らかに奈良時代である。これを除外する理由は極めて乏しい(治世の全部を奈良時代に入れるか、あえて考慮して、0.5人で13年を加算することも考えられるが、それらの場合も平均在位期間が若干増加する)。
Bなぜ同質的な平安時代のデータ、とくに平安時代前半のデータを無視するのか?
 天皇が王としての実権を保持したのは、ほぼ9世紀中葉の「延喜天暦(醍醐・村上)の治」までである。ここまでの期間を推定計算の基礎におかないのは、平均在位年数が長くなるのを避けるためか?
 
 (3)について:上記の(1)で記したように、「27安閑〜29欽明の三代」の治世期間は、記紀でほぼ合致しており、これを信頼できないとするのは、むしろ強引な認定にすぎない。この時期を除外するには、疑問の大きい取扱いである。ちなみに、当該三代の平均在位期間は、継体天皇崩御の時期の採り方によるが、531年(ないし534年で、この遅いほうの時点で良いと思われるが)から571年までで、13.33(ないし12.33)ということになり、ここでも13年程度の期間を示す。
 
<総括> 飛鳥・奈良時代の平均在位年数だと安本氏が把握する10.33年には、上記のような大きな疑問があり、この期間の数値としても、概ね「12.34年と14.8年」との中間に位置する13.00年台ほどにもなる。
 久保田穰氏は、この天皇の平均在位年数について、片山正夫氏の13.17年を紹介しつつ、ご自身は中村武久氏の計算する12.5年(『季刊邪馬台国』四四号。1991年)くらいが妥当だとし、その場合、神武崩年は200年頃になると指摘する(『古代史のディベート』)。天皇の平均在位年数という数値だけをとっても、この計算の天皇のなかに誰を入れ、誰を除外するかの大きな問題があって、種々の計算ができ差異がでてくる。私も様々に試みてきて、最近ではまた別途計算してみたが、天皇の平均在位年数を使うのなら13.5年ほどが妥当であって、神武崩年は200年より少し前頃という結論を心象として得ている。それは、貝田禎造氏の言う上古の4倍年暦・2倍年暦の計算とも符合する。
 
 要は、安本氏の計算の基礎となるデータには、初期諸天皇の治世期間を推定するためには異質なデータを含みすぎるという問題点である。基礎データの採り方が素朴すぎるということである。こうした重要な異質データを入れた結果の平均在位年数の数値(10.33年ほど)を基礎に推計をしてはならないという推計の基本が、どうもご理解されない模様である。また、同質のデータを排除している。
 推計の基本は、@同質の基礎データはできるだけ多く採り、かつ、A遡る基点を設けるのであれば、できるだけ古いものであって、確実で安定的なものを採用するのが必要であるが、この2条件が安本推計では満たされていない。

 
○安本氏の「神武に遡る基点の採り方」への大きな疑問
 『神武東遷』の記事では、「『宋書』によれば、第21代雄略天皇は、西暦478年に立って(即位して)、宋に使いをだしている」として、21雄略即位と認定する478年と30敏達即位の572年を比較し、九代で94年だから、一代平均10.44年になり、「この値は、飛鳥・奈良時代の平均在位年数にほぼ等しい」とし、「一代平均の在位年数を、十年とすれば」、神武は雄略の二十代、「およそ、二百年まえの人となる」として、西暦278年頃活躍(即位?)していたと安本氏は推論するが、これらには大きな問題点がある。
 @雄略が478年に在位していたことは私も認めるが、その在位期間は23年(等倍年暦の期間)と長く、『宋書』等の倭五王遣使記事を総合的に考えると、即位の年そのものが昇明二年(478)とかその前年とは、まず考え難い(雄略の在位期間のなかに478年が入ることを否定しないが、在位期間の長い天皇のどこに当たるかが重要ということ)。倭五王関係の研究でも、雄略元年が477,8年とみる学説は管見に入っていない。
 上表文の記事に、にわかに父兄(済と興)を喪い、諒闇にこもったこと(服喪)や高句麗の遣使妨害も書かれており、即位してからすぐ遣使があったと把握できない事情がある故である。大明6年(462)に遣使した興が死んで武が立ったが、その即位時期は具体的に記されない。
 
 A『書紀』では、雄略朝(ないしはその前の安康朝)の記事から以降では、元嘉暦が使用されているという分析があり(まず通説といえよう)、これに基づけば、『書紀』のいう雄略元年が基準点となりそうだが、西暦に単純換算すると457年(その場合、479年に崩御)とかいわれる。朝鮮半島の『三国史記』の記事との対応で、百済が高句麗にいったん滅ぼされた時期や、武寧王の生年からは、雄略元年が456年とか458年とかに当たるとも言われ、この457年辺りの即位はほぼ符合するが(これが『書紀』編纂者の年代観であった可能性もあるが)、これらを安本氏が採らないのは、年代が遡上するのを避けるためかともみられる。
 なお、拙見では、武烈天皇の在位期間8年は、『書紀』では継体天皇の在位期間の初期のなかに重複掲上されているとみるので、雄略が465年即位、487年崩御と考えている。
小川清彦氏の研究によると、『書紀』の允恭までは儀鳳暦で、安康3年以降は元嘉暦で記されたというが、むしろ安康紀を境にそれ以前は儀鳳暦で編纂されたと有坂隆道氏が記述し、安康紀の取扱いが微妙である。この事情から、わが国に初めて伝来した中国暦は元嘉暦という可能性が大きいか。
 
 B雄略から敏達の間の天皇には、清寧〜武烈という四代の天皇が『書紀』にあるが、ここでは、在位期間が短い諸天皇が異例に続いており(応神王統末期で、衰退期の混乱要因となる)、そのため、平均在位年数が短くなる要因となる。欽明の32年という長い在位年数をもつ天皇がいるが、安閑・宣化(各4年)という短い天皇たちがいるから、こちらはそこで相殺される。
 
 Cこの安本推計方法の推計値だと、10崇神は368年頃の即位、15応神は418年頃の即位となるが、各種史料に見える年代と合わない。すなわち、倭の韓地における活動が360年代後半頃からであり(これが、『書紀』などの記事から見て、学界でも多数説とみられる)、石上神宮所蔵の七支刀(『書紀』神功皇后52年条には七枝刀。銘文は東晋の泰和〔太和〕四年で369年とみる説が多い)、崇神陵墓の築造時期から見ても、崇神の年代は引き下げ過ぎだし、倭王讃には応神を当てなければならなくなる(現に、安本氏は応神比定説を主張するが、きわめて少数説であろう)。
 応神は百済の近肖古王とほぼ同年代の人と伝えられており、高句麗の好太王と対峙した倭国大王は安本氏の主張する神功皇后ではなく(神功皇后が征討したのは新羅であり、高句麗と戦った記事が見当たらない)、応神とするのが自然である。また、当時の天皇陵墓が寿陵だとしても、崇神陵に比定されるべき箸墓古墳の年代に合わない(安本氏は、現崇神陵をそのまま認めるが、この認定自体がまず問題で、通説の言う箸墓古墳が最初の巨大古墳であるという見方に立ち、同墳の被葬者を比定するのが妥当だと考える〔拙著『巨大古墳と古代王統譜』参照〕。現崇神陵の築造でも四世紀後半くらいとされるが、崇神在位期が368年頃〜では時代が合わない)。要は、安本氏の主張する数値の検証がなされているとはとても思われないということである。

○安本氏が言う「上代にさかのぼるにつれ、平均在位年数が短くなる傾向」は本当にあるのか
 安本氏が勘違いされているのは、「上代にさかのぼるにつれ、平均在位年数は……短くなる『傾向』」を考える点である。これに対する反論は、中村氏が具体的な例をあげるが(『季刊邪馬台国』四四号)、そのほかに次の事情がある。
 上代に溯るにつれ、短くなる傾向があるのは、平均在位年数ではなく、1世代の平均年数が生物学的にそうだと考えられる。しかし、被殺を含む崩御ばかりではなく、譲位も含む生前退位なども関係する在位期間は、その王の資質や当該王をめぐる政治・社会の環境が影響するところが大きいから、崩御以外に退位事由が多くあった時代や王権が弱小化衰退化して政治混乱が大きかった時期は、上代であれ、中世、近代であれ、在位期間が短くなることが十分ありうる(源平合戦や承久の変などの兵乱状況に遭遇した天皇たちの例)。
 生物学的には、上古代は死亡要因が相対的に多くあり、総じて平均寿命も短いことは言えるものの、歴史の長い期間を通じてみても、総じて5年ほど短くなるであろう。そして、これは、古代からの天皇の同質的な性格から考えていくと、実際に推計に用いられるべき平安中期頃までの期間にあっては、微々たる傾向しか示されないのではないか、と考えられる。※この辺の問題は、別途でも記述する。
 
○安本氏が言う推計の裏付けがあるのか
 (1) 安本氏の推計数値には推計の計算だけで、その裏付けとなるべき検証が一切なされてないし、裏付けになるような物証もない。検証的な説明も、安本氏からこれまでなされた倭五王や神功皇后との関連では誤解とみられ、却って安本氏の推計への疑問を思わせる。この辺は、これまで検証のない年輪年代法や炭素14年代測定法による年代推定と同様である。一方、中村武久氏の論考を見ると、この論考のほうが様々な形で検証を試みていることが分かり、総じて比較的優れたものと評価できる。天皇の在位期関係のグラフも、安本氏の描くグラフよりも優れている(だからこそ、論理性を追求する弁護士であった故久保田穰氏も納得して、中村氏の言う平均在位期間12.5年を採用したものか)。

 ※それにもかかわらず、私が中村氏の結論を了解しない主要点は、次のとおりだからである。
@『古事記』の崩年干支を中村氏は基本的に受け入れるが、拙考では、安閑天皇より前の崩年干支の記事は、連続性がなく、その意味でそのままでの年代換算は疑問だとみている(この時期の年代換算に法則性を見出していない事情がある)。
A『三国史記』の新羅本紀の紀年記事をそのまま素朴な換算をしている(当時は、韓地でも倍数年暦の使用が考えられる)。神功皇后の新羅侵攻を拙見では370年代前半とみる。
B天皇一代が12.5年とする中村氏の推計の基礎には疑問がある(拙見では、この関係の数値を選ぶ場合には、13.5年ほど)。
C拙見では、「邪馬台国東遷=神武東遷」「邪馬台国所在地が畿内」「台与=百襲姫」とは考えない。また、仲哀と応神を親子(ないし親子という世代関係)とみる前提にあることに反対である。
D神武の享年を二倍暦で考えて68.5歳とするのは、長寿過ぎて不自然である。拙見では、当時の寿命は40歳代ほどとみており、神武もこの平均的な形に近いとみるのが自然であろう。
 
 (2) 私が『「神武東征」の原像』で行った推計では、貝田氏の倍数年暦論を基礎に具体的に数値を推計したものである。そのうえで、@世代と代数の相関式による推計、A五世紀代では倭五王それぞれの遣使記事、四世紀代では応神と百済の近肖古王・近仇首王との同時代性など、各種資料による同時代チェックを行っている。Bなぜかの解明はできていないが、書紀太歳干支の年代符合性も考慮。拙見のデータ推計の基礎を『書紀』『古事記』や関係記事としている。「前半部分は信頼性の乏しい崩年干支」の記事も、安閑天皇以降は、拙見の信頼性のチェックのなかで用いている。
 @新羅重臣の于老の殺害事件と武内宿祢・葛城襲津彦親子の関与
  『三国史記』新羅本紀に見える事件で、この場合、新羅の実際の紀年は調整しなければならないが、具体的な年代比定は三七〇年代後半ではないかとみられ、これは神功皇后・応神天皇の活動期間に当てはまると考えられる(拙著『神功皇后と天日矛の伝承』をご参照)。
 A応神と近肖古王との同時代性
a 『古事記』には、百済の照古王(=近肖古王)が応神の治世に馬1つがいなどを献上との記事がある。
b 石上神宮の七支刀 東晋の太和四年(泰和。369年とみる)。百済王の世子の「奇世聖音」(後の近仇首王〔在位375〜384〕に当たる)とも符合する。従って、この時の王は近肖古王〔在位346?〜375〕となる。
 応神は同世代の仲哀天皇を含めて、拙見の相関式からでてくる推計では、両者を併せた仲哀・応神の在位期間が380〜409年頃だから、活動期間を考えれば、即位前の応神が韓地で近肖古王と交渉のあったことも考えうる。
 
 以上のほか、<別項で掲上>するものがあり、それらは次のとおり。
   ─拙考の二元一次相関式への安本批判への反論─ 
 
 (2017.8.31掲上)


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  関連するものとして   神武天皇の治世時期の推定(一応の試算 
                 ─併せて、平山朝治氏の関係論考への疑問提起(付論)─