天照大神と大国主神の関係
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卑弥呼に関連するという天照大神と大国主神との関係
高天原の主宰神・天照大神及びこれと争った素盞嗚神や大国主神の位置付けについて、『記・紀』の記事に合わないとして、安本氏は拙考を批判するので、この辺について見ていこう。
安本氏は、たしかに『記・紀』の記事の表現そのままに、天照大神は女神で、素盞嗚神はその男弟、大国主神が治める葦原中国は出雲とも表現されるから、それが後の出雲国だと受け取り、筑後川中流域の朝倉市域にあった高天原が、出雲から筑前海岸部まで勢力を伸ばしていた大国主神と争ったと考える。
しかし、こうした把握は、具体的な地理事情を見ても系譜的種族的にも、私は無理が大きいと考えるから、この関係の高天原神話に史実原型があるとした場合には、他の様々な資料を総合的に考えて、次のように把握している(なお、『書紀』の神代紀に史実原型を求めた場合、あまり無理なく史実を考えられるのは、第九段の天孫降臨以降であって、それより前は神話〔虚構的な記事〕と考えておくのが比較的無難であろう)。
1 天照大神は、その原型は男神であり、素盞嗚神は天照大神の先祖にあたる者で、日本列島に朝鮮半島から渡来してきた天孫族の始祖神(皇祖神)である。素盞嗚神の韓地への降臨は『書紀』一書に見えており、そこから倭地へやってきたと見える。だからと言って、韓地から直接に出雲国にやって来たわけではないことを、拙著『天皇氏族』で記述している。
2 大国主神は、皇祖神たる素盞嗚神の子孫ではなく、仮に大国主神の遠祖に「素盞嗚神」という名の神がいるのなら、その場合は同名で呼ばれる別人である。
スサノヲには複数の神格(人格)があるように多くみられている。実際には、このような名・通称で呼ばれる者が一族・同系統で複数いたり(部族長の通称的な使用もあるか)、子孫が伝承を伴って各地へ移遷したともみられるが、その場合でも、大国主神は素盞嗚神の子孫ではない(瀧音能之氏などもこの立場)。素盞嗚神は『姓氏録』には二個所で見え、そこでは、いずれも大己貴命など海神族の遠祖の位置付けをもっているが、同神が天照大神の兄弟とするには系譜的に無理がある。
3 『記・紀』などの史料に「大国主神」という名で現れるのは大きく言って三人おり、@筑前の大己貴神、A出雲の大国主神、B大和の大物主神であり、そのなかではAの出雲の神が有名である。しかし、高天原と争ったのは@の筑前の神で、その統治する「葦原中国」※は筑前海岸部の那珂川下流域にあったとみられる(天照大神を卑弥呼・台与の2人格に当てる安本氏が、5,6ほどの異称をもつ大国主神について2,3の人格に当てることを疑問視することはないと思われる)。
※葦原中国については、森浩一氏も『日本神話の考古学』でも出雲とみるが、上古代においては、いわゆる島根半島と出雲の大部分の土地が含まれる本州島側の間に細長い海域(現・宍道湖や中海の前身などで、「素尊水道」と名づける)があり、総じていえば、低湿地とはいえ陸地化した、あるいは陸地化しつつあった時代の地形・環境が大国主命の神話の背景なのであると記す。総じて、この両陸地では農業生産力は乏しいといえるが、これが稲作を日本列島に伝え、それゆえ「葦原」(稲に通じる)の中国の地を治めた族長の支配地なのだろうか。「中国」とは、那珂川と御笠川に挟まれた中間の地であった故に名づけられたものであろう。 三人目の大国主神は、例があまりないが、一般に三輪の大物主神で知られる。例えば、『姓氏録』大和神別・大神朝臣条に見える者で(「素佐能雄命六世孫大国主」と記)、三島溝杭耳の娘・玉櫛姫のもとに通い、いわゆる三輪山伝承を残す神である。また、高志の沼河姫のもとに通ったのは、Aの出雲の神である。出雲の四隅突出墳丘墓が北陸の越前・越中にも分布が見えており、出雲の勢力がなんらかの形で越方面に伸びたことは裏付けられよう。
以上の1〜3のように見ることで、筑前海岸部の有力国(那珂郡を本拠の海神族)が筑後川中下流域の国(御井郡を本拠の天孫族)と争い、勝った後者が、一族子弟を前者の国を含む筑前海岸部を押さえる位置付けで日向峠付近の地(早良・怡土郡を本拠)に派遣した。これが、神話に見える「天孫降臨」ということになる(このように、現実的な地理に即して考えずに、後世の地名に基づいて考えると、高天原の支配者の行動は支離滅裂なものとなる)。いったい、何のために争いとも関係の無い宮崎県・日向の地に天孫降臨をさせるのか。これでは、天孫降臨が、歴史実態のない虚構だとされても不思議ない。
4 こうした原型が、記紀編纂期までに伝承が転訛(ないし融合)してしまい、編纂者はそのような転訛後の認識で『記・紀』を記述した。だから、記紀の神話記事やそれ以降に成立の史料の記事をもとにして、天照大神女神説を主張してもまったく意味がない(安本氏が女神の例証であげるのは、こうしたものが多い)。
安本氏は、『書紀』に天照大神が機織りをすることを示して女神の論拠とするが、三浦茂久氏は、天照大神は本来、月神であったとみており、神話に見える機織りは月神の特徴だとされる(『古代日本の月信仰と再生思想』二〇〇八年刊)。 5 この頁だけで、天照大神が男神であったことを簡単に言おうとすると、次の2点があげられよう。
@『延喜式』神名帳には「天照御魂神」を祀る神社がかなりの数、掲載されるが、この神は女神ではなく、男神だと受けとめられることがまず殆どである。その場合、天照大神と別神だともみられるが、物部氏族の穂積臣一族に伝わる「亀井家系図」では、その初祖に「天照御魂太神」をあげ、天忍穂耳命の親に置くように、「天照大神=天照御魂神」であり、日本の系図で女神から始まる古代氏族は皆無である。よく誤解されるのは、天鈿女命が「猿女君」の祖とされるが、猿女君は氏ではなく、神祇のある職掌に従事する巫女であって、これに尊称の「君」をつけたものにすぎない。 A天皇家の祖系が出たとみられる東アジアの東夷・ツングース系の古代諸王家(殷王朝や高句麗など)では、太陽神を祖神とし、それは例外なく男神であり、その妻は月神であるとされた。 6 記紀神話を基に『魏志倭人伝』に見える卑弥呼・台与を天照大神に比定するのは、きわめて無理がある(こうした説は、現在の歴史研究者では安本氏くらいであろうが)。 卑弥呼や台与は、天皇家系譜の誰にも該当しない、ということでもある(年代的に百襲姫や倭姫に当たるはずがないし、後世の偽造系図たる「海部系図」の記載人物の女性にあたるはずもない)。 拙見は、別途、本HPにおいて、「天照大神は女性神なのか」という詳細な記事を掲載するので、ご覧されたい。 また、併せて、卑弥呼は天照大神ではないという見解をネット上に掲載する「蒲田新田の庭先考察」の記事があるので、これを参照されたい。 端的には、「安本美典説は正しいか」というもので、邪馬台国問題全体は「蒲田新田の庭へようこそ」とある。 <余論>
1 以上でほぼ尽きるが、ここでは、余論的に、天照大神と筑前の大己貴神との系譜関係を見ることによって、素盞嗚神は天照大神の弟にはなりえないことを示しておく。この辺の両氏族の系譜関係は、諸書諸伝を踏まえ、一部推定を入れて整理してみると、次ぎのようなものかと考えられる(詳しくは、拙著『和珥氏』を参照のこと)。 すなわち、神武前代には、高天原系統と葦原中国(海神族)系統とは三代にわたる通婚を重ねたことになる。天照大神と大己貴命とが争い、大己貴のもとに送られた天稚彦(天若日子)は、大己貴の娘・下照姫の婿になり、その間に生まれた天鈿女命は瓊瓊杵命の降臨に随行して、降臨を迎えに出た猿田彦命(穂高見命)の妻となり、その間に生まれた豊玉姫・玉依姫姉妹が竜宮(海神族の国=葦原中国、倭奴国)を訪れた山幸彦こと火遠理命の妻となって、嫡子の彦波瀲尊彦や五瀬命・神武天皇兄弟を生んでいる。
大己貴命の父は一般に天冬衣命(天葺根命)と伝えられており、『書紀』神代紀の一書に大己貴の六代ないし七代の祖(『姓氏録』には六代祖)と伝えられる素盞嗚神のほうは、もしこれが実際に人格をもった者であったのならば、天照大神よりもずーっと先の時期に活動したことになり、天照大神の弟にはなりようがない。
ちなみに、十世紀後葉の北宋に日本の東大寺の僧・「然(ちょうねん)らが雍熈元年(984)に来て、銅器や『王年代紀』などを献上したが、天御中主(みなかぬし)を初代とする皇統譜には、第18代に素戔烏尊(その前代が伊奘諾尊)、第19代に天照大神尊、第24代目に神武天皇の名前が記される(『宋史』日本伝)。平安中期の円融天皇治世のときに存在した『王年代紀』が何に基づくかは不明だが、同書では、天照大神の先代に素戔烏尊があげられることに留意される。
2 天照大神の天岩戸隠れに通じる射日神話を代表的な中国神話で見ると、神話の五帝のなかにかぞえられる帝堯のとき、初め十個の太陽(火烏。この化身がカラスに注意)が天にあって、十個が一緒に天空に出たために、世界が非常に熱く、大地には何も生えないほどで、人々はひどく苦しんだ。そこで、帝堯の指示をうけて、后(こうげい)という弓の達人が九つの太陽を射落としたところ、残り一つの太陽も射落とされるのを怖れて隠れたが、この一つだけは招来されて(招日神話)、現在に至るという。 この射日・招日の神話が、世界各地にあり、わが国の天照大神の天岩戸隠れと岩戸から出て高天原への再来という神話に通じるともいわれるから、「天岩戸神話」が日食にも受けとられる余地がある。それでも、そこに史実原型があるとは、直ちに考えられるわけではない。安本氏は、天岩戸隠れまでの天照大神が卑弥呼で、天岩戸から出てきた後が台与だと解するが、射日神話は世界各地に見られるのだから、記紀の射日神話について、史実の原型を見出すのはまず無理があろう。 は弓の名手として活躍したが、その妻の嫦娥(月の別称。道教では、嫦娥を月神とす)に裏切られる。天帝で太陽神である帝氈i帝舜と同じとされる。郭沫若、白川静博士の説)には羲和という妻がおり、その間に太陽となる十人の息子(火烏)を産んだ。太陽神は殷の祖神でもあるから、その同族の箕子の流れを上古倭地の天皇家が引くとしたら、当然に原型が男神となる。 (2017.8.26掲上。その後も微修正)
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