天照大神は女性神なのか

 
           天照大神は女性神なのか

                                       宝賀 寿男
 
 一 はじめに
 
  『古事記』『日本書紀』、いわゆる『記・紀』の神話を、いわゆるギリシャ・ローマ神話と同じ性格の「神話」、虚構と位置づけ、これについての歴史的視点からの分析を拒否する姿勢が「科学的思考」だという考えが、津田博士以降の戦後の歴史学界では長くとられてきた。しかし、その基となる分析が視野狭窄の議論を基に構成されているのだから、これは一種の思込み、予断・信念だといってよい。そこには、東アジアという広域における習俗、祭祀や神話・伝承のあり方を視野に入れていない事情があるからである。
  古代中国の東夷北狄系の民族にあっては、「天・太陽」を崇敬し、鳥トーテミズムがあり、金属鍛冶精錬に優れた技術をもち、「地域移動」を高所・天からの降下(天降り)と受けとめる考え方があった。だから、神武天皇以降の歴史へとつながる「高天原神話」を、端から「神話」であってすべて虚構である、後世の偽作・造作である、と決めつけるのは問題が大きい。神が人であるならば、天空・天上に住んでそこから降臨してくるのはありえない行動だという思考は、いかにも短絡的・現代的すぎるものである。
 当時の古代人の思考のなかで、ものごとを具体的な諸事情を踏まえて総合的広域的に把握して、そのうえで分析しなければならないということである。

 だから、史料の記事そのままに受けとめるのも問題が大きいことはいうまでもない。古い昔のことは、時代の変遷に応じて様々に変容を受けているものであることが多いからである。記紀神話を歴史学的科学的に分析して、史実原型として考えようとしたとき、それに耐えられるのか、分析の結果が歴史的に意味あるものなのかを冷静に判断すべきことが重要である。
 これら検討を「皇国史観」に基づく作業だと頭ごなしに決めつけて、これで終わらせるのは、おかしな話である。それで議論が全て終わるわけではない(結論的に、とりあえず先に言えば、『書紀』第9段の天孫降臨より後の同書の記事は、史実原型の追求はできそうでもあるが、一方、第8段以前はどうも史実性がかなり薄い感もある)。

 ともあれ、「高天原神話」の主人公の一人が皇祖神とされる「天照大神」である。戦前では、この神の重要性は天皇家の国土統治の淵源をなすものとして重視されてきた。戦後の古代史にあっても、主に非学究の立場にある一部研究者たちからではあるが、『魏志倭人伝』の卑弥呼に当たる人物だとして重視されてきた。その代表的な存在が安本美典氏であることは有名である。
 しかし、「天照大神=卑弥呼(併せて、台与)」という議論は、「皇国史観」論議をさておいても、結論としてはきわめて問題が大きい、端的にいえば、これは誤りであるということである(これも、この神が「女性」という一種の予断がなせる業か)。

 ここでは、先に拙著『「神武東征」の原像』で記述したことを踏まえて、卑弥呼論議に直接関わる標記のテーマを検討してみることとしたい。

 
 二 女神否定の論拠
 
 記紀の描写・記述もあって、天照大神は当然のことのように「女神」と思い込まれてきた。つまり、記紀においては、天照大神が女神として把握され、そういう性格で描写されており、このことを拙見でも疑うものではない記紀編纂者における当時の認識がこうだったということは、否定するものではないが、それが史実原型につながるのかという疑問がある。つながるとしても、原型がそのまま女神でよいとは言えない)。最近では、神武天皇実在説をとる皇學館大学名誉教授田中卓博士ですら、女神を原点とする女系天皇容認論(『諸君!』平成十八年三月号)を展開される。
 しかし、多角度から検討してみると、天照大神の原型が史実のなかにあるとしたら、それはむしろ「男神」であったと考えられる。江戸期には天照大神男神説もかなり見られており、津田左右吉博士や最近でも松前健氏、楠戸義昭氏、武光誠氏などに男神説が見られる(その後も、男神説が言われるのがかなりあるが、様々な所論の紹介が本稿の目的ではないので、これ以上は列挙しない)。
 これらの所説には様々な差異があり、私としても、個別の内容には多少とも異論がないでもないが、結論的には総じて同説である。ここでは、私見の根拠を簡潔に列挙すると、次のようなものである。
 
日本書紀の冒頭は陰陽二元論で始まり、イザナギ・イザナミ二神(諾冊(だくさつ)二尊)による国生みや神々の生成もこれに従っており、国中(くになか)の柱(みはしら)天之御柱)を回る場面では、イザナギを「陽神(をかみ)、イザナミを「陰神(めかみ)」と呼んでいる。男は陽で、女は陰であり、陽は太陽で、陰は月であるから、天照大神は太陽神であり、本来男でなければならず、月読尊は陰神であり、本来女でなければならないはずである。
  この対比は、ギリシャ神話でも同じであって、太陽神のアポロと月神のアルテミスの兄妹神の組合せで現れており、世界中で例外が少ないとされる(
北欧やエジプトには女神もあるというが)。とくにアジアでは、太陽神を男神とするのが殆どのようである。太陽祭祀をもつ天孫族の根源が、韓地、さらには中国本土方面からの渡来にあるのであれば、そうした始源期段階にあっては、本来は男神とされていたとするのが自然であろう(拙見では、天孫族の遠祖は、東夷・ツングース系の殷王族の支族から出た箕子朝鮮王家の流れに出たとみている)。
 
太陽は男性として表象されていたために、それに仕える巫女(伊勢斎宮)が処女(未婚女性)でなければならないとされた。この奉仕過程で、日巫女は日神子あるいは日御子へと昇格し、太陽神(の代理)として一体化して表象されるようになったとみられる。天照大神は「大日(おおひるめむち)」とも号されるが、「」は巫女の意味であるので、大日貴は本来は天照大神の妻神なのであろう。
  神武即位前紀や『旧事本紀』皇孫本紀では、神武の祖神として、「我
天神高皇産霊尊、大日尊」とあげるが、書紀の一本や『旧事本紀』前田本では「大日霊尊」と記すから、こちらが原型の表記だったものか。その場合、男性神の「オオヒタマ」で天照御魂に通じる。
 
江戸初期の伊勢外宮の神官であった度会延経(わたらい・のぶつね)は、平安後期に大江匡房により朝廷の公事・儀式について書かれた『江家次第(ごうけしだい)』の記述のなかに、「天照大神のご装束一式」への言及があり、この装束一式が「男性の装束」であるとみて、「之ヲ見レバ、天照大神ハ実ハ男神ノコト明ラカナリ」と結論づけている(『内宮男体考証』『国学弁疑』)。
 江戸時代には荻生徂徠・山片蟠桃などから天照大神男神論が言われていたし、伊勢神宮の内宮の本殿真下にあるという高さ1bほどの「心の御柱」(天の御柱)は祭神が男神であることを示すものとされる。この社殿を造るときには、最初に御柱を立て、夜半に土地の娘達により篝火を焚いて秘密神儀を行うといわれる。
  山片蟠桃が『夢の代』で論述するのは、日本開闢以来なかった推古女帝の即位を主要原因とする性別の変更という、いわば推測説であり、それより前に神功皇后や飯豊青尊という実質女帝的な執政の存在もあり、推古だけが性別変更の原因ではなかろう。ほかに史料もないから判じ難いが、大きな契機であったことは考え得る。

 筑紫申真(つくし・のぶざね)氏は、アマテラスの原型は「太陽神のアマテル」と呼ばれる男性自然神であり、後に性格を変遷させたこと、皇祖神としてのアマテラスは天武・持統天皇によって七世紀後半に造りあげられた大変新しい神だったことを説かれる(『アマテラスの誕生』角川新書158)。
 溝口睦子氏は、『アマテラスの誕生』(2009年刊)で、もとは男神の高皇産霊尊が高天原の主神(国家神)であったが、これが後になって女神の天照大神により次第に位置を替わられたと説く。原型の男神が五世紀から七世紀までが主神の位置にあって、アマテラスの国家神化はその後に起きたとみる。ともあれ、古い時代の男性主神が卑弥呼にあたるはずはない。
 なお、アマテラスがもとは皇祖神ではない伊勢の土着神であったのが、のちに皇祖神として取り上げられたという説も見られるが、こうした見方は不自然である(皇室が古くから伊勢と縁由をもった事情はなかった)。やはり、もとから皇祖神の一人であったと考える(宮中では、別の名の男神として祀られる)。「七世紀後半に造りあげられた大変新しい神」という見方は、まるで論拠のない推測であり、推古天皇までの歴史しか記さない『古事記』にあって、すでに女神としての性格づけがなされていた(なお、『古事記』の成立時期については、同書序文の記事は後世の偽作とみられるが、同書の原型が先ずまとめられた時期の古さを、とくに疑うものではない。その後も、記事には変遷が考えられるが、その辺が不明だということである)。
 
東アジアの種族論からいっても、「高天原」(これが『魏志倭人伝』の「邪馬台国」にあたるかどうかは別の議論があるが、これについては安本美典氏とほぼ同説でかまわない。ただし、具体的な比定地は若干異なる。また、天皇家の先祖たちが居た地なら、それが複数あってもかまわないし、その場合にそうした故地が韓地にあっても可)を治めた天皇家の先祖の一族(これも、広義で「天孫族」と呼ぶことにする)は、東夷(扶余系ツングースと同系の半牧半農種族か広義での同種族)系統の種族の流れであった可能性が大きい。匈奴などをはじめとする中国北東部に展開した種族では、男系王統という血脈を重視した事情もある。東アジア・西アジアの古代史を見れば、匈奴や蒙古()の黄金氏族に限らず、男系重視の事情が顕著に出てくる。
  いわゆる「騎馬民族説」が否定されるのは、同説に言う、日本列島到来の時期などから考えて当然のことであろう(
崇神や応神の時代になって、日本列島にやって来たはずがなく、渡来時期はそれよりずーっと早い西暦1世紀代か)。そうだとしても、上古代の日本列島の支配統治部族が、祭祀・習俗などから見て、東夷系統が主体であったことも否定できない。
 
5 現実に、わが国の天孫族の上古祖系(日本列島における初現期段階)の系譜については、『斎部宿祢本系帳』(安房洲宮祠官の小野氏蔵本)などに見られるが、これが意外に認識されていない。その重要な系図は、ツノコリタマ角凝魂神、角己利命倭地始祖の五十猛神に相当する)なる者から実質的に始まり、天照大神にあたる位置の者には、系図に「天底立命」という名で記されており、すべての歴代が男系でつながる系譜となっている(当然のことながら、系譜の途中の世代に女性が単独で入るような系譜は、いつの世でも殆どない)。

 日本の古代氏族について、『新撰姓氏録』など各種の系譜資料からみても、女性を始祖として掲げる氏は皆無であり、かつ、天照大神の名は『姓氏録』にはまったく見えない。一方、天照大神より先代にあたる「角己利命・角凝魂命」や、「天高御魂乃命・高魂命・高御魂命」が同書には多くあげられている。前者は十例(
鳥取連・倭文連や額田部宿祢など)、後者は二十例近くも見える(なかには、系譜仮冒もあるかもしれないが)。
 なお、天鈿女命を祖とする「猿女君」とは、職掌の名称であって、氏族の名ではない(
拙稿「猿女君の意義『東アジアの古代文化』第106号〜108号参照)。この「君」とは尊称にすぎず、カバネ()ではなかった。古代史の学究たちも、古代氏族の系譜や姓氏研究についてはまじめに研究していないせいか、まるで知見がないか、的はずれの見解が殆どである。現実の古代史料には、「猿女君」を名乗る姓氏の者は誰一人登場しないということである。これは、最近に至るまで多く出土する木簡まで見ても、同様であって、現在まで変わらない。

 広義で見て、天孫族と東夷同系の種族とみられる高句麗王家では、始祖の朱蒙は日光に感精した河伯の娘から卵で産まれたという伝承をもっていた。日本と高句麗との間には、王者の収穫祭が即位式に結びつく点、穀物起源神話や王者の狩猟の習俗などで、両者の王権文化や習俗は多くの共通点をもっている(大林太良『東アジアの王権神話』)。このほか、朝鮮半島では、天日矛関係の伝承に見るように、
日光による受胎神話が多く見られており、これらは太陽が男神であることを示すものである。始祖の卵生伝承も、中国・朝鮮半島に多い。
 
「天照」という神は、『延喜式』神名帳では、大和国の城下郡鏡作、城上郡他田、摂津国島下郡新屋、山城国葛野郡木島などの「天照御魂神」を代表に、河内国高安郡の天照大神高座神、丹波国天田郡の天照玉命神、播磨国揖保郡の粒坐(いいぼにます)天照神、対馬国下県郡の阿麻留神などがあり、六国史では、『三代実録』に天照真良建雄神、天照御門神、天照高日女神が見える。
 これらのうち、河内国の天照大神高座神は二座であって、いま祭神を天照大神・高皇産霊大神とされるが、これとて元の名を春日戸神とされるので、女神といえるものではない。また、天照真良建雄神は男神、天照高日女神は女神であることが明らかであるが、後者の実態は天若日子の妻神の「高日女」(大己貴神の娘の高照姫〔下照姫〕のこと)を指すもので、夫の天照高日子に対応する名前である。
 これらの「天照神」は、物部氏族、鴨県主・三島県主や伯耆国造など天孫族系の氏族(いずれも、天照大神の子の天津彦根命の後裔氏族)から祖神として奉斎されたものであり、その大半が天照大神と重なるとしても、その場合にも命名からいって明らかに男神と認識される。

 以上に見るように、我が国の太陽神たる「天照大神」の原型が男神であることは疑いなく、従って、女性の卑弥呼に比定されるはずがない(年代的に考えても、神武天皇は卑弥呼よりも若干だけ前代の時期に活動する人物である。年代など諸事情を考えても、「邪馬台国東遷」もなかったということである。神武東征は、邪馬台国東遷ではなかった)。これに限らず、戦後の研究者たちの『記・紀』神話などのの語句や地理の理解には、「出雲」「日向」とか「熊襲」などで、あまりに素朴すぎる単純な把握・理解がかなり見られており、このため、人によっては一種の皇国史観として揶揄される要素を含んでいる(安本氏の津田博士など他説批判には総じて合理的なものが多いが、だからといって、その所説・見解が正しいわけでもないことに十分、留意される)。
 
天照大神が女神とされた経緯については、松本善之助氏の推測(『秘められた古代史ホツマタタヘ』)があり、比較的説得的だと思われるので、紹介しておく(※いわゆる「古史・古伝」の偽書性については疑いがないから、これらを史料として取り扱うものではないが、その分析自体は、これとは別問題である)。
 それによると、「女帝第一号だった推古天皇と密接な関係がある」とされ、「にわかに女性が帝位につくということは朝廷内外に非常な抵抗と衝撃を与えないはずはありません。推古天皇自身も何か合理的な支柱を必要としたことでしょう。その意を汲んで作為したのが、馬子と聖徳太子だったと思います。…(中略)…当時はそれを、日本書紀の推古天皇二十八年のところにある天皇記、国記の編纂に求めたのです。そこで試みられたのが天照大神を女性に仕立てるということでした。」(同書六〇〜六一頁
 これに加え、藤原不比等が天武王統の正当性を主張するために『日本書紀』を編纂したという見方もある。すなわち、当時、持統天皇は孫の軽皇子(文武天皇)の天皇即位に執念を燃やしており、不比等は、その意向に答えるべく、女帝持統から子・孫への天皇継承をことさら正当化すべく、天照大神を持統天皇に比定ないし擬定し、女神としたというものである。
 『書紀』の編纂に当たり、日本の神々とその系譜が議論され、天武王統に都合のいいように日本神話が構成・配列されていった可能性もないでもないが、その場合でも、先の推古女帝が『記・紀』の天照大神のモデルとしての根幹にあったものとみられるから、不比等だけの手による『書紀』改編説には大きな疑問がある。とはいえ、持統女帝などの像も、天照大神像に折り込まれたことは考えられなくもない。山片蟠桃らの推測論だけでは根拠が弱い面もあるが、天皇祖系となる東アジアのツングース種族の太陽神を考えると、もとが男神であったことは疑いの余地がない。

  これらの意味で、『記・紀』当時の編纂過程による性格改編もあった可能性があるが、それよりもこれらの原典史料自体が成立までに何度か改編過程を経てきており、そのなかで、天照大神の女神としての像が次第に形成されてきたと考えられる。そして、大きな契機としては、推古女帝の存在や幻となった「皇記、国記」の影響がもっとも大きかったのではなかったかと思われる。当然そのなかには四世紀後半の神功皇后(韓地遠征を行った実在の女性執政。ただし、「息長足姫」ではなかった)や五世紀後葉の飯豊皇女(飯豊青尊)という大王的な実権をもつ人物の存在も重なったことは無視できない。

 なお、大日貴(オホヒルメムチ)などの表記や、『記・紀』『古語拾遺』などの現在に残る文献史料に見える天照大神の記事を取り上げて、これらは皆、女性神として描かれると主張しても、『記・紀』などの編纂・成立期までに原型から既に変質していて、これら諸書の編纂者が、編纂当時にそのように理解し把握している場合には、原型も女神だったことの立証、裏付けになるわけがない。上記のオホヒルメムチの表記が古くからあったという立証もできるはずがない(仮に古くから当該表記があったとしても、それは高皇産霊尊か天活玉命の妻神の意味であったろう)。
 
 
 三 関連する様々なことがら
 
 記紀神話では、天照大神の対立者は弟のスサノヲ神(素盞嗚神)とされ、それが出雲に追放されて、オオナムチ(大己貴神、大国主神)らのいわゆる「出雲神族」の祖となった形で表現されるが、これもまた不思議なことである。 
 記紀神話に見える、いわゆる「出雲」とは、その実態は筑前沿岸部の博多平野にあった「葦原中国」のことであり、オオナムチ(大己貴神)主宰の海神族の国であり(『魏志倭人伝』等の奴国にも通じる)、後の山陰道の出雲国たる島根県ではなかったし、スサノヲ神すなわち五十猛神とは、天照大神を含む、わが国天孫族の始祖神であったからである。
  十世紀後葉の北宋に、日本の東大寺の僧・「然らが雍熈元年(984)にやって来て、銅器や『王年代紀』などを献上したが、天御中主を初代とする皇統譜には、第18代に素戔烏尊(その前代が伊奘諾尊)、第19代に天照大神尊、第24代目に神武天皇の名前が記される(『宋史』日本伝)。平安中期の円融天皇治世のときに存在した『王年代紀』が何に基づくかは不明だが、天照大神の先代に素戔烏尊があげられることに留意される。鈴木真年も、スサノヲ神を天孫族の始祖神と把握して記述する。

  従って、スサノヲ神は「海を統治する神」でもない、まさに太陽神であった。いわゆる国譲り神話の「日向」とは、博多平野の西部から怡土地方にかけての沿岸部地域にあたる。この国は、「高天原」の支分国家であった、からでもある。この辺から考えても、天照大神とスサノヲ神の対立に絡む神話には、史実原型を求めないほうが無難であろう(敢えて言えば、天孫族の高天原と海神族の葦原中国との対立抗争が基にあるか)。
 記紀神話の原型把握のためには、祭祀やトーテミズムなどの習俗、種族論や、これらに関する古代東アジアの伝承などを抜きにしてはならない。ほぼ原型が残ったものとされる『出雲国風土記』を適切に『記・紀』と対比させれば、いわゆる記紀神話の舞台地域が後の島根県という地域ではないことが明確に分かってくる。どうして、こうした基礎的な作業や把握が的確になされないのであろうか。表記・言葉での予断が、古代史の研究者にあって大きすぎると言わざるをえない
 
 先般、工藤隆氏の『古事記の起源』(中公新書1878。2008年刊)を読んだなかで、中国の少数民族のイ族の四川省大涼山地域では、太陽は女性で、月が男性と考えられていることを知った。同書のなかには、福永光司氏の著作『「馬」の文化と「船」の文化』では、中国北方の「馬」の文化では太陽を男性とみなし、南方の「呉越・越の海岸地区」の「船」の文化では太陽が女性として信仰されていたし、沖縄の『おもろ』の創世神話でも太陽神は女性とされた、という記事もある。
 わが国の現存最古の史書とされる『古事記』(序文も含む成立の経緯)が「偽書」であることは、他の箇所でも私は記してきているが、その大きな根拠の一つは、「稗田阿禮」なる人物が実在しなかったことにあり、この名前が見える序文の偽作性と内容が信頼できないことにつながる。従って、『古事記』編纂が天武天皇の勅命でも、国家事業でもなかったことにもなるが、『古事記』の系譜等の記事からみて、同書が主に海神族系統によって伝えられてきたことが感じられていた。わが国の海神族は、中国の少数民族のうちタイ()系民族につながるものであるが、イ族はビルマ族と共通する点が多くあるようで、そうすると、この種族のほうはわが国原住の山祇族に通じるのかもしれない。
 天照大神の女性神化には、こうした種族的な影響も多少はあったのかもしれないが、それはともあれ、中国のいわゆる「東夷」や北方の騎馬系民族にあっては、太陽神が男性という傾向があったことがここでも言われ、天孫族系の天皇家が女性祖神を本来、メインに仰ぐはずがないということが確認される。すくなくとも東アジア的な視点で神話の神々を見るとき、原型の天照大神が女神であったことはありえない。

3 日本列島における日光感精の例
  谷川健一氏が論考の「邪馬台国と鵲」(『東アジアの古代文化』5号、1975年初夏)であげる例を、次に付記しておく。日本列島にも、南九州とはいえ、こうした太陽神信仰があったことが分かる。この日光感精にあっては、太陽神が男性神であったことが明らかである。

@鹿児島県の国分市の大隅正八幡宮
  この神社にまつわる古縁起では、陳大王の娘の大比留女(おおひるめ)が日光に感精して七歳にして子を生んだので、母子を共にうつぼ船に乗せて流し、着いたのが大隅の海岸という。この辺は、卵生の脱解が船で朝鮮半島へ流されたという伝承にも通じよう。

A奄美大島の巫女の始祖伝承
 思松金(おもまつがね)という童女が日光に感精して太陽の子を生み、これが巫女たちの始祖として崇拝されるという。琉球の最初の伝承王統の天孫氏が、天帝の子孫だとも神武の兄弟から出たとも伝えることにも通じ、琉球の島々まで、天孫伝承が分布することにも通じよう。


 (2010.8.27 掲上。2012.7.21及び2017.7.7、同8.17や2021.2や2023.6などに若干追補)
  


   関連して 天照大神と大国主神の関係 もご参照下さい。

                             

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