『記・紀』の紀年論とその周辺

      
                                     宝賀 寿男

 
   はじめに

 津田左右吉博士が記紀の描く歴史像に疑問を提起し政府から弾圧を受けたことで、戦後、津田史学が学界の主流になるにつれ、『古事記』及び『日本書紀』(以下、両書を合わせて「記紀」、その個別性を考えるときは「記・紀」と書く。また、古事記』を『記』、『日本書紀』を『書紀』とも書く)はその史料価値を大きく貶められた。たしかに、津田博士などが指摘するように、記紀とくに上古部分の記述には一見、非科学的・非現実的そうな内容が多く見え、それらの殆どが皇国史観に結びつけられて理解されたため、戦後の歴史学界では、応神・仁徳天皇より前の記紀の記事がほとんど信頼されなくなってしまった。ただ、そのなかで崇神・垂仁ないし景行の二、三代だけは別途、実在性を認められることもある(ただし、稲荷山古墳鉄剣銘文から崇神や大彦命の実在性を考えるのは、誤解であることに留意)。

 ともあれ、上古史のなかで英雄的な存在でもある神武天皇・倭建命・神功皇后については、頭から当然のこととして実在性を否定され、天孫降臨・神武東征・倭建遠征・韓地出兵などの事件もみな、後世の虚構として扱われてきた事情にある。これら記事のすべてが記紀編纂当時の天武皇統の日本列島統治を正当化するものとして構想され、捏造されたとみられてきた。「万世一系」の皇統などの古代系譜も同様である。神武天皇の活動時期や初期天皇の多くに見られる百歳超の異例な長寿、長大な治世期間や地理的な疑問、天皇の命名の不自然さ、海外資料との間の不整合などが、それぞれが史実として見ればありえないことが多いと専門学者から判断されたということである。
 しかし、問題は、否定されるべきだったのは、記・紀の記事だったのか、津田博士など否定者側の研究者の把握・理解であったのか、ということである。
 この後者の立場は、否定者側の把握は素朴あるいは視野狭窄なものであって、否定の論理は粗雑すぎるではないかという見方である。この立場にたてば、原点に戻って、記・紀の記事内容から示される史実につながりそうな原像をまず的確に把握する必要がある。そして、その把握に際しては、5W1Hのチェックという観点から合理的に考え、かつ、とくに時間と場所についての先入観のない見直しが必要だということである。

 戦前までの記紀研究にあっては、これら史書に書かれる記事は簡単に否定してよいという観念がなかったから、記・紀の紀年論は、比較的単純素朴なものではあるが、研究がかなりなされたといってよい(那珂通世のように、安康以前の紀年を疑う立場が合理的とされたものか)。そのなかで、神功皇后紀などの記事には、朝鮮史書などと照合したとき、干支二巡120年のズレがあることなど年代の齟齬の事情が分かってきていた。だから、当時の著名な学究でも多くでは紀年論を検討し具体的な紀年比定がなされていた。
 ところが、戦後に津田史学が大勢となったのなかでは、記・紀の紀年論はまったく疎かにされてきた。三品彰英が『増補上世年紀考』でいうように、「書紀の治世年数が不合理なるの故を以て、それを合理的に計算し直すよりも、年数の観念を取り去ってしまうのが、より学究的な史料の取扱い方ではあるまいか」という立場からなのであろう。その一方で、三品は、十分な学問的反省があれば、書紀紀年についても「一つの学問的見解として成立する可能性があるであろう」ともしている。改めて記・紀の記事を新しい視点で考え直すときに、その基本にある紀年論は避けられない。この辺は、有坂隆道氏が『古代史を解く鍵』で紀年論の重要性を指摘し、警告を発しており、高城修三氏など同様な立場にある人がいるだろうが、歴史学界としてはやはり疎かにされがちであった。
 こうした事情にあるため、現在の紀年論の研究者は多くはないが、きちんと検討をされている方々もおられる。そうした研究業績をふまえて、ここで検討・整理をしてみることにしたい。なお、基本的には先学に所見があって、それが管見に入ったものについては、それを踏まえた表現にしたい。なお、本稿は論理的・科学的な追求を基本として明確に表現しようとつとめたため、諸説に対する批判が厳しい表現になっている点もあるかもしれないが、誤解がある場合にはこれも含め、その辺はご寛恕されたい。

 
 一 『古事記』の崩年干支とその関連

 崩年干支の信頼性

  『古事記』には具体的な紀年の記事はないが、神武の東征行程に要した年数や天皇の享年(宝算、寿齢、聖寿)の記載があるほか、一部の天皇にはその崩御年の干支や治世年数が記載される。このうち、崇神以降の15人の天皇について記される崩年干支に着目したのが、明治期の菅政友(『古事記年紀考』)・那珂通世(『上世年紀考』)・星野恒などの学究であった。それ以来、とくに実在性が一部に認められる崇神天皇について、最初の崩年干支があり、そこに「戊申年十二月崩」と記載され、戊寅の崩年が西暦258年とか318年に具体的に比定されて、邪馬台国論議とも絡めて検討され、古代天皇の実在性との関係では318年説がそのなかでは有力とされてきた(崇神の実在性を認める研究者では、戦前では西暦258年、戦後にあっては西暦318年の崩御説が通説に近い存在であった模様)。考古学者でも、この崇神崩年の318年説が重視されてきた。
 崩年干支では、下巻の安閑天皇以降の五代についての記載は、『書紀』の記事ともほぼ整合性があるので、この辺は問題がないとして、それ以前の崇神から継体に至る十人の天皇(二人のほかに、成務、仲哀、応神、仁徳、履中、反正、允恭、雄略について記載)の崩年干支が信頼できるのかという問題がある。『古事記』では最古本とされる真福寺本など一部の書には分注として記載があるという事情があるため、崩年干支の記載がどこまで信頼できるのかということでもある。
 結論的にいえば、鈴木靖民氏もいうように、「『記紀』の天皇系譜の原典となった帝紀の一種に後世加筆してなったという可能性があり、『書紀』もまったく採用していない年代である。それゆえ、この崩年干支を適宜訂正して天皇の年代を推定することは疑問が多いといわねばならない」という考え方(『古代国家史研究の歩み』)でほぼよいと思われる。『記』を尊重した本居宣長においてさえ、『古訓古事記』『古事記伝』では採り上げなかった(別個の史料に拠っており、古伝承をそのまま記したものとみていたから、否定的だとはいえないが)。津田博士も「後人の所為らしい」としつつも、書紀紀年の前の古人の試みの名残りとみる。坂本太郎、井上光貞などのかつての大家も崩年干支に対し否定的であり、坂本博士は、「年月日の記載などは本文に殆ど無い古事記の中に崩御の年月日だけ詳しく記されているのは確かに不調和であって同時代の思想とは受け取れない。……一段古い帝紀の中にあったものとは私には思えない」と記している(『日本古代史の基礎的研究』)。
 こうした立場からみれば、水野祐氏のように、崩年干支が記載される天皇についてのみ実在性を認めるという過剰信頼の立場は、とんでもないことだということになる。その一方で、神田秀夫氏『古事記の構造』では、「建国後の日本に帰化した人々が伝え継いだものらしい」として、虚構の跡が見られないと評価する。三品彰英氏も、「恐らく推古朝を余まり隔らない時代に、紀年構成の一つの試みとして案出されたものであらう」としている(『増補上世年紀考』)。百済から僧・観勒により伝えられて、推古12年(西暦604)にわが国で初めて暦が行われたという『政事要略』の記事(『書紀』では推古十年に暦法修習の記事)を踏まえたらしい説が提示される。しかし、神田説も三品説もまったくの想像論であり、厳密な考証を経ず、文献上のなんら根拠をもたないことは、岡庸之亮氏(『古史紀年の秘密を解く−讖緯説紀年論批判』1998年等)などの指摘のとおりである。

 すべての天皇について崩年干支が記載されているのならともかく、断片的な分注記事に信頼をおくのはきわめて危険な所為といわざるをえない。合理的に考えていくと、崩年干支がなんらかの古伝に基づくとしても、その所伝の経緯が不明であって、記事が断片的で前後につながりを欠き、根拠を欠くものであり、この辺は否定論者の指摘のとおりであるのだから、まったく無視するのが一応、合理的な姿勢といえよう。だから、崇神の崩年にあたる西暦318年が多少もっともらしく見えたとしても、また、倭五王にあたる五世紀の天皇の崩年干支が中国史書の記事に比較的合致しそうであっても、崩年干支によって倭五王の比定を考えたり、それとの関連で崩年干支の妥当性を主張するのも、学問的には厳に慎むべきことではないか、と考える。
<参考> 後述する倍数年暦論に絡んで、崩年干支になんらかの法則性が認められる可能性までは否定するものではない。崩年干支は元嘉暦には拠っていないという指摘もあり、なんらかの「古暦」に拠ったとしても、その暦の確認もできず、実態不明の事情にある。そのように基礎に古暦がある場合には、暦法が異なる書紀紀年との関係で崩年干支が考慮できないことはいうまでもない

 
 『古事記』の偽書性

 紀年論に関して、『古事記』はもう一つ、役割を考えられている。それは、記紀が同時期の同じ「国家的な史書編纂事業」の一環を占めるとして、両書を紀年比定にあたって相補うものとして捉える見方である。しかし、この見方も正しいとはいえない。
 というのは、私自身、『古事記』の記事内容について疑義をとくに挟むものではないが(系譜関係記事にはかなりの疑義があるが)、江戸期の河村秀興や賀茂真淵・沼田順義など以来、繰り広げられてきた古事記偽書論争が根底にあるからである。
 古事記偽書論の根拠は、大きく三つほどあって、@写本の伝存状況や所伝経緯が不明なこと、A序文の内容に疑問があること(とくに、序文の記す成立経緯が天武紀十年三月条の記事と矛盾することや、序文と本文との間で壬申の乱などの内容が乖離)、B六国史に『古事記』編纂等の記事がないこと、などである。これに対する反論や解釈も多くなされるが、偽書説は根強く続いてきた。戦前に国家弾圧を受けた中沢見明があり、現代では、大和岩雄氏(『古事記成立考』1975など多数の著作)が最も精力的に偽書説を展開している。これに限らず、鳥越憲三郎(『古事記は偽書か』)・大島隼人・岡田英弘・筏勲・松本雅明・薮田嘉一郎・三浦佑之などの諸氏もこの立場にいるとされる。
 国文学系統の学究の多数は偽書説に対して否定の立場のようであるが、当然のことながら、これは数で決められるものではない(邪馬台国論争と同じ)。出土した太安万侶墓誌銘には、『古事記』撰録の記事がない以上、論理的に考えて、この墓誌銘が否定説を否定する論拠になるものではまったくない。上代特殊仮名遣のなかで、『万葉集』『日本書紀』ではすでに消失している二種類の「モ」の表記上の区別が、『古事記』に残存しているからといって、その内容の疑わしさをいうわけではない序文否定論にはまるで対抗しえない。
 最近では矢嶋泉氏が偽書説否定論の立場から『古事記の歴史意識』を出して(2008年、吉川弘文館刊)、偽書説否定の論旨を展開するが、そのなかで、「偽書説はまちがいなく難攻不落の歴史上最強の説だという感慨である」(同書の80頁)とも記述する。そして、外部徴証からは、偽書の確信を覆すことはほとんど絶望的であるとして、『古事記』の内部徴証から偽書説に対する反論を繰り広げるとともに、同書の理念を探索している。
 
 しかし、矢嶋氏の著述姿勢にはいろいろ問題がある。氏が現在、青山大学教授であるという学究のプライドがあってか、専門学究とはいえない大和岩雄氏の多くの書・論考をいっさい無視していることである。これはきわめて奇異なことであり、偽書説の全容は大和氏の著述を見なければ分からない点もある。そのため、外部徴証についての議論をまっとうせず、内部徴証の議論に入っている事情につながる。とくに、重要なのは「稗田阿禮」についての非実在説など、稗田阿禮の経歴・実在性に対する疑問をまったく無視することである。この疑問は、当然のことながら、中沢見明・薮田嘉一郎氏や大和氏の著述には明確に指摘されている。
 これも結論からいうと、稗田阿禮という個人も稗田という氏も、そして猿女君という氏も六国史や『新撰姓氏録』にはいっさい見えず、それらの実在性がすべて否定されるということである(拙稿「猿女君の意義−稗田阿禮の周辺−」、『東アジアの古代文化』第106号〜108号、2001年2〜8月)。序文において、はなばなしく取り上げられる『古事記』の誦習者が実在しなかったのでは、序文記事の偽作性が明らかである(同様に、『東日流外三郡誌』の編者とされる秋田孝季の存在でも、その実在性が実証されないなかでは、他の諸事情と併せ、同書の偽撰は疑いないところである)。いまや、この稗田阿禮の実在性の問題が偽書か否かの最大の争点(決め手)となっているはずであり、この実在性がまず絶対的に確認されるはずがない。そのことが、偽書否定説の致命的な欠陥となっている。 
 長い間、古代の人物と氏族系譜の研究をしてきての私の結論がこういうことである(なお、鈴木真年翁関連系図史料には稗田阿禮の記載が「中臣氏総系」〔中田憲信編『諸系譜』第三冊所収〕のなかに見えるが、阿禮が単名で記載されており、この世代的な位置づけ等について信頼性に欠く事情が様々にある)。稗田氏の女性が二人(福貞子・海子)の名が平安中期の『西宮記』の裏書(延喜20年10月14日付け)に見えるとされるが、これも裏書という史料自体に信頼性を大きく欠く。そして、天鈿女命は夫・猿田彦命(穂高見命)とともに阿曇氏族・和珥氏族等の祖ではあるが、「猿女君」とは職掌であって、姓氏ではなかった(「君」はカバネではなく、尊称にすぎない)。大和郡山市稗田町の売太神社がその祭神を稗田阿禮命とすることだって、後世の祭神比定か訛伝にすぎない。要は、学界における稗田阿禮についての姓氏・系譜の研究の不備あるいは無視が、「偽書否定説」を多数説として存続させてきたといえよう。
            ※本HPの「稗田阿禮の実在性と古事記序文」をご参照。
 
 偽書論には、A全部が偽書という立場と、B序文だけが偽書という二種類の立場がある。後者には、西田長男・神田秀夫・三浦佑之などの諸氏がいる。

 私見の偽書論は、後者の序文のみが偽書ということであり、従って、『古事記』の内容そのものを否定するものではないが(個別記事ごとに内容の検討を要すると言うこと)、それでも意味は十分に大きい。すなわち、序文に書かれる同書の成立経緯については否定せざるをえないから、『古事記』の編纂は国家的事業ではなかったことになるし(多氏など個別の氏族に伝わる古伝の整理したものという個人的な事業)、成立時期は不明(古伝として存在していても、現存のように整理されたのは、おそらく平安前期頃か)、撰録者も不明(とくに多氏に限らない)、ということになる。
 現存『古事記』とは違う「一古事記」を引用している平安期の『琴歌譜』の編者は、大歌師の多氏であるから、多氏の家には「多氏古事記」や「一古事記」など様々な『古事記』のあったといわれるが、この大歌師をつとめた雅楽の多氏は、その祖系系譜が不明であり、中央嫡系の安萬侶の子孫ではなく(朝臣姓を持たない事情)。この系統の祖の多臣自然麻呂が右京の人とはいえ、おそらくその出自は傍流の科野国造か地方系統の出身ではないか(そうではない可能性もあり、その場合には見当がつきがたい)、とみられるから、本宗家の太安萬侶にただちに結びつくものでもない。こうした多氏に関する系譜認識も、学界にはない。
 こうして見れば、内部徴証の検討ということで、『古事記』の記事内容に国家的理念を見出したとする上記矢嶋泉氏の結論も疑問が大きいことになる。この意味でも、同書記載の崩年干支も紀年論には使えないし、ましてやこれを書紀紀年と連関させて紀年論を展開するような話ではない。倉西裕子氏の『日本書紀の真実−紀年論を解く−』に見られるような、崩年干支も取り入れた内容での「書紀紀年の多列並列構造論」などは、架空・妄想の所論展開にすぎないということでもある。

 この関連で言えば、戦後主流となった津田史学のなかで、記紀が当時の天皇家による国土統治を正当化するために国家事業により造作された書であるという位置づけも、論理的帰結として、当然おかしくなる。当然のことながら、『古事記』序文にいう「天武天皇の詔による徹底した削偽定実の書」ということ自体が裏付けがなく、疑問だということだからである。こうした諸事情があるのであれば、『古事記』の記事に幾分の誇張・潤色はあるとしても、個別に現代感覚からみて記事のおかしなところは、適宜チェックしてその疑問点・問題点を合理的総合的に解明していけば、記紀史料の記事の原型たる史実にたどり着ける可能性もでてくる。
 繰り返すが、稗田阿禮の非実在性の問題は『古事記』序文において致命的な問題であり、偽書否定説論者からはまず実在性の立証ができるはずがない。それなのに、『古事記』が偽書ではないと研究者が多数で言い張っても、これは信心・信念の問題ではないから、科学的には意味がない話である。現在の考古学者の主流派がこれまでの出土状況からして既に成立し得なくなった「三角縁神獣鏡魏鏡説」に頑として固執する(さすがに、この魏鏡説は現在では少数説とされるようだが)、のと同様の傾向を、わが国の国文学者(及び津田流歴史学者)がとっている。これらの傾向は、科学的合理的な研究姿勢とは到底いえず、ともに今や信仰的な状態となっている。

 ただ、先にも言ったように、私見は『古事記』の内容そのものは、個別に疑問なものがあっても、一括してすべてを否定するものでは決してない。だから、原史料がある程度共通であったとしても、『書紀』とは独立した別個の史料として、紀年検討にも使う分には問題がない。その意味では、すでに序文から偽書性が確認されている『旧事本紀』と同じ取扱いだということになる。
 『記』の崩年干支は、成立・伝来の経緯が不明な『古事記』という書のなかで、さらにもう一つ経緯不明な記事ということになるので、倍数年暦論などの絡みを含めて具体的に明確な解明ができないかぎり、直ちに史料として用いるべきではないことを改めて確認する次第でもある。
 
<参考> インターネット上で管見に入った、この問題に関連するHPの紹介をしておく。これら記事については全てに賛意を表するものでは必ずしもないが、読者がご自身の頭で考えていくうえで、なんらかの参考になると思われる。
   ○『古事記と天武天皇の謎』を読む  MM3210氏

 
 
 二 『日本書紀』の紀年論
 
 書紀紀年についての問題意識

  『日本書紀』は、『古事記』と異なり、紀伝体の形式をとって記事をあげており、巻第三の神武即位前紀の神武東征の出発日以降、持統十一年(西暦697)までの年代が、原則として記事に具体的な時期(年月日を付すもの、年月のもの、年だけのものと記事に応じて各様ある)が干支表記で付けられる。この干支記事に基づき、これらを具体的に西暦紀元の年月日に比定して遡っていけば、神武の東征出発の「甲寅」年が紀元前667年で、天皇として即位したのが西暦紀元前660年ということになる。この神武即位年を紀元元年とする紀年法が、戦前の大日本帝国時代に公式的に使われた「皇紀神武紀元)」であり、昭和15年(1940)には「皇紀二千六百年」となって、国をあげての記念行事がなされた。
 紀元前660年といえば、中国では東周王朝の春秋時代であり、日本列島ではまだ縄文時代であって、弥生式文化の時代にもなっていなかった(最近のAMS法などの年代算定値〔試算値〕では既に弥生時代に入っていることになるが、この手法による数値は疑問が大きい)。神武が実在していたとしたら合理的だと考えられる時期を遥かに遡ることは明白であり、明治期の那珂通世などの検討にあっても、神武の活動時期が紀元前までは遡らない。初代天皇とされる神武の活動時期がなぜ、こんな古い時代になったのだろうか。
 戦後の津田史学のような記紀造作説の立場では、自国の建国以来の歴史をできるだけ古く、悠久久遠のものに見せるということで、治世期間などの紀年を恣意的・造作的に異例に長いものに延長させ、上古の諸天皇を長寿にさせたという思考法になるのだろうし、後述する讖緯説などもその基礎的な考え方とされる。
 しかし、こうした見方にはそもそも無理がある。というのは、『書紀』には紀年と共に天皇の享年(宝算)の記載もあり、例えば、神武の享年は127歳であり、主なところだけみても、崇神が120歳、垂仁が140歳(『記』では153歳で、記・紀が伝える最長寿)、景行が106歳、応神が110歳などという記載(応神以前の11人について、百歳未満が僅か4名)があって、弥生時代当時ではありえない超長寿の天皇が多く見える。書紀編纂当時でも、こうした超長寿の生存者はありえなかったのだから、傍目にもっと合理的な享年にしておいて、存在した天皇の人数を増加させれば、無理のない期間延長ができるが、そうしたことは行われなかった(『書紀』が多くの異伝を丁寧に記載することは、編者が異伝を恣意的に取捨選択しなかった姿勢や、同書には津田博士らが言う造作・捏造が少なかったことを示し、そうした所伝があったことの信頼性を高める。ただし、編者の誤解はあったものもあろう)。また、第三代安寧のように、享年57歳という比較的穏当そうなものも見える。
 明治期の那珂通世などの解釈では、古代中国の讖緯説(しんいせつ)、なかでも辛酉革命説に拠り、神武紀元を決めたため、その後の各天皇の治世期間・享年を長くせざるをえなかったとみた。こうした見方が学界でのこれまでの多数説のようであるが、これでも、天皇の人数は尊重されて、増加をさせてはいない。上古の諸天皇がすべて架空の人物であれば、その治世期間や享年・人数は、記紀編纂当時に恣意的に自由自在に合理的な感覚のもとで設定すればよかったと思われる。国際的な目や後世からの目を意識すれば、当然にそうあるべきだと思うが、『書紀』ではそうはされなかったということである。
 そうすると、書紀紀年はなんらかの諸古伝に基づき、これらを踏まえ取捨選択のうえで『書紀』に記載されたとみるほうが自然であるが、実際にそうだったのか。また、その基礎となったとみられる古伝には、合理的な解釈要素が見いだせるのか、というのが問題意識である。

 現代の学究は、津田博士以来、書紀紀年を頭から不合理で虚妄なものだと決めつけて、まともに書紀紀年論に取り組んでいないが、そうした姿勢には学問としての手抜きがあり、これでは何物も生まれてこないし、納得しがたい(戦後の津田亜流の古代学にあっては、記紀に対して、決して「厳密な史料批判」なぞしていない。視野狭窄な素朴すぎる理解・解釈を基礎にして、自らの理解の及ばないことを、史料の造作・捏造とか神話・伝承のせいにして切り捨てる傾向が強い。総じて、安本美典氏や高城修三氏などの津田説批判のほうがまだ論理的・合理的である。ただ、だからといって、批判者の立てた学説が正しいかどうかは、また、まったく別問題であることに留意)。
 最近までの紀年検討に見るように、『書紀』は元嘉暦・儀鳳暦という二つの当時使用されていた暦法(文武元年〔697〕に元嘉暦を廃して、儀鳳暦を正式採用)を駆使し、神武東征の年に遡る長期間にわたって月日まで及ぶ、四〇代にわたる天皇について1360年余という長大な年代表を作成して、そのうえで様々な史料を用いて記事を盛り込んだ国史編纂を行ったという国家事業であった(この五十万日近くにわたる干支の表を準備するために、安本美典氏の試算では八百人日かかるという)。だからこそ、紀年記事と暦法に対し真正面から取り組まないと、『書紀』記事の解明につながらないことはいうまでもない。こうした具体的で的確な検討なしで『書紀』の記事を簡単に否定することなど、学問的な良心のある研究者にはまずできないはずである。

 讖緯説とくに辛酉革命説の是非

 先にも触れたが書紀紀年問題についての通説は、紀年の延長は辛酉革命説に拠るものとされるが、仔細に検討してみると、これは合理的根拠を欠く見方と考えざるをえない。そうした事情についてまず触れておく。
 辛酉革命説が説かれたのは、平安中期、昌泰四年(901)の三善清行の『革命勘文』とされ、その一般的な理解では、干支が一巡する60年を1元、21元を1蔀とし、1蔀(1260年=60×21)ごとの辛酉の年に国家的な革命、甲子の年に革令(革命に次ぐ大事件)が行われるという見方が古代中国で流行していたといわれる。この説に基づき考えれば、推古天皇九年(西暦601)が辛酉にあたっており、そこから1蔀1260年遡った紀元前660年の辛酉年がとくに重要な大革命の年にあたるので、これを神武の即位年に設定したということになる。また、干支22元(=1320年)を大改革の単位と考え、基礎となる年を斉明天皇七年(西暦661)と考える見方もあった。
 辛酉革命説・甲子革令説については、平安中期以降、明治維新までのわが国の改元がほぼこれに基づき行われてきたこともあって、いかにももっともそうにも考えられるが、書紀紀年との関係では、その批判はかなり前から強くあった。
 こうした「革命・革令」の見方は、上古中国の理念・思想ないし信仰であるから、常識的に考えて、現実のわが国にそのまま妥当するものではないし、現実に推古九年にも斉明七年(天智称制の開始年)にも革命的な大事件は起きていないという指摘である。

 斉明七年が実質的あるいは原型としては天智元年だとしても、天武皇統正当化という書紀の立場からみれば、大事件のはずがない。そうすると、国家的大事件が起きていない年を基礎にして、どうして1蔀1260年とか1320年を遡った年が設定できるのかという疑問となる。しかも、恣意的に神武元年を設定できたのならともかく、最初に見たように、『書紀』の記事・紀年は古伝らしきものに制約されていた模様だから、そもそもこうした古代中国の理念に縛られるものではないし、日本上古史の現実がそのとおり動くわけがない、ということにもなる。『書紀』の太歳干支については、特別の思想や干支にこだわることなく記載されているとの指摘(森清人氏)もある。
 かつ、現実の問題として、上古中国で実際に辛酉革命説が行われていたのかという疑問や、魏・晋・南北朝時代に緯書禁圧が繰り返され、さらに隋朝の讖緯説に対する大禁圧以来わが国に入ってくる可能性がないこと、平安中期以降に盛んになった讖緯説の思想が書紀編纂当時に遡って編纂者に知られていて実際に編纂に影響を及ぼしたのかという疑問なども、当然出てくる。
 書紀紀年で「太歳干支」として最初に出てくる干支紀年は、神武東征の出発年たる甲寅であって、この干支のほうが重要ではなかったのかという事情もある。中国では讖緯説が社会不安を煽る俗説として禁止されていたという指摘(八木荘司氏など)もあり、緯書は隋の文帝・煬帝により邪悪な迷信の書として厳しく禁圧された事情も現にあった。つまり、讖緯説は縁起の良い説ではなかったということである。

 辛酉革命説への批判は、はやくに森清人氏(『日本紀年の研究』1956年)、塚田六郎氏(「日本紀年は果たして逆算されたか−那珂博士説に対する疑い−」、『解釈』第七巻第四号、1961年四月刊)、貝田禎造氏(『古代天皇長寿の謎』1985年)や岡庸之亮氏(『古史紀年の秘密を解く』1998年)などにも見え(安本美典氏もこの立場か)、内容的論理的にはほぼそれで十分ではないかと考えられる。なお、有坂隆道氏(『古代史を解く鍵』)も辛酉革命説は否定するが、別途、天武十年(681)から1340年遡って神武即位元年を構想し設定したとみるから、ちょっと趣が異なる。
 最近では、大東文化大学教授の小林敏男氏が「日本書紀の紀年論」を著して(『日本古代国家形成史考』所収)、わが国や古代中国の文献にも当たり、辛酉革命説は書紀編纂時には知られていなかったこと、三善清行の言う『易緯』『詩緯』には「辛酉革命、甲子革令」の記事が確認されないこと、などを詳細に検討・説明して、「神武即位元年の辛酉干支は、讖緯の革命思想にもとづく設定ではなかった」とし、書紀紀年が不自然に伸びているのは、「辛酉革命説にもとづく造作ではなく、歴代天皇の年齢(長寿の天皇)と在位年数の長大さに根本的要因があった」とみて、書紀編者は、統一的・体系的紀年を設定するとき、「古伝として伝えられてきた天皇の年齢、それにともなう在位年数、天皇の代数を変更することができなかった」と判断している。「それらは古伝として尊重せざるをえなかった」ということであり、これが自然な結論であって、私も賛意を表する。そうすると、辛酉革命説は、三善清行が菅原道真を失脚させるための口実に利用されたという見方(上記岡氏、平山朝治氏が指摘・示唆)すら、出てくる。

 上掲の諸疑問や小林敏男氏らの諸研究・指摘は説得力が十分に大きいものであり、もはや辛酉革命説は存在意義を失ったものと考える。従って、『書紀』の記事に見られる「古代天皇の代数・年齢・治世期間などは後世の造作であると考え、七世紀のある時点を基点にして過去に遡らせて神武元年を設定した、という発想自体が疑問となってくる(※ましてや、後世の讖緯説が『書紀』全体の構想に及ぶなどありえない)。おそらく神武即位年は偶々、辛酉の年であったのではなかろうか。」と結論される(拙著『「神武東征」の原像』参照)。
 といって、この「辛酉」が、現行干支の干支法でも同じく辛酉年に当たるという保証はまったくない。干支の比定が異なる暦暦(センギョク暦)もあり、実態不明の「古暦」もあった可能性があるからである。なお、神武元年とされる辛酉年が「春秋暦」など古暦に基づくものであったとしたら、当該辛酉年を西暦181年に比定する八木荘司氏の見解(『古代天皇はなぜ殺されたのか』2004年刊)は矛盾するものとなる。
 
 ※<参考> この問題に関連するHPの紹介
○岡庸之亮氏の大和古代史

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