(続) 『記・紀』の紀年論とその周辺
                                            

 
 書紀紀年は多系統の並列で記されるのか

 紀年論をめぐる動向ははじめに触れたが、最近では歴史学究の関係者は、ほとんどが書紀紀年論をきちんと取り扱わなくなっている。これも、津田学説の流れを汲む研究者が主流であるという大勢に加えて、彼らの殆どが複雑な数学的思考を要するこの問題に対する処理能力がないことを示している。
 だから、書・論考あるいはインターネット上などで、紀年考察の関係で管見に入る研究者はほとんど皆が歴史専門の研究者ではない。こうした事情は残念であるが、ともあれ、これらの検討内容を見てみよう。

 最近の書紀紀年の研究関係では、最も目に着くのが倉西裕子氏の著作であり、とくに『日本書紀の真実―紀年論を解く』(2003年刊、講談社選書メチエ)に注目する人が多いから、これをまず取り上げる。
 本書で初めて提起されたのが、書紀紀年が多列であってそれが並列的に走っている構造になっているという仮説である。書紀紀年の年代列は一つではなく、複数(具体的には四つ)の年代列が並列すると仮定すれば、紀年の疑問点が解決するという主張である。従来の見方では、書紀紀年が「一本の直列」の系統と理解され、そのうえで紀年が具体的に把握されてきたから、画期的な主張といえようが、紀年問題に真摯に取り組んで組み立てられた精緻そうに見える仮説であっても、それが検証されて正しいと認められるかどうかは、まったく別問題である。

 倉西氏が主張する第一番目の系統(第一系列、「A列」と表記)は、応神天皇元年を西暦390年に比定するというのものであり、当該年次比定については朝鮮系史料(『三国史記』の原型史書か)との照合など様々な事情から妥当だと私も認めるが、この系統の数列だけで書紀紀年が貫徹されているわけではないので、別の数列系統を模索し、他の三つの数列(「B〜D列」と表記)があると倉西氏はいう。
 しかし、この多列構造という仮説はまったく検証されず、氏の導き出した多列の数列では、「倭五王」の比定が的確にできないという欠陥を早速、露呈する。中国王朝史料に見える倭五王遣使記事と照らして、「倭武」は雄略天皇ではないという結論を導き出しているが、このこと自体で、第二系列(「B列」)の存在ないし有意性が否定される。第二系列は百済武寧王の生没年から考えて「雄略五年(辛丑)=461年」(従って、「雄略元年=457年」)とみるものであるが、仮に書紀編者がそのように年代を設定したからといって、そこに書紀編者の作為性がなかったとは言い切れず(後述する武烈の治世期間の問題がある)、「雄略元年」の具体的な比定値は別途、精査する必要がある。
 すでに巨大古墳の時代に入っていた五世紀代の記紀の記事を安易に否定できるものではなく、本来、検証・チェックの材料とすべき「倭五王」関係の記事を退けたり、ほぼ確固としている「倭武」の比定を自らの仮説の数値に合わないとして斥けるのは、発想として大いに疑問がある。倉西氏の第三・第四の紀年系列は、『古事記』の崩年干支に拠る議論(「C列」は反正天皇の崩年、「D列」は応神天皇の崩年に拠る)であり、今度は崩年干支が多列構造であるなどで、そうだとしたら、『記』の編者は分裂気味である。崩年干支の有用性・信頼性の無さなどの問題については、先に述べたから、これ以上は触れないが、この手法の疑問が大きいことだけ記しておく。「D列」で根拠とされる考古学年代観など、なんら主張の根拠にならない。

 いったい、多列構造のどれに則ったら、神武東征の開始年まで遡る書紀紀年の数列が完成するのか、なんのために書紀編者(及び古事記編者)が多列の紀年構造を創り出したのかという納得がいく説明すらない。これら肝腎のポイントが説明できないのなら、多列並列構造の紀年説はもはや仮説としての存在余地がない。自説に都合の良い点の摘み食いという批判も見られる。このほか、讖緯説に拠る紀年設定を認め、二倍年暦論など倍数暦の議論を無視するという事情もある。倉西氏のいう紀年論をとったら、なにか有効で具体的な年代値が求められるというのだろうか。倭五王の年代値は上記のようにそもそもおかしいし、神功皇后摂政元年が西暦321年あるいは201年となるという主張など、なんら裏付けも検証もない。こんな早い時期にあっては、畿内の大和王権が遙々と韓地出兵をできるような政治基盤をもてるはずがない。
  紀年論の効用は、@一つは基礎年代ともいうべき倭五王の比定に用いられること、また、A崇神天皇など初期大和王権の大王たちの活動時期を探ること(これは「空白の時期」とされる四世紀の政治動向の解明につながるものでもある)、そして、それらを通じて、B書紀紀年ひいては『書紀』の史料としての有用性の是非が確かめられるかどうかということ、にあるはずであり、これら諸問題の解明に何の裨益もない議論・論究では、「数字の弄び」にすぎない、としてしか言いようがない。

 もう少し付言すると、倉西氏が同書で書かれる記事には、記紀無視の内容や東アジア古代史から見るとあり得ないような内容がかなりあって(例えば、応神末年後の二帝並立が二度も起ったとか、「履中天皇=菟道稚郎子皇子の投影」とか、「倭王世子興=雄略天皇で、木梨軽皇子の可能性」「倭王武=清寧天皇」等々)、氏の記紀理解にはいろいろ大きな疑問を感じる。
 「天皇」と「太子」とは、その果たす役割が一般的な理解(太子は天皇の後継予定者)とは大きく異なり、天皇は神聖王、太子は執政王という役割であったと考えているが、こんな奇妙な政治分業の形態や呼称の用例は、古代アジアに限らず、世界史のどこの地域にもまったく例がない。わが国には「神聖王」は見られず、それに多少近いかもしれない最高祭祀権者(ないし奉祀者)は女性が主体であった模様でもある。西暦427〜431年の期間に「天皇」として在位した反正天皇が、その後の433〜437年には允恭天皇の「太子」の地位に変わって437年に崩御した(同書p131)、という形が平気で考えられているが、これまたたいへん奇妙な説で、まるで空想にすぎない。要は、崩年干支に信頼を置きすぎて、その結果、尻尾が胴体を振り回した年代観となっているように思われる。

 以上に見るように、倉西氏の真摯な研究姿勢は認められるし、紀年等について多くの問題提起をした意義も併せて認められるが、結論的にはとても是認できる内容ではなかった。ここでは、書紀紀年の多列構造を否定したが、友田吉之助氏が『日本書紀成立の研究』で詳細に論じるように、「干支による年次の表示」がどこの地域でも具体的に同じ年次を指すわけではなかったこと(一年ズレのあるセンギョク暦の存在で、好太王碑文と『三国史記』との紀年の差異にも現れる)に留意したい。

 
 高城修三氏と山本武夫氏の紀年論

 これより前には、 高城修三氏とこれに先立つ山本武夫氏の紀年論があるが、これらも見てみよう。

 (1) 高城修三氏の場合は、その著『紀年を解読する−古事記・日本書紀の真実』(2000年刊、ミネルヴァ書房)で記述され、従来の紀年論を踏まえたうえで(その意味で、同書はかつての紀年論研究史の経緯を知るうえで、たいへん便宜であり、紀年論の概観ができる)、検討を展開される。
 その考え方の概要及び諸天皇崩年(
=次の天皇の即位年)の推定値が、インターネット上にも掲示されている。その結論として示される数値は、応神天皇の崩年(=次の仁徳天皇の即位年)以前のものは、それぞれ年代の遡り方がかなり大きく出ているという感触があるが(崇神の崩御を290年とみることは年代遡上が大きすぎて、私見では反対につながる)、その考え方の前提や作業仮説を検討してみる。

  ☆高城氏のHP「古代史ワールド

 高城氏は、紀年の原史料復元を進めるにあたっては、「三品彰英の示唆に基づいて推し進めたのが、筆者の紀年解読の試みである。それにあたっては、記・紀が伝える天皇の代数・治世年数を前提とし、これを安易に改変しないこととした」という考え方を基礎とし、次の四つの作業仮説を使ったとする。
@『古事記』崩年干支と『日本書紀』紀年には共通の原史料がある(崩年干支と書紀紀年を等価の史料として扱う)。
A原史料の治世年数が即位年と崩年を含む当年称元法に拠る。
B紀年延長には累積年(越年称元法)・春秋年・虚構年が使われる。
C紀年的世界の枠組と開化天皇以前の紀年は讖緯思想に拠る。
 
 これら高城氏の前提に対する疑問などの私見は、次のとおりである。
 a 高城氏のように、記・紀が伝える天皇の代数・治世年数を前提とするのは、推定作業上必要であるが、上古天皇に関する皇統譜には直系相続の連続、応神の系譜的位置づけなど様々な疑問があることから、基本的に信頼できるのは代数だけであって、治世年数については、適宜見直す必要があるものもある(虚構年などの関係に因る)。

 既に述べたように、Cの讖緯思想に拠ることは問題が大きい。高城氏は、崇神崩年より前に遡って数値算定をすることはできないとするが、讖緯思想を採らなければ可能である。

 Bのような編者の造作的な紀年操作が一部、あるとしても、称元法の変更による「紀年延長」という見方はとらない。すなわち、当年称元法(即位年称元法、重複法)が原型の所伝にあって、これを『書紀』編者が越年称元法(踰年称元法、累積法)に変更して、これにより、せせこましく天皇一人について各一年ずつ紀年延長をさせたという山本氏・高城氏のような見方は、とらない(天皇n人でn年しか延長にならない。AB関係)。
  この原型にあった称元法がどのようなものであったかは不明であるが、中国・朝鮮半島では当年称元法が普通であったのなら、日本列島の場合には古来、越年称元の仕組みであったのかもしれない。この称元法でも、一年が普通の「天文年(高城修三氏は「太陽年」と表示)」よりも短ければ、さほどの不自由は感じられないと思われる。なお、干支などの一年のズレは、センギョク暦の存在にも関係する面もあるようであり、称元法の差異だけに帰着するものではない。

 書紀紀年には、春秋年暦(一年の数え方には「春年と秋年」があったとする「二倍年暦」に通じる見方)・虚構年(その天皇の治世には実際になかった年数。とくに神功皇后などに考えられる)が使われているという見方は、これらは造作的な「紀年延長」の目的ではないと考え(従って、革命の相を合わせるための「虚構年」という見方は、私はしない)、春秋年的な紀年内容は原史料に拠ると考える。
  また、「二倍年暦」のみならず、「四倍年暦」での紀年も原史料にあった、と私見ではみている。この見方の相違により、高城氏の結論としての年代数値が過剰に遡った形となったと考える。高城氏は、貝田禎造氏の著作を知らなかったか無視をしている。小林敏男氏もいうように、「仁徳天皇も含めてそれ以前の天皇の在位年数は異常に長く、百年を超える孝安天皇すらみえる。仁徳以前神武まで一代の平均62年弱は異常である」(「日本書紀の紀年論」、『日本古代国家形成史考』所収)。仁徳以前の時期が四倍年暦で記されていた場合には、この時期の天皇平均在位年数は約15年強となって、穏当な数値となることに留意される。明治期のウィリアム・ブラムセンも、神武〜仁徳の期間の17代と履中以下17代の年寿が著しく差異があること(前者の平均が109歳、後者のそれが61歳半)を指摘した(辻善之助編『日本紀年論纂』)。
  「二倍年暦」ないし春秋年暦を認める研究者はかなりいるが(ブラムセンや貝田氏・高城氏のほか、管見に入ったところをあげると、山本武夫、古田武彦、小川豊、栗原薫などの諸氏)、「四倍年暦」までを認める研究者はきわめて少ない。しかし、「四倍年暦」が実態に即したものであることは上記のとおりである。最近では、数学者の谷崎俊之氏が倭地の原始暦は四倍年暦だと認められると『数学セミナー』で発表した。

 『古事記』の崩年干支が書紀紀年と共通の原史料があったかどうかは不明であり(前述)、継体天皇以前の崩年干支は参考にすべきではないと考える。
 
 (2) 山本武夫氏の紀年論については、高城氏も推定作業上で尊重する点が多くあるから、その著『日本書紀の新年代解読』(1979刊、学生社)も見ておく。とくに、高城氏の上記作業仮説のBは、山本氏の考え方を踏まえてのものであるため、これに対する疑問はそのまま同様に山本氏に対しても疑問として残る。
 氏は歴史学者ではないが、気候変動史の専門家としての学究であり、学究関係者がなした具体的な紀年研究としては、最新の研究である。言い換えれば、この山本氏の研究の頃以来、歴史学究からの具体的総合的な紀年研究が殆どなされてこなかった(部分的な検討が論考として他にもあるのかもしれないが、著書刊行という形では管見に入っていない)、という学問的に憂慮すべき状況にある。
なお、『記・紀』の紀年論としては、1982年刊行の有坂隆道氏の『古代史を解く鍵』くらいか。最近では、2006年刊行の大東文化大学教授の小林敏男氏の『日本古代国家形成史考』があり、示唆深い労作である。紀年論に関心ある方は、友田吉之助氏の著作とならんで、是非、一読をおすすめしたい)。
 
 山本氏の年代値算出の手法・基礎としては、一年二倍暦・累積法(踰年称元法)・重複法(即位年称元法)・干支法・年数法があり、それらを試行錯誤的に様々にやってみるとされる。そのなかで、「継体17年=武寧王23年(没年)=西暦523年」(すなわち、「継体元年=507年)を基点として、遡って年代値算出を行い、その数値の検証を倭五王遣使の年紀で行うことも肯ける。長すぎる神功皇后の摂政(治世)期間のなかには、卑弥呼との関連で、実際にはなかった年数があることも認められる(その「虚構年」について、「18年」が妥当かどうかは別問題であるが)。
 しかし、山本氏の問題点・疑問点としては、
@年代値検討の基礎におく隅田八幡鏡銘文が允恭朝のものであるという前提がよいのか(高城氏にも通じる)、
A武烈天皇の治世期間(『書紀』の記事から、八天文年とするのが妥当であろう)は継体天皇の治世期間と重複していないのかという疑問があり、
B安康・允恭以前の書紀紀年は、すべて「一年二倍暦」を意味するとみることに疑問がないのか、
C雄略天皇の崩御年としている西暦484年(同書p46)の根拠が明確にされていない(書紀紀年そのままでは崩御は479年となる。従って、継体十七年〔523年〕を基点として遡ってはいない)、
などがあげられる。
 これに対する私見では、
 @については、考古学的な事情などからみて、まず従いがたい。様々な点から考えても、五世紀後葉の鏡とみられる。
 Aについては、武烈・継体両治世が完全に重複したという説を取る。実は、この武烈の治世期間についての問題意識は、どの研究者にもほとんど見られないものであるが、継体天皇の治世期間の開始年(元年)を『書紀』の示す西暦507年ではなく、実際(王権掌握)には同515年頃だとみる見解がいくつかあり、この事情を考えれば、武烈の治世期間は継体のそれと並行するものとみられる。この並列を直列にすることによって、継体の大王権簒奪の事実を消し去った蓋然性が大きい。この辺は政治史的な分析であるから、歴史学者ではない山本氏に期待できない部分でもあるが。

 Bについては、後述するように、雄略即位前紀の安康三年八月以降は、元嘉暦となり、明らかに暦法が変わっている。雄略天皇以降は、「一年=一天文年」でよいし(暦法の専門家内田正男氏『日本暦日原典』など)、中国での元嘉暦の採用年が西暦445年である事情や、雄略即位前紀以降は書紀編述者が変更されているという見方(森博達氏『日本書紀の謎を解く』1999年刊)もあるので、雄略朝以降は記載の年数に問題がないが、雄略の妻問い伝承から見ると、当時の倭地には旧暦の併用もあったか。
 ただ、こうした暦法変更の境目が安康・雄略間にあるのか、允恭・安康間にあるのか、決め手がなく、これはまことに悩ましい。
 また、仁徳紀以前は、「一年四倍暦」(四倍年暦)だとする貝田禎造氏の分析後述)があり、『書紀』の仁徳治世が87年であって、実質が半分の43天文年としても長すぎることから考えると、この四倍年暦という見方のほうが妥当だと考えられる。そうすると、山本氏の年代算出値は応神天皇以前は神功皇后の活動時期も含めて、かなりの程度、遡上しすぎることになる。神功皇后の活動時期は、倭と韓地諸国との接触を伝える西暦369年頃より前にもっていくことはできない(「神功皇后摂政元年=新羅親征年=346年」は疑問だということ。拙著『神功皇后と天日矛の伝承』参照)。
 韓地側の『三国史記』の「新羅本紀」などの記事のほうにも、かなり大きな紀年延長があるのである(このことが、無視されるのが意外に多い、拙著『神功皇后と天日矛の伝承』参照。高城氏は、『三国史記』での二倍年暦使用の可能性を示唆する。安本美典氏も、朝鮮の古史の王の寿命や在位年数も長いと指摘する)。これも含め、山本氏の上記著作は全体で十章あるうち、最初の三章はいろいろ示唆深いが、第四章の「神功皇后は実在した」以下の章は、広開土王碑を扱う第九章を除き、紀年問題としては、拙見から見ると、総じて疑問が大きい内容となっている。

 
 書紀紀年の比定値についての新検討

 ここまで見てきた諸研究は、それぞれ示唆深いものであったが問題点も多くあることを見てきた。本論考としても、そろそろ書紀紀年の具体的な比定値を出すことが求められよう。この作業についての、基本的な考え方ないし基礎としては、先にも記してきたことを踏まえて、次の諸点(<基本前提A><基本前提B>に掲げる合計十点)を考えている。

 <基本前提A>
『記』の崩年干支は考慮しない。……具体的に年代値を算出するための信頼性がない。

辛酉革命説などの讖緯説は採らない。……後世の政治思想に過ぎない。

複数系列という年代値は考えない。
 年代値は従来のように一本の系列値として捉え、できるだけ簡便な形で整理されることをこの作業でめざすものであり、算出値は誰でもが検証できるものになることが望ましいという考えに立つ。一本の系列年代値は、書紀編纂者の意向ではないかとも考える。

 安康天皇以降は「一年=一天文年」、履中〜允恭の治世は二倍年暦、仁徳以前は四倍年暦とみる(貝田禎造氏『古代天皇長寿の謎−日本書紀の暦を解く−』1985年刊、の基本的な踏襲の見方)。
 これは、小川清彦氏が「多分安康元年(454AD)以後ガ元嘉暦ニヨル推算ニナツタトスベキデアラウ」と述べ(「日本書紀の暦日について」)、有坂隆道氏がいう「五世紀後半には、中国に由来する干支で年をあらわす干支紀年法が行われており、……そこに暦の使用も考えられます」、中国の冊封体制のもとでは、「允恭天皇晩年から次の安康天皇の時代にかけて、元嘉暦は宋から直接伝えられたと考えるべきであります」という事情とも合致する。元嘉暦で記録された時代より前の時期については、なんらかの古暦で記載された資料が残っていたとみられ、書紀紀年記事を分析した貝田禎造氏のX倍年暦の判断(区別と期間)に従ったものである。

 「継体17年=武寧王没年=西暦523年」(すなわち、「継体元年=507年」)を基点とするが、継体の直前の武烈天皇の治世期間8年はまるまる継体天皇との二朝並存とみる(この8年間は、継体が王権の挑戦者ないし簒奪者的な位置)。

 <基本前提B>
 記紀の記事内容などから見て、過大な治世年数をもつ天皇(神功皇后、垂仁など)とその逆の天皇がおり、その辺は書紀紀年の総治世年数のなかで適宜、調整を行う。
 なお、仁徳の治世年数は二倍年暦で考えると過大であるが、四倍年暦では問題がないので過大とは考えない。従って、この年数調整は応神以前について行う。笠井倭人氏が紀年復元の手段として用いた記事空白の年次を除外する方法は、根拠がないので考慮しない。

『書紀』の太歳干支は、適宜、参考にする。書紀紀年と関連するから、あえていうことはないかもしれないが、太歳干支は垂仁・応神・安閑の元年で、興味深い動き(適切な年代値かを示す。

 皇室以外の他の古代氏族諸氏の系図との世代比較を十分、配慮する記紀の直系相続から傍系相続への変換の意味もある)。そのうえで、@世代数とA天皇の人数(代数)の2要素から推計式を算出して、年代値を各世代毎にチェックする。
 なお、天皇の人数という一つの要素だけで、上古天皇の活動時期を探る安本美典氏の手法は、算出値が大きくブレる可能性が大きい。実際、安本氏の諸説(「卑弥呼=天照大神」とか、三世紀代の神武東遷説など)を裏付けるものとして恣意的に利用されている弊害もでている。

i 
政変的な要素としては、応神及び継体の皇位簒奪を考える(従って、神武以降の皇統は、万世一系とはみない。応神は仲哀・神功皇后の子ではなく、他系〔息長氏〕からの簒奪者。ただし、広い意味では、天孫族の同族ではあったが)。

 中国史料や金石文は尊重するが、『三国史記』の百済・新羅部分は紀年記事としては延長が見られるなど疑問があるので、そのまま紀年換算はしないなど、使用法には十分な注意を払う。なお、隅田八幡鏡銘文や稲荷山鉄剣銘文は、紀年論にはなんら参考になる金石文ではないことに注意しておきたい(稲荷山鉄剣銘文のオホビコは阿倍氏先祖の大彦命かどうかは疑問を留保)。
 
 以上の諸基本前提十点を踏まえて試行錯誤的に段階的に何度か年代値へのアプローチを行い、算出した結果が、拙著『「神武東征」の原像』223〜224頁や『天皇氏族』294〜295頁に掲載した総括表であり、詳細はこれらの書を見ていただくこととして、結論としての応神〜欽明の期間の年代数値表を以下に掲げる。

    (年代数値表)

 実際に皆様も自らの手を動かして作業してみればお分かりになるように、仁徳天皇即位年の西暦413年第2四半期)までは、誰でも<基本前提A>(上記基本前提の前半五点、a〜e)をもとにすれば、同様な数値算出ができるはずである。これより前の応神以前の期間の年代値が問題であり、これがきわめて複雑に込み入ったものであるため、この問題に対処し、全体的に数値系列を考えるために、<基本前提B>後半五点、f〜j)をも併せて提出したものである。AとBとに分けて記したのは、そこに若干の性格の差異を考えたものであって、とくにBについては、全体の算出作業に当たって配慮すべきポイントという色彩がある。

 これらによって年代値を算出してみると、表に見るように、倭五王については、「@讃=仁徳、A珍=反正か履中、B済=允恭、C世子興=安康か允恭の皇太子、D武=雄略」となる。珍と興については、即位後(世子興は皇太子としても)の遣使時期が早すぎるきらいがあるので、年代値比定か倭五王比定のほうかのどちらかで調整の余地がある。
 その場合、通説とは異なるが、「珍=履中」ということで考え、「興=木梨軽皇子」明治の久米邦武など)というのが無難な案となる。
 遣使の準備期間や往復期間など「時間のズレ」を考えると、反正の即位後の遣使としては時期が早すぎるので、「珍」をむしろ前代の履中のほうが穏当ではないか(履中への皇位相続には問題がなかったとみられること、父の行動を受け継いで中国王朝への遣使を行ったとするほうが行動として自然である。仁徳末期には摂政的な地位にもあったか)とみられる事情にある。なお、その場合、反正に当たる人物を倭珍の奏請によって平西将軍に補せられた「倭隋」(倭の王族重臣十三人の筆頭)と考えてはどうかという見方にもなる。世子興については決め手がないが、安康は皇太子(=世子)になった経緯がないので、允恭生前中に皇太子と定められていた(皇太子的な位置にあった)という木梨軽皇子とするのが自然だとみられる。
 なお、珍・興の問題を回避するために、@武烈の治世期間を『古事記』に則り7年として、後ろへズラす期間を1年分短くする方法があるし、A安康の時代は二倍年暦だとして、三年を半減すると一年半分、後ろへズラす方法もあるが、総合的大局的判断から提示表のように考えた次第である。

 ともあれ、倭五王の比定問題に関して、『日本書紀』はむしろ、時期などもほぼ的確に記録していた原史料に拠っていると評価してよいと考える。大和王権には中国王朝との往来を示す記事がないから、倭五王は畿内の大王ではないとの説(いわゆる「九州王朝説」など)も散見するが、とんでもない誤解である。応神朝・仁徳朝・雄略朝の記事に見える「呉」こそ中国南朝のことであり、遣使記録が『書紀』に記載される。西暦413年の遣使は実際に行われており、応神朝の記事に対応するとみられる(提示表を参照のこと)。
  この当時の王統譜についての記紀の記事も紀年と同様に基本的には妥当であり(細部に入ると個別の問題点もあるが)、五世紀代における「二つの異系の大王家」の存在説(原島礼二・川口勝康氏など)は、中国史料の記事において、倭王済とその前王とのつながりが明記されないことから、これについて王統が変更したとみた独自の解釈から出発した空理空論である。異系の二大王家という事例など、五世紀当時の東アジアにおいてまったく例がないことである。四世紀後葉までの新羅にあっては、異系の三王統が『三国史記』等から知られるが、これは同国独特の骨品制度に基づくものである。 それえでも、五世紀代には新羅でも、王統が1つに定まっている(もっとも、後世に朴王家から王が出て、昔の伝統が復活はしたが)。

 
 応神以前の紀年論及び年代値測定の問題など  

 応神以前の期間で、崇神天皇あるいは古墳時代の始期に遡る紀年については、様々で複雑な問題が多くあり、ここでは書ききれないから、主要な年代だけあげておくと、神武天皇の治世期間が西暦175〜194年、崇神が同・315〜331年、応神が同・390〜413年、神功皇后の韓地遠征が西暦372年夏、ということである(いずれの数値も「頃」をつけて見ていただきたい。数年の誤差などは、普通に生じうる)。
 その算出根拠などの詳細は、拙著『「神武東征」の原像』及び『神功皇后と天日矛の伝承』をご覧いただきたい。これら二世紀代まで遡る年代値も、各種の文献資料を適切に操作することによって求めることができることを銘記しておきたい。
 
 ところで、記・紀の紀年問題を文献学的に解決しないで、文献を無視して、別途、自然科学的な手法で歴史年代値を探ることが、最近の考古学界では行われてきた。具体的には、年輪年代法や放射性炭素(炭素14)年代測定法であり(以下、「両手法」という)、これによって算出された年代値が科学的な検証・験証を経ないまま、一人歩きをし、津田亜流の歴史学究や考古学者なども、不思議なことになんの検証をしないまま、これら算出結果に従うような様相を呈している。その結果、邪馬台国畿内説が考古学界(文献史学界でも?)では強まってきているが、その基礎となっているのが、具体的には、「弥生中後期・古墳開始期の約100年遡上」の見方である。
 自然科学による両手法とも、方法理論としては誤りを指摘することが難しいため、それに対しての批判も弱い感じを与えるが、問題が大きい。南北に細長く、多雨多湿で火山活動が活発な日本列島においては、気象条件・自然条件がどこの地点でも一定だということは、現実にはまず考えられないし、空中などに存在する放射性炭素の濃度も理論値との差異が当然でてくる。現実に、7,8千年前という鬼界カルデラの日本列島を覆う大爆発という事件もあった。
 現実に生起し発展する歴史の動向のなかでは、具体的に妥当する歴史年代値でなければならないのに、それがまったく検証できないまま、ブラック・ボックスから取り出された年代値が横行し、それに基づく歴史像が過去の学問成果の基礎なしに描かれるとしたら、それはもはや人文科学とはいえない。上記両手法では、当初に算出された数値を適宜、補正するために較正曲線が作成されるが、こうした過程で、お互いが支え合うという形をとっている。だから、別個の手法による独立した年代値ではない(密接に連動する運命共同体的な年代値)という事実が基本にあるのに、この基本に目を向けずに、「自然科学的な装い」に目眩ましをされてはならないものである。歴史原態を的確に示す「較正」が果たしてできるのかという問題点がある。
 実のところ、両手法の問題点は多くあるのに、かつ、その批判者はかなり多くあるのに、年輪年代法などの手法は正しいが、「古材再利用・風倒木利用」などの事情で、具体的な数値に疑問があるという、いわば腰の引けた批判がかなり多い。しかし、広い大陸などで利用できる科学的手法が狭長な日本列島でそのまま適用できないことは、十分ありうる話だし、また、具体的な数値の算出でも、その基礎となる素材の選び方、年輪幅変化の推移などの基礎データ表の作成などでも誤りが生じうる。

 年輪年代法について具体的な事例を踏まえて長年研究してこられた鷲崎弘朋氏は、法隆寺建築などの例から考えると、基本となる年代値について、「西暦640年頃を境として、それ以前の測定値は100年ほど古い方向に狂っている」と明確に指摘されている。すなわち、現在、両手法によって用いられて算出される数値がその分だけ遡上が過剰になっているとの具体的な指摘である。
 私見でも、大きく歴史の流れを見た場合に、記・紀の紀年論なども併せて考えると、大和の纏向遺跡は実質的な初代大王たる崇神の宮都であるし、いわゆる箸墓古墳は、『魏志倭人伝』などの文献も併せ考えると崇神の陵墓でしかありえないと考えている。纏向遺跡も箸墓古墳も、ともに三世紀代のものではありえないということである(最近、考古学者の関川尚功氏の同様な指摘が注目を集めている)。
 池上曽根遺跡などの例も、上記両手法に拠る算出数値には大きな疑問を感じている。こうした数値感覚から両手法による数値をみた場合、その具体的な数値は大きな形で前倒し方向に狂いが生じているとみている(約100年どころか、更に大きい前倒しもありえよう)。もちろん、この辺は今後とも十分な検証を要するものであるが。

 学問は様々な仮説により進展するものだから、一概に両手法について否定するものではないが、一般に公開されたデータベースないし資料により、基本知識のある研究者なら、誰でも検証することのできる場できちんと議論をしていただきたい(年輪年代法のデータは未だに公開されていない事情にもある)。こうしたことが可能ではなく、多くの疑義がある段階では、考古学界も「土器年代の積上げ」などの従来手法により、また文献資料との突き合わせなどの手法をも併せて、地道に研究を重ねていくことが強く要請される。
 本論考の主テーマである記・紀の紀年論も、誰でも共通の文献資料などで議論・検討がなしうるものである。だからこそ、管見に入った諸説への批判も賛意も、できるだけ明確に記したものである。あくまでも所説・見解への批判ないし賛意であるから、個人に対する人格的な批判を行ったつもりは毛頭ないが、読者におかれては適宜ご理解いただき、ご意見・ご批判があれば、メールでご連絡いただければ、また再考慮もいたしたいと思っている。

     (2010.7.26 掲上。その後に7.31や2021.03など微修補)
                                           

 前へ戻る      ホームへ     古代史トップへ    系譜部トップへ   ようこそへ