祇園山古墳は卑弥呼の墳墓


    祇園山古墳は卑弥呼の墳墓の可能性があるか

       ─祇園山古墳についての安本氏の見方の疑問


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卑弥呼の墳墓については、私は先に『季刊/古代史の海』で「卑弥呼の冢」というテーマで、同誌第25号(2001年9月)及び第26号(2001年12月)に掲載して論じており、これを補訂してネット上にも掲載している。

従って、その詳細は、次のHPをご参照ください。
卑弥呼の冢」http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/himikotyou/himiko1.htm
卑弥呼の冢補論祇園山古墳とその周辺
    http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/himikotyou/himiko3horon.htm

 ここでは、安本美典氏が「邪馬台国の会」の講演で示された見方について、簡単に反論をしておきたい。
 福岡県教育委員会の報告書(1979年)などを踏まえて、主要点をあげると、

 (1) 当該墳の形状は、二段構成で、上段が方墳的な一辺の底辺長は東西約25M、南北約24Mとされ、その下段の東西が約30Mに延びて、総じて楕円形のように見え私も現地で実際にこの辺を見て確認している)、このなかには外周部の多数の主体群が殆ど収まるという形を、安本氏は無視する。こうした構造・形状は、弥生中期の築造とされる吉野ヶ里墳丘墓に類似する。(次に掲げる祇園山古墳の図面を参照

    
 
 (2)同時埋葬とみられる付随葬を安本氏は無視する。
 大塚初重氏は、当初(1975年頃)、主墳の裾部周辺に62基の同時代の埋葬例があることに着目して、「特定の人のための埋葬例と、それに従属的な関係で存在しているごとくみられる。特定の個人墓プラス集団墓、これは、北部九州のおける弥生時代の最終段階で、前方後円墳などが出現してくる直前における北部九州社会の実態が、いみじくも墳墓にあらわれているのではないか」と述べ、九州における前期古墳と比べて質的に大きな差があるとしている(「古墳はいつどこから」。『日本古代史の謎』所収)。
 ただし、発掘調査に当たった県教育委の前掲報告書(1979年)では、このような見解をなぜか退け、はっきりと前期の「畿内型古墳」の範疇に含まれるものと考えたが、上記墳丘形状から見ても、「畿内型古墳」とはとても言いがたい。
 総じて言うと、一般的に、古墳発生期を四世紀初頭より早いとみる見解が多くなっており、その場合は、三世紀後半頃ということになる。
 
 (3) 画文帯神獣鏡片を安本氏は過剰に評価する。これが、古墳本体部分ではなく、附属の甕棺墓(女性の主要従者かとみられる「墓壙内に営まれた第一号甕棺墓」)から出土したものである。
 出土した半円方形帯鏡片については、小田富士雄氏が「祇園山遺跡出土鏡は全体の図像不詳ながら同行式の獣形、銘帯、方形帯に各一字の銘文を入れていて、後漢晩期の製作であろう」と評価する(『倭国を掘る』256頁)。類例の多い神獣鏡とはならず、甕棺墓出土の鏡としては異例の型式とされる。銘文のうち判読できるのは多くないが、副銘のなかに「善同出丹□」(□の文字を補うと「善き銅、丹陽に出る」の意か)と見えて、三角縁神獣鏡銘文に多く見える「徐州」ではないことにも留意される。この欠字があるので「丹陽」とは言い切れないが、この地は長江南岸の江蘇省鎮江市のなかにある丹陽市として現在も地名が残る。
 なお、当墳から出土したとも伝える三角縁神獣鏡・変型方格規矩鏡については、その確実な出土地は不明である。 
 ところで、この鏡片形状が賀川光彦氏が言う倭国王が配布した鏡片という形状を、安本氏は無視する。この形状について、王金林氏が、「後漢の鏡片の発掘から、北部九州を制圧していた地域国家の存在」が分かり、「鏡片が故意に分割され各地に分与された時期」は、「弥生時代の中・後期」で、「ちょうど早期邪馬台国の時期である」と指摘する(王金林著『古代の日本』、1986年)。
 一般に、神獣鏡は、後漢後半期の2世紀に出現し、3・4世紀の三国・両晋時代に盛行する。……3世紀前半には4神4獣の対置式神獣鏡や同向式神獣鏡へ変転した(田中琢等編『日本考古学事典』)、ともされるが、鏡の種類そのものは勿論のこと、出土した形状のほうも十分、考慮する必要がある。
 
 (4) 当時の魏朝の薄葬令など、東アジアという大きな視点で卑弥呼の墳墓が考えられていない。
  この辺は、上記拙考HPの「卑弥呼の冢」をご覧いただきたいが、主な趣旨が、次のようなものである。
  『魏志倭人伝』に見えるような卑弥呼の墓の表現では、「径百余歩」「大いに冢を作る」といっても、「倭地や朝鮮半島のなかでは」という限定つきの話しであり、朝鮮半島の中国人が見た、『三国志』当時の中国の薄葬墓との比較でもあろう。だから、卑弥呼の墓として畿内の巨大古墳を考えるのは、きわめて無理がある。年輪年代法による年代値測定は、いまだ検証されておらず、較正が妥当かどうかは疑問が大きい。
 他のネット上でも、蒲田新田氏によるHP「蒲田新田の庭先考察」のなか「卑弥呼の冢は古墳ではない」という項で、当時の中国の墳墓例を多数あげて、箸墓古墳のような巨大古墳の築造では、魏朝から派遣された張政に倭国が叱られるのではないかとも指摘する。併せて、ご参照されたい。
 
  以上の諸事情から見て、祇園山古墳(墳丘墓)は邪馬台国時代の墳墓とするのが妥当であり、高良山神籠石などの周辺事情とも併せ考えると、卑弥呼の墳墓に比定される可能性が十分に考えられる。

 (2017.8.31掲上)

 ※なお、祇園山墳丘墓を現実に見たとの観点から、これが卑弥呼の墳墓には当たらないとの見方も提示される方々がおられるが、現実に現地で当該墓を確認するとともに、その研究報告書をしっかり読まれて、そのうえでのコメントを賜りたい、という感を痛切にするところである。



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