世代数と在位者数の問題
           

        世代数と在位者数の問題


 
 安本美典氏の「邪馬台国の会」における講演では、世代数(「世数」と安本氏は表現)と在位者数(同、「代数」と安本氏は表現。表現が紛らわしいので、原則、世代数と在位者数で表記する)についても触れるが、なかに気になる記事・見解もかなりあるので、併せて触れておく。
 
 安本氏の主な主張は、世代数は諸伝があって一定しがたい場合があるが、在位者数のほうは正しく伝えられることが多いから、後者に着目して年代検討を行うべきだというもののようである。
  その要点は2つあって、次のようにあげられる。
  (1) 「代数情報よりも世数情報のほうが信用できるとは思われない。」
 (2) 「「世数」情報を考える場合には、その「世数」のなかに、普通は天皇位につかなかったとみられる人も一世として数えられることになっている」
 
 前項の安本氏の記事には、拙考に関し誤解ではないかと思われる内容があるので、まず、それを記しておく。
 @拙見では、最終的な年代推定値の判断は、『「神武東征」の原像』222,223頁に掲載の「採用値」の欄に見るように、書紀記載の紀年の解釈(貝田禎造氏の言う「倍数年暦」論や元嘉暦を考慮し、倭五王遣使記事などによるチェックを行う)に基づいて年代推定を行っている。なお、同表では神武の在位時期を175〜194年として記載している。これが、拙見の神武天皇年代観である。
 A前項の年代推定値の判断に際しては、世代数と在位者数という2つの説明変数を用いて算出した相関式で出てくる年代値を用いている。この場合、区間推定として各世代の活動時期(世代数につながる)についてのみ、相関式で算出することになる(相関式では、世代数にかかる係数が大きいから、この影響要素が大きいのは確かであり、これが推計値を安定的にしている)。だから、世代数重視だといえないわけではないが、それだけではない。
 B書紀紀年関係の情報は、世代数と在位者数の情報を含み、その他で参考とする『古事記』など各種情報でも、この両方の情報を十分に考慮している。


 次ぎに上記1の安本氏の見解に反論する。

 (1)に関して、
 @たしかに、天皇・王や家督相続者の歴代は後世に伝えられても、その当事者間の親族関係が正しく伝えられないことはままある。このように具体的な親族関係が分からないからといって、世代把握ができないというわけでもない。そのため、「標準世代」という把握法を、拙考では考えている(本HPの別途の記事を参照)。
 近隣の東北アジアを見ると、高句麗の初期の王の段階(とくに初代朱蒙から太祖大王宮までの段階)では、王名が数代欠落した可能性が井上秀雄氏により指摘されており、これが好太王碑文に見える記事「好太王は朱蒙の十七世孫」ということや、異常に長い『三国史記』の記述の太祖大王の治世期間(同書では、53〜146年という93年間が治世とされる)でも裏付けられよう。
 『三国史記』では、好太王は第19代目国王とされ、朱蒙の十三世孫(日本式の数え方※)という系図を掲載する。ここでは、初代の朱蒙から好太王までは、在位者数は19人だが、世代数は14世代ということになる。現実に、第6代太祖大王、第7代次大王、第8代新大王の三代が、中国史書ではすべて直系で記されるのに対し、『三国史記』ではこれら三人がみな兄弟とするものである。具体的に彼らの活動時期を考えると、比較的には中国史書のほうが妥当とみられるが、第6代〜第8代が二世代に属するという見解も別に出されており、高句麗に関する史料が乏しいことから、どちらとも決めがたい。一方、第9代故国川王(朱蒙の九世孫となろう)から高句麗終末期の第26代嬰陽王までの世代数は、ほぼ問題がないとみられる。
 だから、王統が変わったり、いったん事実上滅亡したなどの混乱事情があれば、王名だって失われ、辛うじて世代数だけが伝えられたということだってありうるのである。
 
 ※本人から子孫への数え方には二種類あり、@日本では、「本人─子─孫─3世孫(曾孫)……」というのが主流の数え方だが、A中国・朝鮮半島では、「本人─子─孫─4世孫(曾孫)……」であった模様である。要は、本人を最初に数えるかどうかの差異なのだが、日本でAのやり方で言う場合には、例えば、子を「二世」、孫を「三世」というように「孫」を抜いて言うのが普通である。例えば、奈良時代前期の養老年間に出された法令の「三世一身法」は、本人から三世代(孫のこと)までの墾田私有を認めたものである。
 
 A拙考の「標準世代」では、上古から続くわが国古代の有力氏族20ほどの対応世代を比較して、帰納的に算出している。天皇家と出雲国造(崇神朝になって大和朝廷に服属した)を除くと、他の中央・地方の有力諸氏族では、神武天皇と崇神天皇との中間には4世代が入る形で系譜が伝えられているのである(拙著『「神武東征」の原像』196,197頁参照)。
 この標準世代の形は、わが国のみならず、朝鮮半島の高句麗・新羅及び百済とも相い符合する。この辺も、別項で記述した。
 
 B在位者数(安本氏のいわゆる「代数」)が一義的に決められるというのは、安本氏の錯覚である。
 砂入恒夫氏は『古事記』の『帝紀』関係記事を詳細に分析されて論考「崇神・垂仁系王統譜の復元的考察」(『歴史学研究』314号。1966年)を発表されており、そこでは宮居等の記事から、原型が天皇(大王)として取り扱われた十人の名を指摘する。その十人のなかには、景行天皇の別名や倭建命、神功皇后などがあげられており、すべてが『記・紀』に天皇として記載された者の数に加算されるわけではないが、『記・紀』の編纂・成立までに、天皇数について種々の変遷があったことが知られる。
 例えば、神武の長子で神武東征に同行して九州から大和入りした手研耳命も、『書紀』は太歳干支を記し、神武嫡后を神武の死後に娶っているのだから(匈奴の嫂婚制に通じる)、記紀に記す神渟名川耳命(綏靖天皇)による長兄殺害は、実態は王権の簒奪であった。この関係で『書紀』に空位期間が3年、記されるのも、実際には手研耳命の王としての執政時期があった故であろう。
 
 C有名な神功皇后はもちろん、清寧天皇没後の飯豊青尊の執政も、実質は王としての存在であったろう。
 以上に見るように、原型が王ないしこれに準ずる権限の執政であっても、後世の史書編纂にあたって天皇(大王)としては数えられない者たちがいた。安本氏にあっては、正史の六国史に天皇として扱われず、明治になって初めて天皇に列された弘文天皇(大友皇子)まで、天皇の在位者数に入れるのだから、不思議な取扱いとしか言いようがない。
 
 D安本氏は、a百済の毘有王から滅亡時の義慈王までの諸王について、『書紀』記事と『三国史記』記事を比較的に取り上げて、そこでは諸王の王名と歴代が正しく伝わるが、親子関係情報(世数情報)があやふやだと指摘する。また、安本氏は、b武内宿祢について、『書紀』と『古事記』で系譜所伝が異なるとも指摘する。
 しかし、これらは妥当な例とは思われない。というのは、a関係では、両書で22文周王〜25武寧王の期間はたしかに親子関係情報に異伝があるが、『書紀』の成立時期とその具体的な記事を当時の年代に応じて考えると、『三国史記』記事よりは信頼性が高いのは自ずと分かる(明治期の鈴木真年翁も、その著『朝鮮歴代系図』では、『書紀』と同様な系譜内容を記す)。『三国史記』では、長く存続した新羅の史料は割合豊富だが、滅びた百済・高句麗の記事には様々な粗漏(高句麗については上述)があるとの認識が関係研究者にはあり、両国王家の系譜も実際にいくつかの問題点があることに留意される。
 ちなみに、『三国史記』では、紀年記事が複雑であり、普通年暦で解するのは疑問が大きい(倍数年暦が複雑に組み混まれており、紀年の原型探索は拙著『神功皇后と天日矛の伝承』で試みている。ご参照のこと)。その「新羅本記」では、倭国女王卑弥呼が阿達羅王20年(普通暦で換算すると、西暦173年となるが、この比定は疑問)に遣使してきて礼物を献じたと見えるが、この紀年把握には問題がある。「新羅本記」の倭国・倭兵関係の動向は、倭兵が新羅国都の金城を囲んだと見える11助賁王の三年(普通暦換算では、西暦232年)以降しか信頼できない模様である。この助賁王三年の金城攻撃が、神功皇后による侵攻にあたり、年代が370年代前半に比定される。
 
 b関係では、古代氏族諸氏の系譜伝承を比較検討すると、武内宿祢については『書紀』記載の系譜のほうが妥当なことが分かる。『古事記』のような系譜を伝える古代氏族は、ほかに見られないと思われる。
 これらa、bの例に見るように、系図・系譜の研究者なら誰しも、古代・中世の系譜にあっては様々な諸伝があることを知っている。そのなかで、どれが原型史実に近いものかを各種史料から的確に判断・評価するということである。そのためには各種史料の記事まるのみではなく、適切な系図鑑識眼が求められる。この鑑識眼の養われていない方々が「再現性」を主張しても無意味であり、歴史の無知は論争の武器や盾にならないということでもある。それは、世代数であれ、在位者数であれ、同様のことである。
 
 これらの諸例から見ても、在位者数が世代数よりも良く伝えられるとは限らない。安本氏の記事や言動を見ても、古代日本の重要な隣国たる高句麗については、なぜか歴史の認識・検討の対象外となっている模様で、世界最長級の在位期間を誇る長寿王も、好太王碑文も、無視されている。安本氏は、主張・立証の「再現性」を言うが、そもそも、その見解自体が歴史感覚から言って、とても「再現性」があるものとは考えられない。
 要は、代数情報も世数情報も、それらを他の資料も併せ、総合的に考えることが必要ということである。


 (2)などに関して
 ほとんど上記(1)で記述したが、市辺皇子について、わざわざコラムまで使って安本氏が自説を説明するので、これに対する反論をしておく。
 @世代数で見ていくと、たしかに当該者までの直系だけ見ると、天皇位につかない人々を含むし、所伝に残らない者もいるかもしれない。現に、顕宗・仁賢兄弟は、記紀には市辺皇子の子と伝えるが、実際にその活動年代を考えると、市辺皇子の孫とするのが原型であったとみられる。
 拙考では、上記(1)で記述したように、「標準世代」という形で天皇家や有力氏族の世代を比較のうえ捉えるため、直系が長くつながらない場合にも、世代関係をみることができる。直系のなかに天皇にならなかった者がいても、殆どの世代にあっては天皇即位者がいた(天皇が皆無の世代は、敏達〜推古兄弟の次の世代だけ)ということである。
 だから、厳密な親族関係が分からなくとも、「標準世代」を把握することができる。このあたりが、安本氏にはどうもご理解いただけない模様である。
 
 A崇神天皇より前の歴代にあっては、一世代の在位者数平均が少ないが、これはそのように伝えているだけであって、標準世代で考えていけば、傍系相続が多かろうと少なかろうとこの辺は問題がない。
 
  (2017.9.03掲上)


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