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青山幹哉氏の論考
「中世系図学構築の試み」を読む



 青山幹哉氏の論考「中世系図学構築の試み」を読む
  
 青山幹哉(あおやま・みきや)氏は、南山大学の人文学部人類文化学科の助教授(※本稿作成当時。現在は教授)で、専攻分野を「日本中世史・系図学」としており、わが国学究では珍しく系図学専攻を明示されている。これまでに、系図学関係の論考として、「中世系図学構築の試み」(1993年)を皮切りに、「中近世転換期の系図家たち」(1998年)、「十八世紀系図家の描く中世像―長慶寺所蔵『山田世譜』の分析―」(1999年)を『名古屋大学文学部研究論集』(史学)に続けて発表されてきている。また、弘文堂刊の『歴史学事典』第8巻「人と仕事」(2001年)には「系図づくり」の項を執筆されている
  これら論考に先立ち、「鎌倉将軍の三つの姓」(『年報中世史研究』13。1998年)も発表されているから、本稿はいわば満を持した中世系図学の宣言という作品ともいえそうであるが、果たしてその内容が時宜を得たものか等の検討をしてみたい。この際、適宜上掲の論考も併せて考えたい。

  
  次に、本稿の内容検討を行うこととしたい。
(1) 最初に、総論的部分の検討である。論考では「はじめに」として、久米邦武の古文書(広義)の定義をあげており、久米はその五種のうちに古文書(狭義)や古記録・古系図を数えたが、この定義は官学アカデミズムには継承されず、以後、史料学はもっぱら対象を狭義の古文書に限定され、いわゆる古文書学が主流となった、とする。 
  この辺りは良いとして、次に、たいへん大きな意味のある定義をいかにも当然のことのように説明抜きで記述される。すなわち、「そもそも、系図とは、系図作成者が作成時点において「かくあった」ないし「かくあるべし」と考えた一種の歴史叙述という史料的性格をもち」(文章は次の部分と続いているが、A部分とする)、「さらには後代の追加・補訂によって当初とは異なる要素が混入し、複合的な記録となる可能性も高い史料である」(B部分とする)と規定されるのである。
  この規定のうち、「さらには」以下の後段(B部分)は特に問題ないと思われるが、前段(A部分)は極めて問題が大きい。というのは、標題が「中世系図学」ということなので、中世に初めて作成された系図で、かつ主として党的結合をもつ武士についてのものという限定がかかるのなら、ある程度、通用すると言えようが、それは結論的にいわれるべきものであって、最初から定義とするのは疑問が大きい。さらに、古代系図や中世祠官系図も含めて系図一般についていうのだとしたら、妥当するとはとてもいい難いからである。すなわち、系図とは、「氏族・家族の血縁関係を始祖から歴代にわたって書きあらわしたもの」(『国史大辞典』の表現で、佐伯有清氏執筆)であり、それ以上の評価的な部分を定義に入れ込むべきではないと思われる。

  現実の系図においては、古代から何代もの手によって親族関係を明らかにするため不断に書き継がれてきた系譜的記述・所伝が基にある。ここには、個別に差異はあろうが、総じて「かくあるべし」という要素が大きいとはいえない。系図とは本来、長期間にわたり血縁関係について代々書き継がれるもので、一時に作成されるという性格のものではない(紙質劣化や分家などで、一時期の書写しは勿論あるし、編纂もあるが)。そこに、ある特定時点で目的を持って作成され、そこで完結する普通の文書とは大きな違いがある。
  少なくとも、ある原型に対して、時期を異なって(場合によっては、目的・知識も異なる)、複数の手が加わった系図の例は多くあることを認識する必要がある。安田元久氏も、「系図というものは、一旦成立したのちに次々と書き継がれてゆくという性質をもち、また後代になって原型の部分すら加筆が行われる可能性も大きい」と述べられる(「中世武家系図の史料的価値について」、『姓氏と家紋』第47号、1986/11)。なお、系図には、様々な作成経緯があるので、なかには一時に最初から最後の部分まで作成・編集されたものもある。そうした系図は後世の編纂になればなるほど、注意を要することはいうまでもない。

(2) 青山氏の次の認識は、研究史を顧みると、太田亮等が、「系図の信憑性に固執したところに系図学の発展を妨げた最大の問題があったのではないか」というものであり、これにも疑問が大きいと考えられる。というのは、最初に疑問提起をした「かくあるべし」という要素(内容の偽作も当然に含むという意味とされよう)を前提に考えれば、自然に導かれる判断かもしれないが、系図学の由来、すなわち本来、それが歴史学の補助分野であったという事情を考えると、疑問が大きい。系図も史料の一つとして史実の探究を行うという見地からすれば、系図の由来や内容の信憑性を十分に確認するというのが、当然の大前提だといえるからである。
  従って、青山氏のいうように、「太田の系譜学はともすれば系図記載事項の真偽、真正系図の作成に力点がおかれ」ることになり、その周辺事項は比較的ではあるが疎かにされるのも、また当然の成り行きであったものと私には思われる。この辺は、系図をどのような目的のために研究するのかという目的意識の差異の問題であり、氏は多少逆説的な表現のつもりかもしれないが、「系図学の発展を妨げた最大の問題」とまでいうべきではなかろう。もちろん、系図の作成ないし編纂の事情が分かるにこしたことはないが、こうしたことはあまり記録に残っておらず、それだけを問題にしてもはじまらない。現存する系図には、成立・伝来の経緯が不明なものはむしろかなり多いし、そんなことを言うのなら、古文書だって、偽文書が相当に多い。

(3) 青山氏の主張は、「そろそろ、系図自体から系図作成時の時代・社会の特性を解読する作業を開始してもよいのではなかろうか」ということであり、上掲のいくつかの判断は、この主張を導くためのものであった。私自身も、この主張を否定するわけではないが(こうした研究にも価値と必要性を認めるという意味で)、これだけを言うのなら、もっと異なる立論もできるのではないか、と思われる。
  さらに、氏の次作論考「中近世転換期の系図家たち」に付けた注2において、佐藤進一氏の「古文書学とは文書史である」という言を引きつつ、「系図研究においても「系図学とは系図史である」という視点が重要であろう」とまでいわれるが、これも疑問が大きい。すなわち、系図史の研究をすることについては、その意義自体を否定するつもりは毛頭ないが、それはあくまで系図学の周辺分野での話であり、系図学本体はあくまで「系図の信憑性」(とくに記事内容の信憑性)の検討としてなされるべきだと考える。なぜなら、氏も自認されるように、「今日の中世系図学が、いまだ個別史料の検討を重ね、研究を積み重ねなければならない段階にある」からであり、これら個別史料の内容を十分検討することにより、氏の作業にも必ずや裨益するところ大ではないか、と考えられる。
  実際、古代の系譜を中心課題として研究してきた私が、ある契機で中世の系図のいくつかについて検討を開始したところ、清和源氏・桓武平氏に限らず、出自仮冒の頻出に驚いた経験がある。中世の比較的信頼できる系図集と一般にみられている『尊卑分脈』さえも、とくに武家部分は相当に要注意公家部分だって、問題箇所がある)というのが実態なのである。しかも、従来、そうしたことを指摘する研究・論考に乏しく、中世系図の研究者のレベルの低さ、層の薄さを度々感じさせられたところでもある。残念なことに、研究者がたとえ大学教官という肩書きを持っていても、その辺の状況には変わりがない。こうした事情からみて、いま力点を置かねばならないのは、やはり系図学本体の充実向上であろうと考えられる。

  
  次に、各論部分について検討する。
  「一 形式論から」「二 相伝の論理」については、あまり異議を唱えるような点はない。多少とも気になるのは、鎌倉期の系図の実体を知るために、試みに『鎌倉遺文』全42巻のなかに収められた系図を見られる点である。というのは、同書には系図だけの文書は所収されず、主として所領の相伝・相論に関係する文書に付属する系図に所収対象が限定されており、従って、これらの史料だけで鎌倉期の各種系図の実体を知ることができるとは到底思われないからである。
 しかし、それ以上に、問題は、「三 出自の論理」に頻出する。すなわち、そうした内容的に疑問と考えられる青山氏の表現をあげれば、次のようなものである(次ぎに掲げる(1)〜(3)の冒頭にあげる「」の部分)。

(1) この種の系図の示す出自集団とは、実は作成者が作成時にかくあるべしと企図した一族集団である。ここに系図がもつ大きな欺瞞がある。つまり、実際には作成の時点における集団構造や政治的関係の実情に合わせて系図は作成されるのであり、そのためには事実に反する仮構もありうるのである。異なる氏族を同族と記すことなどは、ありふれた作為であった。

  これは、総論部分にも同種の表現が出てきたが、なんら具体的な説明・史料があげられていない。「大きな欺瞞」という重要な指摘をしながら、全くの根拠なしでは、当初からの思込みとしかみることができないし、この辺をしっかり説明しないでは、この論考自体が殆ど成立しなくなるのではないかとも思われる。
  なお、青山氏は、後に「十八世紀系図家の描く中世像」では、江戸中期の尾張の儒学者山田正修(1732〜88年)が主に作成した『山田世譜』(長慶寺所蔵)を分析し、「系図作成編集者によって意図的に作られたものであった。…(中略)…系図家山田正修としては、朝廷・上皇に忠実に仕え、武名を轟かした尾張の名族という視点から山田氏の「歴史」を再構築する必要を感じざるを得なかったのである」と結んでいる。同論考の分析自体については、私としてもとくに異論はないが、江戸中期の商家という当時では低い階層から出た儒学者の自家の系図を基に出された結論が、直ちに中世武家豪族の系図に妥当するものではないことは、いうまでもなかろう。中世系図では、事実に反するような仮構も見られるが、この辺は個別検討すべき個所であって、一般論として言える話しではない。

(2) 鎌倉期ではまだ遠祖を(少なくとも棟梁級武士以外では)意識する必要がなかったと判定できるだろう

 青山氏は、平重盛・源義平のような棟梁級武士は、軍記物に見える「氏文読み」から遠祖に桓武天皇・清和天皇をあげるが、中小武士では必ずしもそうではなく、比較的近い先祖から「氏文読み」を始めるとして、「湯浅一門略系図」「結城白川系図」等を例にあげる。
 しかし、「氏文読み」に関していえば、『源平盛衰記』巻二十七に見える西七郎広助と富部三郎家俊の例をみれば、後者は曾祖父と称する平正弘から述べるに対し、前者は遠祖を俵藤太秀郷をあげてその八代の末葉と唱えるのである(この二つの系譜は、私の分析では、実態として、ともに先祖についての系譜仮冒と考えられるが)。
 また、氏が例に挙げる系図などでは比較的近い先祖から始まるものであるが、その一方、遠い祖先をあげてそこから始まる中世系図もかなりある。例えば、中条家文書「桓武平氏諸流系図」など坂東諸平氏の系図は殆どそうしたものであり、また、田中稔氏により紹介された野津本「北条系図、大友系図」(『国立歴史民俗博物館研究報告』第五集)はともに鎌倉後期の古い貴重な系図とされるが、北条氏は遠祖を桓武天皇としてここから始め、大友氏は大織冠(藤原鎌足)から始めている(注1)。さらに、桐村家所蔵「大中臣氏略系図」は頼継の子から実質系図が始まり、頼継の孫・中郡三郎経高の諸子から様々な分岐が始まるが、系図自体は遠祖の天児屋根尊から始まる形となっている。
  なお、この(2)の点については、安田元久氏も前掲論考で、「中世前期の武家の系図では、その祖先を遠く古代に及ぼすことがないのが一般的であったと言えよう」と表現し、佐伯有清氏も、『国史大辞典』系図の項で、同様な趣旨を述べている。彼らが共通してあげる例は「湯浅一門系図」であり、佐伯氏は更に「与州新居系図」を追加している。たしかに、こうした形の系図があることは否定しえないが、それが全ての系図について同様にいえるかは、遠祖まで及ぶ形の系図も現実にかなりあるので、また別問題ではなかろうか。

(注1)野津本「北条系図、大友系図」  弘安九年(1286)の異本校合を経て嘉元二年(1304)に書写されたもの
  それぞれ所伝としての信頼性が高いが、前者は桓武天皇に始まり、北条四郎時政の諸子から大きく分岐。後者は大織冠から始まり、古庄入道能成の諸子から大きく分岐した形で系図を記す。


(3) 武士は鎌倉南北朝期のいつごろからか、しだいに平安末期以前の遠祖を系図冒頭部分に接続させ、高貴の氏を仮冒するようになったと考えられる。鎌倉期、徐々にではあれ、武士は高位貴姓の氏に出自すると公称する必要性を感じつつあったらしい

  青山氏は、紀伊の隅田党が藤原鎌足を遠祖とするものではなく、実際は「長氏」(私見でも、長我孫ないし長公の後裔で、本姓長我宿祢か)であることをあげて、この説明をするが、この系譜が疑問なことは、鎌倉幕府創出に関与した坂東の大族武家の殆どすべてが系図仮冒をしていたことから、分かる。
  すなわち、各地の有力武士における系図や出自の仮冒は、平安後期には既に生じていたのである。本来、下毛野国造一族末流ではないかと推せられる秀郷流諸氏はみな藤原氏を名乗り(これに更に別族等からの系図附合があり)、同じく知々夫国造一族の末流と推せられる秩父・千葉氏の一族はみな良文流桓武平氏を名乗り、相模国造一族の末流と推せられる三浦・大庭・梶原の一族も同様に良文流桓武平氏を名乗り、武蔵国造一族末流と推せられる足立・安達の一族は魚名流藤原氏等を名乗り、師長国造一族末流と推せられる北条・曾我の諸氏も桓武平氏を名乗っていたのである。だから、『吾妻鏡』に見える諸氏の本姓表記がすべて正しいわけではなく、そうした本姓を称して官位官職を得ただけの話しであった。
  こうした仮冒例は、武家系図では坂東に限らず、広く全国的に見られることであり、中世雄族の系図仮冒は枚挙の遑がない。近江の佐々木氏も古代の佐々貴山君後裔(中世当時の本姓は佐々貴山君にとどまった模様だが、たんに「佐々貴」と表記される。宿祢賜姓は管見には入っていない)でありながら、少なくとも平安末期には源姓を名乗っていたことが、『平安遺文』の所収史料から知られる。『吾妻鏡』でも、本姓が源と記されるが、宇多天皇後裔の佐々木氏と称するものの、その実在性は確認されない。学界では、二系統の佐々木氏があったとみるが、それを否定する史料しかない。だから、中世系図では出自の問題がたいへん重要であるが、学界での認識は弱いし、そこに問題がある。伊予の物部氏族小市国造一族から出た平安中期の橘遠保については、その子孫が橘姓の武家として全国に広がった。

  先にも触れたが、室町初期の成立とされる『尊卑分脈』に収める公家系図は総じて信頼性が高い反面、武家諸氏の系図には十分な注意を要する。すなわち、武家系図にあっては仮冒をそのまま記載する例が非常に多く、利仁流・為憲流を名乗る藤原姓諸氏ですら殆ど全てが本来、それぞれの地の古族の末裔であったとみられる。同書は、基本的には公家の手による公家のための公家の系図であり、この編集の前提を十分踏まえて所載系図を考える必要がある(それでも、公家の系図にも疑問がある個所がいくつかある)。ましてや、同書に記載のない藤原姓武家(伊達氏など)の系図の疑問なことは、いうもさらなり、ということでもある。
  このように見ていくだけで、系図本体そのものの実体的な個別の分析・研究が如何に重要であり、今後益々力を入れるべきことであるかを知ることが出来るはずである。

  以上、青山氏の諸論考に示された見方について検討を加えてきたが、ここで批判的に取り上げたものの、それ以外の部分は、中世系図の知識あるいは検討方法として、参考になることもまた多い。氏が在野の諸研究も含めて広く数多くの系図資料・関係論考にあたられて、更に研究発表されることを期待する次第でもある。

 (01.10中旬に記したものに加筆。肩書き等は当時のもの。13.7.16などで追補)



 <備考・追記>

  本稿は、青山氏の論考の存在をご教示いただいた方との応答のなかで生まれたものである。

  中世武家系図の再検討を続けられている在野の研究者に岩城大介氏がおられ、その著『中世武家系図の仮説的再構築』(
私家本)は昨年度(2001)の日本家系図学会の受賞作となった。
  同著では、中世の佐々木六角氏や南部・仁木・山中氏などの系図研究が記述されるが、なかでも佐々木六角氏とその家臣団諸氏の名前が六角氏当主の偏諱をもつことに着目した考察に対して、新鮮さと魅力を感じる。私はこれまでの系譜検討を通じて、古代でも中世でも、実名・偏諱や通称、美称、官位等の共通性から系譜上の新事実が見出しうるのではないかと思い至ったことがあり、その手法をかねて実践してきた事情にもあるからでもある。ただ、戦国後期の六角氏の系譜には、いろいろ偽造の疑いが濃い部分があって、十分に注意する必要もある。

  江戸期の幕藩大名・旗本のみならず、中世雄族の系図はとくにその出自部分において、仔細に裏付けを検討・追求していけば、疑問点が大きく浮上してくることが多い。こうしたことが新しい歴史原型の発掘につながるものだと実感する。それなのにどうして、中世史専門の学究はこうした系譜検討を手がけないのであろうか。先般も、播磨の赤松氏研究のある書を見たところ、その系譜・出自は謎である旨書いてそれだけで済ませているのを見、愕然とした次第でもある。室町期の守護大名でも、その祖先系譜には疑問がかなりあることを銘記しておくべきである

 中世雄族であっても、古代からの大きな歴史の流れのなかにあるものがかなり多く、その一族の分布や祭祀も含め、様々な諸事情を総合的に考察することは、たいへん重要である。



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