最近の著作などから江戸時代を考える

                                      小林滋 


   このところ、江戸時代に関して目を瞠る面白い研究がなされ、著作として発表されてきております。もとより江戸時代に関する専門的な研究者ではありませんから、以下では一般書店で目に付いたものの中からホンノ2、3取り上げて検討してみることといたしましょう。 

@『武士の家計簿』

新刊の磯田道史著『武士の家計簿(新潮新書、2003.4)は、そうした研究に基づく大変興味深い啓蒙書と思われます。

 i) この著作では、著者の磯田氏が「偶然」手に入れた「精巧な「武士の家計簿」」(「金沢藩猪山家文書」の一部)(同書P.3)に基づき、江戸時代の生活の実態につき実に面白い点が浮き彫りにされています。

  読んでいきますと、例えば次のような記述がすぐに見つかります。

a.「大抵の藩では、…勧農・裁判・租率決定といった面倒な行政を、藩士にはやらせなくなった。…藩の官僚機構が肩代わりするようになった」(P.39)。

  藩士は、自分の土地につき、どこにどのようにあるのかまったく知らないのが普通だったとされます。

b.「明治維新は武士を身分的義務(身分費用)から解放する意味を持っていた…。幕末段階になると、多くの武士にとっては身分利益(武士身分であることの収入)よりも身分費用(武士身分であることによって生じる費用)の圧迫のほうが深刻であった」(P.77)。

当時は「家格」が非常にうるさく、それを保つために身分費用を削るわけにはいかなかったようです。磯田氏の著書によれば、「江戸」における出費は相当膨大なもので、例えば、「猪山家は藩内随一の財務家であるにもかかわらず、また、俸禄を加増されたにもかかわらず、かえって多額の借財を抱え、家計の首がまわらなくなっていったのである。なぜであろうか。長期にわたって、江戸詰の役目を申し付けられたことが原因である」(P.47)などと記されております。

c.「たしかに、直之(猪山直之、金沢藩御算用者)は…エリート官僚であり、草履取りを連れて外出する身分であった。しかし、家来の草履取りのほうが、むしろフトコロはゆたかであった」(P.88)。

  草履取りは、食事と衣服が保障されていた上に、俸給を受け取っていたり、何かというと小遣いも主人からもらっていたそうです。

d.「考えてみれば江戸時代は「圧倒的な勝ち組」を作らないような社会であった。…武士は、身分のために支払うべき代償(身分費用)が大きく、江戸時代も終わりになると、それほど「お得な身分」ではなくなってきていた。一方、承認は大金持ちだが卑しい職業とされ、…しばしば武士にあこがれの目をむけていた」(P.89)

  徳川幕府は、厳しい身分制の実質的な最下層で喘いでいたとされる農民による革命によって打ち倒されたわけではないのも、こういう点が大きく影響していたとされます。

e.「武家女性は、生涯にわたって、実家との絆が強い。…実家の父と弟から「給料日のお小遣い」を毎年もらっていたのである」(P.92)。また、「猪山家でも、初産ならば、嫁は実家に産みにいくし、逆に、猪山家出身の娘が初産になると、必ず産みにきた」(P.110)。

 虐げられていたはずの江戸時代の女性は、子を産み年齢を重ねるにつれて、家庭内でのステータスが向上していったようです。

f.「農民よりも、武士のほうが、むしろ離婚は多いかもしれない。だから、夫婦の財産はきっちり別になっていて、いつ離婚してもよいようになっていた」(P.92)。

  江戸時代の結婚は、一般に長くは継続しなかったようです。一つには寿命が短かったこともありますが、離婚の多さにもよるとされます。

A) これらの記載に目を通しますと、江戸時代について一般に持たれている漠然たるイメージとはかなり違っていて、むしろ現代の我々によく通じるところがあるので酷く驚いてしまいます。

特に、「江戸時代は「圧倒的な勝ち組」を作らないような社会」であったという指摘(上掲d)は、現代まで根強く存続しているいわゆる「談合社会」に接合するのではないでしょうか?

といいますのも、あるグループに所属する構成員が、突出者を作らずに皆ほどほどのところで生活していけるようにするため、様々な事柄をグループ内での話し合いで処理していくのが「談合社会」だと考えられますから。そして、こうした社会が江戸時代から根強く現代まで継続してきているからこそ、公共工事における入札システムを小手先ばかり手直ししても、そのくらいでは「談合」は簡単に解消されないのだ、とも言いうるのではないかと思えます。

更に、磯田氏によれば、江戸時代のように「圧倒的な勝ち組」を作らないような状態、ヨリ専門的にいえば「権力・威信・経済力などが一手に握られない状態を社会学では「地位非一貫性」という」そうです(P.89)。

ここで話は酷く飛躍します。すなわち、戦時下において日本はファッショ体制であったと一般に規定されていますし、太平洋戦争は日本を「全体主義から解放し自由主義の国とする戦い」とされてきました。ですが、日本の「地位非一貫性」は連綿と保持されてきていて、例えば東条英機は到底ヒトラーの足元にも及ばない存在だったと考えられます(最近でも、評論家の福田和也慶大助教授は、その著『第二次大戦とは何だったのか?』[筑摩書房、2003.3]において、「東条英機は、いかなる意味でも独裁者ではなく、また全体主義の頂点に立つ権力者でもなく、また民衆に直接働きかけることのできる強力な政治リーダーですらなかった」[P.188]などと述べています)。従って、太平洋戦争を全体主義に対する自由主義の戦いなどという言述は、全くの連合国寄りのスローガンに過ぎない(決して客観的な歴史記述ではない)と言えるかもしれません。

B) ただ、こういう類いの本を読みますと、以上のようにスグに話を一般化して「大きな話」にもっていきたくなりますが(むしろ、「大風呂敷を広げたくなる」というべきでしょう)、上記@で引用したような事柄は、あるいは江戸末期の金沢藩の特殊事情に基づいた限定的な要因によるところが大きいのかもしれません。

本来ならば、金沢藩とは性格が全然違った藩においても類似の傾向が認められて初めて、記述内容につき一般的な議論ができるようになるのでしょう(尤も、「金沢藩猪山家文書」のようなドンピシャの文献に出会うことは稀有な事例なのかもしれませんが)。客観的な歴史記述に向けて、この『武士の家計簿』のように的確な文献資料に基づく地道な研究がモットたくさん発表されることを望む次第です。 

A『参勤交代』など

@) 上記@の@-bでは、猪山家の江戸における膨大な出費について触れましたが、この点を藩レベルで検討したものに、山本博文氏の『参勤交代』(講談社現代新書、1998.3)があります。萩藩毛利家の藩財政をみますと、その支出の59.5%が「江戸・京・大阪御用方」で、その中に「江戸屋敷の経営費用や参勤交代の費用」などが入っているとのことです。結局のところは、「萩藩初期の藩財政において、最も大きく、負担になったと思われるのは、江戸の経費と借銀の利子であった」(同書P.172)ということになりそうです。

A) 以上の事柄は、磯田氏と同じように、山本氏によれば「山口県文書館「毛利家文庫」に、たまたま萩藩毛利家の藩財政の全貌を示す史料が残されているのを見出した」ことから出発して導かれてきたとされます。

  山本氏は、本書のほかにも、同じ「毛利家文庫」に残されていた文書(福間彦右衛門が著した『公儀所日乗』と『覚書』)に基づき『江戸お留守居役の日記』(読売新聞社、1991.7)を発表したり、東京大学史料編纂所の特殊蒐書「宗家史料」にある『吉宗様御代公私御用向抜書』に専ら拠りながら『対馬藩江戸家老』(講談社選書メチエ、1995.2)を著したり、更には新発見の史料(平戸市役所所蔵『野元日記』)によって『長崎聞役日記』(ちくま新書187、1999.2)を刊行したりしています(ちなみに、同書P.218にも、「『野元日記』の発見は、筆者にとっては偶然であった」と書かれているところです)。

B) いずれの著作も大変興味深い知見がちりばめられていますが、例えば『江戸お留守居役の日記』には、「留守居役」が集まって結成された「留守居組合」のことが記載されており、その定期的な会合が「元禄ごろになると、吉原や料理茶屋などを会場」にして開催され、「留守居組合の寄合では…ぜいたくのかぎりをつくし」たなどと述べられています(同書P.205〜206)。

  こうした様は長崎でもご同様であったらしく、『長崎聞役日記』でも、「非常の時に迅速に行動できるためには、聞役の間で相互に信頼感がなくてはならず、そのために日ごろから茶屋で寄合を行ったりして親しくなろうとしていた」という趣旨のことが長崎県立図書館所蔵の文書に見られると述べられています(同書P.15)。

  ちなみに、『長崎聞役日記』によれば、「江戸留守居役が、日本の中心地江戸において、幕府や他藩との折衝にあたる藩国家の「外交官」であるとすれば、長崎聞役は、日本唯一の国際都市長崎における「外交官」であった」 (同書P.7) ようです(注1)

  こうした人たちが情報交換などのためと称して寄合を料理屋で開催するというのは、どこかの国で今でも(一時ほどではないにしても)ヨク見かける風景ではないでしょうか?

 (注1) 「留守居役」は、呼称は様々ながら諸藩が江戸に設けていますが、「長崎聞役」は、西国14藩が長崎に置いた役職です。 

B『日本の江戸時代』

@) 江戸時代については、当然のことながらこれまでも様々に研究し直されています。例えば、田中圭一著『日本の江戸時代』(刀水書房、1999.2)には、次のような記述が見られます。

a.「江戸時代にあって、生産の面でも文化の面でも、時代を担っていたのは百姓であり町人であったことはまぎれもない事実である」(P.14)。

b.「中世における名子・下人のように家主のもとに身分的に隷属するのとは異なり、小作人は自らの意志で小作をやめることができた。また収穫を増やすべく努力することもできた」(P.123)。

c.「田畑が、「おおやけの検地帳」と「実際上の刈高帳」によって、形式と実際が円滑に動いていったように、士農工商という身分的な秩序は形式として残り、世の中の実際は、経済的秩序によって運営されたのである。江戸時代のはじめに存在した身分的秩序と、世の中の変化の過程で生まれた経済的秩序を、人々はみごとに使い分けてきた」(P.257)。

A) 要すれば、「これまで歴史叙述の基本にあったのは、支配者を歴史の主役とし、百姓を歴史の脇役に置くという手法である」が、「村の側から歴史を考え直」すとどうなるのか(同書B〜C)、すべてが従来の歴史像とは違って見えてくるのではないか、客観的な歴史記述という観点から見ればこれまでの研究には大きな偏りがあったのではないか、ということだと思われます。

そして、最も大切な点は、著者田中氏が、「村の古文書や村のしきたりを自分の目で確かめようと思い、半世紀近くのあいだ村を回った」(P.256)という地道な研究姿勢ではないでしょうか(注2)?

 (注2) 『日本の江戸時代』では、例えば塩沢町「宮田八郎右衛門家文書」(P.107)や「宝林寺文書」(P.108)、『佐渡年代記』(P.142)など、実に様々な史料が縦横に使われています。

 
C広瀬教授の脱唯物史観

@) このところこうした新鮮な論考が、江戸時代に関するものに限らず、イロイロ出現してくる背景には、勿論1990年代におけるソ連の崩壊、マルクス主義の衰退といった流れがあると思われます。何しろ、日本の歴史学界では、従来よりマルクス主義歴史観が圧倒的に席巻していたようですから、冷戦の終結から10年以上も経過しないと、こうした自由な立場からの論考が出現してこないのかもしれません。

例えば、尾藤正英著『江戸時代とはなにか』(岩波書店、1992.12)では、「遠く離れた西欧の世界で構成された概念を日本史に適用し、そればかりに頼って日本の歴史の動向を説明しようとするのは、やはり無理」であるとして、「戦後の10年か20年間…圧倒的に強い力を持って学界に影響を与えていた」マルクス主義の「発展法則」に対し批判的な姿勢を覗かせるのですが(同書P.4)、「中世後期の社会的動乱の時代から、戦後大名へ、さらに織豊生研機構を経て幕藩体制の成立へ、という歴史的過程」(P.72〜73)などといった表現振りを見ますと、ソ連崩壊の数年後経過したくらいでは、まだまだその余韻が十分に残っているものと思われます。

A) ということで、考古学がご専門の奈良女子大教授広瀬和雄氏も、最近になると次のような論点を提出せざるを得なくなっているようです(朝日新聞社『論座』5月号「日本考古学の通説を疑う―第2回」)。

a.「それよりもなによりも、「階級・収奪」といった概念に実態がないという感覚、そうした言辞に生活実感が伴わない身体感覚を大事にすべきではないか」(同誌P.191)

b.「唯物史観が「科学的な真理」を保証してくれる、との知的雰囲気が強く漂っていた頃(とは違って)、…「真理」への道程が瓦解して大きな光明を喪失したいま」(P.191〜192)

c.「生産力の発達で生み出された余剰が社会を階級的に分裂させたとの説明は先見的なものにすぎなかった」(P.193)

d.「未熟な技術段階がまずあって、日本列島に生きた農民の営々たる努力で高度な技術方式が発明された、という無から有への変化にも等しい発展段階論的な解釈は事実にそぐわない(P.196)

こうした記述からは、広瀬氏は、最早唯物史観を完全に脱却していると受け取らざるを得ないところです(注3)

B) ところが、広瀬氏は江戸時代については次のように述べます。「江戸時代のように士農工商の身分が厳然とあって、将軍や藩士の支配階級と農民を中心とした被支配階級が截然と可視的に弁別されていたならばともかく」(P.191)。

おわかりのように、ご自分の専門外の事柄についてはいとも簡単に「階級」という語句が飛び出してきます。「階級」とおっしゃらないのは、ご自分の専門とする古代史についてだけのことなのでしょうか(「さまざまな階層や職掌に分節化され、生産された富の分配も平等でないのが現代社会」などといった表現を見ますと、現代についても、どうやら「階級」という用語は忌諱されているようです)?

上述の磯田氏や田中氏などの見解が妥当なものであるとしますと、こうした判断を簡単に下すようでは、「不断に姿をあらわす資料にたいして、固定された視座からの照射によって検証を繰り返す過程で理論を強化していく、という作業がないところには「科学的」歴史学は育たない」(P.193)などという随分とご立派なご託宣とは齟齬を来たしているのではないでしょうか?「江戸時代」に関する広瀬氏の見解そのものが「固定された視座」でなくて何なのでしょう。 

(注3) 広瀬氏が提示する唯物史観に代わる見方を、古代の「首長の誕生」に関して少しばかり検討してみましょう。広瀬氏は、次のように述べています(P.198)。「人びとが所属せざるを得ない共同体運営のために、その成員からの納得と同意を与えられた暴力、それを付随した強力が政治権力の本質で、共同体を破壊させてしまわないための秩序の維持が政治の目的である」。「やはり大勢の人びとを統率していくためには、それなりの暴力行使は必然であった。誰もがしたがうべき強力としての権力がなければ、成員間に生じた利害の調整などできるはずもない」。

  しかしながら、「それなり」とは何を意味するのでしょうか?どうして「暴力行使」が「必然」だったのでしょうか?ブラジルのインディオに関する文化人類学的な知見(C.レヴィ=ストロース『悲しき熱帯』)などを持ち出すまでもなく、そんなことが「必然」であるはずもありません!!!

  ここには、唯物史観(「政治権力は階級支配のための暴力だ」)から全然抜けきれていない広瀬氏の顔(単に「階級」という言葉を使わなくなっただけのこと)が見出されるのではないでしょうか?

  おわりに

  本稿で取り上げました江戸時代研究は極めて僅かで局部的なものでもありますが、いずれも的確な史料を見出した上で、それらを丁寧に具体的に分析し、整合的に体系づけて新しい知見を導こうとした手法に拠るものであり、いわば歴史研究の基本を踏まえた正統的なものといえるのではないかと考えます。加えて、磯田氏も山本氏も、重要な資料を見出したことを、同じように「偶然」だと述べていますが、言うまでもなく普段から絶えざる博捜の努力を重ねてきたからこその「偶然」だと考えられるところです。

他方、取り上げる時代は異なりますが、佐倉市にある「国立歴史民俗博物館」が、「弥生時代が500年繰り上がる」「歴史の教科書が書き換えられる」などという極めてセンセーショナルな発表を、最近行ったところです。ところがこれは、「科学的手法」の装いをまとっていながらも、実のところ酷く粗っぽいブラックボックス的なアプローチに頼り切った成果のように思われます。当事者以外の考古学者は、発表された結果について十分検討できないまま、その諾否を判断せざるを得ない状況に置かれるわけで、これではアノ旧石器捏造事件の教訓がまったく生かされていないことになってしまいます。にもかかわらず、次の行動に拙速に移ってしまうことについて、人文科学分野の研究者としては奇妙な感じを持たないのでしょうか(注4)? また、そうした報道を安易に大々的に繰り返すマスコミも同然です。

良心的な研究者なら、上掲した江戸時代研究に見られる地道な手法と、このように他の研究者による検証が全く困難な手法とのどちらの道を選ぶのかは、自ずと明らかなことだと思われます。読者としてこれらの様々の研究成果を受けとめられて、ご自身の頭でもう一度咀嚼し直し再検討してみられるのも、歴史を学ぶ楽しみの一つになるのではないでしょうか?       

 (注4) ここら辺りのことについては、別掲の拙稿「歴博発表資料「弥生時代の開始年代について」を巡って」をご覧ください。

        (03.6.7 記、掲上)

※ご使用のブラウザー(例えば、古いバージョンの Internet Explorer)によっては、本稿のローマ数字が□の字としてしか表示されない場合があります。その場合、別のブラウザーを利用して、ご覧下さい。

 独り言・雑感 トップへ      ホームへ    ようこそへ