福島正則の家系についての試論


 <明智一族に関連して、福島正則の系譜の検討>

 明智一族の分布に関連して、尾州海東郡から愛知郡にかけての地域について注目すると、想像がもう一つ飛躍する。
加藤清正の先祖頼方は、応仁の頃の人で、美濃の明智一族から尾州の加藤一族に養子に入り、愛知郡中村に遷住したと「宮城系図」に記されるが、同じく秀吉に仕えて賤ヶ岳七本槍の一にあげられる福島市松正則の家系も、あるいは明智の流れをなんらかの形で汲むものではなかったかと疑いたくなる。これは、柴田勝家の系譜よりも、さらに飛躍的な展開であるが。
この福島氏は海東郡二ツ寺村に住んだもので、正則の父は与左衛門(市兵衛)正信とも新左衛門正方ともあるいは星野成政とも伝える。その系図は不明で、平姓とも藤原姓ともいい(『寛政譜』)、また清和源氏ともされてきた(『公卿補任』『藩翰譜』)。このように異説多い家系であるが、その系譜は、宮内庁書陵部所蔵の『中興武家系図』第四三「福島家」にも見えており、頼光流山県氏からでた福島左近将監基宗の後裔とし、福島兵庫助正基を直接の祖にあげる。
この系図には、清和源氏源国仲(師光とも。頼光の孫)の九代孫福島左近将監基宗の後胤、福島兵庫頭正基の子となる兵庫頭正成は北条氏綱に属したと記され、その子に伊賀守勝広があげられる。次ぎに、正成の弟の市兵衛正遠は尾州住で民間に落ちたとあり、その子市左衛門正光−新左衛門正方−市松正則とあげられる。
 
 福島正則には、幼少の時に殺人して甚目寺(二ツ寺村の東近隣)に隠れ、後に小田原へ行って北条左衛門大夫綱成の許にあり、秀吉に縁あることでその許に帰ったという所伝(『尾張名所図会』)もあって、これにも注目される。北条左衛門大夫綱成とは上記福島正成の実子であり、北条氏綱の養子となって北条氏を名乗り平氏に改姓しているから、綱成の許に居た福島正則も同様に平氏を称したものではないかとみられる。また、海部郡美和町二ツ寺にある正則菩提寺の菊泉院所蔵の画像(享保二年〔1717〕に赤林信龍が奉納した一軸)には、概ね類似する次の記事があり、内容的にはこのほうが妥当かもしれない。すなわち、正則が市松といった十二歳の時に、大工を殺して赤林掃部の屋敷に逃げ込んだことがあり、このとき掃部は、市松を追い掛けてきた大工の仲間らをなだめて追い返した後、正則を秘かに逃がして駿河の今川家来福島伊豆守を頼らせたという。
 
 福島正成(生年?〜1536)は遠州土方の高天神城主で今川家重臣であり、義元家督相続の時に玄広恵深を支持して敵対し、甲斐に逃げて武田信虎に殺された。この系統は久島・九島とも記して「クシマ」とよんだが、一に藤原姓とも村上源氏ともいうから、美濃の山県一族の出というのも疑わしい点がある。クシマ一族の系図には左衛門太夫を名乗る者も見え、正則も左衛門太夫を名乗ったという留意点がある。
沼田頼輔著『日本紋章学』には、頼光流に福島・久島があり、ともに三桔梗の家紋を用いたと記される。『姓氏家系大辞典』記載の福島系図では、この福島氏は土岐と同じ頼光流でも山県一族(前記の国仲の兄・頼綱の子の国直後裔)の出であり、家紋は笹竜胆あるいは桔梗とされるから、なんらかの形で土岐一族とも関係があったものとみられる。『新撰美濃志』では、この福島氏は大野郡福島村に起るかとしている。
一方、「宮城系図」によると加茂郡福島に住んだ福島伊賀守頼衛の後が福島氏であり、美濃の明智一族との関連では登場しないから、尾張辺りに住居を移していた可能性も考えられる。
以上の福島正則をめぐる諸事情は、難解なその系譜に何らかの手がかりを与えるかもしれない。
 
 また、正則の家臣に可児才蔵長吉がおり、美濃出身で、はじめ斎藤龍興、ついで柴田勝家・明智光秀・織田信孝、さらには豊臣秀次、前田利家、福島正則に仕えた。可児才蔵の系譜は不明だが、その主君を見ると、明智一族の可児氏から出た可能性も窺われる。「宮城系図」には、明智国篤の弟、頼長に明智可児右衛門尉として可児氏祖と記されるが、この者と可児才蔵との関係は不明である。
 
 これらに関連して、祖父江氏にも注目される。福島正則の家臣には、祖父江孫九郎(大膳亮)信勝もいた。信勝は、尾張国中島郡祖父江(現祖父江町祖父江から尾西市上祖父江にかけての地)や西島(現稲沢市西部の西島)の城主とされる五郎右衛門尉久豊の子であり、竹腰城(稲沢市竹腰)に遷って福島正則に随身したとされる。祖父江氏の系図は不詳だが、『戦国人名辞典』などに拠れば、「大膳亮秀治=五郎右衛門尉秀重(外孫という。久豊に同じか)−大膳亮信勝」ということになり、秀重は信長・信雄に仕えたといわれるから、その先代秀治は織田信秀に仕えたものか。
祖父江氏は、愛知郡や海部郡にもあって、海部郡の人には祖父江弾正正成がいたというから、次第に福島正則に近づく気もする。旗本に藤原姓の祖父江氏があり、外家祖父江氏を冒すとされるが、家紋に桔梗を用いることや祖の作左衛門正忠(初め吉隆)以降の歴代が「正」を通字とするから、祖父江弾正正成の流れを汲むものか。
 
「宮城系図」には、明智国篤の弟・大塚七郎国重は石津郡大塚に住んで、大塚祖父江の祖と記されるから、尾張の祖父江氏も明智一族から出た可能性がある。美濃の祖父江氏は、多芸郡祖父江(現養老町北部の祖父江)に起ったとみられるが、その北東近隣に多芸島(現大垣市南西部)があり、この地が明智一族滝島氏(明智光継の弟、滝島勘解由光鎮)が起こった多芸郡滝島とみられる。そうすると、美濃の多芸郡祖父江から尾張の中島郡祖父江に遷ったことが考えられないだろうか。多芸郡にも中島郡にも大塚村があって、大塚氏が居たという共通性があるが、詳細が不明なため、両氏が同族かどうかは判断できない事情もある。

 6 結び
以上に見るように、尾張の海東・愛知両郡にはかなりの明智一族関係者が居たのではないかと推されるところである。それにしても、明智光秀の出自に関してよく取り上げられる「宮城系図」は、光秀以外にも、なかなか興味深い記述を含む系図といえよう。その利用にあたっては十分な注意を要することはいうまでもないことであるが。
 尾州の海東郡から愛知郡にかけての地域が土岐明智一族に縁由の深い地であることが分かる。柴田勝家同様、福島正則についても系譜資料が乏しいために、これ以上は踏み込めないが、一応の仮説としてここに提起しておきたい。

   ( 04.12.1掲上)
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