纏向遺跡から出土した外来系土器についての報告
                              羽黒熊鷲 


 最近、巨大建築物の跡が確認されたとして、纏向遺跡が脚光をあびているが、その遺跡当時の王権の版図を示すものとして、「纏向遺跡から出土した外来系土器」が注目されている。ところが、マスコミ報道の粗さと情報操作の影もあって、必ずしも正確には伝えられていない懸念が強くなり、その関係の調査結果をここに掲上するものである。
 なお、<留意点>は、本稿執筆者のコメントです。
 
T はじめに、比較的目に入りやすい情報をアトランダムに取り上げ、それらを列挙してみる。
○和田萃著『大系 日本の歴史2 古墳の時代』小学館、1988年刊
「纒向遺跡から出土した土器のうち、約一五パーセントが他の地域でつくられ、纏向の地にはこばれてきたことが判明した。その範囲も南関東から北陸・山陰・西部瀬戸内までおよんでおり」(49頁)
 <留意点> これが公式的に発表されたものに近い。ただし、その具体的な時期、すなわち纏向1式〜3式の通期という表記がない。
 
○石野博信著『邪馬台国の考古学』吉川弘文館、2001年刊
「纒向遺跡の特色の一つは、外来系土器を調査地点によって差があるが一五〜三〇%含む点にある。土器の原産地は、西は筑紫から東は駿河、北は越中に及び、最も多いのが伊勢湾沿岸である(表14−石野・関川 一九七六)」(152頁)
 その「表14 大和・纏向遺跡の外来系土器の比率」(153頁。三つの表のうち、最下段は省略)という表は、次のとおりである。

 
 <留意点> 纏向1式〜同3式を通じて、上の表では外来系が平均で15%程度であり、下のほうの表では九州も筑紫もなんら見えないから、その地域から搬入された土器の出土が殆どなかったといってよい。どうして、本文記事と図表とが食い違うのであろうか。ここでは九州が入れられていないだけ、問題が少ない。
 また、「外来系土器が一五〜三〇%含む」という上限のほうの「三〇%」はどこに根拠があるのか、疑問が大きい。

○石野博信氏の最近のコメント 2009年12月4日付け産経新聞
 「土器は3世紀中ごろかそれ以前のものと考えられ、関東から九州で作られた外来系の土器の比率が15〜30%。これは、政治や経済の中心である都が置かれた場所であることを裏付ける証拠です。」
 <留意点> これまで発表された分析では、九州で作られた外来系の土器の出土は皆無に近いはず。なぜ九州が入れられるのか、きわめて疑問であり、基礎の数値が変わっていることでもないはず。また、「外来系の土器の比率が15〜30%」という上限のほうの「30%」はどこに根拠があるのか、疑問が大きい。
  
○インターネット上で活躍中の井上筑前氏の『邪馬台国大研究』のなかの記事
  (※著作としても『邪馬台国大研究』2009年1月刊がある
  邪馬台国近畿説を往く −纒向遺跡−
  歴史倶楽部第76回例会 2003.9.28(日)奈良県桜井市巻向
   「纒向遺跡は、はたして倭の都なのか?」という項のなかで、その5番目に掲載の記事

 「纒向遺跡は桜井市の北部に位置し、烏田(からすだ)川と纒向川に挟まれた扇状地につくられた、古墳時代前期の大集落遺跡で、本格的な発掘調査は1971年から5年に渡って行なわれ、以下のような点が明らかになった。」として、その第5番目に、
 「纒向遺跡から出土した土器844個のうち123個(15%)が東海・山陰・北陸・瀬戸内・河内・近江・南関東などから搬入されたものである。またそれまで大和になかった特異な煮炊具も十数個出土しており、他地域との交流が推定される。これら外来の土器は南九州から南関東にいたる日本列島各地のものであり、中でも東海地方の土器が最も多く、朝鮮半島の韓式土器も出土している。」
 
○ウィキペディアの「纏向遺跡」についての記事
 「3世紀を通じて搬入土器の量・範囲ともに他に例がなく出土土器全体の15%は駿河・尾張・近江・北陸・山陰・吉備などで生産された搬入土器で占められ製作地域は南関東から九州北部までの広域に拡がっており西日本の中心的位置を占める遺跡であったことは否定できないし、人々の交流センター的な役割を果たしていたことが窺える。このことは当時の王権(首長連合、邪馬台国連合)の本拠地が、この纒向地域にあったと考えられる」(この表現は、寺沢薫氏の「ヤマト王権の誕生−王都・纒向遺跡とその古墳」〔『日本の考古学』奈良文化財研究所編、学生社、2007年刊〕を踏まえた表現の模様
 「搬入土器の出身地割合」は、図表で示され、北から順に、関東系5%、東海系49%、近江系5%、北陸・山陰系17%、河内系10%、紀伊系1%、吉備系7%、播磨系3%、西部瀬戸内海系3%、とされる。
<留意点>これを多い順から並び替えると、
  東海系49%、北陸・山陰系17%、河内系10%、吉備系7%、近江系5%、関東系5%、播磨系3%、西部瀬戸内海系3%、紀伊系1%とされる。この数値でちょうど100%となるから、各数値に四捨五入があるとしても、九州関係は皆無に近いということである。
 全体が123個ということは、1%未満だと最大限で1個あった可能性しか考えられない。
 
○古田史学会報 2004年4月1日 No.61  伊藤義彰氏執筆の記事
 「唐古・鍵遺跡 第九三次調査」についての記事
 その「中国・朝鮮系、九州系遺物」のうちの「九州系の遺物」の項

「中国・朝鮮半島との交流中心地が奈良盆地にあり、倭国王(成立期のヤマト政権)が都を置いていたならば、北部九州(或いは一部)はその支配下にあったと見なければなりません。北部九州を支配下に置かずして中国・朝鮮半島と交流するのは不可能でしょう。そこには重要な中継基地が設けられ、奈良盆地との間で密接な関係が維持されたはずです。その関係を示す遺物が奈良盆地にはきわめて少ないのです。
 纏向遺跡からは、関東系・東海系・山陽系・山陰系・北陸系など各地で作られた土器が多数出土しています。纏向遺跡の説明書にも、他の一般的な集落と異なる点の一つとして「他地域からの搬入土器の比率が全体の一五%前後を占め、かつその範囲が九州から関東に至る広範囲な地域からであること」を挙げています。
 去る(注:2003年のこと)十一月二十三日に桜井市立埋蔵文化センターへ「纏向遺跡展」を見に行きました。ところが九州系の遺物は、土器の欠片一つすら展示されていないのです。橿原考古学博物館にも「纏向遺跡のコーナー」にたった一点の土器片しか展示されていませんでしたから期待はしていませんでしたが、それにしても、と不審でなりません。
 後日電話で訊いてみると「橿原考古学博物館に展示されている土器片は、纏向遺跡と同じ時代の大分県あたりで出土する土器とよく似ており、大分県の関係者にも確認済みなので九州出土の土器として展示されている。北部九州から搬入されたと思われる土器片は他にも数片あって、過去の報告書にも記載されているが、倉庫の奥深くに収容されていて取り出すことができず、今回は展示できなかった」とのことでした。しかし「北部九州製の土器はきわめて少なく、他の地域製の出土土器の一%にも満たないし、数点の土器片以外に北部九州系の出土遺物は全くない」のが現状だそうです。本来なら土器片も、他地域製以上の割合で出土するのが当然かと思われます。
  (唐古・鍵遺跡については省略
 以上のように、奈良盆地と北部九州との緊密な関係を示す遺物はきわめて貧弱で、現段階において、北部九州(或いは一部)が、奈良盆地勢力(成立期のヤマト政権)の支配を受けていたり、同盟関係にあったとはとても考えられないのです。」
 
U 整理と検討
 以上の記事を最初に読まれて、皆様はどのようにお考えになりますか。
 実は、これらの出典は限られていて、主に次の2点なのです。そして、当初に発表された数値は変わっていないという事情もあります。
  @『纒向』奈良県立橿原考古学研究所編、奈良県桜井市教育委員会1976.9。1980にも刊行。執筆者は石野博信・関川 尚功の両氏が主。
  A石野博信編『大和・纒向遺跡』学生社、2005.5初版。この増補新版が2008.10に刊。
 
(1) 纏向遺跡の発掘調査は、橿原考古学研究所の石野博信・関川尚功両氏が中心になってこれまで進められてきて、両者の執筆・編集によるものが上記@Aの両書であり、搬入土器部分の記事は、いずれも関川尚功氏が執筆されている。従って、最新の記事である上記Aの『大和・纒向遺跡』増補新版の「第9章 纏向編年と外来系土器」のなかの「2 纏向遺跡の外来系土器」(関川尚功氏執筆。p331〜342)を中心に内容を見ていきたい。

 この記事の主なポイントだけ要約してあげると、次のとおり。
a 纏向遺跡では、外来系土器の出土量が豊富でかつ、その範囲が西は西部瀬戸内方面から東は南関東の地域にまで及んでいる。このような事実はおそらくこの前後の時代を通じかつて見られなかった。

b
 移入土器の比率
 @外来系土器の占める全体の比率はほぼ15%である。最低に見積もっても10%を下ることはおそらくない。
 A時期別変遷をみると確実に増加している。増加のピークが纏向3式か纏向4式にあるのか不明も、感覚的な想定では纏向4式の可能性があると思われる。
 B地域的では、東海が半数を占め、北陸・山陰、河内、吉備と続く。その具体的な比率は、纏向1式〜3式通期の比率を円グラフで表示し、総数123個のうち、多い順に東海系が49%、北陸・山陰系が17%、河内系が10%、吉備系が7%、関東系が5%、近江系が5%、西部瀬戸内系が3%、播磨系が3%、紀伊系が1%と示される。
 <留意点> この円グラフにまったく表示されていないのが、九州と朝鮮半島であって、表では「1%未満」か皆無ということになる。各期ごとの棒グラフを見ても、時代が最も下って外来系土器の比率が最も高い纏向3式の時期にあっても、九州と朝鮮半島から来た外来系土器はまったく見えないから、これらが出土総数123個のうち1個すらなかったということになろう。だからこそ、関川氏は、「西は西部瀬戸内方面から」と表現しており、その西部瀬戸内系でも3%しかなかったということである。しかも、西部瀬戸内系の土器は、期が新しくなるほど少なくなり、纏向3式の時期にはほとんどなくなっている。

c
 鼓形器台と土製支脚
 出土したなかに鼓形器台と土製支脚があり、共に山陰地方を出自とする点において共通性をもつ。この土器は、「出土量こそ少ないものの九州から関東まで分布し、外来系土器の中では最も広範囲にわたっている」。
 「纏向遺跡における土製支脚などの出土は、土器の搬入などの事象が単なる交易などのみに限定されるものではなく、頻繁な人的移動を考えさせるに十分であったと思われる」。
<留意点> ここまで書けば、上記のTで、いかにいい加減に「北九州出土の土器搬入」が言われているかが明白になる。
 
(2) ついでに、纏向遺跡から出土した韓式系土器についても触れておく。
 これについても、『大和・纒向遺跡』増補新版の「第9章 纏向編年と外来系土器」のなかの「3 巻野内地区遺構群の特殊性と韓式系土器」(橋本輝彦・村上薫史両氏の執筆。p343〜347)に記事があり、これを中心に内容を見ていきたい。

  まず、韓式系土器の出土地あたりの地図を示すと、次のとおり。
 
a 纏向遺跡の第九〇次調査は、遺跡最北部の巻野内地区で導水施設の関連遺構の検出を目的に調査面積一二二平方Mの発掘調査がなされた。調査地区は、西側を第一トレンチ、南側を第二トレンチと呼ぶ。
b 第一・第二トレンチ合わせて計35点の韓式系土器の破片が出土したが、そのほとんどが親指程度のごく小さな細片であり、接合は不可能であった。これらの内、図示しえたのは僅か二点である。
c 「まとめ」として、
 @「今回の韓式系土器の出土により、纏向遺跡には少なくとも布留0式期には半島系の影響を受けた文物が存在していたことは明白となった」。
 A「布留0式期は纏向遺跡の面積が飛躍的に拡大し、石塚古墳などに代表される全長一〇〇メートル前後の纏向型前方後円墳から、全長二八〇メートルの箸墓古墳へと王墓が大形化、布留式甕・纏向型前方後円墳などのより活発な拡散など、纏向遺跡にとって大きな意義をもつ画期であると考えている」。
 B今回の韓式系土器群が半島製か否かは現時点では判断しがたい。
などの判断が示される。

<留意点> 
「まとめ」の判断には疑問が大きい点が次のようにある。
 @韓式系土器二点が出土した溝が布留0式の時期だとしての判断であるが、それが確定的だといえるのだろうか。
 Aというのは、出土地が纏向遺跡の最北東端くらいに位置する地点であり、すぐ南東に珠城山古墳群がある。また、すぐ北東には現景行天皇陵(渋谷向山古墳)があって、纏向遺跡のなかでも最後に拡大した地域とみられる。珠城山古墳群は六世紀代に築造された後期の古墳群であり、「輪鐙」などの優れた馬具類などの出土もあるが、輪鐙は箸墓付近の溝からも出土があり、珠城山古墳群の影響を受けやすい地が調査地点だと考えられる。
 土器型式でも、纏向1式〜5式(遺跡としては主にほぼ纏向4式〔布留1式〕までか)の変遷がある纏向遺跡を一律にとらえるべきではないし、箸墓付近の輪鐙などに見るように、韓式系土器についても後世の紛れ込みも考えられる。布留0式が纏向3式(その後半とも新期ともいわれる)にあたるとしても、「まとめ」の結論は早すぎる。
 B 韓式系土器が現実に幾つあったのか不明だが、ごく少量であり、かつ、それが半島製という保証はない。半島製か否かは現時点では判断しがたいという下での「まとめ」の結論は早すぎる。
 
 以上に見るように、纏向遺跡に搬入された外来系土器については、正確さに欠ける情報が意図的に流されたり、変更されたりしていることが分かり、原典にあたって確認することの必要性が痛感される。
 
  (09.12.9 掲上)  

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