三角縁神獣鏡魏鏡説の否定と古墳編年大系の見直し
                         羽黒熊鷲 


1 はじめに

 戦後の古代史分野で考古学は大きな貢献をしてきており、それを十分認めるものの、考古学者が主張して通説的な位置を占めた説のなかには、いくつか大きな錯覚があって、それが古代史のなかで大きな誤導をもたらしたものがある。その一つが三角縁神獣鏡を巡る問題で、具体的には「三角縁神獣鏡魏鏡説」(以下、たんに「魏鏡説」とも書く)である。
 この問題については、インターネット上の論調を見る限り、魏鏡説を支持するものはほとんどないように思われる。そのことは、合理的総合的な思考で本件を検討する結論としては、ごく当然だと思われる。ところが、依然として考古学界では魏鏡説を支持する学究が陰に陽に多く存在している。それどころか、実際に古墳編年観に大きな影響を依然として与えたままであるために、いくつかのHPで説得力のある魏鏡説否定論が既に明確に説かれていることの重複をわきまえず、ここでも否定論を掲示する次第でもある。内容的には、否定論の論旨はインターネット上で十分に説かれてきたとも言えそうであるが、なんせマスコミ操作で支持者の数を頼りにする主張も多いし、考古学の学究たちはいずれも素人の主張にすぎないと無視するものだから、こちらも、いわば賑わいを増すくらいの気持ちで(いい加減な主張を展開するつもりは毛頭ないが)、否定論に加担するものでもある。
 
 現在までに出土した三角縁神獣鏡の銘文の中に、紀年が記された四面の鏡、すなわち「景初三年」銘の鏡一面、「正始元年」銘の鏡三面、があること、「銅は徐州に出ず」「師は洛陽に出ず」の銘文を持つものがあること、などを根拠にして、この銅鏡が当時の魏王朝から倭王の卑弥呼に下賜された百枚の銅鏡だと考えられてきた。この三角縁神獣鏡魏鏡説は、富岡謙蔵氏、小林行雄氏や樋口隆康氏に始まり、現在も関西系(京大系)を中心とする考古学者に根強く主張がなされている。
 そして、魏鏡説を前提に、王都邪馬台が畿内大和にあって、倭国が三世紀代前半当時すでに日本列島において全国的な支配体制を確立していたと考え、三角縁神獣鏡の出土した古墳を初期ないし前期の古墳に位置づけ、関係する古墳・遺跡の年代を大幅に引き上げるなどの見方を示してきた。
 最近では、これに一連のものとして、憂うべき動きもある。奈良県の纏向遺跡の発掘が進むにつれ、それが卑弥呼の王都だと、多少の発掘があるごとに騒ぎ立て、マスコミも無批判なまま、これに乗って不正確かつ誘導的な情報を報じ、大騒ぎをしてきた。産経新聞などでは、邪馬台国所在地がこれで決定的だとしてアンケート特集を組む(平成21年12月4日付け)などの動きまである。

 
 魏鏡説への疑問

 魏鏡説には大きな疑問があり、以下にこれまでの議論・検討を整理してみる。できるだけ先学諸賢の見解を整理することとし、私見的なものは最小限のものにとどめて記してみる(小林行雄氏の魏鏡説には内藤晃氏が反論したが、戦後の国産鏡説は、森浩一氏が言いだし、森弘達氏、河上邦彦氏、安本美典氏、奥野正男氏、武光誠氏、小山田宏氏などかなり多くの研究者や、中国の王仲殊・徐苹芳氏などがこの立場にあるが、邪馬台国所在地論とも絡まり、多少ともニュアンスが異なる。以下では、これら主張者の引用はできるだけ控え、簡略に記した)。
 
 『魏志倭人伝』などの文献からは、無理な記事改変をしない限り、邪馬台国畿内説は決して導けないが、そのことをさておき、考古学分野だけからみても、魏鏡説という判断が合理的ではないことが分る。すなわち、現在までに出土した三角縁神獣鏡の数だけでも既に五百面超といわれ(破片で数えると、五五〇面超ともいう)、さらに散失・未発掘のものまで含めると、当該下賜の「百枚」の何倍にものぼる多数の三角縁神獣鏡が日本列島にあったことになり(未発掘・盗掘・破砕を考えれば、総数は現在判明している数の倍ないし三倍ほどもあったか〔少なくとも総数は千枚超か〕とみられている)、『魏志倭人伝』の記事と辻褄が合わない。
 しかも、それだけ多くの出土があるにもかかわらず、出土する古墳は主に四世紀の中・後葉頃に築造されたものであって、邪馬台国の時代である三世紀代の墳墓からは一面も出土しておらず、しかも棺外に多く置かれるなどの出土状況からは、埋葬当時でも丁重な取扱いを受けていないことが明確にわかる(後漢鏡のほうが重視されている)。中国の考古学者にあっても、この問題に関心をもって多くの銅鏡を研究してきた学究がいるが、日本同様に考古学的な発掘が戦後になって急速に進んできた中国国内でも朝鮮半島からも、いまだ一面も出土しておらず、中国の鏡ではないと考えている事情にある。魏朝の領域内では、三角縁神獣鏡ばかりか、各種の神獣鏡すらも絶無に近かった(王仲殊氏)。
 また、改元されて実在性に疑問がある中国年号「景初四年」が入っている銘文をもつ小型盤竜鏡(福知山市の広峰15号墳出土など二面)もあるのに、三角縁神獣鏡の銘文だけがどこまで信用できるのかという問題もある。銘文における「師」や「洛」の漢字使用をもって製作地を考える見解(大正期の富岡謙蔵)については、今では無理・矛盾があり、魏鏡説の根拠となしがたい。銘文に見える「徐州からの産銅」も、魏の領域の「徐州」では古代から銅を産出しなかったという指摘(安本美典氏)もある。徐州産銅を現実的に捉えれば、呉を滅ぼした西暦二八〇年以降の西晋及び東晋ということになるが、銘文をそこまで現実化することが必要かどうかはやや疑問で、いわば定型句に近いのかも知れない。
 中国鏡には同型の鏡を大量生産する伝統はないし、三角縁神獣鏡の本質は大型の凸面鏡であるが、中国には見られないほどの大型(鏡の直径が概ね二二、三CMほどで、後漢・三国時代の中国鏡よりはるかに大きい。魏朝時代の鏡の直径は十二〜十四CMが多い)である。魏の官製工房では製作されるはずのない呉式の神獣鏡で、かつ、道教的吉祥文が入れられるという矛盾もある。ほぼ同様な仏像鏡すらある。尖鋭な三角形の断面、乳状の突起や中国の鏡には見られない笠松形の図紋は、中国鏡とは顕著な差異がある。三角縁神獣鏡に特徴的な「線キズ」が中国鏡には認められないとの指摘もある。
 こうした長い研究過程のなかで明らかになってきた現実の国内外の出土状況、三角縁神獣鏡の様々な問題点などから見る限り、そして論理的合理的な思考をする限り、「三角縁神獣鏡魏鏡説」はもはや成り立つはずがない。

 
 魏鏡説論者からの反論と検討

 これに対して、いわゆる関西系の考古学者からは、まともな反論にならない反論的な主張がいまだ続けられている。すなわち、@鏡を好む邪馬台国専用向けの特別鋳造の銅鏡だから中国には残っていない(いわゆる「特鋳説)、A景初三年末には、年紀の混乱が中国の製作者にもあった、あるいは辺境の楽浪郡あたりで製作された可能性もある、B卑弥呼にはその後も何回か銅鏡が下賜された、C近年の年輪年代法や放射性炭素14法という年代測定法の成果により、古墳時代の開始は繰り上げられることになり、三世紀に編年される古墳からも出土する、D鏡に含まれる鉛同位体の分析によっても、鏡が中国製の可能性がある、E魏の領域にも江南の呉の神獣鏡とは異なった形式の神獣鏡があった、F日本列島には三角縁神獣鏡に見られる鏡の鋳造技術があったのか、等々という主張・見方である。
 しかし、三角縁神獣鏡の銘文が韻をふんでいなかったり省略文があったりという事情にあって、皇帝が外夷の王に下賜した権威あるものではありえず、中国での特鋳説の根拠はまったくない。かりに倭国向けの特鋳であっても、破砕片や仕上途上品すら中国あるいは朝鮮半島に残らないのはおかしいし、混乱した年紀を刻んだ銅鏡を魏王朝は外夷とはいえ倭国に下賜するのか、という問題もある。倭国に対して何回かの下賜があったとしても(こんなことも『魏志倭人伝』等の史書には見えないが)、日本列島での現実の大量出土数を説明できるものではない(しかも、魏・晋は、邪馬台国のために特殊な鏡の特鋳体制を50〜60年もの期間、続けたのか、これは疑問が大きいという指摘も見られる。それなら、なぜ大陸の製作地に痕跡が残らないのか)。
 
 年輪年代法・放射性炭素年代測定法などの自然科学的な測定年代値は、一見科学的のように見えても、誰もまともな検証をしていない(実のところ、検証ができない)。いわばブラックボックスから出てきた数値であって、従来の考古学者が積み上げてきた数値を、一挙に百年ないし百五十年も遡るものである。従って、これだけでそのまま数値に依拠できるものではない。一般的にいって、自然科学的分析は、その前提や試料などの採用・使用の方法により、結果が大きく変わってくるので、これに全面的に、かつ単独に依拠することは、研究姿勢としても学問的判断としても疑問が大きい。こうした年代値だけで、古墳築造や遺跡の年代を考えることには疑問が大きい。
 現実に畿内に三角縁神獣鏡の出土・分布の中心があることは認められるが、これは四世紀中葉頃の大和王権が製作し、各地に配布したと考えればよいだけである。中国産銅をもとに銅鐸・銅矛・銅戈という青銅器を弥生時代に製造した倭人の技術を低くみてはならない。大和盆地には「鏡作」の名を冠した式内古社が磯城下郡に三つあり、その比定社・論社のすべてが纏向遺跡の西北近隣に位置する田原本町と周辺地域にあって、ここに鏡作部族が居り、大和王権の初期(主に景行朝頃か)にこれらの場所で製作されたものとみられる(具体的には、鏡作坐天照御魂神社〔八尾の鏡作坐天照御魂神社、石見の鏡作神社が論社〕、鏡作伊多神社〔同、保津の鏡作伊多神社、宮古の鏡作伊多神社〕、鏡作麻気神社〔小阪の同名社〕がある)。
 これら諸社は唐古・鍵遺跡にごく近隣してあり、同遺跡からは銅鐸の「鋳型以外に、鋳造に関連する鞴羽口も伴出しているので、……銅鐸の鋳造が行われていた可能性が高い」とし、唐古・鍵遺跡に近い銅鉱山としては東吉野村の三尾鉱山があり、弥生産銅の手がかりとして考えられるとする(久野邦雄『青銅器の考古学』)。同遺跡には青銅器の工房跡もあって、物部氏関連の遺跡であり、鏡作造は物部氏の同族であった。
 こうした事情から、鏡の銘文にとらわれて、呉など中国から渡来した工人による製作を考えるのは問題がありそうである。
 
 三角縁神獣鏡を無理に卑弥呼に結びつける必要はまったくない。畿内での出土は山城の椿井大塚山古墳(京都府木津川市)や大和の黒塚古墳(奈良県天理市)、新山古墳(奈良県広陵町。ただし、全体で三四面のうち、内行花文鏡が最多の十四面で、三角縁神獣鏡は九面にすぎない)が主であり、現段階で大和が最多の出土数になっているが、山城や摂津・河内の出土数の多さ、畿外でも吉備や筑前・豊前の多さは、これを卑弥呼の銅鏡ということなら説明できるのかという問題もある。
 そして、肝腎の纏向遺跡(しかも発掘がなされてきたホケノ山など)からは三角縁神獣鏡が一面も出土していない事情にもある。「三世紀に編年される古墳」とは、いったいどの古墳のことなのだろうか(大和のホケノ山・黒塚や島根・神原神社古墳、福岡・那珂八幡古墳をいうのらしいが、とんでもないこと)。例えば、ホケノ山古墳からは二面の画文帯神獣鏡や内行花文鏡の破片が出土しており、こちらのほうが三角縁神獣鏡よりも古い鏡であることを窺わせる。ホケノ山は卑弥呼以前の墳墓だといいたいのだろうが、そんな証拠はないし、ホケノ山と類似の埋葬構造や副葬品構成をもつものがほかにもある。同墳から出た小型丸底土器(布留1式)や箟被(のかつぎ)付きの銅鏃は年代を新しくする要素でもある。
 
 関西系の考古学者は、冷静にもっと現実を直視して、確実な資料を基礎にして大局的に見て合理的な立論をされてはいかがであろうか。すべての三角縁神獣鏡だけが百年以上も伝世して所有者の手のもとにおかれ、ある時から一斉に副葬品として古墳に入れられたという見方(いわゆる「伝世鏡説」で、小林行雄氏が提唱)など、いい加減な空想もほどほどにしないと、科学的な思考とは言えなくなる。中口裕氏は、「三角縁神獣鏡の?製品が弥生時代の墓から出土した話はきかない」「弥生時代の墓には漢式鏡が惜しげもなく副葬されていて、伝世の事実を実証することが困難である」と述べ(『銅の考古学』)、伝世鏡を古墳に副葬するということは矛盾であるという原田大六氏の言も引用している。
 他の様々な宝物も他種の銅鏡も古くから副葬され、そうした出土状況の多くの事例が現実に明らかになっている。伝世が皆無とはいえないとしても、三角縁神獣鏡のすべてが伝世だという議論を認めたら、考古学などの科学の年代論は成り立たないはずである。

 
4 さらに魏鏡説への疑問
 
 もう少し、関西系考古学者の取扱いのおかしな点に関連して、いくつか指摘しておこう。
(1)未盗掘の滋賀県雪野山古墳から出土した鏡の中には三角縁神獣鏡もあったが、それは被葬者の足下に置かれていた。最も重要だと考えられる位置、頭部近くには三枚の鏡があったが、そのうちの一枚は同じ三角縁鏡でも、三角縁竜虎鏡であった。それが公開時のパンフレットでは文字は三角縁竜虎鏡と表記していながら、ルビは「さんかくぶちしんじゅうきょう」となっており、出土状況の一覧図では、頭部にある鏡に矢印して「三角縁神獣鏡」と表記していたという事情にある(森浩一著『魂の考古学 時の過ぎゆくままに』二〇〇三年刊)。出土鏡五面は、内行花文鏡、ダ竜鏡(国産鏡)が各一面、三角縁神獣鏡三面とされている。
 もう一つ未盗掘の徳島市宮谷古墳の例でもあげておくと、木棺内とみられる場所に小型の重圏文鏡一面と碧玉製管玉等があり、三角縁神獣鏡は前方部の先端に無雑作に置く形で三面が遺棄され土が被っていた。出土した三角縁神獣鏡は黒塚古墳や宇佐の赤塚古墳等に同范鏡があり、畿内の初期王権との密接な関係が有ったとみられるが、この築造者が、三角縁神獣鏡を重んじなかった様子が十分に見て取れる。
 最近調査された未盗掘の高槻市の闘鶏山古墳でも、木棺内の配置は頭骨、方格規矩鏡一面、碧玉製腕飾一点、三角縁神獣鏡二面の順でならんで置かれており、三角縁神獣鏡は椿井大塚山古墳のものと同型鏡であることが確認されている。
 
(2)大和中枢部の山辺の道付近にあって三三面という最多の三角縁神獣鏡を出土した黒塚古墳での鏡の埋葬の仕方でも、棺の中には一面の小さな画文帯神獣鏡が頭部付近に丁重な包装でおかれていたが、一方、三角縁神獣鏡は出土した全て(ほかに盗掘もあったかもしれないが)、が棺外に雑然とおかれていた。黒塚は、墳形が現崇神陵古墳(行燈山古墳)や現日葉酢媛陵古墳(佐紀陵山古墳。両墳ともにU期の円筒埴輪が出土)よりも前方部が相対的に発達し、それより後の時期に築造の古墳とみられる(それぞれ、垂仁陵墓と垂仁皇后狭穂姫陵墓に比定するのが妥当か)。黒塚は現景行陵古墳と密接な関係がある古墳と考えられる。同陵墓は奈良県天理市渋谷町の渋谷向山古墳(前方後円墳・全長三百M)に治定されており、この現在の治定は妥当だと考えられる。
 十面の三角縁神獣鏡を出した大阪府茨木市の紫金山古墳でも、木棺内で確認されたものは方格規矩四神鏡一面と僅量の玉類のみで、三角縁神獣鏡・勾玉文鏡、武具・農具などは棺外に置かれていた。
 十面の銅鏡を出した福岡県糸島市の一貴山銚子塚古墳でも、頭部に二枚、両脇に四枚ずつが配置されるが、頭部の二枚は方格規矩鏡(金メッキ付き)と内行花文鏡であり、脇に置かれた他の八枚はすべて三角縁神獣鏡であった。
 
(3)最近発掘された纏向遺跡の巨大建築物の年代に関連して、高島忠平氏(佐賀女子短大学長)の指摘がある。当該建物については、同遺跡から見つかっている鐙(あぶみ)乗馬の時に用いる足乗せ台)をポイントに挙げ、「騎馬兵が用いるもので、戦闘に馬を使ったのは邪馬台国より後の時代」だと講演で反論した(佐賀新聞、二〇〇九年十一月三〇日付け)。 この鐙とは、箸墓古墳の周濠から出土した布留1式期の輪鐙(わあぶみ)のことで、この存在は、ほとんど無視されている事情にある。また、馬具と一緒に布留1式の土器も見つかっており、鐙は中国では四世紀初めに、朝鮮半島では四世紀末に出現するなどの事情があり、纏向遺跡は四世紀中頃あたりに落ち着くとも高島氏は主張する(産経新聞、二〇〇九年十二月四日付け)。纏向遺跡は四世紀代前半の大和王権(とくに崇神朝)の王都だとみられるから、高島氏のこれら指摘はもっともであろう。

 纏向遺跡については、その出土土器の表現もおかしなものがある。搬入された外来系土器には、北九州の土器が皆無に近く(九州の数値は明示されないが、明らかに1%以下)、それが桜井市教育委員会刊行による『纒向』(1976刊、その後1980にも刊)に明確に記されているにもかかわらず、同遺跡発掘に長らく当たってきた石野博信氏までが「関東から九州で作られた外来系の土器の比率が15〜30%」と平気で述べている(二〇〇九年十二月四日付け産経新聞)。
  この外来系土器についての説明は、纏向遺跡から出土した外来系土器についての報告  
 
(4)原料の銅に含まれる鉛同位体を最新設備(SPring8)による分析によって、鏡が中国製か日本製かを決めようとする動きがあるが、原料のとれた地と製品の製作地とは別である。銅鐸にかぎらず、中国の原材料が使用されても、日本でしか出土しない物を中国製だとする証明にはならない(安本美典・河上邦彦など諸氏の説に同旨)。三角縁神獣鏡の原料については、中国・華南の産だとの分析(馬渕久夫氏など。魏朝の領域の華北ではないことに留意)も、日本だという分析(新井宏『理系の視点からみた「考古学」の論争点』)もあって、基礎試料の選定・扱いなど前提によって結果が変わってくることに留意しておきたい。上古の日本列島には有力な銅産地が明確には知られないのだから、原材料を外地から運んできた可能性も考えられないわけでもない。安本氏は、江南の東晋の銅が百済を通じて入ってきた可能性も考えている。
 銅研究者久野雄一郎氏の、「分析した4枚の三角縁神獣鏡の鉛の同位体比は、みな神岡鉱山に該当する」という話が「飛騨国府シンポジウム」でなされたと読売新聞の記事(一九九七年九月五日付け夕刊)に見える。従来の鉛同位体比による産地同定が、日本最大の鉛の産出量をもつ飛騨市の神岡鉱山を除外して行われていることに対し、久野氏は疑問を投げかけている。神岡鉱山は岐阜県最北部に位置する古くからの鉱山で、金・銀・銅・鉛・亜鉛などを産出してきており、神通川流域のイタイイタイ病のもとでもあった。この地を倭建東征の際の帰路に吉備武彦の支隊が通過した可能性が考えられるが、神岡の鉱物資源が何時から利用されたかは不明であり(奈良時代の養老年間〔七二〇年頃〕に鉱山として歴史に登場したという)、上記の久野説に必ずしも同意するわけでもない。神岡鉱山と同じ特徴をもつという鉱山が朝鮮半島にもある(全州鉱山、月岳鉱山の例)というから、これらの地から日本列島への搬入も可能性として残される。久野邦雄氏は、銅鐸などに国内産出の銅が使用されたことは十分考えられると言っている(『青銅器の考古学』)。
 なお、こうした自然科学的分析には、おのずと前提条件と試料等の制約があるのだから、その辺を考慮する必要があり、同様に年輪年代法等についても結果として算出された年代値だけをそのまま無批判に受け入れる姿勢は、きわめて疑問なことである。

 
5 まとめ

 以上に見るように、確実な諸点から客観的に押さえていくと、三角縁神獣鏡の魏鏡説は成立しない(全てが倭国の国産鏡ということ。楽浪鏡でもない)、とするのが合理的な思考の帰結である。埋葬時の三角縁神獣鏡の取り扱われ方を現実の出土例からみても、他の鏡のほうが明らかに重用されていて、とても魏朝から下賜された宝物とは考えられない。
 安本美典氏は、四世紀の東晋(三一七〜四二〇年)の時代に日本で作られたとみている(その副葬された古墳の築造時期を殆ど三五〇〜四〇〇年とする)。崇神朝〜景行朝に関連伝承が集中するとして、この頃の大和朝廷のもとで製作されたのがそうとう確かだと安本氏はみるが、安本説の上古の考古学年代観には、若干(二、三十年ほど)引下げ傾向にあることに留意すれば、その比定年代をもう心持ち引き上げてもよさそうである。結論的にいえば、主に四世紀中葉の景行朝(治世推定三四〇〜三六〇年)頃の国産だというところか(時期的にも安本氏とほぼ同様な見方としておきたいが、決してすべてに安本説信者ではない)。
 そうすると、当然のことながら、三角縁神獣鏡は邪馬台国所在地問題とは無縁な考古遺物であり(卑弥呼の鏡は、北九州一円に多く分布する内行花文鏡、方格規矩鏡など後漢鏡とみるほうが自然で、王仲殊氏などに同意)、かつ、これまで考古学者によりなされてきた舶載鏡と製鏡という区別も当然にできなくなるが、いまだにこの区別表現が多く見られる。鏡の紋様の優劣や鋳上りの精緻さで鏡を舶載か国産かどうか区別するのは、疑問が大きいということであるし(安本氏は、工房間または工匠間の技術格差とみる)、舶載と製の両方とも同じ鉛同位体比を示すという科学分析もある。もっとも、魏鏡説をとる論者でも、舶載と製との差がないとみるものもいるが。

 実のところ、三角縁神獣鏡魏鏡説は、これまでの古墳編年観にたいへん大きな影響を与えてきた。岡村秀典氏のいうように、「現状では三角縁神獣鏡の副葬の始まりは古墳時代の始まりとほとんど同義になっているほどである」という扱いである。すなわち、同鏡を出土する古墳でも、「舶載鏡」を出す古墳を、最古級の古墳のグループに分類したり(椿井大塚山古墳・備前車塚などの例)、「製鏡」を出す古墳よりも古く位置づけ、こうした見方により古墳築造年代の繰上げがなされてきたが、この取扱いが疑問大だということでもある。森浩一氏は、「前方後円墳が築かれはじめても、ごく初期には三角縁神獣鏡はなく、後漢時代後・晩期の中国鏡が副葬されている発見例が最近ふえている」と指摘するが、その場合の「後漢時代後・晩期の中国鏡」は「様式」のことであって、「製作年代と即断してはいけない」という留意点もあげている(『考古学へのまなざし』)。これは、きわめて穏当な見解といえよう。
 こうした新たな見方で、いままで通行してきた古墳編年大系を的確に総合的に考え直す必要がある。この見直しは大幅なものになろうが、是非とも必要なことであり、だからこそ、敗色濃厚になってきている魏鏡説をここで徹底的にたたくということでもある。古墳編年については、一方では三角縁神獣鏡や年輪年代法などにより過剰な引上げが見られるとともに、他方では、総じて四世紀後半以降におくという引下げ気味の古墳築造年代設定も多くあって、この辺は分裂症気味としかいいようがない。この際、三角縁神獣鏡にとらわれず、考古年代に絡む様々な要素を総合的・合理的に見直して整理し、新しい古墳編年体系を立てることが強く望まれるところである。
 
 三角縁神獣鏡魏鏡説により古墳年代の大幅引上げができなくなって、今度は年輪年代法など自然科学的な手法という見せかけで(いまや、これしか引上げの方法がない)、マスコミ操作も併せて、いい加減な考古年代の引上げをしようとしている考古学者たちがいる。というのが、最近の考古学界の実態である。日本列島の歴史の流れにも合わず、近隣東アジアの歴史との整合性もとれない上古年代観の無理な引上げを、どうして彼らは行おうとするのだろうか。
 東大の考古学者であった斎藤忠氏の著作『古墳文化と古代国家』『古墳の視点』を読み直してみて、上古の考古年代の設定はきわめて難しく、どれも仮説に過ぎないこと、様々な要素を総合的に考えていくと、四世紀より前に古墳の築造開始年代を引き上げることには無理があるという所説の妥当性を、改めて感じた次第である。ちなみに、斎藤氏は邪馬台国九州説であるが、古墳の編年観とは関係がなかろう。いま、東大の考古学関係者はどうなっているのだろうかとも思われる。
 三角縁神獣鏡についての調査研究の重要性を決して否定するものではないが、これだけにとらわれて考えるのは問題であって、総合的・客観的に考えていくことが必要である。そろそろ現時点で三角縁神獣鏡の「魏鏡説」から明確に訣別することが、日本列島の上古史の科学的解明につながることをきちんと認識しておきたい。
 
 (09.12.6 掲上。11.9.21追補)
 

 <ご参考1> 魏鏡説否定論ないし疑問説の記事のあるHPで管見に入った主なものをあげておく(順不同
三角縁神獣鏡は魏鏡か    新井宏氏
   (新井氏は、「大部分の三角縁神獣鏡は国産である。しかしオリジナル鏡など魏鏡の存在を排除するものではない」、という立場
桜井茶臼山古墳出土の銅鏡  尾垣誠宏氏
○古田武彦氏の 三角縁神獣鏡の盲点  及び 王仲殊論文への批判
○森田昇龍氏の 三角縁神獣鏡は「卑弥呼の鏡」ではない    


  纏向遺跡の外来系土器については

       纏向遺跡から出土した外来系土器についての報告  を参照のこと

  桜井茶臼山古墳の出土鏡については  桜井茶臼山古墳の笑撃


 <ご参考2> 魏鏡説固執派の、とある見解の御紹介

 関西系考古学者のなかでの大家、田中琢氏のコラム記事(『弥生文化−日本文化の源流をさぐる−』、平凡社、1991年2月刊)に興味深いものがあるので、御紹介しておく。

 田中氏は、特鋳による中国での製作を日本のみに三角縁神獣鏡が出土する理由だとし、邪馬台国に関する基本史料たる『魏志倭人伝』の内容を検証する資料はきわめて限られていると考え、次のように述べる。
 「この点で三角縁神獣鏡は非常に重要である。三角縁神獣鏡が実在しているから、邪馬台国に関する「魏志倭人伝」の前記した部分(注:下賜された各種物品を「親魏倭王」は国内の人々に示す、ということか)は信用できる、とみる。もし三角縁神獣鏡がなければ、「魏志倭人伝」の記述全体の信憑性をまず疑ってかかるだろう。そしてまた、三角縁神獣鏡がなければ、考古学研究者は何をもって邪馬台国の存在を信ずるのか、私はそんなことを考えている。」

 以上は、ある考古学者のたいそうな思い入れである。
 上記でも記述したように、三角縁神獣鏡は邪馬台国とは関係がない倭鏡である。こんな鏡で邪馬台国が検証されるはずがないし、『魏志倭人伝』の内容を検証する材料は数多くあり、それらを総合的に考える必要がある。そもそも、文献があれば、その「記述全体の信憑性をまず疑ってかかる」のが文献批判のあり方である。文献史学は、安易に「信じない、批判的な目で見る」ことから始まるし、これこそ科学的な姿勢というのではないだろうか。

 個別論としても、特鋳説はおかしな仮説であることは先にも述べたが、この「特鋳」の発注者を考えるとき、ますますおかしさが顕著になる。すなわち、特鋳といえども、最初の発注者が魏王朝(の官人)だとすると、その鏡は当時の鏡と同じ型式で同じ大きさになるはずであるが、その場合、「魏朝時代の鏡の直径は十二〜十四CMが多い」とされるから、この大きさの三角縁神獣鏡が現実にあるのなら、それは特鋳説の傍証にもなろう。ところが、この大きさの三角縁神獣鏡の出土例はまったくない。これでは、特鋳説が成り立つ余地がない。
 特鋳説の根拠的なものとして、「魏志倭人伝」の記事には、皇帝が下賜した物品について、「賜汝好物也」とあることから、倭使に対して「汝に好きな物」を下賜するとも受け取られている模様であるが、これは誤読であり、「汝に良き物」を下賜すると解するのが正しい。こうした読解に立つとき、倭人が鏡を好むから、これを特鋳したなどとは到底言えるものではない。このように、特鋳説はあらゆる意味で破綻している。

 (11.9.21掲上)



  最近の事情を踏まえて追加した記事  中国洛陽付近出土の「三角縁神獣鏡」の奇怪

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