桜井茶臼山古墳の笑撃
                        羽黒熊鷲 


 纏向遺跡のなかにある箸墓古墳から南東に四キロほど離れた桜井茶臼山古墳について、大きなニュースが二〇一〇年の年明け早々に報じられた。同古墳には、少なくとも十三種、八一面以上の銅鏡が石室内に副葬されていたこと、そのうち最多の鏡種が二六面もの三角縁神獣鏡とされること(次ぎに多いのが十九面の内行花文鏡)、正始元年の銘文を持つ群馬県蟹沢古墳出土鏡に見られる「是」と同じという字体が刻まれた鏡片も見つかったこと、などの事実が明らかになった。
 一つの古墳から八一面以上の銅鏡の出土ということは、これまで古墳時代最多とされてきた纏向古墳群の黒塚古墳の三四面の二倍以上の量が一挙に出たことでまず驚かれ、しかも鏡種もこれまでの国内最多とあって、今度は、@桜井茶臼山古墳が卑弥呼の墓ではないかとも言われ出した。また、A「正始元年銘の三角縁神獣鏡」が卑弥呼への魏朝からの下賜鏡ではないかという推測まで言われ始めた。
 これら二つの推測は、笑止きわまりない。卑弥呼の墓の形状及び規模は『魏志倭人伝』の記事に「径百余歩」とあり、この意味は、当時の魏王朝の尺度で見ても約150Mの直径をもつ円墳ということになり、朝鮮半島で通行し『魏志倭人伝』の路程距離に見えるいわゆる「短里」で考えると約30M直径という規模でしかない。これが、箸墓にも桜井茶臼山古墳(全長約200Mの前方後円墳で、しかも柄鏡式という特異な墳形をもつ)にも当てはまるはずがない。こうした文献無視の勝手な憶測で、歴史学や考古学が構成されてはならない。
 
 次ぎに、「正始元年」の銘文が桜井茶臼山古墳出土の鏡片のなかに現実に見つかったわけではない。現実にそのとき作成されたかどうかは不明であるが、鏡面に「正始元年」という銘文をもつ三角縁神獣鏡である群馬県・蟹沢古墳出土鏡と「是」の一字が同じような形ということだけである(しかも、鏡の極少部分であって、鏡全体の大きさの比較だってできない)。「正始元年銘鏡」はこれまで日本列島で三面出土しているといわれるが、その大きさは少しずつ異なるため、いわゆる同范鏡(同じ鋳型から作成した鏡、同デザインで同型の鏡)ではなく、踏み返しによる同型の鏡(同デザインの踏み返し手法による鏡。狭義の同型鏡)とみられてきた
 だから、両者が同范鏡だという確定もできず、仮に「正始元年」(魏朝の年号で、西暦二四〇年)という銘文が現実に作成された年紀であったとしても、踏み返しによる製造なら、桜井茶臼山古墳出土鏡片の製造年が定まるわけでもない。当時、多くの踏み返し手法による製造が行われていたようであり(同じデザインの大きさが異なる鏡が多数存在する)、そうだとすると、「是」の一字が同じ形であっても、「正始元年」という銘文が現実に当該桜井茶臼山古墳出土鏡の全体のなかに入っていたかどうかの保証すらない。「是」の文字は鏡銘文のなかで例えば「正始元年陳是作」という形(「是=氏」の意味)で使われることが多いから、本件と類似の文字が蟹沢古墳だけと同じということもないはずである。
 留意しておきたいのは、奥野正男氏によると、「踏み返し」による同型鏡は、鋳型が収縮することから、千分の一単位でみて原鏡から5〜17ほど小さくなる現象が起きており、「正始元年銘鏡」について言えば、山口県竹島古墳出土鏡が最大で面径が22.8センチで、次ぎに兵庫県森尾古墳出土鏡が面径22.7センチ、群馬県蟹沢古墳出土鏡が最小で22.6センチと測られていることである。このように面径が少しずつ異なるので、踏み返しによる製法の可能性が指摘され、なおかつ、蟹沢古墳出土鏡が面径で最小ということは原鏡ではなかったことを意味しよう。

西田守夫氏の論文「竹島御家老屋敷古墳出土の正始元年三角縁階段式神獣鏡と三面の鏡」(『MUSEUM』第357号)でも、鋳型の崩れから踏み返しに言及する。
  この論考を見ると、竹島古墳出土鏡の破片の現状は、「殆んどすべて表裏とも緑青に蔽われ、鋳上がりよくない」とされ、「比較的鋳上がりの好い蟹沢古墳出土鏡にしても、内区をはじめ、殊に銘帯からその外側の櫛歯紋帯にかけて、鋳型の崩れた個所が多い」とされる。これは、「中野政樹氏によると、一つの鋳型を繰返し使ったためではなく、踏返しのためである」と記される。
 この「踏返し」に註をつけて、「ただし日本における踏返しと定めるわけではない。この点については将来、材料の同定検査に期待する」とも西田氏は記すが、奇妙な註だといわざるをえないところである。

 
さらに、「石室内外の土をふるいにかけ」て、それにより発見された事実が上記の出土だということであり、銘文を刻まれた当該鏡が石室内でも棺の内外の、しかもそのなかでも具体的にどこに置かれていたかも不明である(橿原考古学研究所では承知しているのかも知れないが、報道されない)。多数の鏡が副葬される場合に、どの位置にどのような鏡が置かれていたかの点も、非常に重要な要素で、しっかり確認すべき基本事項である。例えば、黒塚古墳では、棺内にたった一面の画文帯神獣鏡が置かれ、棺外に33面もの多数の三角縁神獣鏡が置かれる形で、副葬されていた点は、それぞれの鏡の重要性を十分示すものである。こうした傾向で配置される例が多いことから、三角縁神獣鏡の評価が相対的に低いものとみられている。
 以上の諸事情からすると、「是」の刻字→当該鏡に「正始元年」文字の存在→この紀年銘鏡が卑弥呼の下賜鏡→桜井茶臼山が卑弥呼ないしはその重臣の墓→邪馬台国畿内説、と進む論旨展開は、まさに「ショウシ(正始、笑止)の沙汰」というしかない。少なくとも、学問的判断に必要となる十分な慎重性を、様々な意味で大きく欠けるものだと指摘せざるをえない。
 
 これまで、古墳時代初期ないし前期の大古墳として、大和盆地東南部の六古墳が取り上げられてきたが、その内訳は、纏向の大古墳4基(箸墓古墳、西殿塚古墳、行燈山古墳、渋谷向山古墳)と桜井南部地区の大古墳2基(桜井茶臼山古墳、メスリ山古墳)となる。そして、桜井南部の大古墳2基のほうは、古墳形式や規模・立地などから大王墓(天皇の陵墓)とはみられないとする見方が多かった。かつ、築造の順序も、箸墓・西殿塚が先行し、行燈山〔現崇神陵〕、渋谷向山〔現景行陵〕が後発であって、桜井茶臼山とメスリ山はその中間に位置する古墳とみられてきた(甘粕健氏らの古墳編年)。
 だから、この築造順序が変更されないかぎり、桜井茶臼山古墳が卑弥呼の墓ではありえないし、年代的に卑弥呼の重臣の墓だとしても、説明がつかない(考古学者のなかには、困ったことが起きたと内心動揺している人もおられるかもしれない)。古墳の規模からみても、桜井茶臼山が卑弥呼の墓ではありえない。いったい都宮とされる纏向遺跡から少し離れて、当時の大王が墳墓を築く理由も考えられない。地域的にみても、桜井茶臼山がこの地域を勢力圏とする阿倍氏の初祖とされる大彦命の墓だなどとみられてきた事情もある。
 
 三角縁神獣鏡が注目されるようになってから、既にかなり長い期間を経過しており、戦後の考古発掘は東アジアでも随分進んだが、これまで本地のはずの中国でも、また帯方郡のあった朝鮮半島でもまるで出土がないことや上記で触れた石室内の配置など、多くの理由から、三角縁神獣鏡魏鏡説はもはや終焉の段階にある見解である。つまり、三角縁神獣鏡の全てが四世紀の古墳時代に日本列島で独自に製造された国産鏡ということである。これが、現実を踏まえた合理的科学的な議論のはずであって、考古学でも、ここから議論を展開していかねばならない段階にある。当然、「正始元年」という銅鏡銘文も、他の銘文鏡と同様に多くの銘文鏡とともに総合的に考察されなければならないし、同范鏡や同型鏡、踏み返し製造などの議論も忘れてはならない。こうした現在までの検討など学問の積重ねを無視するべきではない。
 三角縁神獣鏡が古墳時代の国産鏡であれば、当時の大和王権のもとで製造されたことになり、大和の纏向遺跡付近にその分布の中心があるのがまったく自然であって、今回の大量出土もいわば当然の話であり、なんら驚くにあたらない。三角縁神獣鏡の出土数もますます増えてきて、いまや五百面をゆうに超すようになったが、未発掘の現治定陵墓などについて調査が進めば、さらに大きく増えることは必定である(これまでの盗掘により、三角縁神獣鏡が失われた可能性のある古墳もいくつかあろう)。
  だから、今回の知見が「初期大和政権での大王の権力を示す一級の資料」ということは否定するわけではないが(ただし、「大王級」あるいは「大王関係者」とするほうが穏当)、衝撃の新発見だと驚くほうがむしろ「笑劇」「笑撃」でもある。桜井茶臼山古墳から判明した出土内容とその意味するものを冷静・厳格に受けとめることが必要だということである。
 (以上は、誰が考えても、論理的に展開できる議論ではないかと思われる
 
 最後に蛇足かも知れないが、私見を記しておく。
 当今主流のいわゆる関西系の考古学者は記紀を無視するからとんでもない結論を平気で出しており、自説が体系的に矛盾するのが認識できないことになっている。いな、現実には基本書である『魏志倭人伝』の記事ですら、多くの考古学者は無視している。考古学は戦後の古代史学の大きな部分を担ってきた「人文科学」ではなかったのか。虚心に事実を直視することから、科学的な学問は始まるものである。
 
 私見の結論だけを端的にいうと、三角縁神獣鏡は、全てが四世紀半ばごろの景行天皇の時代(治世時期は西暦342〜357年と推定)に集中的に日本で造られた国産鏡であり、また、桜井茶臼山古墳の被葬者は、崇神天皇の皇后のミマキ姫(阿倍氏の大彦命の娘で、垂仁天皇の母と記紀にある)と従来からみている(『巨大古墳と古代王統譜』参照)。纏向遺跡のなかにあるいわゆる箸墓古墳が実質的な始祖王・崇神の陵であって、南東近隣の桜井茶臼山古墳のほうがその皇后の陵墓ということである。
 桜井茶臼山とメスリ山は当時の大豪族で、皇室から分岐の阿倍氏の本拠地域のなかにあり、南方に位置して本拠地により近いメスリ山のほうは、ミマキ姫の兄弟たる武渟川別命が被葬者だと比定される。だから、この両古墳から豪華な碧玉製の玉杖が出土しても、なんら不思議ではない。
 なお、いま桜井茶臼山古墳が三世紀末〜四世紀初ごろの築造とみる説が多くなっているようであるが、これは、年輪年代法・放射性炭素法による年代測定に基づく年代引上げで、纏向遺跡や箸墓古墳の時期も引き上げられたことに因むものであり、従来の土器年代積み上げによる古墳年代観(四世紀中葉頃)のほうが妥当だと考えている。
 
 こうした見方の背景をもう少し記しておくと、ミマキ姫が垂仁天皇ばかりではなく、景行天皇の生母でもあることは、最近認識を深めたものでもあるが、この女性はすこしく長命であったようで、夫の崇神や長子の垂仁よりも長生きして、息子の景行天皇の治世時期にもかかって生きていたことで、当時大量に造られた三角縁神獣鏡の大量副葬があったと考えている。桜井茶臼山古墳からは前から三角縁神獣鏡や内行花文鏡などが出土(従来では、三角縁神獣鏡を最多として九種13面程度が出土と認識されていた)しているので、今回の知見は銅鏡の大量出土であるにすぎないこと(葬送儀礼で当初から粉砕された可能性もあるから、その場合には「副葬」でもないことになる)、をしっかり認識すべきである。出土品がいくら豪華であっても、すぐ単純に大王墓だと決めつける姿勢も問題が極めて大きい。こんな判断がすぐにできるはずがなく、大王(初期の天皇)になっていない后妃、王族、重臣だって大勢いたわけである。
 国内最大級の内行花文鏡(平原弥生墳丘墓出土の鏡に次ぐくらいの大きさ)や国内最長とされるガラス製管玉も今回確認されたということから、被葬者が女性であった可能性を示唆する。勾玉などの出土もいわれている。一方、メスリ山のほうは、他に例のない鉄製の弓矢や鉄製刀剣・銅鏃など武器関係の出土が多い事情にある。
 桜井茶臼山古墳は「柄鏡式」という極めて特徴ある墳丘形態であって、その典型とされており、メスリ山も同様の墳丘とされる。この墳丘形態は畿内には多くないものの、南九州の日向の西都原古墳群まで分布することで、日向まで親征を行ったと『書紀』に伝える景行の事績との絡みを無視できない。関東でも群馬県太田市の朝子塚(ちょうしづか)古墳や、さらに北の陸奥まで「柄鏡式」の古墳が分布している。崇神朝の四道将軍阿倍氏の遠征が到達したと伝える会津若松市にある会津大塚山古墳も、この形式と豊富な副葬品、地域的にみて墳丘規模の大きさで有名である。
 
 古代史には古代史なりに、歴史の大きな流れのなかにあるのだから、総合的体系的に物事をとらえていくべきであり、文献など基本的な資料を抜きにしての検討や思いつきの夢想をしてはならない。このことを冷静に銘記すべきであろう。三角縁神獣鏡などの出土状況から、なにが確実に言えることなのか、その判断が科学的に正しいのかを的確にチェックしていく姿勢が強く望まれるところである。大和盆地から出土の考古学遺跡・遺物について、なんでも邪馬台国・卑弥呼に結びつけるという色眼鏡を先ずはずさなければ、冷静で合理的な歴史判断ができないと認識するべきである。
 
  (2010.1.9 掲上、2.10追補)


 <続> 小林滋様からのコメントなどもあります。

        石野博信氏の記事


  関連して、纏向遺跡の外来系土器については

       纏向遺跡から出土した外来系土器についての報告  を参照のこと

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