(桜井茶臼山古墳の笑撃の続)


    貴論「桜井茶臼山古墳の笑撃」について

                 小林滋様  2010.1.16受け 


貴論の整理と理解
 念のために、まず貴論の論旨を簡単に整理し、それを私なりに多少敷衍して理解してみると、以下のようになるのでしょう。
 
 今回、纏向遺跡付近の桜井茶臼山古墳から大量の銅鏡が一挙に出土し、@桜井茶臼山古墳が卑弥呼か関係者の墓ではないか、A「正始元年」銘の三角縁神獣鏡が魏朝から卑弥呼への下賜鏡ではないか、とまで言われ始めた。
 しかしながら、卑弥呼の墓の形状及び規模は『魏志倭人伝』の記事に「径百余歩」とあるところ、この意味は、当時の魏王朝の尺度で見ても約150Mの直径(いわゆる「短里」で考える場合には約30Mの直径)をもつ円墳ということであって、墳丘全長約200Mの前方後円墳という形状をもつ桜井茶臼山古墳に当てはまるはずがない。ましてや、これよりも巨大な前方後円墳である箸墓古墳(全長約280M)にも当てはまらない。
 また、「正始元年」の銘文が桜井茶臼山古墳出土の鏡片のなかに現実に見つかったわけではなく、鏡面に「正始元年」という銘文をもつ蟹沢古墳出土鏡と「是」の一字が同じような形だ、ということが確実にいえるにすぎない。
 以上の諸事情から、“「是」の刻字→当該鏡に「正始元年」文字の存在 → この紀年銘鏡が卑弥呼の下賜鏡 → 桜井茶臼山が卑弥呼ないしはその重臣の墓 → 邪馬台国畿内説”と進む論旨展開は、まさに「ショウシ(正始、笑止)の沙汰」というしかない(「正始」はセイシとも訓むようですが、「掛け合わせ」と理解します)。
 そもそも三角縁神獣鏡は、その全てが古墳時代の四世紀代に日本列島で独自に製造された国産鏡なのである。決して、魏で製造された鏡ではない。これが、出土などの現実を踏まえた合理的科学的な検討によって得られる結論であって、今回の大量出土でも変わるはずがない。従って、現段階にあっては、ここから邪馬台国についての議論を展開していかねばならず、これまでの学問の積重ねを無視すべきではない。
 
 貴稿の論旨は至極明快ですから、「誰が考えても、論理的に展開できる議論ではないか」と言うのも、よく分かります。
 
マスコミの論調
 にもかかわらず、これに言及するマスコミにおいては、基本的で確実な事実を踏まえない記事、たとえば次のような記事、が横行していて、嘆かわしい限りです。(※アンダーラインは「疑問な表現」を示します
 
@毎日新聞(平成22年〔2010〕1月8日
 「今回確認された鏡の中には、卑弥呼が中国・魏からもらった年とされる「正始元年」の銘文が入った鏡もあった」。
 
A読売新聞(同月9日「編集手帳」)
 「邪馬台国の女王・卑弥呼は中国・魏の皇帝から、魏の年号「正始元年」に銅鏡を贈られたとされる。出土した破片には、その年号の銘文が入った鏡もあった」。
 
B産経新聞(同月10日
 「「魏志倭人伝」には、魏の皇帝が使節を寄越した返礼として、卑弥呼に100面の銅鏡を贈ったとも書かれている。今回の破片がその一部だったと見る研究者も少なくない。/茶臼山古墳の北西約3キロにある纒向遺跡の一角からは昨秋、3世紀後半の大型建物跡が発掘され、「卑弥呼の宮殿ではないか」と話題になった。/相次ぐ発掘成果を総合すると、邪馬台国を中心とした国々によって結成された倭国連合が、初期ヤマト王権へと連続的に発展していったと考えるのが自然な状況になってきている」。
 
C産経新聞(同月13
 「国内最多の銅鏡81枚の副葬が確認された桜井茶臼山古墳の発掘速報展「再発掘 桜井茶臼山古墳の成果」が13日、奈良県立橿原考古学研究所付属博物館で始まり」、「“卑弥呼の鏡”ともいわれる「正始元年」(240年)の中国の年号が入った鏡の破片をはじめ、長さ8.1センチと国内最長のガラス製管玉、水銀朱が塗られた石室の石材など、60年ぶりの再発掘で得られた218点を展示している」。
 
. 私の総括
 これらの記事を見ると、マスコミは、@今回出土の銅鏡の中に「正始元年」の銘文を持つものが含まれていること(実際に含まれていた可能性も考えられるが、これまでの橿原考古学研究所の説明では必要十分な証明だとは決していえない)、及びA卑弥呼に下賜された銅鏡が「正始元年」の銘文を持つものであること(正始元年に魏朝から鏡が下賜されたからといって、その鏡に正始元年の銘文があるとも限らない)、またB「正始元年」の銘文をもつのが三角縁神獣鏡だから、この鏡種が卑弥呼への下賜鏡であること(漢土でまったく出土のない三角縁神獣鏡が倭国向けの特鋳だったという説は成り立つはずがないし、かつ、この説の証明不能)を、よってたかって当然の既成事実化しようとしているとしか思えません。
 さらに言えば、マスコミは、鏡のことでは『魏志倭人伝』の記事をそのまま(あるいは過剰に)受け入れる姿勢をとっており、これはこれでよいとしても、その一方、「卑弥呼の墓の形状及び規模」については同書に記載されていることを完全に無視するという、ひどく都合のいい使い分けをしているように思われます。
 その結果、邪馬台国畿内説を導き、それが連続的にヤマトの王権までつながるという結論までを組みたてようとしているようにも思われます。こうした「思込み」ないし「仮想」の積み重ねは、古代史の原型解明に向けての科学的な姿勢といえるのでしょうか。確実にいえることを基礎にして冷静で総合的な検討と議論を行うことが、いま強く望まれるところです。マスコミも、いい加減な報道を流しまくる姿勢を振り返ってみるべきです。
 
 

 <樹童の感触>

 適切なコメント、ありがとうございました。
 貴コメントなどを踏まえて、考えてみますと、さらに次のようなことに留意されると思われます。
  (以下は、である体で記す

 今回の橿原考古学研究所の発表の前に分かっていたことを、千賀久著『ヤマトの王墓・桜井茶臼山古墳・メスリ山古墳』2008年8月刊、新泉社)などで確認すると、次のようにあげられる(順不同)。
@桜井茶臼山古墳の石室内は北と南の小口部から盗掘されており、鏡などの副葬品はすべてが断片となっていた。
A北小口部の土砂に多数含まれていた鏡片は少なくとも十七面が確認されていた。その内訳は、三角縁神獣鏡が7,8面、画文帯神獣鏡が3,4面、内行花文鏡が3面、このほか方格規矩鏡・斜縁神獣鏡などが合計4面、とされた。大型の内行花文鏡の存在は、この時点ですでに分かっていた。
Bこれら三角縁神獣鏡は、県内の佐味田宝塚古墳、京都府の椿井大塚山古墳・南原古墳、愛媛県の嶺昌寺古墳、大分県の赤塚古墳、群馬県の前橋天神山古墳からの出土鏡に同型鏡が知られる。
C三角縁神獣鏡の破片は、画文帯神獣鏡ほどの文様の精密さがなく、こうしたところも三角縁神獣鏡の特徴の一つといえる。
D鏡の小さな破片(同書の図15で図示)は、石室内に侵入した盗掘者が意図的に破砕したのでなければ、暗い石室で踏みつぶされたのだろうとされる。この前提で、置かれていた場所は、棺外の北小口部と棺内が想定できる。これに対して、「これら破片のなかに周囲に研磨痕が見られるものがあり、それは破片の状態で副葬された破鏡だろうと、今尾文昭氏は指摘した」とのことである。
 
2 これまでの知見と併せて考えられること
 (1) 今回発表では、枚数が81面に大きく増えたが、それら全てが小さく破砕されていたという事実は、盗掘者の踏みつぶしということはまず考えにくいのではなかろうか。出土鏡に研磨痕が現実にあるのだとしたら、「意図的な破砕」を示唆するが、魏朝からの下賜鏡をどうして簡単に破砕するのだろうか。現実に蟹沢古墳出土鏡は破砕されていなかった(当該鏡のごく一部が欠落し、銘文部分の肝腎の「正始元年」の「正」の字の個所が欠失により、そのままでは判読不能に近いとされる)という事情もある。他の正始元年紀年銘鏡とされる二面も、同様に破砕されていなかった。そして、実際には確実に「正始元年」と読みうる鏡はただの1面もない。
 
 (2) 上記Cの特徴が三角縁神獣鏡にあるのなら、それは魏鏡説を十分疑わせるし、盗掘者に踏みつぶされるような位置に置かれていたとしたら、そうした鏡の重要性の認識が元もと埋葬者にはなかったことにもなる。
 千賀久氏は、踏みつぶされて破砕したという考えのもとで多数の鏡の配置状況を考え、そうすると、「多数の鏡が副葬された前期古墳のなかでは、おもに木棺内に並べられていた天理市天神山古墳の鏡の副葬状況に近いことがわかる」と記述するが、天神山古墳よりも、これまで三三面という最多の三角縁神獣鏡を出土した黒塚古墳での鏡の配置の仕方が参考になるのではなかろうか。この古墳からは、椿井大塚山古墳出土の鏡と同型鏡とされる三角縁神獣鏡が十組もあり、桜井茶臼山古墳からの出土鏡にも椿井大塚山古墳との同型鏡が認められるからである。黒塚と椿井大塚山とは、石室が板石などという共通点もある。
 黒塚古墳では、棺の中には一面の小さな画文帯神獣鏡が頭部付近に丁重な包装でおかれていたが、一方、三角縁神獣鏡は出土した全てが棺外に雑然とおかれていたという配置にあった。
 
 (3) 桜井茶臼山古墳から出土の鏡の同型鏡の分布が群馬県の蟹沢古墳だけではなかったということは、仮に桜井茶臼山古墳の築造年代をこれまでの古墳編年から大幅に引き上げれば、同型鏡などで関連する諸古墳の築造年代も併せて大幅に繰り上げることになるが、こんなことができるはずがない。いわゆる前方後円墳体制の成立が、卑弥呼の活動した西暦三世紀中葉頃で、しかもその当時すでに関東北部から九州・四国に及ぶ日本列島の広域であったということはありえない。『魏志倭人伝』に見えるように、魏使が檄を飛ばして告諭をだすほどの緊迫した交戦相手の狗奴国の存在する余地が、この広域のなかには存在しなくなるからである。
 
 以上のように、桜井茶臼山古墳からの出土鏡について今回の断片的な情報だけを考えるのではなく、従来から知られている諸事情も総合的に考えると、桜井茶臼山古墳を卑弥呼や邪馬台国と結びつけることがそもそも無理であり、上古の歴史の流れに合わないことがよく分かってくるはずである。
 
 (2010.1.17 掲上)



   石野博信氏の記事


 最近、兵庫県立考古博物館長の石野博信氏は、東京新聞に「銅鏡大量出土の桜井茶臼山古墳 日本海側墳墓と共通点」(2010年〔平成22年〕1月19日付け夕刊)という記事を寄せており、その要点を紹介しておく。
 
(1)概要の説明
 @大王墓級から発掘された初めての多量の鏡群。今までの多量出土の椿井大塚山古墳(36面以上)・黒塚古墳(34面)をはるかに超えるし、両古墳がヤマト政権中枢の銅鏡と考えられている三角縁神獣鏡中心に対し、桜井茶臼山は26面にとどまって他の鏡種が多く、大王ならびにその一族とは異質な様相を示す。
 A1949年に盗掘を契機に橿原考古学研究所が調査をして、長大な木棺を持つ長さ6.75Mの竪穴石室、三角縁神獣鏡など三十余の銅鏡の小片、玉杖、玉葉(石の玉)など特異な副葬品が明らかにされた。
 B今回、石室と円丘部(後円部)の再調査を実施したが、石室内と天井石上部に埋め戻されていた土砂すべてをフルイにかけ、331点の銅鏡片と多くの副葬品の片々を採集した。
C桜井茶臼山は前方部が狭く長い柄鏡型長突円墳であり、前方部両端が張り出たバチ型ではない点、竪穴石室の側壁が直立し傾斜していない点、周辺に百M級の古墳群がない点で、「おおやまと」の一群とは異質。
 D遣魏使派遣の年である239年をもつ古墳は全国で13基あるが、年号と古墳の年代が接近しているのは日本海沿岸の三基の小古墳(京都府大田南5号墳、兵庫県森尾古墳、島根県神原神社古墳)と桜井茶臼山である。
 
(2)導かれた推論
A 鏡片は儀礼の一環:盗掘者が侵入して乱暴にかきまわしても、百片を超える1〜2センチの小片になるだろうか。331点の銅鏡片の多くは天井石上の土砂に含まれていて、石室内に埋め戻された土砂にはごく少量しかなかったという。盗掘者の行為によるものなら、小片が石室内に相当量残るのが自然であるが、1961年の調査報告書によると、石室の両端に若干集中していた程度であった。
 「弥生時代以来の意図的な破砕と散布が葬送儀礼の一環しておこなわれていたのではないか」「埋葬施設上での鏡片散布は日本海沿岸の二〜四世紀の墳墓上に散布されていた土器片と思想的な共通性を考えさせる」 

B 大王墓でない可能性:おおやまと古墳集団とは大和川を隔てた南方の磐余地域にあり、百M級の長突円墳を随伴させず、三角縁神獣鏡中心の銅鏡構成ではない点で、政権構造に違いがある。そのうえ、遣魏使派遣年に近い年号鏡をもつ点で日本海沿岸の丹後・但馬・出雲の一族と連携しており、共同して対大陸・半島との交易を行っていたのではないか。だからこそ、列島内で類例のない玉葉や今回検出のガラス管玉を保有できたのであろう。
 「ヤマト政権中枢を構成する一員であるが、大王一族ではなく、非主流的立場で対外貿易を担当した人物ではないか」 
  磐余地域二代目のメスリ山古墳の多数の鉄刀剣・鉄槍先・銅鏃や、長大な鉄弓をもって軍事色を強めたが、後続者がない。「そこに磐余初代の桜井茶臼山の立場が象徴されているように思う」

 
 <樹童の感触>

 
石野博信氏の見解に関しての感触を記しておく。

a 被葬者が大陸交易に関係したとみるのは疑問:概要の説明Dについては疑問がある。
 大田南5号墳
は丹後の長方形墳(一辺約19M×約12M)で、年代近接の可能性もないでもないが、この出土鏡は青龍三年(西暦235年)銘の方格規矩鏡である。その同范鏡には、大阪府高槻市の安満宮山古墳(一辺20Mほどの方墳)からの出土鏡があり、大塚初重等編の『続日本古墳大辞典』の正岡大実氏執筆記事によると、古墳時代前期初頭頃の築造とされている。安満宮山古墳からは、ほかに四面(三角縁神獣鏡二面、斜縁神獣鏡・同向式神獣鏡が各一面)の銅鏡の出土があり、同向式神獣鏡は紀年銘をもつ和泉黄金塚出土鏡と親縁性が高いと記事が上記大辞典にあるが、石野氏は、「和泉黄金塚や山口県竹島古墳などは四世紀中葉〜後半の古墳で遣魏使年と百余年あいていて同時性がうすい」とみるから、これらを総合的に考えれば、大田南5号墳も四世紀中葉頃に落ち着くのではなかろうか。
森尾古墳・神原神社古墳と桜井茶臼山は、紀年銘に見える年代と築造年代が百年ほど離れているとみられる。これら古墳も、具体的な築造年代としては四世紀中葉ごろではなかろうか。
  森尾古墳は但馬の長方形墳(一辺24M×35M。もと径約9Mの円墳とみられていた)で、三角縁神獣鏡が合計二面、方格規矩鏡や各種鉄製品、勾玉・管玉などが副葬されており、大塚初重等編の『日本古墳大辞典』の小林三郎氏執筆記事「4世紀末から5世紀初頭の年代を考えておきたい」というのは年代引下げ過ぎだとみられるが、四世紀中葉ごろの築造ではなかろうか。
  神原神社古墳についていえば、出雲の長方形墳(一辺25M×29M)であって判断しにくい面もあるが、副葬品が三角縁神獣鏡以外に、素環頭大刀・刀剣・槍・鉄鏃などの鉄製品や、鉄製の鋤・鍬・鎌などの農耕具、針・斧、器台形土器 、玉類(ヒスイ製勾玉・碧玉製管玉・滑石製臼玉)などもあり、山城の椿井大塚山古墳に類似するか。石室の構造に、これら副葬品の組合わせや出土土器の形式などから、この方墳の築造時期は四世紀中頃と推定する見方があり、やはりこの辺が妥当なところか。

 従って、推論Bのうち、埋葬者が日本海沿岸在住の一族と連携して「大陸交易に関係か」という石野氏の考えには大きな疑問がある。
なお、以上のように見ていくと、紀年銘鏡の出土古墳が円墳・方墳の小型の墳丘が多く、前方後円墳(和泉黄金塚、山口県竹島古墳)の場合は中規模どまりということで、これら紀年銘鏡自体はほぼ原型をとどめており、これは、大型の前方後円墳で小さく粉砕された鏡片の桜井茶臼山とは大きな差異が目立つ。「是」の文字だけで、「正始元年」の銘文と決めつけないほうが穏当ではあるまいか。 「是」の文字が三次元の立体計測で同一性が確認されたからといって、それが銘文のどこまで推定できるのか疑問も大きい(類似の銘文例は蟹沢古墳の個所で述べる)。
 
b 多数の銅鏡小片の意味:「埋葬施設上での鏡片散布」の葬送儀礼という捉え方は、一案として受けとめる。そうすると、注目される銘文鏡も小さく破砕されて「鏡片散布」の対象となったことになり、この鏡自体の価値が、葬送主宰者からは高くはみられていなかったことになる。当該鏡に本当に「正始元年」という銘文があったかどうかの確認ができないが、かりにこの銘文があったとしても、実際に魏朝からもたらされた重要な鏡ではなかったことになるのではないか。いわゆる「正始元年銘文鏡」には、踏み返し製法で造られた可能性が十分考えられる。
 
c 桜井茶臼山とメスリ山の関係:両古墳が大王墓でないとみることは、石野氏に同旨だが、前者は大王の后妃の墳墓ではないかとみられる。桜井茶臼山とメスリ山との先後については、前者が鉄鏃、後者が銅鏃という副葬であることからみると、規模の大小などから一般に「桜井茶臼山→メスリ山」の順の築造だとみられてきたが、その逆も十分考えられる。メスリ山は男性の墳墓であり、桜井茶臼山が女性の墳墓であることで、副葬品の差異が出ていた可能性も考えられる。
 
 蟹沢古墳と同型鏡共有の意味:石野氏は、蟹沢古墳出土鏡の写真を記事に添付するが、この古墳の築造年代についてはとくにふれず、紀年銘の年号と古墳築造年代が接近しているとはみていないことだけが分かる。『日本古墳大辞典』の小林三郎氏執筆記事によると、群馬県高崎市にある蟹沢古墳は径12Mほどの墳丘をもっていた円墳で、ほかに内行花文鏡一面と鉄斧・鉄槍・土器が発見されたというとして、五世紀初頭の築造が考えられている。築造年代については、四世紀末頃という見方もあるが、もう少し早い四世紀中葉頃としてもよいのかもしれない。所在地が毛野の中心地域であって、これが三世紀中ごろの築造だとする見解は皆無であろう。
  ともあれ、紀年銘の年号「正始元年」よりも百年以上後の築造であり、同型鏡が桜井茶臼山出土鏡と同じだということは、蟹沢古墳の片方だけがなぜか百年以上も伝世されたのに殆ど完全な形を残したということになる。とくに、今回の発表では両者が「同范鏡」とされるのだから、両者の間のアンバランスが更に引き立つと考えられる。ごく素直に考えれば、桜井茶臼山の築造年代を引き下げるとともに、両方の鏡とも、後世になって入れられた紀年銘をもつにすぎないということである。
 なお、「正始元年」銘鏡は、日本列島で先に三面出土したとされており、そのうち、蟹沢古墳と森尾古墳から出土の鏡はともに「正」の文字部分が欠落しており(蟹沢古墳出土鏡のほうが欠落度合いが少ないが)、竹島古墳出土の鏡などをもとに「正始元年」と判読されているが、竹島古墳出土鏡の銘文がきわめて難読であって、この文字が解読されたのが1980年(発掘されたのは1888年)とされる。しかも、この解読も推定によるものであって、その証拠も端的には示されないとのことである。

解読は、東京国立博物館主任研究官であった西田守夫氏によるものとされるが(『MUSEUM』第357号)、その論文「竹島御家老屋敷古墳出土の正始元年三角縁階段式神獣鏡と三面の鏡」を見ると、「辛うじて「正」字の三本の横の画らしきを確かめえた」という程度の事情があるにすぎない。
 要は、端的確実に「正始元年」と読みうる三角縁神獣鏡は、どこからも出土していないということである。


 橿原考古学研究所の今回の発表で、蟹沢古墳の出土鏡だけをあげて銘文が同じだとされるが、それでは、竹島古墳や森尾古墳から出た鏡との関係がどうなのかという説明も、適切になされるべきことである。同研究所は、七百面以上の鏡のデータを蓄積しているともいわれるから、とくに言及のなかった竹島・森尾両古墳からの出土鏡とは合致しなかったとみるのが自然なのだが、そうなのか否なのかという問題でもある。
 さらに、銘文鏡に記載の銘文を比較してみると、神原神社古墳出土鏡鏡(「景□三年」の紀年銘)の銘文が元にあって、蟹沢・竹島・森尾の三古墳出土の三角縁神獣鏡と黄金塚古墳出土の画文帯神獣鏡がそれを節略したものであることがわかる。こうした不完全な銘文の鏡を魏がその官営工房で製作して下賜するということは、まず考え難い。それに加え、銘文の原型とみられる神原神社古墳出土鏡の銘文自体が押韻・平仄のルールなどからみて、詩文隆盛の時代であった魏朝のものとは到底考えられないという衝撃的な指摘が、中国語音韻論の立場から森博達氏からなされている。

 併せて、竹島古墳からは、併せて、呉の(影響をうけた)「劉氏作神人馬車画像鏡」も出土している事情にあり、これも三角縁神獣鏡の魏鏡説に疑問を提出する。
上記西田守夫氏の論文によると、材料同定検査などにより、「劉氏作画像鏡」の製作地は華南だと記される。

  以上に見るように、石野博信氏の記事には教示・示唆を受ける点が多々あるが、結論・推論には肯けない点もままある。そして、今回出土の銅鏡片については、「正始元年」の意味を過剰に受けとめて拡張解釈しないように留意しなければならない、と考えられる。 
 
  (2010.1.20 掲上、1.21、2.09追補)
 

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  関連して纏向遺跡の外来系土器については

       纏向遺跡から出土した外来系土器についての報告  を参照のこと

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