秀吉文書に関しての雑感 
                                   小林  滋



@最近の研究動向として、東京大学の山本博文氏らの編集による『偽りの秀吉像を打ち壊す』(柏書房、2013.1)という書がありますが、少々調べたところ、秀吉文書を巡り名古屋大学の三鬼清一郎氏と山本氏との間で論争があることが分かり、その対象とされた『天下人の一級史料―秀吉文書の真実』(柏書房、2009年)をまず読んでみることとしました(注1)。

 同書は、豊臣政権期に出された刀狩令やバテレン追放令、人掃令などにつき、原本の写真版や釈文(原本を読んで活字にしたもの)、さらには現代語訳までも掲載し、それらを対比させながら、一般読者に十分に理解できるように議論を進めており、きわめて興味深い読み物となっています。

 

Aただ、一般読者を相手としている著書のためでしょう、十分な論拠を記載しないままに言い切っているところも多く見られ、そのためもあって批判相手の一人である三鬼氏を酷く怒らせたものと思われます。

 三鬼氏は、青木書店から出されている雑誌『歴史学研究』第870号に、山本氏の著書を批判する論考「山本博文著『天下人の一級資料』に接して」を寄せました(20109)(注2)。 

)まず、秀吉文書に見られる「自敬表現」(注3)について、それに関する「先行研究の代表といえる小林清治氏の見解を採り上げ、「それは正しくありません」と理由を何一つ示すことなく切り捨てている」と三鬼氏は批判します。

 さらに、山本氏の「見解に従えば、秀吉の行為に敬語が使われるのは右筆が作成した文書に限られるが、秀吉の自筆書状にも同様の事象が確認される」ところ、この点について山本氏は「秀吉が右筆の各文章を真似たものだと考えてい」ると述べているものの、「その根拠は全く示されていない」と三鬼氏は主張します。

)さらに刀狩令について、例えば、山本氏が「この段階では九州大名に与えられたものだと推測でき」るとしている点につき、山本氏が所在を確認した「実質9通」の原文書のうち、はっきりと九州地域なのは「島津家、立花家、小早川家の3通」だけであって、「これだけから結論を下すことはできない」と三鬼氏は述べます。

 加えて、山本氏は「(刀狩令は)秀吉子飼いの大名には、交付するまでもないことで渡されていないよう」だとしながらも「加藤清正には渡されている」としているし、賤ヶ谷七本槍の一人の加藤嘉明(当時、淡路島を領有)には「渡される必然性はみあた」らないと山本氏が推論しているものの、渡された原文書は早稲田大学図書館に所蔵されていると三鬼氏は指摘しています。

 こうしたことから、三鬼氏は、「山本氏が、「これまで原本に即した刀狩令の研究は皆無でした」と自慢げに述べている内容は、空疎な大言壮語に過ぎないことが明らかとなった」と述べます。 

Bこれに対して、山本氏は、20116月に出された『消された秀吉の真実―徳川史観を越えて』(柏書房)に、反批判の論考を二つ掲載しています(注4)。

)まず、同書の序章「秀吉文書を深く理解するために」において、山本氏は、自分の「主張の根拠」は、「秀吉とならんで、相手への尊敬表現が使われていること」だとします(P.11)。

 この点は、前著『天下人の一級史料』においても同じように記載されていたものの(同書P.20)、それだけだと「相手への尊敬表現を使ったのが秀吉なのか右筆なのか、判定しにくく、少し説得性に欠けるかもしれ」ないとして、例文をいくつか示した上で、「右筆の立場から書くから秀吉の行動に敬語が使われるという解釈の仕方は、秀吉朱印状の内在的理解には欠かせない考え方」と述べます(P.19)。

 さらに、秀吉の自筆書状に関し、山本氏は、桑田忠親氏の研究を踏まえつつ、「桑田氏の議論を敷衍すれば、秀吉が文章を書く時に準拠するのは右筆の書く文章」であり、「そのため自筆書状を書く時、右筆の書く言い回しをそのまま使うことになったのではないでしょうか」と述べます(P.20P.22)。 

)また、第三章「刀狩令に見る秀吉法令の特質」において、山本氏は、三鬼氏が提示した「3通の原文書」などを一つ一つチェックします。

 そして、同書P.104に表「刀狩令原本一覧」(注5)を掲示し、確認のできた13通について概略を記載した上で、「天正167月の刀狩令の交付範囲は、三鬼氏の指摘した刀狩令を加えても限定的なものであったことがわかります。この範囲を見れば、やはり肥後国一揆と密接に関連して出されたものだったという推測ができます」と述べています(P.105)。

 

Cここで取り上げた二つの問題点のいずれも、この関係の専門家でなければなかなか入り込むことができない難しいものだと考えられますが、部外者があえて申し上げれば、次のように思われるところです。

)「自敬表現」に関し山本氏は、なおざりにできない重要性を持つ問題提起を行っていると思われます。三鬼氏のように、小林清治氏がこれまでの国語学者らの「成果を踏まえ、慎重かつ論理的に述べている」からとして、簡単に棄却できるような仮説だとは思えません(注6)。

 ただ、そうだからと言って、まだ依然として可能性の一つに止まるべき仮説であり、「秀吉の自敬表現は関白就任を契機に、関白の権威の超絶姓を本質的な根拠として出現したものと見るのが妥当」とする小林清治氏の見解を、山本氏のように断定的に否定することは出来ないのではないかと思われます。

 というのも、「自敬表現」に関し、山本氏は「天皇文書の特徴とされる敬語の使い方」だとして、その存在自体を否定はしていないのです(『天下人の一級史料』P.20)。さらに、ロドリゲスの『日本文典』にまで記述が見られることからも(注7)、むしろ、当時かなり周知の事柄だったとも考えられます(注8)。
 そうした状況において、山本氏は「秀吉とならんで、相手への尊敬表現が使われていること」から、秀吉はそのような使い方をしなかったと主張するのですが、秀吉以外の事例がもう一つ二つ存在するのならともかく、そうでなければいかにも根拠が薄弱なようにも思われるところです。 

)また、刀狩令について、山本氏は、『消された秀吉の真実』において『天下人の一級史料』と同一の見解を述べているところ、後者よりも前者で二つの原文書が加わったものの、そのうちの一つは宛先が不明ですから、事態は余り変わりがない(すなわち、刀狩り令の交付範囲が限定的だったとは明言できない)のではないかと思われます(注9)。 

)いずれにしても、今回の論争を通じて、研究され尽くされていると思われていた秀吉関係の基本文書には、まだまだ検討しなければならない問題点が沢山残っていることがわかり、そうであれば、研究がこれから先次第に積み重ねられていくにつれて、また新たな秀吉像が作り上げられる可能性があるかもしれず、そう思うと期待が大きく膨らみます。


〔注〕

 (1三鬼清一郎氏は、ネットで調べたところによれば、「1935年生まれ。東京大学大学院人文科学研究科博士課程満期退学。名古屋大学教授、神奈川大学特任教授を歴任。現在、名古屋大学名誉教授」とのこと。また、山本博文氏は、「1957年生まれ。東京大学文学部国史学科卒業。同大大学院、東京大学史料編纂所助手、同助教授を経て、東京大学史料編纂所教授」とのこと。

 なお、三鬼清一郎氏については、拙稿「『武功夜話』を巡って」の「注11」において触れたところです(なお、この点については、Wikipediaの『武功夜話』に関する記事の「2.2肯定側」の中の記載を参照)。
(2)同論文において三鬼氏は、様々の問題点を指摘していますが、煩瑣になるため、ここでは「自敬表現」と「刀狩令」を巡る論点だけに絞って取り上げることといたします。

(3)「自敬表現」とは、北大教授だった西田直敏氏の定義によれば、「話手(第一人称者)が自分の動作や自分に関するものごとを尊敬語によって表現し、聞手や第三者の第一人称者(話手)に対する行為を謙譲語によって表現する言語表現」(学習院大教授・福島直恭氏のこの論文P.120によります)とのこと。 

(4)山本氏は、『歴史学研究』の第887号(201112月)にも、「秀吉文書の「自敬表現」および刀狩令について」と題する反批判の論考を寄せています。

 ただ、ほぼ同様の内容にもかかわらず、先に刊行されたはずの『消された秀吉の真実』について言及されていないのが不思議です。

 そして同論考では、専ら、三鬼氏の論考が「誤読にもとづく決めつけが目立つ感情的な文章」であることを明らかにしようとの意図が前面に出てしまっているように思われます。

 例えば、三鬼氏の論考は「拙著に対して「冗漫な書き方」「妄言」「珍説」「高慢かつ不誠実」「研究史を冒涜する行為」「空疎な大言壮語」「思い上がった発言」などの表現で批判しており、非難や誹謗そのものである」などと述べられています。

 確かに、三鬼氏の論考には、筆が先走りすぎているかに思える表現があちこちに見受けられるように思います。

 ただ山本氏の方も、売り言葉に買い言葉でしょうか、数は少ないながらも「やっかみに聞こえる」「妄言である」などといった言葉を使っています。

 折角興味深い重要な論点を議論しているのですから、両者とももっと冷静に論を進めるべきではないかと思います。

(5)『天下人の一級史料』のP.39に掲載されている表「刀狩令原本の文言の違い」を改定したものと考えられます。  

(6)三鬼氏の「自敬表現」についての元々の見解は、この論文の「二、いわゆる「御内書」様式について」を参照。

(7)西田直敏氏のこの論文によれば、イエズス会通事・ロドリゲスが作成した『日本文典』(1604年)には、次のように書かれているようです(土井忠生訳)。

 「「関白」(Quambacu)と「公方」(Cubo)は、書状や渡航免許状において、自分自身に敬意を払った言ひ方をする。これがその文体だからである。例へば、Voxe idasaruru(仰せ出ださるる)、Voboximesu(思召す)、quicoximesu(聞召す)、Yorocobini Voboximesu(喜びに思召す)など」。

(8)千葉大学名誉教授・佐藤博信氏のこの論文によれば、「この「自敬表現」は、なにも秀吉文書のみの固有な現象ではなく、すでに桑山浩然氏が指摘する様に、秀吉以外にも室町将軍家・関東足利家・関白近衛家(「喜連川文書」戦古1191)などにもみられる現象である」とのこと。

(注9)刀狩令の朱印状原文書が残っている淡路島・加藤嘉明について、山本氏は『消された秀吉の真実』において、彼は天正15年に加増を受けるが、これは「九州攻めで功績があったことの恩賞でしょうが、畿内・近国の社寺宛の刀狩令同様、刀狩令が交付された理由はわかりません」と述べています(P.100)。
 


 <樹堂の感触>

 世に残る文書は、勝者か細々とでも生き残った者たちが残したものが殆どだと思われるから、時に後になって彼らに都合の良いように改竄されたり、書き直されたりすることが何時の世でも往々にしてある。その意味で、僅かな治世期間で滅びた豊臣氏について、しかもその急激な地位・階層の向上もあってか一族が僅かしかいなかった事情もあり、その後に天下を掌握した徳川氏によりその実像が変化させられることは、十分ありうることである。こうした認識が予めあれば、取り立てて言うべき話しではないのだろうが、今までの豊臣氏研究がいわゆる「徳川史観」によって変形させられてきたことへの警鐘を鳴らし、改めて当時の歴史の原型を探ろうとする動きが山本博文氏らにあり、その整理されたものが上記にあげられる山本博文氏とその研究グループによる3冊の書となる。

 ただ、注意すべきは、山本氏らの研究姿勢が正しいからと言って、その研究における結論が正しいとは限らないということである。小林滋様が、こうした事情を踏まえて、本件における冷静な検討と議論の必要性を説くことは基本的に妥当であり、そうした研究の結果、適切な結論が導かれることが望まれる次第でもある。徳川氏の関与はともかく、秀吉については多くの俗説が横行している事情にもあるので、予断をもった決め付けではなく、残された乏しい史料を総合的に検討して、少しでも原像に迫れること、歴史原型に近づくことを期待する次第でもある。


  (13.3.25 掲上) 



            


  ホームへ  ようこそへ   Back