樋口知志氏の『前九年・後三年合戦と奥州藤原氏』及び『前九年・後三年合戦と兵の時代』を読む

                                  宝賀 寿男



 はじめに

 樋口知志氏は現在、岩手大学教授(一九五九年生まれ)であり、これまでの研究である論考「藤原清衡論」(『アルテス リベラレス』に所収)などを基礎に、二〇一〇年に博士論文として著作『前九年・後三年合戦と奥州藤原氏』を作成し、これが高志書院から翌二〇一一年三月に刊行された(ここでは、同書を「原著」とする)。もとが博士論文として書かれただけあって力作であり、表題にあるとおり、前九年合戦・後三年合戦の両戦乱を中心に、平安時代後期十一世紀の奥羽の武士の盛衰、一連の政治過程と奥州藤原氏勢力の成立について、広範な資料に基づき様々な検討が新視点から精力的になされ、随所に斬新な考えが示される。最近では、その編著『前九年・後三年合戦と兵の時代』(二〇一六年四月刊。これを「近著」とする)を発表された。

 両書には五年ほどの期間差があるが、当然、原著・近著の内容は相関連している(両書にともに見えるものは、たんに「樋口説」とする)。近著には他の研究者の著述も含まれるから、そこでの樋口氏の著述には分量的に原著のエッセンス的なものもあるが、最近までの諸研究を含めての展開もある。両書合わせてかなりの大作で、これにその基礎となる研究や関連する他の研究者の著作もあるから、手軽に取り上げられる代物ではないが、実のところ、気になる点も多くあるので、とりあえず、当方の問題意識を提示しておきたい。

 
 問題点と考えるものの総論的な提示

 樋口氏の斬新な考えの基礎は、原著に記述される次の考え方にあると思われる。
「所与の史料的知見をできるだけ矛盾なく整合的に理解しようと努めた結果得られたところの単なる仮説にすぎない」(原著
 この場合の「史料」とは、当時の平安時代後期が基本的に乏しいから、『陸奥話記』『奥州後三年記』が主なものとなるから、後世の史料も併せて利用するという意味で広範なものとなり、これは当然のこととして、それらの記事をそのまま依拠して立論の基礎としてよいのだろうかと問題点もある。
 「整合的に理解しようと努めた結果得られた」としても、このものは、あくまでも推論であり、これは樋口氏も自認するように「単なる仮説にすぎない」。それらが斬新なだけ、そして数もかなり多くあって、両書の論考展開の基礎にあるから、問題の波及が大きいものとなる。しかも、拙見ではその多くに疑問ないし反対なのである(ただ、藤原清衡の親族推定はかなり肯ける)。
 樋口氏が提示する関係者の人間関係や系図も、私は重視するが、ここには現存する系図史料には見えない推論がかなり多く出てきており、そのアプローチや推考の結論が系図学的に見ても疑問だということでもある。要は、関係者の行動から具体的な人間関係としての系図がどこまで的確に構成できるのか、ということにもつながる。
 以下に、個別に具体点をあげて、検討してみたい。なお、時代の進行からすれば、覇者が安倍氏→清原氏→藤原氏、となるのは、皆様ご承知のとおりだが、ここでの記述の関係上、主に清原氏関係を取り上げて、関連することにも触れていく。

 
 清原氏一族の系図関係

 清原氏は前九年・後三年の両合戦ともに関係したから、この時期、その影響が最も大きいものと言えよう。その意味で、主に取り上げ、関連した事項にも触れる。樋口氏が提示する清原一族の人間関係のうち、疑問ないし検討すべき諸点は次のようなものがある。
 
○延久の蝦夷合戦の後にその功績で鎮守府将軍となった「貞衡」なる者の位置づけはどうか。
 「貞衡」を岩城一族の貞平に当てる「貞衡=武則養子説」を説く樋口説(真衡に当てる見方は否定する点は妥当か)はいくつかの点で疑問が大きく、『陸奥話記』に「平貞平」が源氏方の兵で見える。なお、貞衡についての武則次男説(小口雅史氏など)は系図に見えず、これも疑問が大きい。名前の類似性からは真衡に比定される可能性があり、武則補任後の十年弱の任命という活動時期からは武貞に比定されており、後者のほうが妥当か。
 
武則の出自は岩城氏か
 野口実氏が岩城氏出自を唱えたもので、比較的信頼性があるとされる桓武平氏の系図(中条家文書『桓武平氏諸流系図』)に基づくが、樋口氏はこれを退けるものの、武則の次の鎮守府将軍の貞衡が岩城氏から入り、そのかわり武衡が清原氏から岩城氏に入るという「貞衡・武衡猶子交換説」を唱えるが、これも疑問である。こうした所伝は、岩城一族側の系図にも見えないし、地域的にも系図的にも、この説には無理がある。その当時、他氏から入ってきた者に族長の地位と鎮守府将軍の地位を、一族の者たちが認めるのであろうか。清原一族の真衡への反発が、成衡を岩城氏から迎えたことにもあったのではなかろうか。
 
○関連して、磐城の海道平氏の岩城氏は、桓武平氏の常陸大掾氏と一族かという問題もある。
  岩城一族の国魂氏では、別途信頼できそうな系図(『国魂文書』のなかに「岩城国魂系図」)を伝えるし、後裔は磐城郡式内社の大国魂神社(福島県いわき市平菅波)を長く奉斎して、大江姓を称し、後に清和源氏とも称するように、桓武平氏とは言っていない。「国魂文書」(大国魂神社文書。県指定重文)や「山名系図」は、謄写本が東大史料編纂所に所蔵される。
 「岩城国魂系図」は、高久三郎忠衡に始まるが、この系図では、忠衡の父祖も、桓武平氏との関係も記されない。海道平氏が桓武平氏繁盛流だという系譜はきわめて紛らわしいが、丁寧に検討すれば系譜仮冒であることが分かる(祖の安忠は繁盛の子孫ではない)。いわゆる海道平氏は、実際には古代の石城国造後裔とするのが穏当である。前九年の役の前段階で、同族とは言えない出羽の清原氏がわざわざ磐城から養子を求める必然性にも乏しい。「海道平氏」という言い方自体、疑問が大きいということである。
 
武衡の位置づけ……後三年役の頭領だったか。平姓か。磐城郡居住か。
 家衡の叔父、武衡は、後三年合戦の立て役者で、真衡没後の清原氏の首領(主流派の頭目)として、家衡への与力よりも役割を重くみる説を樋口氏が言う。しかし、諸事情から見ると、そこまで武衡を重視することはないと考える。武衡は「岩城三郎」とも丹波小畠氏の系図に見えるが、この通称についても疑問がある。『続群書類従』巻一七三の「清原系図」に「奥州磐城郡に住す」とあるが、この居住の裏付けはなく、逆に武衡の行動はそれに反する。
 樋口氏は、前九年役の第七陣の長をつとめたと『陸奥話記』に見える「清原武道 字貝沢三郎」と武衡とが同人かともする。『東鑑』には「将軍三郎武衡」と見えており、これら記事の表記が正しければ、同じ「三郎」の輩行で貝沢に近い横手盆地あたりの地理事情に詳しいのは魅力だが、これだけでは弱い。仮にこの場合には、磐城郡居住とは符合しない。『諸系譜』所載系図には、武道の弟に武衡をあげて「四郎」という記事があり、『陸奥話記』に見えないことで、別人(三郎の弟)とするこちら系図が穏当か。『東鑑』では、東国武家の姓氏について多くの系譜仮冒で記載する事情があり、武衡の「将軍三郎」のうち「将軍」が父・武則に由来するとして、「三郎」という号が正しいかどうかの確認はできない。
 十三世紀末に成立の書『百錬抄』に「武衡」と記載があったとしても、こんな時代が遅い文書に初めて出てくる「平」姓の表記に依拠できるのか。これは、国史大系本の編者が「清原」に訂正している事情のほうが肯ける。
 なお、武衡の娘が越後の城氏の資国に嫁して資永を生んだとの記事が『東鑑』に見えるが、それぞれの活動年代と世代を考え併せると、世代のズレがあるようで、信頼性が弱い(清原氏と城氏との通婚が仮にあったとしても、このとおりかどうかは疑問が大きい)、とみられる。この記事から、桓武平氏繁盛流の同族間の婚姻を介した結合を考える向きもあるが、岩城氏の実態は繁盛流ではないし、武衡の岩城氏養子も疑問が大きい。
 そもそも、清原武衡の子女が生き延びて後裔を遺したという系図伝承は、総じていずれも疑問が大きそうである。『奥州後三年記』などの記事を見ても、清衡以外の清原一族を徹底的に討ち滅ぼしたように記される。 
 
清原氏と安倍氏との通婚などの説
 武則が安倍氏を滅亡させた際に、出羽に逃亡した安倍正任らを匿ったことで、武則の兄の光頼の系統は武則とは別行動をとったのではないかともみられている。この正任ら隠匿という事実の基礎に、清原氏と安倍氏との通婚があるとの見方を樋口氏が言うが、系図史料にはなんら見えない。
 すなわち、藤原経清妻(安倍氏女)の清原武貞との再婚以前に、清原氏と安倍氏との通婚(清原光頼の姉が安倍頼良〔頼時〕の嫡妻となって宗任・正任らを生み、正任の妻が光頼の娘だとみる)があるとの推説を言い、その両著で提示の系図(原著では冒頭に、近著のなかの「五 前九年合戦」の項に記載)でも具体的に記される。しかし、これは樋口氏の推測にすぎず、具体的な系図としてはこれまで管見に入っておらず、その意味で疑問がある。
 また、鳥海柵が重要だとしても、胆沢城・鎮守府への出先窓口としての重要性とみられ、この柵をあずかり鳥海三郎という通称の宗任が頼時の嫡子だった(貞任は年長でも嫡子ではなかった)、とみる樋口氏の位置づけにも疑問がある。頼時の多くの諸子たちの母親は、系図史料にまるで現れないから、宗任らの母が頼時嫡妻の清原氏であって、一方、貞任・重任の母が金氏であって、この二人は庶子だと見解も具体的な裏付けがなく、合戦の討死や斬罪などの事情から母親まで推定する樋口氏の手法には疑問がある。
 前九年合戦では貞任が主導的な役割を果たしており、盲目の井殿・貞任・宗任の三人が頼時嫡妻の生んだ子だという見方もあるが、この辺も不明としか言いようがない。
 以上のような各種行動から、系図関係を推定することは十分に慎重にすべきことと思われる。女系や通婚の関係記事は、総じて系図に記載されないことが多いが、それでも系図の推定自体は十分慎重になされるべきと思われる。 
 
清原真人令望後裔という説
 出羽山北の清原氏が、清原真人令望の現地に遺した庶子落胤の後裔という説は想像論にすぎない(付言すると、同様に、俘囚で奥六郡の主、安倍氏の父系出自が、元慶の時に鎮守将軍の任にあった安倍朝臣比高の庶子後裔という説も疑問が大きい。また、これら清原・安倍の「女系出自」を安易に想像すべきではない)。新野直吉氏が、清原令望と結びついた吉弥侯姓の俘囚系豪族が清原氏の祖となったという説をだしており、これが概ね妥当かということである 
 太田亮博士が清原真人令望との関係を推したのは、出羽でほかに同姓の関係者が見当たらないことや、この地方に遺された庶子落胤、あるいは養猶子の類を考えたのかもしれないが、令望が秋田に在勤した期間の短さや、山北の清原氏の登場までに一八〇年間ほど、出羽では清原氏関係者の動きがまるで見えないのだから、史実としては無理がある。落胤の近い子孫が大勢力にのし上がる例など日本歴史上は皆無で(高階氏の業平落胤説などは誤り)、こんなことは根拠のない想像論にすぎない。『諸系譜』巻十四に所載の「清原令望後裔系図」も仔細に検討すると、歴代の系のつながりが悪く、活動年代に齟齬があって、かえって令望後裔をおおいに疑わせる結果となった。令望の後裔は、大宰府官人として残ったことが考えられるが、陸奥・出羽に残ったことの裏付けはまったくない。
 
女系出自氏族として玉作姓を考える見方も樋口氏にはあり、これも根拠がない。
 
成衡の最期について、桐村家所蔵「大中臣氏略系図」には、中郡頼経が下野の氏江で討ったとの記事があるが、事件の具体的な年次を記さず、同系図のはじめのほうの部分は総じて信頼性に欠ける。この系図は、大中臣氏を称したうえで藤原摂関家から系を引いているように記されるが、実態は古代常陸の仲国造の後裔であって、系譜仮冒など問題点が見られる初期段階の記事に拠るから、そのまま記事を信頼するのは注意を要する。野中哲照氏も、この成衡の討取記事は「取るに足らぬものだろう」とする。

 
 とりあえずの総括

 ここまで見てきたところでは、樋口氏立論の依拠する史料の一部(『百錬抄』『東鑑』『十訓抄』)が後世すぎて、そのまま記事に依拠することに疑問があり、また、中条家文書『桓武平氏諸流系図』や「大中臣氏略系図」といった系図類でも、個所によっては信頼性に疑義有る記事について、使用に際しての厳しい批判がない、批判が弱すぎるとみられる。そして、比較的信頼できる史料に基づく推定だという場合でも、それがただちに人間関係に結びつくのか、的確に具体的な系図を表示できるのかという疑問もある。
 氏が、「所与の史料的知見をできるだけ矛盾なく整合的に理解しようと努めた」といっても、私には、両書には裏付けのない推論が多すぎると感じるものである。平安中期以降に活動が見える諸武家については、系譜仮冒例がきわめて多いが、学究の皆さんにはこの関係の研究をしっかりなされるよう願うものでもある。
 
 (16.6.04掲上。その後6.12などに追補)
 

  
  関係する補論の「吉弥侯部姓斑目氏の系譜                        

        


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