吉弥侯部姓斑目氏の系譜

                                  宝賀 寿男



 上古代からの奥羽における大族としては、阿倍臣氏系という丈部、大伴連氏系の大伴部・丸子部及び上毛野君氏系の吉弥侯部、があげられ、六国史にはこれらの後裔の奥羽関係で多くの改賜姓が見える。これら諸氏については、蝦夷勢力との関係でかなり多くが俘囚化した事情もあった。そうした身分変化もあってか、戦後の歴史学界では、みなそれぞれの氏の部民(隷属民)の出で、その縁を基に系譜を各氏の本宗につないで擬制系譜が構成されたという見方が多くなされる(なおかつ、本来は蝦夷ではないかとまでいわれる)。
 この「擬制系譜」とか「擬制血族」とかいう取扱いがいわば科学的な学問だという思込みで、ほとんど立証なしで予断的に書かれる論調がある。こうした傾向については、私は危険性を強く感じてきており、ここでは吉弥侯部姓を取り上げて、祭祀・習俗・技術や地名の由来などを総合的に具体的に考えるものである。それは、奥羽の「俘囚長」の出自をも併せ考えるものでもある。

 
 吉弥侯部姓の起源

  阿倍臣氏系の丈部及び大伴連氏系の大伴部・丸子部については、その陸奥分布の起源や関係事情が記紀・六国史などの史料に示唆される。すなわち、前者は崇神朝の四道将軍の一人、武渟川別命が会津まで達したことがあげられ、後者は景行朝の倭建命東征に随行した大伴武日命の近親一族が小田郡の箟岳山周辺など陸奥の各要地に駐留したことがあげられ、俘囚大伴部押人の上奏などから知られる。ところが、上毛野君氏系の吉弥侯部の起源については、それが必ずしも明確ではない。それにもかかわらず、『続日本紀』の対象である奈良時代には陸奥出羽に繁衍していて、俘囚の内民化政策によって東国各地はおろか、遠く四国九州に及ぶまで全国に配されている。これら多数にのぼる吉弥侯部がすべて同族とは必ずしも思われないというのが、一応、自然であろう。
 この吉弥侯部という表記は、本来は「君子部」であったが、天平勝宝九年(七五七。八月に改元で天平宝字元年)三月に勅命が出て、これ以降は吉美侯部に改められ、吉弥侯部にも作るというものである。これ以前に、陸奥出身以外の者では、相模国足上郡人、遠江国蓁原郡人(女性)、下野国人、及び常陸国の久慈郡人、那賀(那珂)郡広嶋郷人(こちらは公子と表記)くらいである。

 ところで、吉弥侯部(ないし吉弥侯)が毛野氏(上毛野君を主にして下毛野君を含む総称として、ここでは用いる)の部民ないし一族として、どうして陸奥に多く分布したのであろうか。『書紀』などの史料に見えるところでは、仁徳紀五五年条(五世紀前半にあたるか)に蝦夷が叛いたとき、上毛野君田道を派遣して討伐させたとあるのが、関わりをもつ初めである。その後には、舒明紀九年条(七世紀前半)に蝦夷が叛いたので、大仁上毛野君形名を将軍で派遣して討伐させたと見える。これらの記事に見える討伐が史実だとしても、田道は討死するし、形名夫妻が率いる軍勢の形勢も良くなかったように記載される。これでは、奥羽全域に吉美侯部を名乗る者が広く繁衍するとは到底、思われない。だから、私としても、巨大な雷神山古墳の存在や吉美侯部の繁衍については、解明にほど遠く、大きな疑問を持ち続けていたのである。
 鈴木真年翁は、『日本事物原始』のなかで、景行天皇朝に毛野氏の祖・御諸別王を東国の都督として蝦夷を鎮し、成務帝朝に至って皇化益々拡張すと記すが、この辺の具体的な事情は示されない。その後、成務朝に御諸別王の孫・巫別君を浮田国造(陸奥国宇多郡。吉弥侯部の祖)に定めて蝦夷を鎮せしむと見えるから、これが蝦夷鎮撫の始めだとして、この国造一族の後に吉弥侯部が出たと記している。
 巫別は、鹿我別とも書き、上毛野君の祖・荒田別とともに神功皇后朝に韓地での活動が『書紀』に見える。真年は、「荒田別の子、陸奥浮田国造祖なり。一に巫別」と『史略名称訓義』に記し、中田憲信の『皇胤志』でも同様に荒田別の子に鹿我別王をあげるが、「国造本紀」にも言うように浮田国造の設置が成務朝であれば、荒田別の子とするのは疑問である。荒田別と同世代の兄弟ないしは従兄弟くらいの位置づけが妥当であろう。私見では、景行朝に九州巡狩に随行した夏花命(毛野氏の祖・御諸別の弟にあたるか)の子として、成務朝の巫別がおかれるのが世代的に妥当ではないかと推している。夏花命は上野西部の物部君の祖とされるが、陸中の吉弥侯一族(俘囚勲五等吉弥侯宇加奴など)が物部斯波連を賜姓したこと(承和二年二月紀)の基盤には、この物部君後裔という出自も関係したものか。
 蝦夷征伐で見える上記の田道も、荒田別の子とする記事が『書紀』仁徳五三年条や『姓氏録』『皇胤志』に見えるが、実際には、これが巫別の子なのかもしれない。巫別同様、田道にも韓地での活動が見える。新羅が朝貢を怠ったため、竹葉瀬(荒田別の子)を詰問使としてまず遣わし、続いて弟の田道が兵を率いて遣わされ新羅兵を撃破した、とある。その時、四つの邑の住民を捕虜とし連れ帰ったとも記される。田道の子孫が韓地にも残って、欽明朝に熊次兄弟が百済から来朝し、止美連の祖となったという(『姓氏録』)。

 巫別の子孫に賢泡なる者が出て、金箸朝(安閑天皇の勾金箸朝のこと)に「御子代になりて君子代部に定められ」、これが吉美侯部の祖であるとされる。鈴木真年は、『史略名称訓義』の吉彦秀武の解説に「吉弥侯部氏也。崇神帝の皇子豊城入彦命七世鹿我別の五世腎泡君」とあげ、安閑天皇朝に皇子代部(きみこべ)を定めて、その後なり、斑目等の祖なり、と記している。『皇胤志』にも類似の内容が見えるが、鹿我別の子孫をあげずに、その弟の下毛野君の系統のほうに梶山なる者を記し、一名を「賢泡」と表記する。梶山と賢泡とは本来別人だが、「賢泡」の表記は、このほうが妥当か。この辺は、記事・系譜が錯綜している『皇胤志』の解釈によるものである。鈴木真年が何に基づいて賢泡が「鹿我別の五世」と記したのかは、現存史料からは不明である。
 ともあれ、ここでは、君子部が御子代に由来するとされるのだが、太田亮博士は、「君」とは、「東国に於ては、豊城入彦命、御諸別王の後裔なる上毛野君、下毛野君を指せし也」とみている(『姓氏家系大辞典』一九四五頁)。しかし、これらの解釈は正しいのだろうか。
 私には、毛野氏の実系が崇神天皇後裔ではなくて、倭建命東征に随行した吉備氏の分流だったとみたとき(この詳細は、今秋にでも発行予定の拙著『吉備氏』参照)、同じく東征に随行した大伴氏一族の流れ・部民が丸子部(「丸」は倭建命その人か。鞠子部とも表記)と号した事情に対比され、君子部とは景行天皇を君と仰ぐ吉備一族の分流・部民に出たことに由来するように思われる。
 このように考えれば、巫別なる者は、倭建命東征に関して史料に見えるわけでもないが、吉備本宗の吉備武彦と同様に、吉備一族として同東征に随行して陸奥まで行き、その途上、陸奥国宇多(宇太)郡あたりに定着して浮田国造の祖になったとみられる。というのは、中臣氏一族からも祖の巨狭山命は倭建命の東征に随行して甲斐(東国での中間的な終点)に至ったと伝え、行方郡の式内社として鹿島御子神社・多珂神社(後者は後述)があげられる事情があるからである。
 鹿島御子神社は行方郡のほか、牡鹿郡にも式内社鹿島御児神社(宮城県石巻市日和が丘)があって、北上川河口部に鎮座する。この神は香取御児神とともに東夷征伐・辺地開発で奥州に下向して、石巻開発の祖として伝える。陸奥には鹿島関係神の分布が多い。その後、巫別は神功皇后朝頃には韓地まで遠征したのだとしたら、その行動半径の広さは驚嘆される。次ぎに、その子の代に田道命が出て、祖業を受け継ぎ、やはり韓地や陸奥に遠征して最後は伊峙(いし)の水門あたり(宮城県牡鹿郡石巻あたりとみるのが『大日本地名辞書』で、これが多数説)で討死したものの、君子部が陸奥に繁衍する基礎を築いたと言えよう。

 
 浮田国造と馬の飼養

  浮田国造の領域は陸奥国の宇多・行方両郡(後に合わさって明治以降は相馬郡)が中心とみられる。いまの相馬市・南相馬市とその北隣の相馬郡新地町あたりで、北のほうから宇多川、真野川、新田川、太田川が流れる地域であった。吉田東伍博士の『大日本地名辞書』には、「相馬領内所々に日光二荒権現を奉祀す。蓋し浮田国造の祖を祭れる余風にして、宇太、行方の地に毛野公の占拠せるを観るの一証とす」と記事があり、『姓氏家系大辞典』もこれを引用する。日光二荒権現は下毛野君の永く奉斎するところであったから、浮田国造の毛野同族性は疑いない。
 浮田につながる宇多郡のウタは、上野国西南部の甘楽郡有只郷と同訓だと『古代地名語源辞典』は指摘する。これは、浮田国造の出自からいって納得ができよう。いま富岡市一ノ宮の貫前神社の北方近隣、丹生川と高田川に挟まれた所に宇田という地名があり、ここに比定されている。甘楽郡には物部公の居住があり(『続日本紀』天平神護元年及び同二年条)、貫前神社の祠官にも物部公が長く見えるが、これと浮田国造とが同族とみられる。なお、行方郡真野郷に起源したとみられる氏が陸奥にもあって、同国遠田郡に居住の田夷に真野公、賜姓して真野連がおり、これらは磐城からの移遷とみられ、浮田国造一族の出であったか。遠田郡は小田郡の近隣で、後には併せて遠田郡となるが、この地にも吉弥侯部の同族とみられる遠田公が居た。
 国造一族の本拠地域・宇多郡には上記の賢泡の族裔が吉弥侯部姓で残ったが、後に上毛野陸奥公の賜姓を受けている。六国史には、神護景雲元年に外正六位上吉弥侯部石麻呂に対し、同三年に外正六位下吉弥侯部文知にこの賜姓がなされた。これらは、郡領級の官位をもち、浮田国造の当地における嫡裔とみられる。その後の延暦年間にも同じ賜姓が見えるが、これら上毛野陸奥公の後裔の行く末は知られない。関係古墳群の変遷から言うと、真野川流域に一族が残って、中世まで続いた模様でもある(後述)。
 この領域の宇多郡の総鎮守は、延喜式内で名神大社にあげる子眉嶺神社であり、新地町駒ヶ嶺に鎮座する。別名を奥之相善宮と呼ばれ、馬の守護神で奥羽各地の相善宮(蒼前社、駒形神社)の総本山でもあって、このあたりも何時の頃からか不明だが、馬産地であった。新地町の相善祀りは、午馬の安全を祈願し本社の御祭神を祝う意味があるといわれる。各地の相善宮の祭、とくに岩手県盛岡市周辺で初夏に馬の無病息災を祈る行事として行われる「チャグチャク馬っこ」は名高い。
 また、相馬市及び南相馬市のほうでは、鎌倉期に入ってきた千葉一族相馬氏の影響で「相馬野馬追い」が盛んで、これが長く続いて有名だが、その関連三神社のうち相馬中村神社は、もと宇多郡仲村郷のなかにあったから、相馬氏入部の前からあった行事の名残があるのかもしれない。野馬追いは、原町地区が主会場となって、現在まで夏に執り行われてきた。

 
 陸奥国新田郡の吉弥侯部一族

 『諸系譜』が伝える新田郡(宮城県大崎市あたり)の俘で吉弥侯部の祖・小金は、『日本後紀』弘仁四年四月に見えて勇敢さを賞されて外従五位下に叙せられている。同郡人の外大初位上吉弥侯部豊庭は、神護景雲三年(七六九)三月に上毛野中村公を賜姓したから、同郡仲村郷に居た同族であろう。仲村の地名は宇多郡仲村郷の地名が陸奥に移されたとみられる。新田郡式内社の子松神社(大崎市古川新田)は、豊庭が創祀したと伝えるが、鹿島神を祀ると共に大国主命・言代主命などを合祀するから、豊庭の出自が海神族につながることを示唆する。鹿島神奉斎は、先にも触れたが、浮田国造は中臣氏一族とも通婚したものか。
 また、新田郡の西隣が栗原郡で、神護景雲元年(七六七)に同郡の伊治城が完成したときに狄徒馴服の功で外正五位下に叙せられた俘囚吉弥侯部真麻呂がおり、真麻呂親子は延暦十一年に俘囚大伴部阿弖良により被殺された。この辺はみな一族とみられるが、新田郡は先祖の田道命が討死の伊峙水門とも遠くはなかった。同郡は小郡で、延暦年間に東隣の讃馬郡を併せたというから、やはり馬に関係があったものか。
 栗原郡では駒形根神社(宮城県栗原市栗駒沼倉)が式内社とされ、胆沢郡の式内社には駒形神社があげられる。後者の本社が岩手県奥州市水沢区中上野町にあり、奥宮が同県胆沢郡金ヶ崎町西根駒ケ岳に、里宮も同町西根雛子沢に鎮座し、駒形大神を祭祀する。馬の守護神とされ、当地が古代の軍馬の一大産地といわれる。一説に倭建命東征のおりに創祀ともいう。同社は上毛野胆沢公の祀る神社とされるから、これも新田郡吉弥侯部の同族とみられる。上毛野胆沢公は北隣の江刺郡にも勢力をもち、承和八年(八四一)三月には江刺郡擬大領外従八位下勳八等の上毛野胆沢公毛人が陸奥の諸豪族の黒川郡大領外従六位下勳八等の靭伴連黒成らと並んで、外従五位下を借授されている(『続日本後紀』)。
 ここまでに見た記事には、吉弥侯部一族が大伴部一族と様々な所縁の深さを窺わせるものがあった。この両族が馬と神社奉斎に共通することについて、まだほかにも例があり、栗原郡の駒形根神社のほうは、祠官鈴杵氏が大伴武日命の子の阿良比を祖と伝えて大伴姓を称した。同社は奥羽鎮護の一ノ宮とされ、駒形嶽(栗駒山の古名)を奥宮に、沼倉に里宮を置いて倭建命東征のおりに創祀したと伝え、現在まで宮司を世襲している。倭建命東征のときに信濃に残置された大伴一族は、小県郡で式内社の子檀嶺神社(駒弓神。小県郡青木村)を奉斎し、信濃各地の馬牧経営に関与して各馬牧に駒形神社を設置した事情もある。
 関東の毛野一族は赤城山を崇敬したが、赤城火山の外輪山にも駒形山があり、下毛野氏が祀る二荒山神社の古縁起には「馬王」という言葉が散見する。
 相模の箱根山には、箱根神社が駒形神社をも奉祀すると縁起に言われる。その麓の足柄上郡には現在でも唯一、斑目の地名があって、南足柄市の大字で残る。足柄上郡に丈部造智積・君子尺麻呂が居て孝行を賞され税を免除されたと、『続紀』霊亀元年(七一五)三月条に見えるから、この一族の居住に当該地名は関係しよう。君子尺麻呂の系譜は知られないが、浮田国造の族裔であったか。その後、天平宝字八年(七五六)二月の「相模国朝集使解」にも、雑掌足上郡主帳代丈部人上とともに鎌倉郡司代外従八位上勲十等君子伊勢万呂が見えるから、相模では丈部・君子両氏はなかなか有力であった。
 こうして見ていくと、出羽の斑目四郎の苗字は、この一族がもたらした地名に因ったことがわかる。現在では、大字としては斑目が消えたが、秋田市の東南部にある大字太平目長崎の小字に斑目沢の地名がある(この地を中心とする斑目四郎の活動領域等について、『橘姓斑目家の歴史』には詳しく紹介される)。この地は、斑目四郎の兄・吉彦秀武(荒川太郎)が居住した出羽国山本郡荒川(秋田県大仙市協和荒川)の西北方に位置して、あまり遠くはない。現・斑目沢の地あたりに居住した吉弥侯武忠は、この地に先祖ゆかりの斑目の名をもたらして命名したものであろう。この吉弥侯一族が出羽国仙北郡の俘囚長で清原氏の族長清原光頼に従属した事情も自然である。当時の清原氏一族の勢力は、山本・平鹿郡ばかりでなく男鹿郡や雄勝郡にまで伸びていた。

 なお、仙北の清原氏が九世紀後葉に元慶の乱(八七八〜九)で中央から下向して出羽権掾で秋田城司に任じた清原真人令望の後裔という見方があり、これと符合する系図が『諸系譜』第十四冊に掲載される。この系図では、令望の孫の光蔭がまた「出羽少掾、秋田城司」に任じて、その子が出羽山北俘囚長の武頼で、その子が光頼・武則兄弟となっている。光蔭の兄・樹蔭は『政事要略』には承平四年(九三四)「越後前司清原樹蔭」と見えるから、年代的に見て、武頼は実際には光蔭の曾孫的な位置づけとなろう。そうすると、この欠落した二世代ほどが何を意味するかの問題となる。その間に俘囚になったのだとしたら、結論的に言えば、俘囚の某一族が系譜仮冒で皇別の清原真人氏の系のなかに入り込んだことも十分考えられる。その場合、当該一族も吉彦秀武と同族の吉弥侯部の流れで、早くに出羽仙北に分岐したものではなかったろうか(現地土着人・吉弥侯部の系譜仮冒説も現にある)。『陸奥話記』に真人姓で記載され、鎮守府将軍に任じても、俘囚身分の出であったから、そのまま系譜を信頼できるとは言えないのである(斑目四郎を養子としたり、磐城郡の「海道平氏」〔石城国造末裔〕から成衡を養嗣に迎えたりという行動も、実際の出自を示唆するものか)。

 
 吉彦秀武一族とその後裔

 前九年の役以降の吉彦秀武一族の動向は、史料には見えない。しかし、現在まで伝わる各種系図には、この一族の痕跡を伝えるものがあるので、最後に簡単に紹介しておく。
 吉彦秀武は、鎮守府将軍清原武則の女婿で、その子に荒川太郎武久がいた。武久の孫は山口八郎秀行といい(山口の苗字の地は不明)、その子たちが足利義康(義家の孫)の家人となっている。俘囚長・鎮守府将軍の清原氏が滅び、清衡の平泉藤原氏に奥六郡の主が替わったとき、源義家のほうに属したことになる。この辺は、出羽国飽海郡の遊佐氏と似た行動なのかもしれない。
 秀行の長男・次男(太郎国武・二郎武時)は保元の乱で討死したため、三男の三郎宗武が子孫を残すことになる。その六世孫の行実は、足利の有力支族たる畠山阿波入道道誓(国清のこと)に仕え、以降は畠山氏の家臣となって越中に続いた。この一派からは、江戸期に但馬出石藩主仙石氏に仕えた西沢氏も分出した。この辺は、鈴木真年編の『百家系図稿』巻七所載の山口系図などに見える。
 この山口系図にも西沢氏につながる系図でも、斑目四郎武忠の子孫はまるで見えない。四郎が子孫を残したとしても、代数をあまり重ねなかったのかもしれない。現在のところ、武忠の子孫については管見に入っていない。

 吉弥侯部一族は、もう一系、後世に続く系統があった。それは、吉彦秀武の四世祖の並松の弟におかれる外正六位下盾男の流れであり、盾男の子の広野は陸奥権掾になって、その娘は平維衡の妻となって正度・正済の母となったという。その兄弟に陸奥権介益躬(益根)がいて、この系統も続いた。平維衡は伊勢平氏の祖であり、『尊卑分脈』には正度について、「母は陸奥国住人長介の娘」と記載するから、ほぼ符合する所伝があるといえよう。
 さらに、広野の弟・村野の子に延弘(鎮守府{仗)がおり、年代と命名から延高も兄弟とされよう。延高は公侯延高と表記されて、『小右記』の長元元年(一〇二八)八月条などに平維衡の郎等、高押領使として見える(「高」の由縁は不明だが、行方郡高に関係ありか)。この辺の系図は、世代的にも符合するから信頼してよかろう。この同時代人で平維衡の郎等、常陸国相撲人などとして、公侯恒木(常材)、公侯恒則、公侯常時(常節)、公侯有恒(有常)が見えるが、これらは名前から同じ一族とみられるものの、陸奥の吉弥侯部の系譜につながらないようであり、常陸の吉弥侯部一族であったか。延弘の系統も続いて、孫の諸方は源頼義の奥州合戦の時に討死したが、その子孫も見える。
 『諸系譜』第十四冊に所収の「吉弥侯部系図」には平維衡妻・陸奥権介益根まで見えるが、その後は記載がなく、また村野の系統は見えない。では、上記の内容はどこにあるのかというと、『諸系譜』第六冊に所収の賀茂朝臣(三輪氏族の大神朝臣支族)の系図のなかに混載されており、その整理的な把握に基づくものである。
 諸方の子孫は長く続いて、その四世孫の定通・定永兄弟は鎮守府将軍藤原秀衡に仕え、その死後の鎌倉幕府による奥州侵攻で定永は討死したという。『東鑑』には、文治五年(一一八九)十月条に囚人の佐藤庄司・名取郡司等が厚免を蒙りて本処に帰るとの記事が見えるが、定通かその近親が名取郡司に当たる可能性もあるのかもしれない。というのは、定永の六世孫の清方は、名取四郎と称し、宗良親王に仕えて甲斐の巨摩郡に遷居したと系図に見える。これに符合する記事が『姓氏家系大辞典』ナトリ条の第六項にあって、三輪系族として、「大神氏の族賀茂朝臣吉備麻呂の後胤清方を祖とすと伝ふ」との記事がある。たしかに、この名取氏の系図では、先祖に賀茂朝臣吉備麻呂が見えるが、この祖系は明らかに系譜仮冒であった。吉弥侯部氏は先祖の系図を失ってしまい、賀茂朝臣の系譜を余所からもってきて、これに祖系をつなぐ系図を作成した事情が知られる。甲斐では名取一族が武田家臣として繁衍した模様で、上記大辞典には第七〜九項にも一族らしきものが見えるが、全体が整理された関係系図は不明である。
 以上の諸事情から、陸奥国名取郡に起る名取公・上毛野名取朝臣も吉弥侯部から出たことが推される。そうすると、当初の本拠、宇多・行方両郡から始まって、太平洋岸を名取郡、遠田郡、新田郡、胆沢郡へと、吉弥侯部一族が北方へ移遷・分岐していったことも分かる。陸奥各地の毛野氏の部民や蝦夷が勝手に系譜仮冒をして名乗ったとするのは、論拠に欠くと言えよう。

 
 浮田国造関係の墳墓

 浮田国造関係の墳墓を探索してみると、興味深い事情が関連して次々に浮上してきた。
 まず、国造領域南部の旧行方郡のほうにそれらしきものが見つかった。それが、福島県南相馬市原町区(旧原町市)上渋佐に主に所在する「桜井古墳群」である。これまで合計で大小三七基の古墳が確認されており(半数ほどが既に消滅の模様)、西の阿武隈高地から東の太平洋に流れ入る新田川の南岸、標高十Mの低台地(河岸段丘縁辺部)に立地する。新田川の名は陸奥や上野の新田郡にもつながりそうである。その南を流れる太田川も、上野の上毛野君の本拠地太田と関連するかもしれない。
 桜井古墳群のうち、一号墳はたんに桜井古墳とも呼ばれ、古墳時代前期に築造の前方後方墳で、国の史跡にも指定される。桜井古墳群は上渋佐・高見町の両支群からなるが、両支群のほぼ中央に位置するから、その意味でも盟主墳といえよう。墳丘長は約七五M(ないし七二M)、高さは約七M弱の規模の前方後方墳とされる。この型式の古墳では、発掘当初は東北地方最大とされ、最近では第二ないし第四の規模をもつとされる(現在は福島県中通りの郡山市田村町の大安場古墳〔墳丘長約八三M〕が同型式で最大とされ、これに続く規模のグループが出羽国置賜郡の天神森・宝領塚両古墳であり、この両古墳の七〇M台前半という規模とほぼ同じ)。前方部が撥形をなし、周濠が囲りをめぐる。葺石や埴輪は伴っていない。
 後方部の頂上に埋葬施設として二基の割竹形木棺が並んで安置された痕跡があるが、遺跡保護の観点から当該部の発掘調査は実施されておらず、副葬品などの詳細は不明である。底部穿孔壺・二重口縁壺の出土遺物や上記の古墳形状などからいって、古墳時代前期の築造とみられている。近くの上渋佐支群七号墳は、一辺約二八Mの方墳で、箱形の組合わせ式木棺をもち、棺からは銅鏡(珠文鏡)が布に包まれた状態で出土した。東北地方の古墳では銅鏡の出土例は他に類例が少ない。桜井古墳群のなかでは、桜井古墳とともに最古の部類に属しており、未調査の桜井古墳主体部の様子を示唆するとも言われる。
 前方後方墳という型式は、出雲など一部地域をのぞくと、四世紀中葉頃の垂仁〜成務朝に多く築造され、東国では若干遅いほうに属するが、倭建命東征や景行天皇東国巡狩に随行した者に多く見られる傾向がある。例えば、尾張国造祖の建稲種が被葬者とみられる犬山市の東之宮古墳(墳丘長七八M)、物部連一族で駿河・遠江等国造遠祖の大売布の高尾山古墳(同、六二M)などとほぼ同じ規模という事情も併せ考えると、成務朝の浮田国造初祖の巫別の墳墓とするのが妥当かとみられる。福島県浜通り地方最大の古墳はいわき市四倉町の玉山古墳(すこし遅れる中期初頭頃の前方後円墳で、墳丘長約一一八M。陸奥でも第三位ほどの規模)で、こちらは石城国造関係者の墳墓とみられるが、それに次ぐ規模だが、桜井古墳は前期古墳では最大である。
 桜井古墳北東の金沢地区には七〜九世紀の製鉄遺跡として著名な長瀞遺跡があり、北方の真野川水系の鹿島区寺内地区に国史跡指定の真野古墳群(古墳時代中期・後期)、同じく横手地区には横手古墳群があって、浮田国造関係の墳墓は時代が下るにつれて、やや北方に地域移動している。南北朝期に真野川流域の西方近隣にあたる霊山城(福島県伊達市霊山町)に伊達氏らと共に立て籠もって南朝方に尽力した陸奥の諸武家のなかに、真野・桑折()の諸氏があり、これらは浮田国造の族裔であったか。尾張国海部郡津島の牛頭天王(現・津島神社)の祠官には多くの南朝遺臣の後がのこり、そのなかに真野氏もあった。後醍醐天皇の後裔という南朝方の良王が津島に逃れてきたとき、これを守る津島の四家七苗字の武士のなかに真野氏もあった。藤原姓を称したといい、江戸前期に真野時綱という神学者も出した。

 
 東北地方最大の雷神山古墳の被葬者

 これで話は終わらない。桜井古墳の被葬者を探ることで、とんでもない大物を釣り上げた模様なのである。

 東北地方では、最大の古墳が宮城県名取市植松にある墳丘長一六八Mの前方後円墳、雷神山古墳とされる。後円部墳頂には雷神を祀る祠があり、古墳名の「雷神山」はこれに由来する。東北地方の第二位以下が墳丘長一二〇M以下とされるのに比して、突出する大きさの規模になる。当該古墳の築造時期とされる古墳前期ないし中期初頭では、東日本で見ても最大級の規模になる。墳丘は前方部が二段築成、後円部が三段築成で、前方部が丘陵上に築造されるため前方部が発達した古墳である。すなわち、発掘調査により出土した壺形埴輪や底部穿孔壺型土器などの分析結果や、古墳の築造方法などから、およそ四世紀末から五世紀前半頃の築造と多く推定されている。
 仙台・名取平野では雷神山古墳に次ぐ大規模古墳として、北方近隣でほぼ同時期くらいに築造とみられる遠見塚古墳(仙台市。墳丘長一一〇Mで周濠をもつ)も知られる。遠見塚古墳からは葺石・埴輪は見つかっておらず、 副葬品は小玉や管玉、竪櫛二〇点が出土している。両古墳は仙台地方では突出する規模であり、両墳の被葬者は仙台平野から大崎平野にも及ぶ広域の首長墓とみられる。戦後の研究者の好きな表現で言えば、「陸奥の王者」とも言えよう。この両墳の被葬者は何者なのかという課題が、私には古くからあった。文献研究を疎かにする戦後の考古学者からは、誰として具体的な被葬者の指摘はなかったように思われる。
 「国造本紀」などの文献に当たって整理してみると、本州最北端におかれた氏姓国造は志太(思太)国造であり、柴田郡(後に刈田郡を分出)を中心とする領域をもち、唯一陸前国に位置した。なお、これまでの研究者は皆、同書に「思国造」と見える記事の的確な把握ができない故に(この辺の事情は、新野直吉氏の著『研究史 国造』参照)、これが分からないでいたが、明治の鈴木真年だけが『日本事物原始』で、明確に志太国造と記載していた。すなわち、「思」は「志」の誤記ないし同訓で、その下に一字脱漏があったのである。
 これが大和王権の安定的な版図として北限となるが、柴田郡より北方の地域(名取・宮城〜玉造などの諸郡)がどこの領域に位置づけられ、蝦夷との国境線がどうだったかが大きな問題となる。私は当初、この名取郡あたりまでは志太国造の領域として、その関係者の墳墓かとみていたが、阿岐国造同族(玉作部系)と「国造本紀」にいう志太国造だと、なぜこれだけの大勢力をもつのかという一族の起源・由緒が分からず、また後裔諸氏などの行方も六国史に見えずで、後日の推移がまるで知られないため、どうも違う見方のほうがよさそうだとも感じていた。志太国造と同族と称する陸奥の諸国造は六つほどあり、それらが丈部や阿倍氏族とも関係があったとしても、巨大古墳築造に結びつくとは思われない。
 そして、桜井古墳が浮田国造初祖の巫別の墳墓だとみると、その場合、次代にあたる田道の墳墓はどこにあるのかという問題に出くわした。種々検討の結果、雷神山の被葬者は応神・仁徳朝に活動し、蝦夷討伐に尽力して討死した上毛野君田道とみるのが妥当という考えになった。『書紀』には、田道の墓を蝦夷が侵攻してきて暴こうとしたら、大蛇が目を怒らして出てきて、その毒気で多くの蝦夷が死んだという所伝があり(仁徳紀五五年条)、雷神山後円部には大蛇に通じる雷神を祀る祠があることが符合すると考えられる。当該墓は、蝦夷が攻めてくるような辺境の地にあることを示唆するし、それは墓を暴こうとするほど目立つ大きなものであったのだろう。
 これら諸事情を考えると、宮城県中央部の名取郡あたりまでは、蝦夷が強盛のときは支配を及ぼしたことも十分考えられるということでもある。陸奥の最前線に遺された大伴氏・毛野氏などの後裔が蝦夷支配下で「俘囚」となるような時期もあったと推される。「大蛇」は、三輪山にも縁が深い毛野氏の出自を示唆するトーテムであった。こうした古代氏族におけるトーテム習俗を無視してはならない。

 なお、蝦夷研究者のなかでも、管見に入ったかぎりでは中路正恒氏もと京都造形芸術大学教授、宗教哲学専攻。著作当時は助教授)の『古代東北と王権』(二〇〇一年刊、講談社現代新書)だけが田道の役割を評価して取り上げるので、同書に基づき要点を若干紹介しておく。
@上毛野君形名の妻の念頭に威武ある者として名を後世に伝えた者、すなわち蝦夷と戦い「上毛野氏の威武の名を高めたのは誰よりもまずこの田道なのである」。
A田道の戦死した「伊峙の水門」を北上川河口部の石巻の牧山あたりと中路氏はみるが、旧北上川河口部近くの丘陵、日和山公園に鎮座するのが鹿島御児神社である。
B田道は、上毛野君田道命として津軽の猿賀神社(青森県平川市猿賀)に祀られており、それはもと鹿角の猿賀野に祀られていたという(田道命の神霊が白馬にまたがり津軽のほうに遷座したともいう)。鹿角の猿賀神社には猿賀権現と呼ばれる神像がある。

 
 同時期の太田天神山古墳と造山古墳

 ちなみに、毛野本宗のあった上野国には、ほぼ同時期に太田天神山古墳という墳丘長約二一〇Mという東国最大の古墳があるが、その被葬者は田道の兄とも伝える竹葉瀬ではなかろうか。氏家和典氏は、雷神山と太田天神山とをほぼ同時期の「5世紀初頭〜前期」とみている(『全国古墳編年集成』)。毛野一族は関東の両毛地方に巨大古墳を次々に築造したが、陸奥の名取郡にあってもその伝統を受け継いだといえよう。併せて言うと、同じ頃にこれらの本総家の吉備氏では、族長御友別は妹・兄媛を応神天皇の妃にいれ、全国で第四番目の巨大古墳・造山古墳全長約三五〇M。岡山市新庄下)を築造していた。田道・竹葉瀬及び御友別は、みな同世代の一族であり、活動時期は五世紀初頭〜前半頃と推される。
 この吉備・毛野一族の巨大古墳築造にかける意気込みを感じざるをえないし、その築造技術もあったのだろう。その基盤には、この一族が韓地出兵で獲得した鉄材料と最新鍛冶技術により生み出される鉄工具もあった(併せて、関連技術者もあったか)。

 以上のように考えていくと、古墳時代に百六十M超の巨大古墳(全国で上位六〇傑ほど)を築造するような大勢力は、天孫族系(天照大神こと天活玉命の後裔)の大王家一族(后妃を含む。崇神王統と応神〔息長〕王統)及びその支族の葛城氏族・阿倍氏族・紀氏族・物部氏族・日向国造族のほかは、海神族系(大己貴命の後裔)の和珥氏族と吉備・毛野氏族・丹波氏族(以上の海神族系諸氏は、記紀では、みな「皇別」として系譜が仮冒再編された形で、皇統に組み入れられた記載がある。毛野以外は后妃も輩出)に集約されることにもなる。
 さて、話を本線に戻して、浮田国造のほうは、第二代以降は、もとの地の宇多・行方郡には大きな古墳が見当たらない。この辺も考えると、支族を本源の地に残して、この系統の本宗のほうが名取郡に北遷したのではなかろうか。

 
 陸奥の吉弥侯部の分布と後裔

 上記の古墳事情ばかりではなく、『続日本紀』によると、吉弥侯部系統の改賜姓では、宇多郡のほうでは、神護景雲元年(七六七)になって吉弥侯部が上毛野陸奥公の賜姓をうけたのに対し、それより早くに天平神護二年(七六六)十二月に正六位上名取公龍麻呂が名取朝臣を賜姓した。これより早くに名取公の賜姓があったとみられ、しかもこの吉弥侯部系統で朝臣賜姓を受けたのが名取関係者が唯一とされるからである。名取郡や玉造郡は王権の軍団もおかれた要地だった。陸奥の国府も、多賀城が創建される前には、仙台市南部の太白区(旧名取郡域)の郡山遺跡や、宮城県北部の大崎市古川(旧新田郡域)の名生館遺跡が考えられている。
 上記に続く、神護景雲三年(七六九)三月の陸奥関係者に対する賜姓にも注目される。異例の立身をして陸奥大国造にもなった大伴氏族丸子部系の道嶋宿祢嶋足の申請によるものであるが、阿倍系・大伴系とともに、吉弥侯部系統では次の賜姓があげられる。
     宇多郡人外正六位下吉弥侯部文知に上毛野陸奥公。名取郡人外正七位下吉弥侯部老人及び賀美郡人外正七位下吉弥侯部大成等九人に対して上毛野名取朝臣。信夫郡人外從八位下吉弥侯部足山守等七人に上毛野鍬山公(同郡鍬山郷)。新田郡人外大初位上吉弥侯部豊庭に上毛野中村公(同郡仲村郷)。信夫郡人外少初位上吉弥侯部広国に下毛野静戸公(同郡静戸郷)。玉造郡人外正七位上吉弥侯部念丸等七人に下毛野俯見公(同郡俯見郷)。

こうして見ると、先にあげた吉弥侯部の分布地域に加えて、陸奥では賀美郡・信夫郡・玉造郡、及び静戸の地名があった伊具郡・安達郡にも居住が推される(出羽にも吉弥侯部あるが、これを除く。福島県中通り磐瀬郡の吉弥侯部は同族かどうかは不明)。宇多・行方両郡及び名取郡から発して、十数代のうちに広く奥羽各地に支族を分岐していったが、その基盤には奥羽最大の雷神山古墳などを築造する財力・勢威があったものとみられる。
 なかでも、名取郡は中心で、名取川流域が主要域として、現在の名取市、仙台市南部の太白区及び塩竈市の一部が含まれた。名取市の雷神山の北近隣には、観音塚古墳(墳丘長六三M)など五基の前方後方墳が主体の飯野坂古墳群や、西北近隣にも柄鏡式の前方後方墳・高舘山古墳(同、六〇M)という最古級の前期古墳もあって、古墳時代前期の要地であったから、浮田国造一族や倭建命東征関係者が居た可能性がある。雷神山の後にも、中期の名取大塚山古墳(同、九〇Mの前方後円墳)がある。
 先に、宇多郡の相善宮が奥羽各地の相善宮(蒼前社、駒形神社)の総本山であったことをあげたが、行方郡の唯一の名神大社は多珂神社(南相馬市原町区高)で、これも奥羽各地の多珂神社の根源という。名取郡には、式内社の多加神社(論社が仙台市太白区富沢と名取市高柳に鎮座)として所在する。行方郡の多珂神社のほうも、同郡に鎮座する延喜式内社八座の首座であり、同名の多賀神社では全国で唯一の名神大社という日本屈指の古社であった。景行天皇朝に倭建命東征で陸奥各地に転戦したとき、行方郡の太田川のほとりで戦勝祈願のため玉形山に神殿を創建したとの創祀伝承がある(この所伝を踏まえると、浮田国造の先祖が東征に随行したことになろう)。
 このように、神社祭祀から見ても、浮田国造の領域の神社が陸奥各地の根源となっている。実際に同じ血族であったからこそ、同じ祭祀が奥羽各地でなされたのであろう。上記の名取朝臣・上毛野名取朝臣の後裔は、『大同類聚方』の名取郡人名取朝臣清島を除くと、賜姓以降は史料に見えないが、おそらく郡領家として平安末期まで継続し、源頼朝の奥州藤原氏征伐により勢力がおおいに衰え、消滅に近い状態になったのではなかろうか。
 各種史料などから見て、この奥州征伐後は、名取郡は関東御家人の結城氏と曽我氏に対し所領として与えられたが、伊達一族もそうだったとみられる。戦国時代の仙台市南部、北目領と呼ばれる地域を茂嶺城にいて支配したのが「名取郡北方三十三郷旗頭」と呼ばれた粟野氏であった(『観蹟聞老志』など)。この粟野氏は上記の名取朝臣等の吉弥侯部末流ではなく、岩代の伊達郡粟野に起る伊達一族から出たのではなかろうか。

 以上に見てきたように、奥羽の毛野氏・吉弥侯部一族の系譜は様々に複雑だが、総合的な解明を要する興味深い氏族といえよう。また、古族が姿を変え姓氏を変えて、広い地域で中世・近世につながっていく事情もうかがわれるのである。
 ここまでは触れなかったが、出羽山北の俘囚主清原氏も、そのなかに考えられる可能性がある。いずれ、なんらかの形で発表したいが、この清原氏が出羽権掾・秋田城司の清原真人令望の後裔とする『諸系譜』所載の系図は疑問が大きいという事情からもくることである。
  
 (16.5.07掲上、5.11、6.04増補)
 

  
                         

        


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