山崎博史氏の著『橘姓斑目家の歴史 古代・中世編』を読む宝賀 寿男今年(二〇一六年)注目を集めたサラブレッドに3才牝馬のブチコがいる。白毛の馬体に黒い斑点模様をもつ可愛らしい姿でファンも多いが、この斑毛(ぶちげ)の馬に由来すると思われる苗字が本書の「斑目」である。「まだらめ」を本来の正訓とするが、現在では「いかるがめ、はんめ、はんもく、まだうめ、まだめ」とも訓まれているようである。全国に二百世帯超の斑目さんがおられて、ネットで検索すると、東大教授で内閣府原子力安全委員会委員長などを歴任した班目春樹氏や異色の企業家といわれる斑目力曠氏などがおられ、なぜか架空のキャラクターとしてよく使われる苗字のようでもあって、斑目貘(「嘘喰い」の主人公)や班目るり(「金田一少年の事件簿」の登場人物)の名があるようである。 歴史的には、前九年の役のときの清原氏側の武将として『陸奥話記』に見える斑目四郎吉美侯武忠がおそらく史料初見であって、その後は鎌倉期以降の薩摩国の地頭にも斑目氏が見え、戦国末期に陸奥磐城(福島県)の白河結城氏の家臣に斑目氏(信濃守広基の一族)がいて子孫が仙台藩士ないし涌谷白河氏の客分として存続した。
こうした各地の関係者でつくられる斑目同族会(全国「まだらめ会」)の会員を対象に平成二八年二月に私家版として発行されたのが本書である。従って、一般に販売刊行されたものではないから、同族とは関係のない方々には目に触れる機会が殆どないかもしれないが、個人の家の歴史以上に興味深い内容を多々含む歴史と系図に関係する労作なので、この刊行に関与した者として、ここに取り上げて紹介する次第である。
著者の山崎博史氏は、もと新聞記者だけあって、全国の関係個所や史料に殆どあたり、驚くほど多くの研究者・関係者に実際に話を聞いて、納得がいくまで徹底的に問題の解明につとめ、そのうえで読みやすく本書をよくまとめられている。その精力的で多面的な動きには、本当に頭がさがる思いである。
さて、本書の内容に入ると、多くの斑目家では先祖を上記の「斑目四郎」と伝えていた模様で、それを踏まえて調査する過程で浮上してきた中央官人の橘朝臣氏の後裔という説には、著者もそうとうに面食らわれた模様である。普通の家系では、先祖や出自を飾り、すなわち世に知られた有名人を先祖に置き換え、先祖関係者の官位官職を実態と離れて立派なものにする傾向があって、調べてみると実は系図に書かれた内容ではなかったということが極めて多い。だから、系図は信頼できない二級史料という評価が総じてある。ところが、この斑目氏に限って言えば、話がまるで逆だというのである。その系譜は、奥羽の俘囚関係者(吉弥侯部)の流れではなくて、実は、敏達天皇の流れを汲む左大臣橘諸兄の後裔でれっきとした中央官人の橘朝臣氏(戦国時代末期に絶家となったが、堂上公家がおり、薄〔ススキ〕家が嫡流本宗)の出であったというからである。しかも、橘氏の系図を研究したことのある人なら分かっているもので、橘氏は俗に源平藤橘の四姓として天下に数えられるとはいっても、その殆どが系譜仮冒(実態を変更して先祖等を虚飾した系譜)であって、多くは伊予越智氏の支流(承平の乱の軍功で著名な橘遠保の流れ)とか、紀伊熊野国造一族の流れ(楠木正成の一族)などで、系図を変造・虚飾したものであるという事情があるから、なおさらである。
私自身も、かつて薩摩の斑目氏を各種郷土史料をもとに研究したことがあった。薩摩では鹿児島大学附属図書館に「斑目家文書」を残すほどの豪族だったのだが、途中で桓武平氏を称する渋谷氏から後嗣が入るなどの事情があり、先祖も的確に伝えていないことで、今回、鹿児島大学名誉教授の五味克夫氏が入手した系図断簡(「増補版」としてp23に掲載)を提示されて、これを検討するまでは中央官人橘朝臣氏の出自ということを、まったく考えていなかった。だから、当該系図断簡の内容を知って、たいへんに驚いた次第である。五味氏には、その採集された薩隅諸氏の系図に有益な示唆をかつて受けたことがあり、南西諸島などを領してわが国の国境地域の中世の状況を知る手がかりとなる千竈氏の古系図についても、最近でも改めて有益性を感じている(「尾張起源の千竈氏と酒井氏の一族」というテーマで近い将来『姓氏と家系』誌に発表予定)。重ね重ね、その学恩に感謝いたしたい。
本件斑目氏の重要な問題点はいくつかあるが、それは概ね次のようなものである。
@薩摩の斑目氏の先祖として名があげられる「橘以広」の系譜はどうだったのか。関連して、平安末期〜鎌倉前期頃の中央官人橘氏の動向や系図はどこまで分かるのか。
A奥州前九年の役の斑目四郎武忠の子孫はどうなったのか。この流れが薩摩や白河の斑目氏につながるほうが武家という性格からも自然ではないのか。
B同じマダラメを名乗る薩摩斑目氏と白河斑目氏の関係はどうか。
C斑目氏の起源の地はどこか。現在まで地名は残るのか。
これらの解明に奮闘された著者の動きや把握がたいへん分かり易い形で示されたのが本書であり、機会があったら是非、一読をお薦めする次第でもある。
著者山崎氏の調査の結果からは、鎌倉幕府初期の京からの東下りの中下級官人の動きを理解する一助にもなるという意味で、たんなる個人家系の研究ではないということでもあった。また、個別系図の史料としての信頼性はどうなのか、中世・近世の家系図がどういう形で出来上がっていくのか(逆に言えば、系譜所伝はどのように原型が喪失、変化していくのか)ということについても、本書が示唆するものは多い。このように歴史研究としても、たいへん有意義な著作なので、発行者におかれては同族会だけに所蔵を限定せず、上記の問題意識や関心のある人々の目に触れる機会をもうけて、広く閲覧の場を増やしてはいかがかと思われるところでもある(これが、既に実行されており、国会図書館などに献本されたとのことです)。 <補記1>
「橘以広」の一族と大江広元一族との関係に関して、山崎氏の問いかけに応じて、関係図を作成したが、煩雑に思われてか、本書には収録されずにある。これは、「橘以広」の系譜上の位置づけに関し重要ではないかと思われるので、若干補訂のうえ、このHPの末尾に提示しておく。
<補記2>
奥羽の吉弥侯部姓斑目氏の系譜については、中田憲信編の『諸系譜』第十四冊に採録があり、本書でもその系譜の信頼性は多くの研究者が基本的に認めている記事があるが、この系図にあっても、最初に掲げる平安前期、弘仁の俘囚長の吉弥侯部小金より先は知られない。この祖系探索にも関心があり、最近、更に調査のうえ拙考を整理してみたので、別途に補論として書いた「吉弥侯部姓斑目氏の系譜」をご覧下さい。
古代の毛野一族の動向についてご関心ある方は是非にとお薦めいたします。 橘以広と大江広元の関係系図 (16.5.07掲上)
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