天孫族と印欧語族

      

             天孫族と印欧語族


                                「大阪在住の者」様


 「大阪在住の者」と名乗られる方から、標題の文が送られてきたので、私自身はあまり知識がなく、従ってコメントもあまりできないのですが、関心ある士におかれては何らかのご参考にもなるものと考え、ここに掲上した次第です。

 そのご指摘に示唆を受け、また西孝二郎氏の易経関係の示唆もあって、吉田敦彦氏の著作を再読したところで、標題に関して浮かんできたものもあり、感触も併せて末尾に追記しました。こうした事情ですから、練れた考えではないのですが。



 T
 
 初めに
 現在、ヨーロッパ・イラン・インド等の住民間で使われている言語のことをインド=ヨーロッパ語族と言う(以下、印欧語族と呼ぶ)。印欧語族の研究は、1876年にウィリアム・ジョーンズ卿がサンスクリット語とヨーロッパの言語との共通性を指摘したことから始まった。
 その古代印欧語族の形態が古代日本社会に見て取れると指摘したのが吉田敦彦氏である。吉田氏は、その著・『日本神話と印欧神話』(1974年、弘文堂)、『日本神話の起源』(2007年、講談社学術文庫)で、古代印欧語族の三種機能(祭司、戦士、生産者)の機能が日本神話に見られるとし、更には日本神話と古代ギリシア・スキュタイとの類似性を指摘している。
 古代日本の神話の構造を古代印欧語族に求める吉田氏の説を全くの誇張として退けて良い物なのだろうか。天孫族の出自と古代印欧語族の出自を重ね合わせてみると満更、誇張とは言えないのである。
 
 天孫族の源泉地
 皇室を始めとする日本の支配層たる天孫族は、紀元一世紀に朝鮮半島南部から渡来した。その天孫族の起源を辿っていくと、朝鮮半島南部→忠清南道北部→中国の遼西→山西省南部となり、最終的には西域に辿り着くとされる。
 では、天孫族の源泉地たる西域にはどの様な民族が暮らしていたのだろうか。本来の西域とは東トルキスタン、即ち、中国新疆ウイグル自治区のことを指す。その土地から古代のミイラが多数出土している。彼等は、金髪・碧眼のヨーロッパ人種=コーカソイドであった。その人達が話していた言葉はトカラ語と言う。トカラ語は西暦八世紀頃まで使われた言語で、印欧語族、それも最古層に属すとされる。天孫族の源泉地たる西域は印欧語族が暮らしていた場所だったのである。
 この図式でいくと、天孫族の原点は印欧語族に辿り着くことになる。事実、天孫族には印欧語族の要素が見出される。吉田氏が指摘する三種機能は勿論のこと、天皇は祭司を兼ねているが、この王が祭司を兼ねると言う祭司王の形態は古代印欧語族共通の物である。又、男系を核とする家長制度も印欧語族に見られる物である。尚、西域に住んでいた印欧語族達は養蚕を営んでいたそうだが、養蚕は貴ホームページの『扶桑国の歴史的位置付け』の項で述べられている様に天孫族に見られる特徴である。
 吉田氏は、印欧語族の要素はスキュタイ人を介して日本に伝えられたと述べているが、寧ろ天孫族の出自と関連付けた方が無難であろう。天孫族の原点は印欧語族_これが私の結論である。
 
 印欧語族の活動と殷王朝の成立
 印欧語族は紀元前三千年頃から原住地を離れて世界各国に散らばっていったとされる。東トルキスタンには紀元前二千五百年頃に移住してきたらしい。そして、紀元前二千〜千五百年に駆けて馬を引かせた戦車部隊を駆使してユーラシア各地を征服することになるのである。ヨーロッパに攻め入った一派は現地の巨石文明を征服し、これがヨーロッパ文明の源となるのである。アナトリアでは紀元前千六百八十年にヒッタイト帝国が成立し、千五百九十五年にはメソポタミアのバビロニア王国を滅亡させている(尚、ヒッタイトは人類史上初の鉄器を使ったことで知られているが、天孫族も鉄器の技術を駆使していた)。中央アジアのアーリア人達は、紀元前千五百年頃にインドに攻め入り、征服を開始する。
 そして印欧語族が征服活動を開始する中、紀元前千六百年頃に中国で殷王朝が成立するのである。この殷王朝起源に関しては、様々な説があるが、天孫族との近縁性、そして印欧語族の活動状況からすると東トルキスタンの印欧語族が東進して建国されたのではないだろうか。即ち、他の印欧語族の活動に連動したか、或いは新たに到来した印欧語族に押される形で、東トルキスタンの印欧語族が中国の地に東進して、夏王朝を滅亡させて殷王朝を建国したのではないかと考えられるのである。現に、殷の王も他の印欧語族の王と同様に祭司王としての性格を持っていたのである。
 
 印欧語族の原住地
 さて、我が国にも影響を与えたとされる印欧語族の原住地は19世紀以来から現在に至るまで議論の的となっていた。二十世紀のナチスの時代にはドイツ人の優越性が誇張され、北ドイツ・スカンディナヴィアに求められたりもした。第二次世界大戦後には、さすがにその説は否定され、千九百六十年代にマリヤ・ギンブタスに拠って提示されたクルガン文化説近年では有力視されている。即ち、紀元前四千年頃にロシア・ウクライナ南東部に見られるクルガンと呼ばれる古墳文化を担っていた騎馬民族が、印欧語族の原点だと言うのである。古代印欧語族に見出せる牧畜・車輪の文化が見出せると言うのがその理由である。
 他方、コーリン・レンフリューは農耕の観点から紀元前七千年のアナトリアから始まったと見ている。
 印欧語族の原住地の解明は、天孫族の原住地の解明に繋がることになる。
 
 結論
 ロシア・ウクライナ南東部に起源を持つ印欧語族の一派は東進して、東トルキスタンの地に移住した。その後の、印欧語族の大規模な征服活動の中で、東トルキスタンに移住した一派は更に東進して古代中国の殷王朝を建国した。殷王朝滅亡後、その残党は各地に散らばり、その一派は紀元一世紀に朝鮮半島を経由して日本に到来し、支配者層たる天孫族を形成した。
 印欧語族を解明することは、同時に古代日本の社会を解明することに繋がるのかもしれない。
 
 
  U
 
 2007年5月、天皇皇后両陛下がバルト三国(リトアニア、ラトビア、エストニア)を歴訪なされた。
 この内、リトアニア・ラトビアはバルト系の民族で印欧語族の中で最古層に属すとされる。特に、リトアニアは1386年にポーランドと合体してカトリックに改宗するまで(世に言うヤギェヴォ朝の成立)、異教を奉じていた事で知られる。異教時代のリトアニアは火を神として祭り、王は祭司としても機能していた。祭司としての王は生贄を捧げていたが、その内訳は動植物に留まらず、人間も捧げられていたと言う。捕らえた騎士をフル装備で焼き殺したりしたと言う。この部分は殷の王と酷似している。
 
 残るエストニアは印欧語族とは異なり、ウラル語族の一派である。他に、主なウラル語族の一派にハンガリー、フィンランドが含まれる。
 この内、ハンガリーに関しては、同国の建国神話と神武東征との類似が貴ホームページの『辰王の系譜、天皇家の遠祖−騎馬民族は来なかったか?−』で指摘されている。又、小泉保『カレワラ神話と日本神話』(1999年、NHK出版)でフィンランドのカレワラ神話と日本神話との類似性が指摘されている。ウラル語族の起源は紀元前三千年のウラル山脈より西側のロシア中央・北部だと言われおり、印欧語族と密接な関係を持ったとされる。尚、一時期に「アルタイ・ウラル語族」と唱えられた説が有った様に、ウラル語族はモンゴロイドだと思われがちだが、実際にはウラル語族はアルタイ語族とは全く別の言語であり、元からコーカソイドだったらしい(下記リンク参照)。
 
 以上の事から、殷及び天孫族は印欧語族を基盤としながらもウラル語族と接触する内に、その度合いを含めていったのではないか(我が国でも天孫族出身の物部氏が婚姻に伴い海神族の要素を濃くしていった)。或いは、逆にウラル語族を基盤として印欧語族と接触して、その要素を深めていった可能性も考えられる。寧ろ、後者の方が妥当なのかもしれない。
 
 附コーカソイドの分布
 鳥越憲三郎『古代中国と倭族』(中公新書1517)に拠りますと、紀元前6千年にコーカソイドは北京や旧満洲にまで来ていたそうです。同書に拠ると、コーカソイドとモンゴロイドが混血して龍トーテムが生まれたとされています。
 
 (Tは2007年8月9日、Uは同年9月7日に受信)
 
 (07.9.8掲載.)


 (樹童のとりあえずの感触) 

 天孫族の淵源地と殷との類縁性については、ほぼ貴見と同様に考えていますが、それが印欧語族とどのような関係があったのか、私には分かりません。それ以上遡って調べたことがない(語学的なものも含めて、調査能力もない)というのが実情ですが、調べてどのくらい分かるのか、ということでもあります。
 たしかに神話などで、西欧のものと似かよったものもあり、ともに共通にもっていたことも考えられますが、一方、言語構造や人種の観点からは、殷や天孫族と印欧語族との差が大きすぎるようにも感じます。
3 いずれにせよ、天孫族の源泉がどこまで遡りうるのか、その行き着いた先はいったいなんだったのか、という問題は、興味深いものであり、もし解明できたらという願望は当然あります。その意味で。貴見は、今後の参考にいたしたいと思っております。
 
 (07.9.8 掲上)
 


 (樹童の感触) 吉田敦彦氏の比較神話学
 
 

 ギリシャ神話を専門分野とする吉田敦彦氏(学習院大学名誉教授)は、フランスで比較神話学の碩学ジョルジュ・デュメジルの指導を受けた学究であるが、比較神話学の対象として日本神話をとりあげ、印欧語族の神話と日本神話との類似性をいくつかの著作で説いておられる。そうした著作は『ギリシァ神話と日本神話』『日本神話と印欧神話』(ともに1974年)を初めとし、『日本神話の源流』など、現在まで多くの著作・論考があり、一貫して類似性が説かれる。
 
 ここでは、比較的初期のほうの論稿をまとめた『ヤマトタケルと大国主』(比較神話学の試み 3。1979年)を取り上げ、読み返してみた。
 本書は、大きく三部から成るが、その題名にはなっていない「神武と応神」という第一部の論考のほうに、より興味を惹かれた。神武については、「神武東征とトゥアサ・デー・ダナンのアイルランド征服」という論考で、印欧神話印欧系諸民族の神話。とくにケルト神話)と神武東征伝承の類似・共通(以下は、私見で併せて「類似」とする)が説かれるが、これまで神武東征伝承が類似をあげられる高句麗建国伝承についても、“トゥアサ・デー・ダナン”(アイルランドの先住民族)の伝承と類似することが説かれる。
 また、応神については、「応神伝説とインド・ヨーロッパ語族の太陽神生誕伝承」という論考で、応神伝説(誕生譚、神功皇后外征など)や高天原神話(五男神誕生、天の岩戸、天降り、日向神話など)がインドなどの太陽神の伝承に類似することが説かれる。これらの類似は偶然と思われないほど奇妙かつ顕著な類似を示し、日本伝播までの通路にあたる朝鮮でも高句麗建国伝承について同様とみられている。
 第二部のヤマトタケルについても、インド神話、北欧とギリシャの英雄伝説との類似(とくにその英雄が犯した三つの大罪、昇天のモチーフ)があげられる。これを、「印欧三機能体系」(@祭司=主権者、A戦士、B生産者)の構造の正確に反映して組みたてられると説かれる。このほか、女装して敵を討つ話やヤマトヒメの役割などにも、印欧語族の戦士伝承と顕著な類似が見られるとする。
 
 これら吉田氏の論考に見られる主要ポイントとしては、印欧神話が日本神話のなかに入り込んだのは、「@ユーラシアのステップ地帯で騎馬民族として活躍したスキュタイ人によって代表されるイラン系遊牧民の神話の影響が、アルタイ系遊牧民によって受容され、朝鮮半島を経由して日本まで伝播したためと考えられる。Aこの経路によって流入した神話の影響に、日本神話は多くの要素と共に、その基本構造とイデオロギー自体をも負っていると思われる」、ということであり、これが仮説として提示される。『日本神話の起源』などの著作のある大林太良氏も、これに同説だとされる。

 
 

 印欧の神話・伝承に通じた吉田氏の類似個所の指摘は、たしかにその通りとみられ、これらにより教示・啓発されることが多い。ところで、その場合に、問題は幾つかある。その感触を述べると、
 (1) 印欧神話と日本神話の類似がアジア側の受容に拠るとしたら、なぜ高句麗や古墳時代の日本だけに印欧の神話が強く伝播したのか。しかも、たんなる受容で、三神宝に関するものまで類似するものか。

(2) 神話の類似は『書紀』よりも『古事記』のほうに著しいとされるが、この類似は虚構あるいは造作を直ちに示すものか。
 
 この二点について、適切な答がないときには、多くの類似の指摘もあまり意味がないと思われる。戦後の歴史学界の受けとめ方によれば、(1)についてはそれ以上の分析・解明ができないままに、(2)については記紀の神話・伝承の造作性ないし虚構性の証明とされそうである。
 しかし、こうしたステレオ・タイプ的な受け取り方でよいのだろうか、私には大きな疑問がある。すなわち、私の一応の答としては、次のようになるので、仮説として提示しておきたい。

(1') 稲作文明などと同様、物や技術だけが伝わるのではなく、そこに、それらを担う人々(種族・部族)の移動を考えるほうが自然である。
  印欧神話と日本神話の類似も、日本民族のなかで支配階級を構成した天孫族の遠祖が、印欧語族の先祖の居住地で近住したか、ないしは同じ血族の故に、共通の神話・祭祀をもったとみるほうが自然である。だからこそ、天孫・太陽神の伝承がある高句麗とも、神話や神宝が共通することになる。

(2') 類似は、虚構あるいは造作を直ちに示すものではなく、むしろ伝承・編纂の過程において、原型からの潤色・改編を示唆するものであろう。ただ、同様な神話伝承を保持したことで、その神話に基づき先祖神と同様な行動が繰り返してなされた可能性もある。また、部族が伝統的にもつトーテム・祭祀、職掌や専門技術のため、同様な行動が祭儀などで繰り返されたことも考えられる。
このように考えると、印欧神話などとの類似点をとりあえず除去したところに、史実の原型があったことにもなる。『書紀』よりも『古事記』のほうに類似が著しいのは、後者が書としての公的な色彩が弱いだけ、特定の学識豊富で偉大な思想家の個人的な影響が大きかったことも考えられる。『古事記』には易経の要素が見られるという指摘もあり、これら印欧や中国の古代思想のもとで、原型として保持されていた伝承が潤色改編され成立したものではなかろうか。
 
  (07.9.17 掲上)
 


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