一
体の一部が物理的に普段どおり使えないのは、それだけで酷く気を滅入らせます。実は、全く自分の不注意で梯子から落下し、足の甲の骨を折ってしまいました。足首の骨とか大腿骨ならば、とてもスグには歩けないでしょう。ただ、折れた部位が部位だけに、一月ほどギプスを嵌め松葉杖の厄介にならざるを得なかったものの、外出できなかったわけではありません。それでも、人の後をエッチラオッチラ付いていかざるを得ず、早く元の姿に戻りたいものだと切歯扼腕した次第です。
そんな時に、昔読んだ『左手日記例言』(注1)をフト思い出しました。利き腕の右手の甲を負傷して左手に頼らざるを得なくなった作者が書き綴ったものです。もちろん、手と足とでは大違いです。それに私の場合は骨折ですが、こちらのは冷蔵庫の製氷室の氷≠ェ突き刺さったとのこと。とはいえ、普段は何の気なし使っていながら頼れなくなると途端にその重要性が痛感される手足のことですから、蒙った気分はそれほど変わりがないのではないのでしょうか?
ところで、その著者は、現代詩人として世評の高い平出隆氏(1950年生まれ)です。これまで『若い整骨師の肖像』(注2)などかなり難解な詩集を世に問うてきました。私も、ヨク分からないながら、時折思い出したように本箱から取り出して眺めてみたりしてきましたが(注3)、どちらかといえば散文の『葉書でドナルド・エヴァンズに』 (注4)や『白球礼賛』(注5)などの方を愛読しております。
その平出氏が、本年10月末に、『伊良子清白』なる素晴らしい評伝を新潮社から出版しました。ご存知かもしれませんが、伊良子清白は、生涯にたった一つの詩集を世に問うた詩人です。明治10年(1877)に鳥取県で生まれました。生家は代々の医家で、清白自身も京都医学校(現・京都府立医科大学)を卒業しています。在学中から、雑誌の『文庫』に新体詩を始めとして、短歌、俳句、随筆を投稿して注目を集めたようです。
そして、東京に出て、河井酔茗,横瀬夜雨らと共に「文庫」派の代表的な詩人となり、明治39年(1906年)には、詩集『孔雀船』を発行しました(注6)。これは、それまでに書いた200篇余りの詩から、僅か18篇のみを厳選して収めたものです。ただ、発行直前に東京を離れ、それからは島根、大分、台湾、京都、最後は三重というように各地を転々と漂泊≠オました(注7)。地方にあっては、ほとんど詩作はせず、専ら医師として働いたようで、それでも晩年は,若干の詩作の他、かなりの数の短歌を作りました。昭和21年(1946年)に、往診途中の路上で脳溢血に倒れ、そのまま死去(享年68)。
こうした清白の経歴には、フランスのA・ランボーをやや想起させるものがあります。ランボーも、若くして(19歳!)詩作を断念し、貿易商としてアラビア半島南端のアデンとかエチオピアのハラルなどを漂泊≠オた上で、37歳で亡くなっています(1891年)。ランボーの場合、出版された詩集としては『地獄の季節』と『イリュミナシオン』がありますが、伊良子清白も、詩集としては20代の末に発表した『孔雀船』だけですし、詩集名の孔雀船≠ゥらは、ランボーの超絶の詩酔いどれ船≠ェ思い出されます。
モウ一点だけ申し上げれば、伊良子清白は、生後11ヶ月で母を亡くしてしまい乳母によって育てられ、また父親には後々までその消費癖による借財に酷く苦しめられたようです。他方、ランボーの場合は、父親の陸軍大尉が「家庭を顧みない男」で「5歳の頃に姿を見たきり」だったことから、自ずと家庭においては母親の「専制」が強大なものであったとされているところです。こうした特異な家庭環境は、両者のその後の漂泊≠ノ何かしら係わりを持っているのではないでしょうか?(注8)
さて、平出氏は、今回の著書を「月光抄」と「日光抄」との合本としており(注8)、未刊行の日記のみならず、『孔雀船』の選から漏れた沢山の詩や、晩年の短歌などを縦横に参照しながら、「詩をやめる、とはしかし、どういうことだろうか」(「月光抄」P.14)という問いを通奏低音とさせながら(注9)、伊良子清白の生涯の足跡を辿っております。
本来であれば、ここで、清白の詩それ自体に触れるべきでしょう。ですが、平出氏の著書において、それらは酷く切れ味のいい包丁で十分に料理されているところですし、そもそも詩の実作者ではない私がそんなことに手を出しても、惨めな結果に終わるのは目に見えております。そこで、ここでは少し遊んでみることとし、伊良子清白の背景となる家系などを調べてみようと思います。
二
伊良子≠ネるヤヤ変わった姓の由来とその一族についての検討です。
まず、姓の由来を調べてみることとした。と言いましても、詩ばかりでなく、系図学などについても全くの門外漢です。そこで、困った時のインターネット頼みとばかりに、先ずはパソコンで伊良子≠フ検索を行なってみました。
検索した結果、一番興味深かったのは、幕末の孝明天皇の主治医が「伊良子織部正光順(おりべのかみ・みつおき)」であり(注10)、その残していた手記に基づいて、孝明天皇毒殺説≠30年ほど前に発表したのが、その曾孫にあたる滋賀県在住の医師・故「伊良子光孝」氏であるという点でした(注11)。
これだけでは情報量が少なすぎますので、やはり本を使って調べようと書店に出向きましたところ、折りよく『京の医学』に遭遇いたしました(注12)。同書(P.66)によれば、江戸中期に「伊良子道牛」(1671−1734)なる人物がおり、「故郷・山形県を離れて遠く長崎へ紅毛流医学を求めて旅立ったのは16歳の時。10年間の遊学の後、京都・伏見で開業したのは1696年である。彼は、カスパル直伝の門人・河口良庵(1629−87)からカスパル流外科を学んだといわれる。‥‥‥道牛の名は内外に響きわたり、現在の京都市伏見区銀座二丁目の門前には治療を請う人々が雲集して列をなした」とされています(注13)。
また、「道牛の孫・光顕(1737−99)は伏見奉行所に願い出て…解剖を行ない、大腸と小腸を区別したことでも知られる」とあり(山脇東洋の人体解剖の4年後)、更に、「伊良子家は代々典医に任ぜられ、明治以降は滋賀県に移」り、「その子孫が現在も近江八幡市で開業している」と述べられております(注14)。
これに関して、岡田慶夫氏の『湖国と医人たち』(注12参照)に、次のような記述が見付かりました。
「伊良子氏の祖先は甲斐源氏で、後に三河国伊良子岬の出来山城主となり、伊良湖(子)姓を名乗った。しかしながら、織田・徳川に追われて山形の最上氏に仕え、さらに最上氏の改易に遭って熊本に移り、同地の細川氏の家臣となった」(P.57)。
としますと、『京の医学』によれば道牛は山形から長崎に出向いたことになっていますが、もしかしたら熊本からなのでしょうか?たしかに、肥後細川藩の家中には伊良子軍十郎なるものが見えます(注15)。
同書によれば、道牛以降は次のような系図となるようです。
「道牛−○−光顕−光慶−光通−光敬−光順−光信−光義−光孝」
要するに、伊良子家の本家筋は、現在は滋賀県に居住するものの、江戸時代には京都で外科医として宮廷の医師まで勤めた家柄であったといえるのでしょう。『平安人物志』には、十九世紀前葉(1813〜38の時期に見える)の京都室町丸太町北に住む「源光通:伊良子主税助(初め右馬少允)」なる人物がおり、「医家」とされております。(注16)。上記系図の光顕(主膳、字は孝伯)の孫にあげられる光通に該当します。また、小川二条北に住む医家の「源光明:伊良子将監」(字は子玉)も同書に見えており、その活動年代(1813〜22)からみて、光通の兄弟か従兄弟くらいではないでしょうか。
光通の孫に位置づけられるのが前出の伊良子織部正光順で、孝明天皇の主治医となっています。
ところで、平出氏の前掲著書には、清白の「曽祖父にあたる伊良子玄翔は弘化4(1847)年、いわゆる浪人医師から因幡藩の典医に召し抱えられた」(「月光抄」P.18)とありますから、あるいは京都の宗家と何らかの繋がりがあるのかもしれません。これまでのところ確かなことは分かりませんが、伊良子清白が明治28年に入学した京都医学校は(明治32年卒業)、伊良子家の宗家が活躍した京都の地に明治のごく初期に設置されたものであることからすれば、鳥取の伊良子家と何らかの関係性を思い描いても、ソレほど的を外れてはいないのではないかと思えます。
また、鳥取藩関係には「伊良子大洲」(憲、字は子成、子典。生没は1763〜1829年)という儒学者もいて、その書と『大洲集』が鳥取大学附属図書館に所蔵されていますが、清白との結びつきは現在のところ不明です(注17)。大洲の父は文蔵とされており、その字から考えますと、上記の伊良子将監光明(字 は子玉)の一族ではないかと推されます。また、上記玄翔の一世代前くらいにあたりますが、玄翔のとき初めて鳥取に来たということであれば、親子関係ではないと考えられます。ただ、一族伊良子大洲の縁で玄翔が鳥取に来た可能性はあるのかも知れません。
三
結局のところ、あまり立派な成果というところまでは得られませんでした。勿論、史料が乏しいこともありますが。
さらに、伊良子≠ニいえば、人物というよりも、むしろ誰でも思い出すのが「伊良子(湖)岬」ではないでしょうか?そして「伊良子岬」といえば、ここでも漂泊≠フ俳人松尾芭蕉の俳句「鷹一つ 見付けてうれし いらご崎」(『笈の小文』)が思い浮かぶところです。いま、人名のほうは「いらこ」、地名のほうは「いらご」と訓まれるようです。
この句については、先年亡くなった詩人・評論家の安東次男氏が「浮世を捨てて二度の夏を越して、つまり二度の羽を替えてむしろ逞しくなった男(杜国)の面構を、芭蕉は西行の鷹、いや、西行その人と眺めた」と述べております(注18)。それなら、話しは漂泊≠フ歌人西行にまで行きつきますが、ここでこれ以上風呂敷を広げるわけにもいきますまい。
伊勢湾を挟んで伊良子岬に対峙しているのが、(やや南になるものの) 三重県阿児町の安乗岬です。この地には、伊良子清白の『孔雀船』に収められた詩「安乗の稚児」の一部が刻まれた詩碑が設けられているとのこと。ただ、同詩の詩碑は安乗岬だけでなく、清白が晩年の20年以上を過ごして第二の故郷とした鳥羽市小浜の城山にも置かれているそうです。そればかりか、小浜の近くの日和山には、芭蕉の伊良湖岬の句を刻んだ句碑もあるようです。
足の骨折が完治し、陽気も暖かくなれば、鳥羽湾周辺の詩歌巡りに行ってみようと考えているところです。
〔註〕
(注1) 平成5年に読売文学賞を受賞(白水社、1993.6)。
(注2) こちらの詩集(小沢書店、1984.10)の方が状況にマッチしているのかもしれませんが、私の治療先が総合病院の整形外科≠ナあったこと、それに平出氏は「整骨」を詩的な比喩として使っているので(「すべての生き物死に物を整骨する方法」などというように)、あえて取り上げませんでした。なお、「整骨師」あるいは「接骨師」の正式名称は「柔道整復師」だそうです。
(注3) 現代詩のみならず、平出氏は『弔父百首』(不識書院、2000.7)といった歌集も発表してもおります。死の床に臥した父親を巡る記録を短歌形式で書き止めたもので、詩、短歌、俳句といった詩形式相互の垣根が酷く高くなってしまっている現代においては非常に貴重な試みではないかと思われます。ちなみに、伊良子清白も、晩年に相当数の短歌を書き残しているようです。
(注4) この本(作品社、2001.4)は、郵便切手ばかりを描き既に亡くなっている画家ドナルド・エヴァンズに対する書簡から出来ている酷く不思議な、しかし頗る魅力的な本です。
(注5) 草野球に熱中する平出氏がベースボールに対しオマージュを奉げた本で、最後の章ではロッテにいたレロン・リー選手が登場しますが、この11月22日にNHK・BSで放映された映画『フィールド・オブ・ドリームス』の雰囲気を感じさせて酷く感動的です。古い岩波新書(1989年)なのですが、復刊アンコール≠ニいうことで新刊本として現在書店に並んでおります。
(注6) 今のところ、『孔雀船』は、岩波文庫で絶版となっていて(ワイド版でも)、かつ「伊良子清白全集」も入手し難いので、どうしたものかと思案していたところ、たまたま神田の古本屋で昭和13年の岩波文庫初版本に出会いましたので、専らソレを読んでいるところです。
なお、HP「国文学研究資料館」内の「近代書誌データベース」では、『孔雀船』に収められている全ての詩を読むことが出来ます。
(注7) 平出氏の『伊良子清白』の「日光抄」P.58〜65には、清白が、北ボルネオのタワオ行きを決意しながら、渡航直前に現地の受け入れ拒否に会い、頓挫した経緯が書かれております。
(注8) ランボーに関する記述は、横浜市立大教授の鈴村和成氏の『ランボー、砂漠を行く』(岩波書店、2000.11)P.23〜25によります。
(注9) 「月光抄」及び「日光抄」のエピグラムとして、『孔雀船』に掲載の詩「月光日光」の一部が使われております。なお、前者は、清白の誕生から離京までを、また後者は浜田から三重県尾小浜におけるその死までを取り扱っております(「月光は純潔と死の観念、日光は流離と生の観念である」月光抄P.186)。
(注10) 「詩をやめる、というその衝動に私自身、ひそかな覚えがあったのかもしれない」とも平出氏によって書かれているところです(「月光抄」P.14)。
なお、伊良子光孝氏の論文は、滋賀医科大学教授岡田慶夫氏の『湖国と医人たち』(金芳堂、1993.1)P.56及びP.65によれば、『滋賀県医師会報』第27巻9号(1975年)〜第29巻5号(1977年)に「天脈拝診日記」と題して21回連載されたとのことです。この雑誌は国会図書館には置かれていないため確認できないところ、日本医学史学会関西支部発行の雑誌『医譚』の第47号(1975.4)及び48号(1976.4)にも同氏が「天脈拝診」と題して寄稿されていることがわかり、これは国会図書館で確認できました。
ところが、後者におきましては、肝心の孝明天皇毒殺説≠ノついては頗る慎重な(むしろ否定的な)記述となっていて(「真実のところは医師である筆者にも判らない」など)、上記HPや『湖国と医人たち』P.64から窺える『滋賀県医師会報』の記述内容との差異はどこからもたらされたのか、非常に不思議な気がいたします(掲載時期が重なっているだけなおさら)。
(注13) 京都新聞論説委員の川端眞一氏が、本年3月に人文書院から出版した著書。
なお、同書P.199には伊良子清白への言及があり、「府立医大学歌は、清白が鳥羽にいて作ったものである」とも述べられております。
(注16) 日文研HP内の「平安人物志データベース」の「文化五年版」278ページ。
(注18) 『芭蕉発句新注』(筑摩書房、1986.10)P.219。西行が伊良湖の鷹を詠んでいて、それを踏まえたのが芭蕉の句となります。
以上(03.11.29受信
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1 「伊良子(伊良湖)」という地名は三河の渥美半島にしか見えず、従ってこの苗字の起源の地となっていると考えられます。もっとも、伊良湖岬の東南方近隣に浮かぶ神島は、古代から伊勢(三重県鳥羽市神島町)に属していて、『万葉集』で麻績王が流されたと記される伊良胡(伊良虞)の島に比定されており(桜井満訳注『万葉集(上)』など)、この比定には異説もありますが、比定は妥当と考えられます。
島名と岬名のどちらが先にあったかは不明ですが、伊能忠敬の「測量日記」に記載されるように「五十子」とも書かれたようであり、岬も含む地域の名前のほうが先にあったように思われます。
江戸後期の京都の医家伊良子氏が源姓を称していることは上記の通りであり、伊良子氏の祖先が「甲斐源氏」であるという所伝が正しければ、上記「深沢次郎左衛門」が甲斐源氏武田の一族から出たということになるようです。深沢という地名とそれに因む苗字は、甲斐に限らず信濃・駿河・美濃・伊賀や上野など全国各地にあって、この系譜所伝自体が正しいかどうかは確認できません。しかし、とりあえずこの所伝が正しいものとして、検討を進めます。
そのいずれの深沢にせよ、深沢氏の後裔が伊良子に住んで、伊良子氏を名乗った可能性が強いように思われます(さらに4で後述)。本来は神別の諏訪一族も、後に源姓を称しました。
3 渥美半島の伊良子氏がなぜ山形の最上氏に従うようになったかは不明です。あるいは、渥美郡に勢力をもった戸田氏との争いに敗れたのかもしれません。伊良胡御厨の内で伊良湖近隣の小塩津に居た馬場氏が、延徳年間(1489〜92)に戸田宗光に攻略されたという記事が見えますが(渥美郡誌)、伊良子氏については史料に見えません。
また、最上氏が大幅な減封となったとき、最上氏を去って細川氏に仕えた者も出たということですが、その場合、山形に残った一族もいて、その流れから伊良子道牛が出たのでしょうか。
道牛(諱は好在。初め見道、のち無逸と号)は、寛文十一年(1671)に山形の医家に生まれたとされ、貞享三年に十六歳の時長崎に赴きそこで蘭学と西洋外科医学を十年修業して、元禄九年山城伏見に居住しました。日本外科医史大きな位置を占めたとされますが、享保十三年(1728)に58歳で病没しています。その弟子に大和見水がおり、この系統からはその養子の見立、華岡青洲が出ました。
伊良子光顕は、道牛の孫(摂津高槻藩医であった好問の子)であり、道牛の医方は光顕に至って最も発揮されたとのことです。伏見に生まれましたが、安永四年伏見より京都に移り、同六年(1777)には朝廷の滝口として左兵衛少尉に叙任し、御医に召され、のち長門守・正六位に任官叙位されましたが、寛政十一年に63歳(生没は1737〜99年)で死去しています。光顕の業績には刑屍の解剖も挙げられます(以上、道牛・光顕についての記述は、『日本人名大事典』『国史大辞典』『コンサイス人名辞典』などに拠る)。
『京都市姓氏歴史人物大辞典』に拠りますと、『地下家伝』では、伊良子氏は、@滝口を務める家とA典薬寮医師を務める家と二つあり、ともに光顕を祖としていて光通の後に分かれ、前者は光通−光評−光伯−光信と続き、後者は前掲のように光通−光敬−光順と続いたとされます。とすると、光信はいずれかの養子ということも考えられます。