<示現寛斎2> |
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今年の夏の終わり頃に、飛騨高山までドライブ旅行をしてきました。4月と10月に行われる有名なお祭りには時期外れでしたが、京都のような佇まいの上三之町周辺(安川通り〜柳橋〜さんまち通りなど)とか、その北に位置する白川郷の合掌造りの民家などを堪能することができました。
飛騨に車で行ってみようと思い立ちましたのは、東京近辺の箱根とか日光などはもう何回も行ったことですし、かといって京都・奈良までのドライブは荷が重過ぎると思ったからです。加えて、高山までの運転に随分と時間がかかるのではとこれまで敬遠していたところ、実際にガイドブックを調べてみますと、中央高速の松本ICで降りて国道158号線を使えば、東京からそれほど時間をかけずに到達できることが判ったためでもあります。
ただ、国道158号線を使う≠ニ簡単に書いてしまいましたが、現在のように時間がかなり短縮できるようになりましたのは、何といっても「安房峠トンネル」のお陰でしょう。安房(あぼう)峠は標高1790mに位置し、これまで信州と飛騨の交通を厳しく阻む存在でした(冬季は閉鎖され、それ以外の時期に車で通過するにも30分以上要したようです)。1980年から北アルプスの下を貫通するトンネル工事が開始され、熱水の大量湧出とか、火山性ガスの発生などに遭遇(作業員4人が、水蒸気爆発で死亡)するだけでなく、技術的にも困難を極めた工事だったようで、15年以上にわたり総事業費860億円の費用をかけて、6年ほど前に完成しました。
こうして、山脈にトンネルという“穴を穿つ”ことによって、従来なかなか越え難かった交通の難所が、通常は5分程度のドライブで簡単に通り抜けることができ、長野と岐阜とが容易に“通じ”るようになったわけです。
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そこで、出版されたばかりの芝木秀哉著『流れ蘭方 示現寛斎』(文芸社、2003.12)です。実に面白いのでそれこそアッと言う間に読了してしまいましたが、ナント本書にも“穴を穿つ”話しが何回も登場するのです。
先ず、2番目の挿話「膀胱穿孔術」では、網元の御隠居仁右衛門の“小便詰まり”(「尿閉」)を、「直接腹から膀胱に鍼を突き通し小便を出す」術を使って蘭方医・示現寛斎が治療する様が描かれています。要するに、膀胱にハリで“穴(孔)”を開けて尿を外に出して、尿道の“通じ”を改善するというわけでしょう。
5番目の挿話「角膜穿孔」は、鋏の先端を目に刺してしまい、角膜に穴(孔)を開けてしまった娘・幸に関するものです。“ゴーラルド水”といわれる「刺激性の少ない消毒薬」などを使用することによって、幸の虹彩と角膜は完治します(ちなみに、目は、人間<男性>に備わっている9つの“穴”を構成する器官の一つです!)。
11番目の挿話「腹水」では、寛斎の営む施療院の最大のスポンサーだったことがある長崎屋源右衛門の内儀・久世が腹水(著者は「腎炎による全身性水腫」と推定しています)に罹ったというので、“穿腹術”(「今で言う腹水穿刺」)を寛斎は施します。金属製の管状穿刺器具である“套管針(トロカール)”を腹腔に穿刺して、それに繋がっているゴム管から腹水を盥に流し出すことによって、久世の腹の膨張を縮減させ、さらに、海葱とかジギタリスなどから作られた薬を処方し、5ヶ月後には完治しました。
14番目の挿話「膀胱キン衝」(“キン”は火偏に“欣”です)では、蒟蒻屋の主人・庄作が罹ってしまった急性膀胱炎と急性腎盂腎炎との合併症(“キンショウ”とは「炎症」のこと)に対して、誤ってカテーテルを挿入してしまい死亡させてしまった次第が述べられています。寛斎はひどく落ち込み、「蘭方医学そのものを蘭方医たる自分が信用できなくなった」とまで言い出す始末です。なお、一年後には、この病気の場合第2挿話のような“腹腔穿孔術”を施すべきであると西欧の医学書に記載されていることがわかります。
以上のように、全体で15の挿話から構成されております本書の中で、4つもの挿話において、“穴(孔)を穿つ”ことが何らかの仕方で触れられているわけです。それも、本書の主題である蘭方医学に関連する個所のみならず、第2挿話「膀胱穿孔術」では、網元・仁右衛門が悪行で得た六千両もの大金を「隠し穴」(P.65)に見つけ出し、寛斎はそのうちの千両を自身の「施療院」の運営資金に当てたりしています。
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こうしてみますと、2番目の「膀胱穿孔術」の中で述べられている“銚子湊”の歴史につきましても、一見したところ、話の筋に釣り合わない書込みがなされているような印象を受けますが、決して余計なものではなく、本書で是非述べられなければならなかった内容だと納得されるところです。
といいますのも、本書の主な舞台である銚子湊の繁栄をもたらした要因の一つが、江戸時代初期からの利根川水系に係る大規模土木工事と考えられるからです。こうした大規模な河川改修工事とか運河開削事業は、その当初は“垂直のベクトルを持つ穴掘り”といえるのではないでしょうか?一定程度垂直方向に掘り進んだ後は、通常のトンネル工事のように水平方向に掘り進むことになるでしょう。
本書によれば、銚子から物資を江戸に向けて運ぶのに大きく二つのルートがあったとされています。一つ目は、「房総半島を迂回して江戸湾に入り、直接江戸に乗り入れるもの」で、「大廻り」といわれたようです。二つ目は、「荷を川船に積み替えて利根川を遡上し、上流の境・関宿河岸に到り、ここから江戸川に船を乗り入れ、川を下って江戸まで行くもの」で、「内川通り」といわれました。二つのルートのうち、安全性とか係る費用の安さから後者の方が主流となりましたが、そのキーポイントは利根川と江戸川との接続です。
元来、利根川は、隅田川を下流に持ち、江戸湾に流れ込んでいましたが、徳川家康が関東に入府した際、利根川や渡良瀬川などが洪水でよく氾濫するのを見て、関東郡代に治水工事にあたらせました。この工事は、次のような内容だとされています。
a.熊谷付近で利根川を東に向け、新利根川として銚子まで導く(注1)、
b.その放水路に太井川をあてるべく改修を施し、名称を江戸川とする、
関東郡代の家では三代にわたって治水工事を継続し、60年かかって完成させたとされていますが、そのことにより、利根川は江戸川と繋がったため、江戸まで至る重要な水路となったわけです(注2)。
こうした利根川を巡る歴史を背景としながら、長崎出島という本当に小さな“穴”を通して西欧医学(蘭方)を学んだ寛斎の活躍振りを生き生きと描き出すことによって、芝木氏の著書は、これまでの歴史小説の世界―歴史小説自体が時間に“穴”を開けるタイム・トンネルでしょう―にモウ一つの大きな“穴”を開けたとも言えるでしょう(注3)。
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ここで、本書全体に関する感想を申し述べされていただきますと、先ず、本書では様々の疾患やその治療法等につき医学的に詳しい記述がなされていますが、実に手際のいい説明がなされているため、全く目障りとはなりません(むしろ、その記述にこそ興味が惹かれます)。
また、本書を構成する挿話はどれもトテモ興味深く、とりわけ甚八が活躍する「膀胱穿孔術」とか「鼻骨陥入」などの挿話は非常に良くできています。甚八は、ヒョンなきっかけで寛斎の施療院を手伝うことになりますが、元はヤクザでしたから、網元―貸元が支配する銚子湊の闇の世界を熟知しています。そこで、暗く淀んでしまっている裏社会に“風穴”を開けるべく、網元の仁右衛門を殺したり、名主縫右衛門等の悪党三人に「百姓へ難儀が及ぶ不正は一切致さざるべきこと」などといった内容の起請文を書かせたりするのですが、その鮮やかさに読者はさぞかし溜飲を下げることになるでしょう。
更に、「端漸」は本書で一番長い挿話ですが、シーボルトや前野良沢、杉田玄白などと「寛斎」との繋がりが、寛斎の師である大槻玄沢(蘭学塾である芝欄堂の塾主)を通して、頗る上手に料理されていると感心いたしました。
前半のごく一部にやや瑕疵があったり、「寛斎」の人物像が余りに立派に造形され過ぎているため、チョット親近感が湧き難く、これで若い女性(恋人)が近くに配されてもいれば面白さが倍増するのでは、などと思ったりしましたが、そんな些細なことはどうでもよく、こうした分野での歴史小説としては注目に値する出来栄えではないかと思いました。
感想として申し上げました点は、こうした分野の小説として名高い山本周五郎著『赤ひげ診療譚』(1959年)と読み比べていただきますと、ヨクご理解願えるのではないでしょうか?
確かに、『赤ひげ診療譚』は、赤ひげ(新出去定)が施療院(小石川養生所)を切り回しているところに、若者(保本登)が医員見習として新たに加わるという設定ですから、赤ひげ=寛斎、保本=海保龍安(「寛斎の唯一の弟子」)と対応させれば、赤ひげも長崎で蘭方医学を学んだようですし(新潮文庫版P.221)、また「貧しい病人を無料で治療」する(P.63)一方で、大名に対しては薬礼として50両もの大金を請求していますから(P.107)、両小説はかなり類似しているように思えます。
ですが、それぞれの話しの具体的中身となりますと、まったく別物といえます。『流れ蘭方』では、特殊な病名のみならず、治療法(手術器具の名称をも含め)をはじめ、使用された薬の成分まで大層詳しく描かれております(注4)。他方、『赤ひげ』では、挙げられる病名としては「気鬱症」(P.19)とか「労咳」(P.119)など素人判りするものが多く(ただし、P.54の「大機里爾(タイキリイル)」は例外でしょう)、治療法とか薬の成分に関する詳しい説明はほとんど見当たりません。
むしろ、『流れ蘭方』で中心的に取り扱われている病気とか治療法は、『赤ひげ』においては単なる話しの糸口に過ぎず(注5)、3年チョットの長崎遊学から帰京した保本登が、婚約していた娘の裏切りによって蒙った精神的痛手から、小石川養生所における一年間の生活で如何に立ち直るのかという点に作者の主眼が置かれているように思えます。そのために、(寛斎は外科医ですから当然ですが)『流れ蘭方』では取り扱われない精神疾患の患者の話しが、『赤ひげ』では太宗を占めることになりますし(おゆみ、猪之、おえいなど)、とりわけ女性を巡るとりどりの話しが毎回登場することになります。
更には、「温床でならどんな芽も育つ、氷の中ででも、芽を育てる情熱があってこそ、しんじつ生きがいがあるのではないか」(P.365)といった精神訓話めいた記述が要所要所に見受けられることにもなります。
それに、『流れ蘭方』で大活躍する甚八のようなファンタスティックな登場人物は、リアリティを尊ぶ『赤ひげ』に出現する余地はありません。
要するに、山本周五郎の作品は、伝統的な歴史小説の常道―過去のある時点に舞台を設定してはいるものの、登場する人物の(精神的な)動きはあくまでも近・現代人―にかなり忠実に従ったものといえると思われます(注6)。他方、芝木氏の『流れ蘭方』は、焦点を過去の舞台そのものに当てている(江戸時代の病名とか治療法の解明にこそ芝木氏の強い興味が注がれている)と言えるのではないでしょうか?
以上のことから、芝木氏の小説は、これまでの歴史小説の世界に一つの明確な“穴”を開けたのではないかと私は考えております(注7)。
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さて、冒頭に申し上げました高山ドライブ旅行の帰路は、国道158号線を通らずに、「飛騨清見」から「東海北陸自動車道」に入り、名神高速→東名高速道路というルートを取りました。この東海北陸自動車道は、名神高速道路と北陸自動車道とを結ぶ高速道路ですが(注8)、名神高速や東名高速と比べ交通量が極端に少ない道路でした(注9)。もとより、「白川郷」−「飛騨清見」間(26q)が完成していないことによるところが大きいのでしょうが、北陸自動車道はすでに米原JCTで名神高速に接続しており、この区間が完成し全線が開通したとしても、東海北陸自動車道の通行量が飛躍的に増加するとはとても思えません。
片側一車線でキチンとした中央分離帯も設けられていない閑散とした道路で、制限速度を大幅に越えたスピードで走る外車に追走され簡単に追い越されますと、同じ穴を穿つ%ケ路工事にしても(注10)、158号線の場合とは様子が随分と違うのだなと酷く寂しい感慨に襲われてしまいました。
飛躍した言い方になってしまい甚だ恐縮ですが、近現代における西欧的手法の象徴ともいえる“穴を穿つ”ことにつき、ここらで少し歴史を振り返ってその原点に立ち戻って再検討することもあるいは必要なのではと思っている次第です。
〔註〕 (注1) この「利根川東遷事業」の評価や目的に関しては、近年疑問の声が上がっているようです。すなわち、一般には、利根川東遷事業は、洪水を防ぎ、水田を開発し江戸を守ることを目的としているとされてきましたが、江戸初期に行われた工事には「東遷」という意識はなく、単に水運を確保するために行われたものに過ぎない、実際の東遷事業は、足尾銅山鉱毒水を東京に流さないようにするために明治政府によって行われたものである、という説が登場しています(たとえば、鈴木久仁直著『利根の変遷と水郷の人々』<崙書房、1985.11>)。
(注2) ここらあたりの記述につきましては、HP「利根運河の四季」の中の「利根運河物語(第一章)」を参照いたしました(http://www.ne.jp/asahi/noda/tora/monogatari1.htm)。
(注3)
著者芝木氏の最初の著作『順天堂経験』と、今回の著作との関係性が書名からではヨクわからなかったのですが、著者の勤務先である東神堂のHPで『順天堂経験』をクリックしますと(http://www.toshindo.co.jp/info.htm)、同書は「関 寛斎」に拘るものだということが判明し(佐倉順天堂における医療実験録の解説・注記)、そうであれば両書は寛斎′qがりなのだなと了解された次第です。
なお、私は何も知らなかったのですが、「関 寛斎」は、その資料館まで北海道陸別町に設けられている有名人であり、本書に描き出されている「示現寛斎」を彷彿とさせる人格者だったようです(たとえば、http://www12.ocn.ne.jp/~rikushin/kansai.htmを参照)。
(注4)
たとえば、「瘡口はテーデン氏癒瘡水で日夜丹念に洗滌を続け、浮腫にはジギタリスとキナ剤を内服させた。‥‥テーデン氏癒瘡水とは、‥‥ドイツの外科医J・C・A・テーデン(1714〜1797)によって製られた水薬で、‥‥」(本書P.274)というように。
(注5)
たとえば、『赤ひげ』の「おくめ殺し」という7番目の挿話では、取り扱われる疾患は角三の傷(「頭だけは刃物の傷だが、ほかはみな棒かなにかで撲られたらしく、脛の骨には罅が入っていた」P.286)に過ぎず、専ら、高田屋の倅の松次郎による強引な地上げの背景究明に焦点が当てられております。
(注6)
たとえば、『赤ひげ』の第一挿話「狂女の話」においては、精神疾患を患っている娘・おゆみに関して、3人の殺人(うち一人は未遂)を犯したにもかかわらず、「親のちからもあったろうが、娘は罪にならなかった」(P.20)とし、更には、「おゆみは九つのとき、三十幾つかになる手代に悪戯をされ」たことがその精神疾患を患うことになった一つの原因のように描かれています(P.41、P.332)。前者は、近代的な責任能力の問題とも考えられますし、後者は、精神疾患の原因として幼児期の性的トラウマが見出されたのは20世紀のフロイトによるところが大きいはずですが、それを先取りしてしまっているようにも思われるところです(尤も、妙木浩之著『エディプス・コンプレックス論争』<講談社選書メチエ236>P.46によれば、「当初フロイトはヒステリー神経症の原因を外傷(トラウマ)だと考えていた。それがエディプス・コンプレックスの発見によって大きく変化する」ようですが)。
(注7)本書の半ば頃(P.123〜P.129)において、山脇東洋の解剖とか華岡青洲の全身麻酔が触れられていますから、アト一歩で「伊良子道牛や光顕」と繋がったのにと残念な気もしました。「道牛」や「光顕」にご興味のある方は、本HPに掲載していただいた拙稿「ある詩人をめぐって−伊良子清白の生涯−」をご覧ください。
(注8)
話題の日本道路公団は、「東海北陸道が全通した場合、愛知県の一宮JCTから富山県の小矢部砺波JCT間が約2時間40分で結ばれ、中部・北陸地方の産業・経済・文化交流及び沿線地域・中部山岳地域の活性化に寄与するものと期待されて」いるとしています(http://www.jhnet.go.jp/press/rel/2002/10/16/)。
(注9) 『今がわかる 時代がわかる 2004年版 日本地図』(成美堂出版)のP.41に記載の数字によれば、東海北陸自動車道の2001年度における交通量が1333.3万台であるのに対して、東名高速はその10倍以上の1億5333万台です。
(注10) 全長4.3kmの安房峠トンネルには及ばないものの、東海北陸自動車道でも、3.2kmの城端(じょうはな)トンネルなどの長いトンネルがいくつも掘られております。
(03.12.13に掲上) |
(樹童の感触) 医学はさておき、「安房峠」は岐阜県高山市の市街地の西北方に位置し、現在、岐阜県上宝村と長野県安曇村との境にあります。かって、その工事中に同地を訪れた経験のある者としては、これが完成して交通がスムーズな流れとなっていると聞いて、気持ち休まる思いです。岐阜北部や富山県などへ容易に行けるようになったことと、トンネル造成中に熱湯が吹き出るなど湧出水量が多く、たいへん難工事だったと聞いていたからでもあります。
上宝村も、このところ強力に進められている自治体合併の流れのなかで、付近の町村と共に平成17年に高山市に合併になる予定とのことですが、こうした情報は上記(注9)の『日本地図』に掲載されており、時代の流れを感じざるをえません。 (地方自治の動向については、「岡本全勝のページ」をご覧下さい) |
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