(続く)

   <小林滋様からの来信> 10.1.10受け

 
 今回の貴論考を興味深く読みました。そこで、感触めいたものを記してみます。
 
1 一般論を考えれば、

 歴史資料の取扱方法について、特に白崎氏が、「同時代史料を重んずることは史学の鉄則である」とか「七百年も後代の史料に如何なる記載があろうとも、それを無視するのが歴史研究の正しい態度である」などとして、天武天皇や額田王等の年齢を推定することに対して、貴論が、「どのような資料であっても一応すべての関係する記事を視野に入れ、そのなかで正確度の比較的に高いものを中心にすえて立論し、総合的合理的体系的に検証するという姿勢のほうが妥当ではあるまいか」との立場から、批判を展開する点に関心を引かれます。
 一般的な観点からいえば、「現実に存在する歴史関係資料はきわめて限定された範囲のものであることが多く、古代史の分野においては、「同時代史料」はほとんど無いに等しい」状況はよく分かりますし、そうした条件のもとにおいて、入間田・白崎両氏のような資料選別態度をとれば大きな問題を引き起こすおそれが考えられ、貴論での指摘は十分な説得力があると思われます。
 たしかに、本来的に「同時代・近時代の史料のすべてが史実を的確に記録したものばかりではない」わけですし、逆に、「全体としての成立が後代である史料であっても、同時代ないし近時代の史料の記事もそのなかに含んでいる可能性もあ」り、それを「当時の編者が勝手に捏造したとするのは、各書物の成立経緯からいっても無理な断定」が過ぎるようですから、「同時代・近時代」という基準だけで資料の価値を云々することなどできないはずです。
 今回の貴論は、教示ないし示唆が多く、十分な説得力を持って迫ってきます。特に、邪馬台国の研究者が、「『魏志』「倭人伝」を金科玉条とし『古事記』『日本書紀』を全く無視する傾向にあることに対して、さらには「考古学的資料のみに寄りかかった立論」や「自然科学的な手法とされる年輪年代法や放射性炭素(C14)による年代測定法」によって出された数値を鵜呑みにしてしまう傾向に対して、貴論が強く警鐘を鳴らされるのも、誠に時宜に適ったことだと思いました。
 というのも、検証を経ていない仮定値の安易な採用は、科学的な研究態度とは言えないものですし、このところ、上記二つの傾向がマスコミや専門学究といわれる人々にも目立ってきているからです。

 
2 額田王の年齢についても、若干触れてみます
 
 白崎氏が作成した「歌年表」は、万葉集に記載されている作歌年に従って額田王の歌を並べただけのもので(そればかりか、貴論の指摘のように、額田王作とは確定していない歌も並んでおり、長歌は記載されていない)、この年表から額田王の生年が導き出されるわけではありません。第1番目に掲げられている「作品(歌番17)」を詠んだのが「14n歳」のときであるとすれば、最後の「作品(歌番2113)」を詠んだのが当然に「59+n歳」になるだけのことで、肝心の「n」に如何なる数値を代入すべきかは、この年表から判断出来ません。
 この年表を使って白崎氏が実際に試みていることは、仮に「n=0」とすれば()、その場合には、例えば「作品(歌番18)」は額田王が30歳の時の歌となりますが、それで矛盾は生じないのかとチェックすることです。そこに矛盾がなければ「n=0」としても構わないではないか、と言っているわけです。ですが、こんなチェックは何の意味もないでしょう。確かに、「作品(歌番18)」は、30歳の人が詠んでもおかしくない歌なのかも知れません。そうだからといって、30歳の人しか詠めない歌というわけのものでなく、60歳の人が詠んでもおかしくないことは明らかだからです!
 従って、白崎氏の論理展開には飛躍がありますから、「歌年表」を使って額田王の生年をチェックしようとしても、ソレは出来ない相談だということになるでしょう。
 「歌年表」を作成して年齢との関係を吟味しようとするのは、統計的手法の濫用ではないでしょうか?洋の東西を問わず、また時代の後先もなく、詩人ほど常識破りの行動をする人はいませんから、数多くの詩人を集めてきてそこに一定の傾向を読み取るとしても(たとえば、年齢と歌〔詩〕の特色との関係を見つけ出すとしても)、そんなことは血液型性格判断以上にナンセンスな作業と言わざるを得ないところです!
 白崎氏は、『山川登美子と明治歌壇』とか『樋口一葉日記の世界』などといった著作からすると、文学の世界にかなり足を踏み入れていて(『「明石人」と直良信夫』のような著作でも会話体が散見されます←と言って歴史小説を狙っているわけでもなさそうです!)、歴史学者による緻密で客観的な記述といったものから往々にして逸脱するところがあるように見受けられます〔むしろ、ご自分の文学的直感(特に詩的な事柄に関する)に頼りすぎではないでしょうか〕。
 貴論でも、「二回も記載の「信じている」に端的に表現されるように、まさに想像と信念の世界である」などと述べるところからみても、この額田王についての記述は、まさに「自分がこう想像するからそれが正しい」とする世界であり、それも白崎氏はよく弁えていると思われるところです。だから、貴論が強い説得力を以て鋭く批判しようとも、他者の容喙を許さず、馬耳東風と受け流すに相違ありません。そうすると、この辺は文芸雑誌の分野の話のようであり、問題があるとしたら、あるいは、『東アジアの古代文化』のような歴史学にかかわる雑誌に、白崎氏の論考が掲載されたことにあるのかもしれません!
 
 注)白崎氏は、上記の「n=0」につき、根拠めいたものをある程度示してはおります。すなわち、「葛野王の生年669年を基礎にして、これから、a第一子出産年齢十八歳の二倍を減じた舒明七年すなわち635年、b同じく二十歳とすれば、舒明三年すなわち631年が額田王の生年となる、という二つの計算例」を示しているところです。そして、この計算の根拠となるのが、「奈良時代の様々な戸籍記録から、当時の女性の第一子の平均出産年齢を求め、一般庶民では23,4歳で第一子を出産するが、上流子女ではもう少し早く、「数え年十九歳程度に落ち着く」」という数値です。要すれば、額田王とその孫である葛野王との年齢差は、当時の平均出産年齢の2倍に相当するというものです。

 しかしながら、仮に、白崎氏が導出した当時の平均出産年齢が妥当な数値だとしても、それは単なる「平均値」に過ぎません。どうしてそのような平均値を、特定の個人の1年刻みの年齢推定の際に使うことが出来るのか、私には到底理解出来ないところです。「平均値」はあくまでも平均値なのであって、それを使って再度平均的な値(
一定の幅を持った数値)を求めるというのであれば話は別ですが、額田王の生年を年単位で推定するという個別具体的な問題に対して、どうして解決になるのでしょうか?生物学的な観点から出産年齢にそんなに大きな幅があるとは思えないとはいえ、当時の上流子女については「数え年十九歳程度に落ち着く」から、額田王の場合は「出産年齢十八歳」あるいは「二十歳」だとしてしまうのは、マッタク何の根拠もない決めつけか思込みに過ぎないと思われます(それに、どうしてその「2倍」なのでしょうか?「十八歳」+「二十歳」ではどうしていけないのでしょうか?)。
 この辺の年齢についての判断は、常に個別的だと思われるところです

  (10.1.10 掲上)

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