史料価値としての近時代性     

       
      −入間田宣夫氏と白崎昭一郎氏の論考を読んで考えたこと−


                                              宝賀 寿男


  はじめに

 最近、古代と中世の様々な人間関係を検討する過程で多くの論考・著作にあたるなか、学究(ないし学究関係者)の諸論考を読んでいて、相次いで違和感を感じた思考・研究方式の記事があり、それらについて多少とも考えるところもあったので、感じた疑問等々を記し、併せて私見を記してみようとするものである。
 その疑問とは、歴史上の問題を考えるとき、史料をどのように取り扱うのが妥当か、どこまでの史料が検討の基礎となりうるのか、史料からどのような内容を把握するのか、という点に関してのものであり、具体的には入間田宣夫氏と白崎昭一郎氏の論考に表現された記事に関してである。
 
 一 概略的な問題意識の提示
 (1) 入間田宣夫氏の論考「鎌倉時代の葛西氏」に関して
 問題意識の発端は、中世陸奥の雄族葛西氏の系譜についての入間田宣夫氏の論考「鎌倉時代の葛西氏」に関するものである。この論考は、もともと『石巻の歴史』第一巻通史編上(1996年刊)に「鎌倉武士団の入部」のなかに収められたものであるが、その後、名著出版から関東武士叢書シリーズのなかに『葛西氏の研究』(1998年刊)が出されるとき、東北大学教授であった入間田氏はその編者となり、同書の「第一章 鎌倉御家人葛西氏の発展」のなかに冒頭を飾る論考として転載されている。
 本論考は、初期の葛西氏についての基礎的な論考であり、多くの有益な示唆・教示を与えることは否定しない。まず、この辺をお断りしておくが、なかに気になる表現と考え違いではないかと疑われる個所があり、それらがいわば表裏一体として考えられるのではないかとも思われる。
 具体的な表現としては、〔付記〕としてあげられる次の個所である。
 「本章においては、『仙台葛西系図』『平姓葛西系図』など、近世に成立の系図類に言及することがなかった。根本の史料にまで遡って、確実な歴史像を復元しようと意図したからである。これらの系図類のなりたちについては、第三章(『石巻の歴史』第六巻特別史編)で述べられることになっている。」
 
 要は、鎌倉時代の葛西氏について、「根本の史料にまで遡って、確実な歴史像を復元しようと意図」したら、後世の編纂となる「近世に成立の系図類」は検討の参考にはならないと考え、その前提で原型的な歴史像の復元という作業に取り組んだということである。しかし、これは本当に正しい学問研究の姿勢なのであろうか、という疑問である。
 
(2) 白崎昭一郎氏の「天武天皇年齢考」及び「額田王年齢考」に関して
 白崎氏は『東アジアの古代文化』誌終刊の報を得てから、一度筐底にしまい込んだ原稿を取り出してきて同誌第136号(2008・夏)に「額田王年齢考」という論考を掲載した。この論考は、同じ誌の二七年前の第29号(1981・秋)に掲載された「天武天皇年齢考」と姉妹論考の関係にあり、両論考を一体で見たほうがよいと分かる。ここでは先行した第一論考たる「天武天皇年齢考」は、後行の第二論考においてはとくに大きな改定は示されていないから、むしろ先行論考のほうを主に取り上げることとする。
 天武天皇の年齢については、『東アジアの古代文化』誌などで一九七〇年代に活発に議論されたが、上記第一論考はその流れのものとみられる。私も、今から十五年ほど昔に主要万葉歌人の系譜を検討するなか、白崎第一論考を知らずに、大和岩雄氏の著作『古事記と天武天皇の謎』(1979年刊)、同『天武天皇出生の謎』(1987年刊)などの書に問題意識を刺激されて、天武天皇・額田王らとその周辺皇族等について生没年を考察する論考をほぼ完成させており(未だ公表していない)、それらと照らしつつ、白崎氏の両論考を興味深く読ませていただいた。
 実のところ、私の考察結果は白崎氏の結論とほぼ同じような結果になったものもあるが、検討過程にあってはおおいに異なるものがあった。結果的には数年の違いがでた程度でもあるが、それ以上に、そのなかに歴史研究の姿勢として正しいのかという問題意識で受けとめたものが、白崎氏の表現のなかにいくつかある。それらは、第一論考の「天武天皇年齢考」のなかで表現された、次の個所である。
@「平安末の『扶桑略記』をもって『書紀』の記載を動かすことができないとすれば、十五世紀成立の『本朝皇胤紹運録』を基礎として『書紀』を疑うことは更に無理なのではなかろうか」
A「同時代史料を重んずることは史学の鉄則である。私は自著『東アジアの邪馬臺国』において、『古事記』『日本書紀』を邪馬臺国研究の資料として用いない方針を立て、それを守った。それは『古事記』『日本書紀』が、邪馬臺国の存在していた三世紀よりも約五百年も後に編纂された書物であったためである。…(中略)…『本朝皇胤紹運録』は七百年以上も後代の史料である。これを資料として用いることが果して許されることなのであろうか。」
B「七百年も後代の史料に如何なる記載があろうとも、それを無視する(ないものとして取扱う)のが歴史研究の正しい態度であると考える。」
 
 白崎氏が述べるように、同時代ないし近時代の史料を比較的に重んずることは、私も、当然のことと考えるし、「およそ歴史家の精否を分つ鍵は、史料の選択」(氏の表現)であると考える。しかし、史料の選択ばかりではなく、史料の解釈・判断(評価)にもあると考えるので、こうした基本的な線では見解があまりに違うとは考えない。しかし、問題は、同時代史料がなかったり、信頼できそうな史料に的確な記事が見えないことについての探索である。一般に、中世でも古代でも史料や記事がきわめて乏しい分野が多くあるということであり、また、同時代・近時代の史料のすべてが史実を的確に記録したものばかりではないことでもある。かつ、同時代に記された史料が長い筆写期間を通じて当初に書かれた原型どおりに現在に伝えられているのか疑問があり、筆写や活版印刷の過程で誤記・誤植がかなり多く生じる可能性があるということでもある。
 ここまで書けばお分かりになると思われるが、いわゆる邪馬台国所在地問題にも通じる史料・資料の選択や評価・判断についての問題につながってくる。白崎氏は、後代史料は無視するのが「歴史研究の正しい態度」と大見得を切っているが、現実の史料残存状況と照らしてみると、決してそのとおりで良いとはいえない。なぜなら、現実に存在する歴史関係資料はきわめて限定された範囲のものであることが多く、古代史の分野においては、「同時代史料」はほとんど無いに等しい。このようなことを言ったら、記紀成立の遥かな後代である平安後期の十二世紀半ば頃に成立し、現在に伝わる最古の刊本が1512年とされる『三国史記』しか国内史料がない朝鮮半島では、古代史の研究ができなくなる。ましてや、同書成立当時の当地に残っていた文献を基礎資料とする事情も無視することになる。
 
 (3) 筆者の視点
 古代史分野にかぎらず歴史の分野では、史料の示す内容が限定的であって的確な記事がないもの(的確な解釈ができないもの)が多い故に、適解には至らない問題が多かったのだから(必要かつ不十分な条件〔資料〕のもとで、どこまで正解が得られるのかということ)、これまでに様々な歴史論争が生じてきたことを十分考慮する必要がある。
 「史料の選択」を厳格に行い、その結果、用いる資料が限定され、出された結論が曖昧か不正解であるということを選択するのが、「歴史研究の正しい態度」なのであろうか。どのような考え(仮説)が歴史的にみて比較的に妥当性・合理性のあるものなのかを総合的に考えて、より蓋然性の高い解を探索・検討するのが科学者の一員たる歴史家としての適切な姿勢ではないのだろうか。
 史料だって多くのものがあるから、それぞれに正確さに度合いが違うものであり、ゼロか百かということでは決してない。これは、同じ書・史料のなかの記事であっても同様である。そうすると、どのような資料であっても一応すべての関係する記事を視野に入れ、そのなかで正確度の比較的に高いものを中心にすえて立論し、総合的合理的体系的に検証するという姿勢のほうが妥当ではあるまいか。
 入間田氏と白崎氏の上記論考・著作にあっては、その手法によってもたらされた結論を、多くの資料を照合することにより「総合的体系的に検証する」過程が抜けているように感じられ、その結果、私には誤った結論に到達したと考えられる点もある。そうすると、両氏が最初に選択したアプローチ自体にやはり問題があるのではないかと考え、ここに試論を示すものである。
 
 
 二 入間田論考の具体的な検討
 
 入間田論考については、批判したい点があるうち、それらの主なものを具体的に列挙すると、次のようなものである。
 葛西時清の位置づけには大きな疑問があること。
 葛西時清の最初の通称としては、『東鑑』には「壱岐小三郎左衛門尉」と見えるが、これにとらわれすぎてか、その後に「伯耆三郎左衛門尉」となったことを当該論考は無視される。すなわち、「壱岐小三郎左衛門尉」から「伯耆三郎左衛門尉」へという呼称の変化から見ても、清親の子であり、その嗣子で本宗家督となったこと、葛西氏歴代に数えるべきことは疑いない。これを、壱岐守清重の子のなかに入れて考えてしまっていることが大きな誤りだと考える。その結果、葛西氏歴代の世代数が一代欠け、時清の子の清経が、叔父の光清の兄で、清親の子におかれる系譜を考えている。
 この原因は、香取神宮文書から見える44年の空白を埋める世代が一代と考えたことに起因していたようでもある。同文書は、治承元年(1177)に「葛西郡(一に郡ナシ)豊島三郎清基」と見えるように、必ずしも正確な表現かどうか疑われる記事もある。この者が清重を指すとみる説と、清重の父の清光(清元)を指すという説があるが、おそらく前者であろうか(この点では入間田氏の見方と合致するが、そうすると、香取神宮文書の「清基」には誤記がある)。嘉禄三年(1227)の「葛西郡壱岐入道」は一に「葛西伊豆入道定蓮」ともあるので清重であるが、その晩年にあたっており、実質的にその子の清親の世代に入っているので、文永8年(1271)の「葛西郡地頭伯耆左衛門入道経蓮」(清経)との世代差は、清親と清経とを比べるほうがよいと思われる。そうすると、両者の間に時清という家督が一代入ることになる。『東鑑』の嘉禎〜建長頃の記事では、葛西時清は有力御家人の当主の一人として、将軍藤原頼経に随行したことが見える。
 なお、時清については、『葛西氏の研究』に所収の今野慶信氏の論考「鎌倉御家人葛西氏について」では、正当な位置づけをしており、『石巻の歴史』第六巻・特別史編の第三章で、葛西氏の系譜をとりあげる石田悦夫氏の見解でも同じく、清親の子で、清経の父におかれる。
 一般には、頼朝期の人(ex.葛西氏でいえば清重)と建武期の人(ex.同、清貞)との中間におかれる世代差は、その中間が四世代というのが多く、結城庶流の白河家など嫡流から遠くなる流れでは三世代とか、早い年齢での子の出生が多い系統では五世代になる場合も見受けられる。この辺の世代感覚を念頭に置くと、時清の一代を省くと、葛西氏は鎌倉期の中間世代は三世代しかないということになり、世代的にも不自然な流れとなる。
 葛西氏の鎌倉期・室町期の系図は難解であり、いわゆる仙台系の系図と盛岡系の系図という二様で伝えられていて、これまで多くの議論があった。系図に良本がなく、史料的にも乏しいものがあって、そのなかで総じて仙台系の系図が妥当とされてきたが、その二様の系図でも、時清は『東鑑』とは異なる「清時」という名で、両方の系図ともに清親の子にあげられている。別途、時清に近い世代で清時という者も葛西一族にはいたとみられる。このため、系図の混乱が助長されているが、時清の世代を抹消してよいものでもない。
 
 同論考の最後の部分(57,58頁)に見える「葛西三郎太郎」の解釈にも疑問がある。
 『米良文書』記載の笠井系図には、この「葛西三郎太郎」が清親の長男として見えており、そこでは実名が「□清(□は欠字)」で、子に又太郎兵衛があげられる部分もあるが、その辺を見落として、入間田論考では検討しているようにも見受けられる。この又太郎兵衛は『東鑑』寛元三(1245)年八月十五日条の競馬五番に見える葛西又太郎(文応元年条には葛西又太郎定広と見える)にあたるとみられるが、「三郎太郎」の子で「又太郎」というのは通称のつながりが自然である。
 
 以上のような諸問題点などもあり、入間田論考はいろいろ示唆深いものがあるものの、鎌倉期葛西氏の系譜的な考察では、同じ書(『石巻の歴史』第6巻)に所収の石田悦夫氏の論考(第3章の第1節)に比べ、総じてやや見劣りの感もある。それは、不正確な記事もある史料に基づいて検討したこと、最初に排除した後世の系図にも参考とすべきことがあったことなどの事情に因るものではなかろうか。
   
   ※関連して  葛西氏に関する応答
 
 
 三 白崎二論考の具体的な検討
 
1 「天武天皇年齢考」における基礎データの誤り・見落し
 本論考においては、執筆者の意図したものか意図しないものかの判断がつかないが、すくなくとも三点、天武天皇及び額田王の年齢に関係する基礎データの誤り・見落しがあることを最初にあげておく。
 その@は、額田王の娘の十市皇女についての没年の誤りである。『書紀』には、十市皇女は天武天皇七年(678)、伊勢斎宮として出立の当日四月七日朝に急死したとされており、これが、「十市皇女、卒然に病発して、宮中に薨せぬ」と記される。だから、西暦表記では六七八年の死没であるにもかかわらず、白崎論考では「六七六年」(掲載誌の123頁下段)と誤記されている。これにより、十市皇女及びその母の額田王について、差の二年分は年代引上げがおきることになり、その結果、「額田王より一・二歳年長と見積る」とおかれた天武天皇の生年についても、二年分の引上げが生じることになる。
 そのAは、間人(はしひと)皇女の存在を考慮しないことである。この間人皇女は、孝徳天皇の皇后となった女性であるが、『書紀』舒明二年正月条の記事(宝皇女が舒明皇后となって、葛城皇子〔天智〕、間人皇女、大海人皇子〔天武〕の順で二男一女を生んだ)により、天智と天武の間に生まれた皇女であることが分かる。この皇女の存在を念頭におかないことで、天武の生年が実際よりも少し(二年ほどか)引上げ気味に白崎氏の数値が出てくることになる。
 この二つの要素により、白崎氏が「天武の生年は六二八・九年頃」と結論する数値が二年ほど引き下げて考えられれば、白崎論考の結論は「天武の生年は六三〇・一年頃」となって変わってくるはずである。とくに、『一代要記』や『本朝皇胤紹運録』等には、天武の享年について六五歳と記されており、これを川崎庸之氏が「五六歳の倒錯」だとみる説を早くに出していて(『天武天皇』1952年)、学界でも有力説になっている。これに対して、大和岩雄氏も白崎氏も、数字の「倒錯」という見方はとんでもないことだ、と強く反発するるが、その数字に合致するということにもなる。
 そのBは、天武天皇の崩年(享年)の手がかりが唯一『本朝皇胤紹運録』という記事だけではないことである。後述するが、その享年を記す先行史料としては『一代要記』などがあり、天武について享年七三歳という別伝を記す『仁寿鏡』や『神皇正統記』も先行史料のなかにある。
 
2 『扶桑略記』への白崎氏の批判は妥当か
 白崎氏は、『扶桑略記』の記事には敏達天皇の崩年を二四歳とし、崇峻天皇のそれを七二歳としていることをあげ、この誤りをもとにして、平安末期に成った同書をもって『書紀』の記載を動かすことはできないとしている。
 しかし、これはおかしな論調である。『書紀』には、この両天皇について享年の記事が見えない事情にある。『書紀』と『扶桑略記』との記事が相違ないし矛盾したときは『書紀』の記事をとるのが自然であるが、問題は『書紀』の記載がないときに『扶桑略記』を参考にしてはならないとまでは言えないのではなかろうか。喜田貞吉や平子鐸嶺が『扶桑略記』を「木ッ端史料」と呼ぼうと呼ぶまいと、「他に類例を見ない記事を多く含んでいる」と認めるのであれば、これを念のために参考にしないのは、妥当な研究姿勢とはいえないと思われる。
 白崎氏が『扶桑略記』の誤りの例としてあげる敏達・崇峻両天皇の崩年(享年)についても、実は前者のそれが四八歳(上記二四歳の倍)、後者が三六歳(上記七二歳の半分)というのが妥当ではないかとみる研究がある。これは、辻直樹氏の『五王のアリバイ』(1984年刊)所収の「ライフサイズの継体王朝」という論考に見えるもので、継体天皇から推古天皇までの諸天皇について具体的に生没年の検討をいろいろ試算したものである。大化頃から前の暦には複数あったようで、いろいろ不安定な要素があり、そのなかに往古の二倍年暦の数え方も残っていたとしたら、それが誤って適用された可能性も残りそうである。『扶桑略記』は高市皇子の生年を六五四年と記しており、白崎氏は「これに全面的な信頼は寄せられない」と先ず記しながらも、種々検討の結果、これを採用している事情もある。これも後世の史料であるが、『公卿補任』にも高市皇子の薨年を四二或いは四三と記しており、四三歳だと六五四年が生年となるから、両書がほぼ符合する事情もある。
 だから、史料に見えるすべての記事が妥当かどうかということではなく、個別具体的に記事の妥当性を考えて行かねばならないということであろう。
 
3 『本朝皇胤紹運録』等への白崎氏の批判は妥当か
 白崎氏は、「七百年も後代の史料」たる『本朝皇胤紹運録』(以下、『紹運録』とも記す)にあっては、そこに「如何なる記載があろうとも、それを無視するのが歴史研究の正しい態度であると考える」と述べるが、『紹運録』にも妥当とみられる記事がいくつかある。例えば、『書紀』に記事がない持統天皇については、「後代の史書は一致して崩年五十八歳と記しているが、これによると六四五年の生まれとなり」と白崎氏が記すが、この「後代の史書」には『一代要記』『紹運録』『神皇正統記』『皇年代略記』『如是院年代記』などの史書があげられる。白崎氏も、持統天皇については、「恐らく六四五年もしくは六四六年の生れなのであろう」と概ね認めている(これについては、『書紀』皇極三年正月条の記事の解釈からいうと、持統の生年は645年で問題がないと考える)。
 文武天皇についても、『書紀』に記事がないものの、『懐風藻』『扶桑略記』『一代要記』『紹運録』『神皇正統記』などの諸書が一致して、享年二五と記している。

 『紹運録』の成立について調べると、後世の史料ではあるが、頭から無視して良い史料とは言えない事情がある。同書は、天皇・皇族の系図であり、紹運録・紹運図・本朝帝皇紹運録・帝王御系図・帝皇系譜と様々な名で呼ばれる。その成立は、室町前期の称光天皇の応永三三年(1426)、後小松上皇の命により、内大臣洞院満季が『帝王系図』などを照合勘案の上で編纂したものであるが(『薩戒記』など)、本来は、満季の祖父・左大臣公定の編纂した『尊卑分脈』と一対のものであったらしいとされる。その成立後においても、勅命で書継ぎをしたことが『実隆公記』の記事により知られる。成立当初の記事の下限は称光院であったとみられるが、後世、書写・刊行のたびに当時の天皇・皇族まで追補が行われたため、写本や刊本の間でも内容に異同が多い。とはいえ、数ある皇室関係の系図の中で「もっともまとまった権威のある代表的なもの」(『群書解題』の小野信氏の解説)とされる。
 中世の最も信頼性が高い公家(及び一部武家)の系図集が『尊卑分脈』であり、洞院家で長年代々収集してきた系図史料をもとにして、洞院公定のときに編纂されたといわれる。それと対をなす形の皇室関係の系図集が『紹運録』であって、しかも勅撰に準ずるような位置づけであれば、編纂者があだおろそかに記事を書くはずがない。
 もちろん、今の目からすれば、『尊卑分脈』も『紹運録』も、明らかな間違いはかなりの個所で見られる。特に古代の部分については、個別具体的に十分な検討を要することは分かるが、当時の編纂者の尽力があって編述されたことは念頭においておく必要がある。

 『一代要記』も無視してよい史料ではない。同書は、著者不詳であるが、鎌倉中期の後宇多天皇(在位1275〜87)の頃に成立した書で、神代から花園天皇頃までの一大皇室系図で、一代毎に后妃・皇子女・要職者や編年体で記された在位中の出来事の摘要などの記事があり、鎌倉時代末から南北朝時代初期まで書き継がれた。水戸徳川家による『大日本史』の史料探索中、延宝年間(1673〜81)に金沢文庫本を発見し、これを書写したことで世間に流布したとされる。
 こうした成立経緯の諸事情があるのだから、『一代要記』『紹運録』などは、当時の編者が信頼すべきだと考えた資料に基づいて記事が書かれたとみてよい。そして、この両書の記事を比べるときに、七世紀代の天皇について、ほとんど同じ享年が記されていることに気づく。すなわち、推古天皇から文武天皇に至る九代八人の天皇の享年についていうと、孝徳天皇については両書が不記載なので、これを除く七人については、天智の享年が異なるだけで(前者が53歳、後者が58歳)、あとは同じ享年が記される。こうした対照により、『紹運録』の先行史料として『一代要記』が位置づけられるとしてよかろう。

 これらの書の編者が、『書紀』には享年が書かれていない天皇について敢えて享年を記載したということは、必ずや拠ってたつ史料があったはずである(この史料の記事が実際に正しいかどうかは別問題)。そうした資料を有していたとみるのは「水野氏や大和氏の憶測」だと白崎氏が考えるのは、行き過ぎであろう。「そうした資料が存在していたという積極的な証明は、どこにもなされていない」と白崎氏はいうが、「積極的な証明」という問題ではなく、当時の編者が勝手に捏造したとするのは、各書物の成立経緯からいっても無理な断定であろう。京都の皇室・公家や寺社などには旧書が長く保存されてきており、これらの多くが南北朝期や応仁の乱などの兵火で焼失されたとしても、それ以前では現存する史料以外のものがなかったとはいえない状況にあった。このへんは、史料の物理的な存在の問題であって、価値観や秩序の問題ではない。
 大和氏の『天武天皇出生の謎』の記事を借りて以下を記述すると、「白崎氏は、南北朝期は、古代的なものの考え方と秩序が完全に崩壊し、消滅した時期だから、南北朝時代に成立した『本朝皇胤紹運録』を取り上げて、問題にすべきではないという。…(中略)…しかし、白崎氏の説が成り立つためには、『本朝皇胤紹運録』以前に、天武天皇の崩年を六五歳とする史料がない。南北朝以後の古代に関する史料は信用できない、という二点が証明できてのことである。…(中略)…南北朝以前に天武天皇の崩年を六五歳とする史料があったらどうするのか。ところが、そういう史料がある。」として、それが後宇多天皇時代に成立した『一代要記』だと示す。ところが、この『一代要記』を知っているはずの白崎氏は、「天皇崩年の時代的変遷」と題した表(「『日本書紀』の信頼限界と後代史料」、『東アジアの古代文化』32号、1982年)では、「なぜか『一代要記』を落としている」と大和氏は批判する。

 このあたりの議論は、誰が見ても総論的には大和氏の論調に言い分がある。ただ、そうだからといって、鎌倉中期の『一代要記』になって初めて書かれた天武の享年六五歳を直ちに是認するべきではなく(大和氏のその後の議論の基礎は検討不十分ということ)、これはこれで十分に検討する必要があるということである。先にも記したように、天武には、信用度が少ないとしても七三歳という享年(『仁寿鏡』『神皇正統記』あたりが最初か)も伝えられる事情もあるし、六五歳が正しいという保証もまったくない。すなわち、史料の全てを是認する、否定するという問題ではなく、どの問題点でも個別具体的に考えていく必要がある。
 
4 白崎氏のアプローチと結論への疑問
 白崎氏は、問題となる天武生年へのアプローチとして、天武の最初の愛人(妃?)であった額田王の生年を基礎とする。額田王の生年については、@孫の葛野王から逆算する方法であり、葛野王の生年を『懐風藻』から導出し、そこから葛野王の母の十市皇女(天武の長女)の生年を推定し、さらにその母の額田王の生年をまず「627〜637年」と推定している。当時の皇族の結婚年齢や初子女をもうける年齢(17,8歳〜21,2歳)を具体的な史料を基礎にするから、この辺の幅の期間は妥当であろう。
 また、A額田王の作成とされる歌を年代的に並べて、これが白崎氏のみる推定年齢と符合するかとのチェックをしている。しかし、これは人によって成熟度が異なるから実質的にチェックになるかどうかは、傍証としても疑問がある。
 しかも、額田王の名で『万葉集』に最初に出てくる歌としてあげる作品(歌番1−7)にも問題がある。同書には、「作者は未詳」ともあり、註記には、戊申の年に比良宮に行幸するときの天皇の歌とも記されている。戊申は大化四年、すなわち西暦648年にあたるが、この時の天皇は孝徳天皇であって、この歌は男性の天皇の作ではないと白崎氏はいう。しかし、同じ註記には、『書紀』にいわくとして、斉明天皇五年(659)に見える記事を引くから、女性の斉明天皇の御歌とも伝えられることがわかる。ところが、白崎氏は、「これを皇極三年(644。〔筆者註〕年紀が甲辰であることに注意)額田王十五歳のときの作品だとすれば」と唐突にいう。この歌が「恐らく額田王の処女作であり、大海人皇子(天武)の知遇を得た際の作品ではあるまいか」と推測しての話である。この辺の重要な判断には、具体的な根拠が乏しく、まるで想像論の世界である。私には理解することも、納得することもできない。こうした不確かな根拠で、額田王の年齢が推定できるのであろうか、疑問である。

 白崎氏は、上記のような推定から額田王の出生を630年頃と推定し、全生涯の歌作に対して矛盾を生じないかを検討する。しかし、このような心象だけでは説得力がきわめて弱い。それにもかかわらず、「かくの如く私の額田王の年齢推定は、処女作より晩年に至るまで全体的に矛盾のない心算である」と述べられる。まるで、自分がこう想像するからそれが正しいといわれるにすぎない。直木孝次郎氏の著『額田王』でも、歌の客観的評価に疑問があるとして否定的であると白崎氏自身も第二論考で紹介するが、これは歴史学者として当然の話である。
 次ぎに、天武の生年推定に移るが、ここでも白崎氏の心象が大きく展開される。すなわち、「私にはどうしても、天武天皇と額田王との年齢差が非常に大きなものだったとは考えられないのである」という見方が天武の生年推定の基礎にある。この基礎が崩れれば、それ以上の白崎氏の論は展開できないはずであるし、天智と天武の兄弟関係を疑う議論に対しては、なんら対抗力をもたないものである。
 ともあれ、白崎氏は、天武の長男高市皇子の生年を検討して654年とし(『扶桑略記』の記事でもあり、これを白崎氏は「全面的な信頼は寄せられない」としながら、結局は採用)、長女の十市皇女の生年を650年頃(母額田王の生年が630年頃、息子の葛野王の生年が669年という二点からの推定)とみることになる。しかし、額田王が630年頃の生まれというのは、前述のように疑問があり、息子の葛野王の生年だけからいえば、十市皇女も650年頃から少し引き下げた652,3年頃の生まれとしても十分ありうる。そして、そのほうが高市皇子とのつながりが良くなると考えられる。かりに十市皇女の生年が652,3年頃となれば、その母の額田王の生年も632〜636年頃まで引き下げられてくる。

 こうした計算があるにもかかわらず、白崎氏は、a額田王を630年頃の生まれとし、これを前提にして、b「大海人皇子を額田王より一・二歳年長と見積もるならば」、「天武の生年は628・9年頃となり、625または626生まれの天智に対して、三歳くらいの年少となる。したがって『書紀』の天智・天武同母兄弟説に対して、積極的に反対する論拠はなくなってくるわけである」と結論する。しかし、aもbも大きな疑問のある前提にすぎないから、天武の年齢推定にも当然に疑問が出てくる。かつ、最初にあげたように天智と天武との間の間人皇女の存在も、白崎氏は無視している。
 これでは、「天智天武同母兄弟説を先入〔註〕「感」は誤字だが、ママ)とすることなく、両者の年齢考定を確実な史料のみから推理する」といえるのだろうか。私には、白崎氏が確実な史料を十分に使ってはおらず、かつ、重要な前提の大部分は心象か想像に頼っているとしか受け取れないのである。(白崎氏と同様なアプローチをとっても、氏が誤ったり無視した事情を含めて総合的に考慮すると、天武の生年は二年ほど引き下げられ、630,1年頃となるのではなかろうか
 
5 白崎氏の再考としての「額田王年齢考」
 次ぎに、白崎氏の最近の検討を見てみよう。その検討結果としては、次のとおりであり、第一論考と結論数値はほとんど変わっていない。
  (〔註〕以下の記事は、白崎氏の見解と筆者のコメントとしての私見を対比して記す
(1) 「『懐風藻』の年齢は、葛野王・智蔵の例も含めて、年齢はすべて享年をもって記すという方針を立てていると考えてよい」
 <私見
これには、私としても異議がない。近時代史料としての『懐風藻』の年齢記事については、とくに疑う事情はない。
 
(2) 奈良時代の様々な戸籍記録から、当時の女性の第一子の平均出産年齢を求め、一般庶民では23,4歳で第一子を出産するが、上流子女ではもう少し早く、「数え年十九歳程度に落ち着く」。
 <私見
ほぼ穏当でもあろうが、白崎氏の提示した資料からみると、当時の上流子女では両極端を除外すると、初子を生む年齢は「18,9歳から22,3歳」という幅をもってみたほうがよさそうである。とくに、草壁皇子・孝謙天皇・文徳天皇の生母が十八歳で第一子を生んだ例に留意される。『書紀』斉明七年(661)正月八日条には、大海人皇子の妻、大田皇女(当時18歳)が大伯皇女を産んだと記され、次の弟・大津皇子はその二年後に生まれた(『書紀』)という事情もある。だから、初子が女性十八歳の時というケースを十分考慮する必要があろう。
 
(3) 次ぎに、本題の「額田王の年齢考察」として、次の論旨が展開される。
 葛野王の生年669年を基礎にして、これから、a第一子出産年齢十八歳の二倍を減じた舒明七年すなわち635年(〔註〕原文には、舒明七年をカッコ内に入れて、本文には「633年」と記されるが、これでは計算が合わないので誤記とみた)が額田王の生年となる、b同じく二十歳とすれば、舒明三年すなわち631年(〔註〕原文には、舒明三年をカッコ内に入れて、本文には「632年」と記されるが、これも計算が合わないので誤記とみた。どうして肝腎な数字を二つとも誤記されるのであろうか)が額田王の生年となる、という二つの計算例が示される。
 そのうえで、「試みに額田王を舒明三年(六三一)の出生として、歌年表を作れば」、それぞれが「ほぼ年齢に相応しい出来栄と思われ」、「額田王の年齢推定には大きな矛盾はないものと信じている」と結んでいる。この後ろに、先の第一論考では、「額田王の生年を六三〇年と推定」したが、今回は「六三一年と推考し、一年若く考えているが、それによって大きな誤りは生じていないものと信じている」という説明もつけている。
 <私見二回も記載の「信じている」に端的に表現されるように、まさに想像と信念の世界である。白崎氏のいう「歌年表」が客観性を欠くなどの問題点は先に述べたし、それなら、額田王の生年を例えば635年まで引き下げたときに、なにか矛盾が生じるのであろうか。要は、白崎氏の両論考は、的確な検証がなく、心象的な傍証で満足していることに、大きな問題点があるということである。また、仮に額田王の生年推定が一年引き下げられれば、白崎氏のいう天武の生年も629,30年ということになることにも留意しておきたい。
 
6 天武天皇・額田王の生年についての私見
 白崎氏と同じようなアプローチをしても、額田王の生年を631〜636年くらいの幅でみざるをえないし(敢えて印象を言えば、その前半くらいかとも思われるが)、それ以上は期間を絞り込めないと考えられる。また、天武天皇については、十市皇女・高市皇子の生年から推定すれば、630〜632年くらいが妥当ではあるまいか。とくに天武については、同母姉の間人皇女の存在(及びその婚姻時期)と母・皇極斉明(別途検討したところ、『帝王編年記』が独特にいう601年の頃の出生か)の出産年齢を考えれば、兄の天智天皇(『上宮聖徳法王帝説』に拠り、625年生とするのが妥当か)との年齢差を五,六歳くらい(630ないし631年)とみておくのが穏当であろう。そうすれば、白崎氏や大和氏がもっとも嫌う数字の631年の生年というものが出てくる。

 ※ 天智と天武との年齢差がどのくらいだったか。
   こうした検討もしておくと、それぞれの長子・次子の生年を比べるのが一方法である。天智の長子・次子にあたる大田皇女・持統天皇の生年が644年・645年とみて、天武の子女の十市皇女・高市皇子のそれが652,3年と654年とした場合に、その年齢差が八,九年となるので、これがそのまま天智と天武との年齢差としてもよいかもしれないが、両者の母の出産適齢(30歳代はじめくらいが上限か)及び中間に姉妹が間人皇女一人しかいない事情を考えると、本文に記載のように五,六歳くらいとみておくのがほぼ穏当であろう。天智の初子大田皇女の誕生が天智19,20歳の時と心持ち若い時期であり、天武の初子が当時の男子通常の22,3歳の時だったとすれば、ここでも三,四歳年齢差が縮まる。一般的にも、両天皇は四,五歳くらいの年齢差とみられているようである。なお、『紹運録』における天智・天武の年齢差も八歳となっている。
また、長子・次子の年齢差が八,九年もあれば、天武が天智の兄であった可能性はまず考えられない。大和氏の「漢皇子=天武」という説は、こうした基礎的考察もなしに、空想論で展開していることになり、この辺についても批判しておきたい。
 
 結局、川崎庸之氏が「五六歳の倒錯」だとみる説が最も妥当な範囲にあたるのではないかということでもあった。だから、この説を支持ないし傾斜した学究が多くて、ほぼ通説的な位置を占めても、なんら不思議ではない。川崎氏もただ倒錯としたわけではなく、この仮説なら、兄・天智との年齢差が五年であって、間に間人皇女を挟むことで妥当であろうとみている事情にあった。白崎氏は、『本朝皇胤紹運録』を信頼してはならないという呪縛にからめとられて、川崎説を最初から無視したことで蹉跌への途を歩み始めたともいえよう。白崎氏の結論は数値的には大きな誤りはなかったにしても、小さな誤りは多分にあるし、史料の取扱いについては大きな問題につながる。
 そのそも、「五六歳」と「六五歳」くらいの誤記は、史料転写の過程で往々にして生じるものである。『魏志倭人伝』で畿内説論者は、記事に見える方位記事の「南」を平気で「東」の誤記だと考えるが(ないしは、そのように解釈を加えるが)、そうした見方よりは文字的に十分ありうるということである。『書紀』の記事から考えて、天智が享年四六歳(『上宮聖徳法王帝説』に拠れば、天智の享年は四七歳)ということと、天武が享年五六歳ということとは符合する。
 つまりは、天智と天武に近時代史料としての『書紀』に頼らなければ、両者の親族関係や年齢差は導き出すことができないということである。だから、『書紀』以外の信頼できる史料でこれを否定するのならともかく、信頼性が落ちてくる後代史料を基にして、両者についての『書紀』の記事を疑うことはできないということでもある。天武を天智の兄弟ではなく無縁の別人だとみる説も、天武を天智の異父兄の漢皇子と同人だとみる説(大和岩雄などの説)も、具体的に検討すると成り立たないことが分かるので、そろそろ霧消してしかるべきものと思われる。

※ 漢皇子及び高向王の系譜
 漢皇子の父・高向王は用明天皇の孫だと『書紀』に見えるが、具体的には『本朝皇胤紹運録』などの皇室系譜に高向王が見えないため、これまで多くの説が出されてきた。高向王については、大和岩雄氏は当麻真人の祖・麻呂子皇子の子と推定し、甚だしいのは蘇我入鹿同人とか高向玄理同人などの渡来系の人物とかとみる説もあるが、まともな古代史研究とはいえないし、当時の古代氏族の実情を無視するものである。中田憲信編の『皇胤志』には、用明天皇の長子・多米皇子の子に高向王をおいて記載しており、鈴木真年も『史略名称訓義』皇極天皇項で同様の記述をする。その根拠は両書ともに示されないものの、年齢的にみてもこの説が妥当とみられる。
 
 
 四 結びにあたって(含.邪馬台国問題についての附記
 ここまで、古代及び中世の二つの事例を取り上げて、関係する資料は広く取り上げ、総合的に考察していかねばならないことを記してきた。大和氏が白崎氏を批判していうように、「問題は、後代史料であろうと、同時代史料であろうと、その史料が信用できるかどうかという、評価である。だから、白崎氏のいうように、後代史料を使ったからダメだ、そんなものは無視するか、ないものとして扱え、という見解には、私は賛成できない」ということである。
 全体としての成立が後代である史料であっても、同時代ないし近時代の史料の記事もそのなかに含んでいる可能性もある。現存する史料には書継ぎ(及び書換えも)があるという現実を無視してはならないし、『一代要記』『尊卑分脈』『紹運録』などの例に見るように、とくに系譜に絡む史料は書継ぎの可能性が大きい。だから、史料の的確な選択のみならず、その記事の評価と解釈も適切になされることが必要であると私も最初にも述べておいた。

 史料の使い方に関していえば、東洋史の大家、東大名誉教授で邪馬台国問題にも大きな影響を与えた故・榎一雄氏の言がある。具体的には『魏志倭人伝』に関してのものであるが、一般論としても通用すると思われるので、その遺稿となった論考「『魏志』「倭人伝」とその周辺」(『季刊邪馬台国』第26号〔1985冬〕に掲載された部分)から引用させていただく。
「『魏志』「倭人伝」の本文の校訂に資すべきものは、単に刊本の『魏志』のみではない。他書の関係記事にあるいは『魏志』からと明記して引用されているもの、あるいは明記はされていないが、『魏志』に依拠したと推定されるものも、また校訂の材料として利用すべきである。」
「それを引用している書物の他の部分に誤りがあるとか正確を欠く個所があるとかいう理由で、だからこの書に引用されている、あるいはこの書が拠ったと考えられる『魏志』「倭人伝」は信憑し得ないと棄ててしまうべきではない。」
 一般論的に言えば、要はどのような資料であっても、参考にすべきところがあるものはこれを適切に利用すべきであり、資料の一部に誤りがあっても、それをすべて棄ててしまってはいけない、ということなのであろう。鈴木武樹氏も、日本列島の謎の四世紀解明のためには、『三国史記』の成立事情を考慮し、しかるべき文献批判を経たうえで、同書などを適切に利用すべきことを説くとともに、これを怠ってきた日本古代史の研究者たちの猛省を促す旨、記している(「四世紀の東アジアと倭」、水野・北村編『謎の四世紀』所収。ただし、実のところ、新羅・百済に記紀同様、大きな年代遡上がある『三国史記』について、これを厳しく批判したうえで利用しているとはいい難い、という問題点もあるのだが)。
 
 同じ論法でいえば、上掲した白崎氏の手法・考え方には問題があると考えられる。氏は、その「著『東アジアの邪馬臺国』において、『古事記』『日本書紀』を邪馬臺国研究の資料として用いない方針を立て、それを守った。それは『古事記』『日本書紀』が、邪馬臺国の存在していた三世紀よりも約五百年も後に編纂された書物であったためである。」という考え方で対処したが、こうした方法論には大いに疑問があることが分かる。氏はこの手法を誇らしげに言い、『東アジアの邪馬臺国』においても、執筆の前に一つの原則を決めたとし、「同時代史料のみによって邪馬臺国論を書こうとする決心」だと宣言する。
 しかし、邪馬台国時代の「同時代史料」は実際にはほとんどない。同時代史料といえる『魏略』の残存部分はごく僅かなものにすぎず、氏が活用した考古学的資料は三世紀代のものとは必ずしもいえない不確かなものである(白崎氏も自らいうように、あくまで「推定される」ものにすぎず、そこには評価・判断の問題があるし、考古学年代の確実な把握はできない)。その結果、白崎氏の手法では本源的な文献に頼りきることはできず、考古学的資料を主に用いて(その評価・解釈を通じて)、文献的にも歴史の流れとしてもありえない畿内大和にまで、邪馬台国の所在地をもっていったことになる。
 氏がいうように、記紀には「厳密周到な史料批判が必要である」ことは確かである。それとともに、考古学的資料だって同様に「厳密周到な資料批判」が必要である。それにもかかわらず、考古学的資料に対する厳密周到な批判がなされていない。そこには、考古学に対する過剰な信頼と記紀などの文献(文献学)に対する過剰な懐疑心があるだけである。かつて学界で通説的に確固たる位置を占めていた三角縁神獣鏡魏鏡説あるいは三国紀年銘鏡魏鏡説は、いま実質的に崩壊している事情にある。これをいうだけで、考古学資料のみに寄りかかった立論は、客観的で確実だとはいえないし、それだけを基礎とするのでは論理的に無理があることが分かる。
 白崎氏は、『魏志倭人伝』の行路記事を直線的に読んで、末盧国から東南にあると記される伊都国に関し、「東南」が「時計廻りに約七〇度誤認」があるとして、それ以降に出てくる二個所の「南」(不弥国から「南」、投馬国から「南」とある記事)をともに「東北」に読み替えたり、「女王国から東へ渡海千余里で倭種の国」というのを「北方の越洲」に比定したりしている。しかし、魏使が末盧国の位置を北九州のどこの地点だとみたかは、まったく不明であり、仮にそれが呼子の地であったのなら、「約七〇度の誤認」など生じていない。また、末盧国から伊都国への方向を間違えたからといって、それ以降の方向を複数回・複数の魏使たちがいつも同じ角度で間違えるのだろうか。『魏志倭人伝』の方位記事にはすべて誤認があると誰が立証したのであろうか。これまた、おおいに疑問がある。そもそも、航行に際して最も平穏安全なはずの瀬戸内航路が確保できないで、畿内の国家が北九州を勢力下におけるはずがない。魏使が出雲など日本海経由で丹後・若狭あたりから大和に向かう行路をとったと白崎氏が考えること自体が、歴史の流れと当時の地理的感覚を無視したものではなかろうか。
 
 記紀など後代の史料を、邪馬台国研究などにどの程度利用できるかという問題がある。もし的確に利用ができるのなら、そうしてはならないわけがない。安本美典氏のような「天照大神=卑弥呼」といった記紀の素朴すぎる受取方は疑問が大きいが、静岡大学の教授であった原秀三郎氏のように“否定的な形”での記紀の使い方なら十分できると考えられる。すなわち、記紀の記述に拠ってみると、「邪馬台国が畿内大和にあったとすると、邪馬台国(崇神朝の初期大和政権)の勢力圏は北部九州に及んでいない」「大和王権が邪馬台国をはじめ西方55国を平定し、国土を統合するのは、景行朝のヤマトタケル以後」の時期である、と考えられる(「歴史万華鏡」毎日新聞・平成10年2月12日掲載)。すなわち、女王卑弥呼の時代を含めて、四世紀半ば以前の時期において対外的に日本列島を代表する王権があったとしたら、それは北九州でしかありえないということである。この結果、歴史の流れとしては、邪馬台国九州説に導かれることになる。
  上記の原氏の考える年代観には多少とも問題がないわけでもないが(いずれにせよ、崇神天皇の実在を認める説では、その治世が三世紀中葉〜四世紀前葉というほぼ百年の期間幅に収まる)、記紀をいかなる意味でも邪馬台国研究から排除するという立場は、文献資料がきわめて乏しい時代を研究対象とする研究者の姿勢として疑問が大きく、わが国上古の歴史の流れを無視することになろう。
 
 当たり前のことであるが、研究者は自己の選択したアプローチ手法とそこから導かれた結論に酔ってはならない。出された結論(仮説)に対しては、どのようなものであれ、冷静に合理的な総合大系のなかで的確な位置を占めるかどうかの検証が常に求められている。歴史には大きな流れがあることと併せて、このことを忘れてはならない。
 いわゆる自然科学的な手法とされる年輪年代法や放射性炭素(C14)による年代測定法から導かれたという年代数値も、的確な検証が第三者の手で客観的に実施されなければ、たんなる仮定値にすぎない。自己の説に都合がよいからといって、自らの手で具体的な検証もせずに、他人が出した結論(年代数値)だけを濫用・吹聴するのは、科学的な研究者としては資格喪失行為ではなかろうか。いま、わが国の歴史学者・考古学者は、こうした問いかけに対して真摯かつ誠実に答えなければならない時期にあるのではなかろうか。
 また、学究のいわゆる大家が検討して出した通説的な見解なのだから、なんでもこれを尊重するという姿勢も適切な是正を要するものである。象牙の塔のなかだけで議論をしていてはならないということなのであるが、こうした自覚がどのくらい学究の皆様にはあるのだろうか。最近の纏向遺跡をめぐって過熱する報道などを通じて、ふと感じる疑問でもある。
 
  (09.12.24 掲上、12.30追補)



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