松木武彦著『未盗掘古墳と天皇陵古墳』を読む

                                  宝賀 寿男




 松木武彦氏の最近の上記著作(2013.6.1、小学館刊)が目に着いたので、早速目を通したところの感触をとりあえず、概略を記しておきたい。
 
 これまでもいくつか彼の著作を見てきたが、本著作を通じて、松木氏がたいへん誠実な考古学者であることを再認識し、森浩一氏の若い頃の著作『古墳の発掘』を想起させるような内容でもあって、感銘をうける点もいろいろあった。考古学で最も大事なことは、「遺物がどの遺構のどの場所に、どのような形で、ほかの遺物とどのような位置関係を保って存在していたか」という完全な情報だという基本を示される。
 とくに、滋賀県東近江市の雪野山古墳という未盗掘の古墳を発掘したときの記事は、実地に古墳発掘を手掛けることのたいへんさ・ご苦労ぶりを知ることができ、古墳内部の状況の報告とともに意義深いものと受けとることができる。考古学者とは直接関係のないところにある人々を含めて、本書は必読の好著と思われる。
 
2 その一方、大阪大学大学院で考古学を専攻されただけに、関西派主流の考え方をそのまま踏襲している個所がいくつかあり、内容的に残念なものとなっている点が3点ほどあるので、これも併せて触れておく。
 その第1が、三角縁神獣鏡魏鏡説の墨守である。「中国三国時代の魏で、三世紀に発祥した鏡だ」と断定的に記される。同鏡について日本列島内では既に550点超の出土があるにもかかわらず、かつ、中国及び朝鮮半島ではいまだ1点の出土もない状況にもかかわらず、同鏡が魏鏡であるとの説をなぜ未だ取り続けるのであろうか。本文中には、魏鏡説について多くの支持者とそれと同じくらいの反対者があるという程度には自覚されているのに、魏鏡説に固執するのは氏の考古学研究の発展の妨げになると思われる。
 未盗掘の雪野山古墳においても合計五面のうち、三角縁神獣鏡が三面出土したが、被葬者に対する最も重要な位置を占めた鏡が国産の内行花文鏡であったことを本書で記されており、魏から賜与されたはずの重要な鏡の位置づけが低いことをあまり考慮していないという矛盾がある。雪野山の主がもった権威の最大のよりどころが、大和政権との関係だという松木氏の説明では弱すぎると考えられる。
 
 第2に、上記魏鏡説に影響された結果(放射性炭素年代測定などの自然科学的手法による年代計測値も踏まえて)、関西主流派による古墳築造年代の見方が全体的に繰り上がっているのである。本書で力点が置かれる雪野山古墳の年代についても、具体的な年代比定を三角縁神獣鏡の年代区分から見て、「三世紀後半から四世紀初頭のころ」だとみている。三角縁神獣鏡の年代区分からは、十段階のうちの二段階目から四段階目に属すると記されるから、それが古墳時代前期の中頃より若干前くらいにあたるようであり、これが前期古墳中頃より多少前の時期ならば築造が四世紀中葉頃と、松木氏の見方より少し遅らせてみるのが妥当であろう。石原道洋氏は、四世紀の第2四半期の築造とみている(『続日本古墳大辞典』)。古墳時代の始期を関西主流派より遅らせて、基本的には従来ベースで考えたほうがよいとみられる。
 その場合、本書では被葬者について具体的に触れないが、当地の大豪族蒲生稲置の始祖たる五十狭胡(いさこ)命(水穂真若命の子)の墳墓かと推される。玉杖・鏡などの豪華な副葬品に加え、周囲の平野部を望む雪野山山頂に位置する地理的状況からも、当地域の最初の統治者たることを窺わせる。北方の安土瓢箪山古墳とほぼ同時期くらいの築造で、被葬者は垂仁・景行朝頃に活動した者であった(安本説では、崇神朝を四世紀半ば頃とみて、その頃に三角縁神獣鏡の配布があったとみるから、当該古墳の築造期はほぼ同じかもしれない。ただ、安本説の年代設定は逆にすこし遅すぎるし、崇神朝に同鏡の配布がなされたわけでもない)。
 
 第3に、天皇陵古墳の研究のなかで、後円部の直径150M級(150M前後かそれより超)という基準を重視しすぎており、その結果、最小規模の直径140M(一説に128M)という桜井市メスリ山古墳をも天皇陵古墳のなかに入れて検討を加えている。
  この古墳を天皇陵古墳のなかに数えない広瀬和雄氏の見方(前方部が柄鏡形、周濠なし、陪塚なしが理由か)も紹介しているから、天皇陵古墳ではない可能性もあるとの認識も松木氏にあるのであろうが、後円径という規模だけで天皇陵と判断するのは問題が大きいし、吉備の作山・造山両古墳を天皇陵古墳とはみてないはずだから、基準に統一性がない。天皇(大王)陵古墳かどうかは、その所在地、陪塚の有無、天皇陵の伝承や各種考古遺物なども含め総合的に検討して判断されるべきものと思われる。
 メスリ山古墳には、二面分の内行花文鏡や一面分の三角縁神獣鏡の破片が知られ、巨大な主石室・埴輪をもち銅鏃やヤリなどの副葬品が豪華であっても、地域的な配置や陪塚や天皇陵伝承がないことなどから見て、天皇陵古墳ではなく、阿倍臣氏の祖・武渟川別命の墳墓とみるのが妥当であろう。松木氏が同墳の普通でない要素の数々が、「四世紀の大王墓の圧倒的な実態」をよく示すものであると言うのだとしたら、武渟川別が仕えた崇神・垂仁の実際の大王墓(箸墓古墳、行燈山古墳)は規模的には更に大きいものであり、おそらくその副葬内容も更に豪華なものであった。真の垂仁陵とみられる行燈山古墳(全長242Mで陪塚をもつ)の時期には内行花文鏡が盛行しており、その改修工事中に前方部辺りの周濠部分から直径44センチの内行花文を鋳出した銅板が出て、その拓本が伝えられる事情もある(森浩一氏『天皇陵古墳への招待』)。
 なお、広瀬和雄説でも松木説でも、墳墓(墳丘の全長、あるいは後円部直径)の規模だけとらえて天皇陵古墳と云々するのだとしたら、これらの見方は疑問が大きく、天皇(大王)関係者でも有力后妃の陵墓がなかに入り込んでいる可能性もある。被葬者の候補として男性だけ取り上げるのがもおかしいことは、箸墓古墳自体が女性の被葬者をもつという伝承があることからも分かる。
 松木氏は、「天皇陵古墳を真の意味で読み解くことができるのは、最後には、文献史学に依拠しない考古学であるにちがいない」(本書195頁)という自負・自信を表明されるが、これも疑問である。この辺は、考古学者の目標かもしれないが、実際の考古学の能力的限界をはるかに超えるもので過剰すぎる自信であって(私には、考古学単独では被葬者比定は絶対に無理だと思われる)、このような考古学の過剰自信の姿勢が戦後の古代史学を誤った形でリードしてきたのである。文献史学と考古学とが、適切に総合的に組み合わされてこそ、上古史の原像探索が可能になる。
 
 その他では、和歌山県の隅田八幡神社の人物画像鏡についての説明、すなわち、ときの倭王である男弟〔継体大王〕に百済の斯麻〔武寧王〕が贈ったとの銘文との記事という把握についても、疑問が大きい。これは、その時点で継体がまだ即位してない事情や当該鏡が百済製とは考えられない事情から言えることである。
 ともあれ、文献史学と考古学とは合い携えて、他の関連分野の諸科学の成果も取り入れて総合的に古代史の探究にあたるべきものと考えられる。
                                                 
 (13.6.5掲上。その後に20.9.19などに追捕)
 

  
  当HPで、以前に取り上げた 「『松木武彦著『列島創世記』を読む」
                         

        


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