松木武彦著『列島創世記』を読む

          −新しい手法・技術は正しいのか?−

                                      宝賀 寿男



 小学館が創立85周年の記念出版として、気鋭の歴史学者による日本の歴史全集を刊行中である。その第1巻が本書であり、考古学者の松木武彦氏が、日本列島のはじまりから五世紀までの約四万年間の日本列島の人びとと社会の歩みが内容ということで著述を展開する。発行が昨年(2007)の11月中旬で、本書はかなり売れているようだから、これまで半年くらいの期間のなかで、新聞やネットで多くの書評が見られて、総じて好評であり、おもしろく読んだという評価が寄せられている。それにより、多くの人々の興味をこの時代に惹きつけるのは大いに結構な話しである。
  しかし、歴史を科学として考えるときに、本書には、実に多くの大きな問題がある。本来なら、文献史学の研究者や歴史事情をよく知った識者からきちんとした批判が展開されるべきであるが、当今、彼らは元気を失ったままの状態であるようなので、そうした批判も殆どなされていない。そのため、ここでは、世の多数見解に反して、辛目の批評を展開してみることとしたい。
 
 本書は「認知考古学」という新しい手法で書かれていると断りがあるが、問題はむしろ年代論や言語・文字など別のところにもある。すなわち、上古史分野には説が分かれていたり仮説状態にあるものが多いのに、結論的なものが理由や説明を殆どしないまま展開されており、知る人はそこに注意するが、事情を知らない人は当然の結論のように思い込むおそれが多分にある。物から心理を探り(物が語る人間の心理と行動?)、その叙述が展開されるから、小説的なものとして読めばたしかに面白いのだろう。
 しかし、歴史学は科学分野の一つであり、史資料を基礎に検証を重ねた合理的な史実の探究とその分析・評価が基本である以上、「21世紀の新しい手法」と持ち上げても、それで終わるべきものではない。新しい手法なら、まずそれに対して十分な検討をしたうえで、その手法によって導かれた結論に対して、また十分な検討が必要となる。これらの検討・検証がない場合には、主観的な独りよがりの想像論の展開に終わるということでもある。本書の記事内容には、歴史をよく知らない人びとを、独断の説にたらし込むおそれすら、感じる。ある評価には、「グダグダという小説的な展開」と記するものもあり、そのように受け取りうる要素がある。著者のいう「ヒューマン・サイエンスに根ざした新しい科学としての考古学」が、文献を無視し、政治勢力の動向・消長を顧慮せず、そうしたなかで恣意的に心理的なものについて想像を巡らすものであるのなら、それは「科学としての歴史」には不要なものである。

 そもそも、考古学についても、いま様々な誤解が横行している。客観的な考古遺物が示す内容は、そこに文字による記事でも書かれない場合には本来極めて限定的であり、それに意味を持たせるためには、解釈と評価が必要となる。ここに、判断としてのいわば主観的な要素がまず入ってくる。つまり、元が客観的な物質であっても、研究者の主観的な判断・解釈を通じてのみ歴史的に意味をもつことが多いわけであるが、一般にこの辺の事情がなぜか欠落して考えられていることが多い。「モノが語る」といっても、本来、きわめて限定的であり、客観的な意味は少ないことに留意すべきである。
 「認知考古学」という手法について、私は明確に分かっているわけでもないが、考古学の本来もつ限界・制約のうえで、更に心理的要素の探究ということになると、それ以前のことすら解釈でしか分からないのに、もう一度解釈ないし推論を重ねることになる。心理学自体は科学であっても、こうした二重の解釈ないし推論を重ねることで出てくる歴史関係の結論に関して、どのような検証が実際にできるのだろうか。第三者による検証が不可能な結論は、科学的といえるのだろうか。しかも、古代人の心理が現代人のそれと同じなのだろうか。この辺の解明すら、なされているとは思われない。しかも、「古代人の心理」探索といいながら、上古代の祭祀や信仰・風俗・神話すら本書が言及しないし、そうしたものに対する著者の把握すら感じられない(「青銅器祭祀」という語が本書に見えるが、青銅器は祭祀器具であって、青銅器が祭祀の対象ではなかった)。そうした基盤で、古代人の心理把握などできるのだろうか(例えば、高地性集落を心理的観点から考える記事が本書にあるが、疑問が大きい。この問題だけ取り上げても、書くことが多いが、長くなるので控えておく)。
 
 総論はともかくとして、本書に書かれていることに関して、奇異ないし疑問に感じる点が多いが、そのうちのいくつかを具体的に取り上げてみる(ただし、弥生時代以降の歴史しか、私の主なる関心がないので、その範囲でということになるが)。

 (1) 「物質資料だけを用いて人びとや社会の動きを描きだす考古学の独壇場ともいえる時代は、日本の場合、だいたい五世紀までとみてよい」という著者の見解。

 この前提として、「五世紀までは、残された文字記録(文献史料)の量や信憑性がまだ十分でなく、列島の歩みを復元するためには、物質資料(考古資料)に多くを頼らねばならないからだ」と著者は述べる。だから、五世紀までの歴史の叙述を行う本書では、文献資料は内外問わず一切用いられない。しかし、これで歴史の記述といえるのだろうか。
 本書は、津田左右吉博士以来の戦後史学の立場にある極端な文献否認の考え方といわざるをえない。日本列島の五世紀といえば、巨大古墳の世紀であるとともに、倭五王の世紀でもある。韓地・漢土などの海外まで通じてみると、この時代の文献が決して乏しいわけでもない。記紀などの国内文献にせよ、戦後の考古知見の増加は基本的に記紀の記述と反していない。それどころか、むしろそれら記事を裏付けるとさえいえよう。暦にせよ、五世紀半ば過ぎの雄略朝ころから、いわゆる“倍数年暦”による年紀の記述がなくなり、分かり易い紀年表記となっている事情にある。年代的な問題点が少なくなる時代ということである。井上光貞博士あたりからは、応神天皇以降の歴史は一応、記紀に沿って考えうるとの認識があったはずである。また、地理的な問題点はともかく、年代的には卑弥呼と邪馬台国の時代の西暦二三〇年、四〇年代はしっかりしている。だから、これまでは、「謎の四世紀」という表現(これも疑問であるが)はあっても、五世紀ですら文献史料で考えないという立場はなかったのではなかろうか。
 だいたい、考古学によりどこまで分ることができるのだろうか。著者も、さすがに「物質資料は雄弁さで文字記録に遠く及ばない」とは認めているが、物質資料は細々したものをいくら多く集めても、大勢の人びとが目を瞑って巨象を撫でるようなもので、そこには各人の心中で描いた像を結びつける体系化の手段がほとんどないから、出来上がるのは巨大な虚像にすぎないおそれが多分にある。津田博士のあまりにも単純素朴な解釈を通じて、切り捨てられた文献資料や記事は記紀などで数多くあり、この再建をしっかりやってこなかったという意味で、戦後の文献学者にも責任の一端があるが、さりとて、「五世紀までが考古学の独壇場」といわれては、「考古学者よ、奢るなかれ」とさえ言いたくなる。歴史学が様々な隣接分野の学問と整合的に考えていくべき総合的な学問だという観点を忘れたような発言だからである。
 四世紀末には、倭国の韓地への侵攻や通交の史実が中国史書や好太王碑文などで明らかであり、それ以前に日本列島における政治的基礎固めがあったのは理の当然であって、応神天皇より前でも、崇神天皇から数代の天皇(大王)の実在性は文献的アプローチからも認められてきたというのが、基本的認識ではなかろうか。崇神から応神までの間に倭建命や神功皇后、武内宿祢などという、実像がなかなか把握・理解されにくい(実在性を否定されやすい)人物が歴史の舞台に登場することで、単純思考の学者には拒絶反応を起こされてきたが、記紀などの文献は、適切な解釈のもとで十分活用できるものである。
 もっと、端的にいえば、時間と地理という二大座標軸をしっかり捉えれば、記紀などの適切な解釈に導かれるものなのである。こうした文献研究の努力なしに、貴重な文献を切り捨てて、考古資料だけで当時の政治勢力たるヤマト王権の形成や社会・文化の異動を解明することなど、できるはずがない。
 だから、「考古学の独壇場」といえる時代があるとしたら、それは邪馬台国より前の時代ということになる。これらの意味で、列島の歴史の始まりから五世紀までの長いスパンを一人の考古学専攻学者に執筆に委ねたということで(しかも、弥生時代後半から古墳時代までの期間を、全6章のうち各1章しか割かないということで)、本歴史シリーズの編集姿勢自体が考古学に偏したものであって、疑問が大きいとさえいえよう。これまで刊行された日本歴史シリーズ本でも、稀なほどの扱いになっている。

 そもそも、著者は日本列島における文字文化の到来を非常に遅く考えている。この辺も記紀記事の津田左右吉博士などに見られる誤解によるものである。日本列島の主な支配階層が外地から渡来したという淵源をもち、様々な交渉・往来が故地たる韓地などと絶えずあった状況のもとで、北九州から近畿・丹後にかけての地域において、支配者階級のなかで文字が記録や事務処理に利用されなかったはずがない。もちろん、邪馬台国を中心とする部族連合体にあって、言葉や文字が重要な役割を果たさなかったはずがない。この辺は『魏志倭人伝』の記事からも十分読みとれるが、同書自体がほとんど取り上げられていない。主な歴史的事件や社会動向が記録されて残るのは、狭い支配階層の範囲の文字利用で十分であって、庶民クラスまで文字が行き渡る必要がないのである。
 わが国の金石文に文字が初見するのは五世紀だとしても、それ以前の外地からもたらされた物品には、文字が刻まれたものが石上神宮の七枝刀などあり、それらの意味を理解しないまま遠く海外まで及ぶ倭人の政治・社会活動が行われたとでもいうのだろうか。漢土・韓地に見える倭人の活動は中国の史書などに記されており、これら記事を考慮していないとさえいえよう。五世紀を、「日本列島太古から長く続いた前文字社会のひとつの到達点」と捉える著者の見方は、史実に反し、史実把握のための根本からして間違っている。本書では、日本列島に限らず、朝鮮半島の動向でさえ、比較的信頼性の高い中国文献などに拠らずに墳墓で説明するという徹底ぶりである。著者の観点では、中国につながる地域ですらまだ前文字社会だというのであろうか。
 著者がいうような「モノが文字の代わり」ということでは、巨大古墳の築造はおろか、租税徴収などの国家組織の運営も外交・政治の交渉もできるはずがない。本書の記事にある「文字をもとにした言葉の情報による支配の制度が未熟だからこそ、美的モニュメントのような人工物(注:巨大古墳のこと)に多大な労力を注ぐ必要が生じるのである」とは、空想も甚だしいし、行動の順序が逆である。これが「認知考古学」としての分析なのだろうか。
 国語学者の當山日出夫氏は、本書に対する書評のなかで抑制気味に批判をされており、その記事がインターネット上にあるので、それも参考にされたい。當山氏は、@「古墳時代以前の日本が「無文字」であったことは、よくわかる」としつつも、A「なぜ、「認知考古学」においては「ことば」をあえて無視するのか、この点についての、積極的な理由説明が必要であると思うのである」と締め括っている。しかし、私は、@自体もきわめて疑問に思うものである。
 
 (2) 巨大古墳のさきがけとして捉えられる箸墓古墳(注:論者としては、卑弥呼などに結びつけられやすいこの呼称を嫌うものであるが、本書の表現による)を端的に「三世紀中ごろに出現した」と記述する著者の見解。

 最近の関西系の考古学者の多くは、考古学年代の設定に当たって、従来から行われてきた積み上げ的な手法を廃棄して、年輪年代法やC14法(放射性炭素年代測定法)といった機械的な数値算出の手法(これも、自然科学的な手法というのは誤解誘導的である)に拠りがちである。この手法により導き出された数値について、なんら検証されていないにもかかわらず、この盲信ぶりはいかなるものなのか。その結果、根っ子の数値に絡む法隆寺再建論議で既に百数十年ほどの年代観誤差があるにもかかわらず、それを無視して、総じて百〜二百年ほども遡って年代繰上げを行う傾向がみられる。そして、考古学分野の年代論議では年代繰上げが行われる一方、逆に文献論議からはかなりの年代引下げがなされるというチグハグな行動がとられており、これは、古代史分野における精神分裂状況とでもいえそうである。
 古墳年代の実年設定の歴史を通観してみても、そこには確たる手法はないから、そのときその時の流れに流されがちなのであろうが、従来は古墳や出土遺物の形式の変遷からの積上げに文献との整合性などを考慮して、箸墓古墳の築造年代が四世紀前半とされていた。それが、上記のいわゆる自然科学的な手法を通じるという年代値を基に、一挙に百年近くも繰り上げられたのである(この辺については、拙稿「考古学者の年代観」〔『季刊/古代史の海』誌第27号(02/1)に掲載。当HPにも掲上〕を参照のこと)。そこには、根拠のない三角縁神獣鏡魏鏡説と組み合わせて、なにがなんでも邪馬台国を畿内に持っていこうとする考古学者の思惑が垣間見られる。
 そして、本書はそうした立場で年代観が記述されており、わずか三頁でコラム的に記載される「邪馬台国の考古学」でも、そうした姿勢が如実に見られる(卑弥呼の墓の「径百歩」は、「約一五〇メートル」と決まったものでもない)。箸墓古墳や纏向遺跡などで本書に示される年代数値は、十分な根拠に乏しいものである。本書では、歴博(国立歴史民俗博物館)の研究グループが公表しているC14法に拠るデータを「私なりに調整した年代」を用いたということのみ記される。この基礎となるデータが、弥生開始年代を従来の測定値より約五百年遡り、激しい論争が展開されていると著者は説明しつつも、なぜそうした年代観になるのかという説明が本書ではまったくなされず、結論だけが当然のことのように示される。この辺の問題点はきわめて大きいと思われるし、総じて弥生年代の配分が大幅な繰上げになり、北九州の吉武高木遺跡の年代も紀元前四世紀頃という驚くような数値が示される。

 要は古墳にせよ、遺跡にせよ、それらに関与した人々・種族や社会勢力、政治勢力という人的要素を無視した考え方をいまの主流派的な考古学者が採っているからである。モノ・物質や遺跡は、一人歩きして勝手に出来上がるものではない。誰(ないし集団、部族・種族)が何時からその地に居て、どのような考え方や祭祀・信仰のもとで、そうしたものを作ったのかという観点が重要であって、そんなものをわざわざ「認知○○学」ということもない。弥生文化だって、どのような主体(種族)が担ったのかという観点が考古学者(及び、ある意味でやむをえないとはいえ、C14法測定の自然科学者)に欠落しているから、平気で一挙に四、五世紀ほども弥生時代の開始時期を繰り上げることになる。
 考古学者は、ブラックボックスから出てくるような検証できない機械的な手法とそれに基づく年代数値に拘らず、初心に帰って、従来の考古学年代の設定方法の検討から始めて、確実なところから自力でコツコツ積み上げていくべきではなかろうか。学問にあっては地道に的確に研究を進めていく姿勢が必要である。C14法と年輪年代法とは、現在のところ、相互依存の関係にあり、それらの基礎となるデータは必ずしも客観的なものとはいえない(データ処理には取扱者の判断が常に伴うということでもある)。結局、C14法はその手法自体のチェックが必要であるほか、年輪年代法自体の検証を通じて数値の見直しや精度向上につとめるほかないが、その際、年輪年代法自体のもつ制約も十分検討・考慮する必要がある。当時の自然環境や水気・火山の多い日本の風土、地域特性などから考えて、自然科学的な手法だけで、50年、百年といった数字単位(あるいはもっと細かい数字単位)で精確に年代測定が可能だとは思われず、一つの参考値くらいの取扱いが比較的無難なものである。わが国の上古歴史学に混乱をもたらしている最大の原因が、年代設定の把握がマチマチであること、しかもその殆どが誤っている事情なのである。
  いわゆる自然科学的年代測定法による大幅な年代繰上げは、きわめて危険な判断である。それは、国内的な人的要素を考慮しないことのみならず、国際的な視野でのバランスや要因説明を欠くからである。どうして、多くの考古学者は様々な年代繰上げに性急なのであろうか。
 
 (3) 本書の記述だけでは、大きな歴史の流れが把握しがたいから、それを補うものとして巻末に年表が付けられるが、この年代設定と付けられる記事の問題点。

 ここまで述べてきたから分かるように、本書の年代観は、従来の見方を大幅に繰り上げるものである。弥生時代の始期を前八世紀まで繰り上げるから、引きずられて、古墳時代の始期も三世紀中頃まで繰り上げるものとなる。その結果、箸墓古墳と纏向遺跡を卑弥呼・邪馬台国の関連に結びつけることにもなる。主流派の考古学者においては、倭人伝を含む『三国志』など中国文献の検討を無視することが多い。それどころか、卑弥呼の墳墓について、政治的に大きな影響を受けた当時の中国や朝鮮半島の墳墓との関連で考えない独善ぶりである。古墳時代の始期に関係する巨大古墳の出現も、国際的な視野を合わせた国内政治の動向のなかで考える必要がある。「前方後円墳体制」という指摘があるくらい、巨大古墳の出現と古墳体制の普及は政治的なものである。いくら気鋭の学者だからといって、新説・異説を書き連ねるのなら、文献的にも十分な検討とそれ相応の裏付けを記すべきものであろう。
 個別に事件ごとに付けられた具体的な年代にも問題が少なくない。たとえば、西暦477年に「倭王の興没」、507年に「継体天皇、即位」、538年に百済王より仏像・仏典が贈られたことなどの年代は、正しいのか。これらは、文献の解釈で様々な議論のある年代であり、私自身はいずれも疑義大きい年代値だとみている。七世紀より前の年代値について、確たる立証や断りなしで具体年を記すのは、誠実な歴史記述の姿勢とは思われない。また、わが国の年代に限らず、外国関係の年代にも疑問があり、高句麗が興った年代が前100年頃というのは、いったいどうしたものか。
 
 歴史の流れの体系化は、大きな本流を中長期的な展望をもってまずしっかり把握し、それに様々な枝葉をつけてさらに総合的なものにすることでもたらされる。小さな支流は本流と整合性をもって構成するだけに、その研究はそれなりに必要性が高いが、これををいくら積み上げても本流に到達しないおそれも、流れの行く末も分からぬおそれもある。本第一巻も、また次の平川南氏著述による第二巻も、古代木簡分野の専門家とはいえ、文献に基づく歴史本流についての体系的な叙述をほとんどしないという点で、今回の歴史全集は稀有な存在でもある(この意味で、監修取りまとめに当たる編集委員陣にそもそもの問題点があるのであろう。編集委員は、古代史分野では平川南氏のみ。平川氏は、弥生開始年代の大幅遡上説を発表した国立歴史民俗博物館の現館長)。
  だから、読者は体系化を考えないで歴史的な小説を軽く読むということでよいのであろうが、全体的な整合性のない歴史記述は、その場限りのいい加減さを内蔵することになる。
 戦後、一般読者向けに多くの歴史全集が刊行されてきたが、上古分野での文献的アプローチによる記述は、1965年に刊行された井上光貞著『神話から歴史へ』(中央公論社版の日本の歴史1)及び1973年刊行の上田正昭著『大王の世紀』(小学館版の日本の歴史2)が最後であり、これらを超えるものは見られない。これらの著作自体、現時点で見直せば様々な問題点がないわけでもないが、これ以上の文献的研究が上古史分野で体系的に進まないということは、歴史学界にとってたいへん不幸なことである。これでは、古代史分野でも大化前代の研究志望者が少なくなり、平安朝研究の志望者が最も多くなったという状況に必然的につながるのだろう。

 最近ご逝去された角田文衛氏は、考古学と文献学を総合して古代学を提唱されたが、これに限らず、言語学・人類学・民俗学や祭祀研究、各種自然科学など関連する多くの諸分野を総合し、その地域においては中長期的な展望をもって、かつ国際的な視野のもとで、上古史とその流れを考えていくべきである。上古分野の文献研究は、今後は『三国志』などの中国史書にかぎらず、国内分野の史料でも丁寧かつ慎重に多角的・総合的になされるべきである。本書著者の「考古学の独壇場」という表現が研究者の責任感につながるのならともかく、関連分野の検討を無視するような過剰な自負意識だと、それがかえって問題解明を妨げるおそれのあることを指摘し、また、読者にも注意を喚起しつつ、とりあえずの書評を終えることにしたい。

なお、本稿は事情を知っている方々には、いわずもがなのことであろうが、こういう発言もして絶えず行って、関係者は常に自戒しておくことが必要であろう。文献歴史学者は、適宜発言することによって、それなりの研究責任を果たすべきではないだろうか?
 
 ※2008.5.21記。もう少し表現などを練る必要があろうが、拙稿の趣旨は通じるとおもわれるので、とりあえず掲上したものである。
  
(08.5.21掲上)
 

  
  という見解が示されましたので、掲上します。併せて、ご覧下さい。                       

  また、次のようなご見解もあります。

  
 <守屋様よりの来信> 08.5.24及び6.4受け
 
 松木氏の前掲著書に関連して、適宜評価しつつも、概ね次のようなご見解を示されましたので、その趣旨を樹童の文責で記したものです(誤解がありましたら、それは樹童の理解不足に因むものです)。
 
1(総論) 宝賀氏指摘の各ポイントは的確なものです。文献学と考古学ほかとの総合学の必要を感じ、その苦悶の様相を辿れるのを楽しみにしているのが私ども読者なのですから、同じく不満を抱いているところです。
.の指摘……「認知考古学」というから、火炎土器なり銅鐸なりの器物についての古代人の思いとか意味を解説してくれるかと期待しましたが、何ら言及されていないのは、掛け声止まりに終わっているようにも思われます。縄文時代の記述は詳しいのですが。
3.(1)の指摘……文献を殊更避けているということは、著者の責任放棄にも思われるところです。 そのために、具体的な人の顔が見られず、空疎な理屈の羅列に逃げ込んでいるようにも思われます。「魏志倭人伝」も軽視される一方、150米という巨大な卑弥呼の冢が突然でてくる始末です。時間と地理という二大度標軸で解釈せよとの貴見には敬意を表します。
3.(2)の年代引き上げについては、安本氏、関川氏の批判があり、私の所属したゼミ「古代史教養講座」でもきびしく批判的な姿勢でおります。庄内式土器をやっと3世紀の年央以降にしたいと考えています。また、考古学者はモノが自然にできるという前提であり、(1)と同じく、ヒトの動き・労力は無視されています。寒冷期だからヒトが動くといわれますが、畿内にヒトがなぜ集中したのかの説明がありません。日本の中央で交通の要点だからというのは、個人の観点ではない。この点が一番不満です。
古代の事実の分析は総じて難しいと思いますが、前掲著書にはややこじつけが多いようで、踏み込み過ぎのところも感じます。土器が定住を後押ししたというが、逆の考え方もあるし、この国で出現したというのが定説だと思います。
3.(3)の個別年代論の批判を重く受け止めました。岩波年表などについても、その記事を軽く引用すべきでないと肝に銘じました。
.歴史の体系的叙述が見られないことは、指摘通りでしょう。『列島創世記』の著者は、戦争論というか、個別武器論の大家ですから、その面を切り口にした論文に一寸ひかれていました。また、気候なり環境変化を採り入れているのはよいと思いました。物的にみる論者にとって、これらのことは当然のことなのでしょうが。
 
 
  <樹童の感触>
 
 貴見を示していただき、ありがとうございました。多くの議論が冷静になされると、それに伴い関連する問題点も明らかになりますので、貴見もその一助になると思われます。
 
 ところで、先日、ある古代史研究者との応答のなかで、文系・理系の差異を出して、継体天皇より前の天皇(大王)については不明だと考える旨の見解を前提的に示され、仰天したことがありました。わが国の文献が乏しいという観点からは、継体天皇を境にする見方は疑問であり、推古天皇が境という見方もありますが、各種文献や木簡の出土からみると、大化以降とそれ以前の期間で分けるほうが自然です。そして、わが国の文献が乏しいからといって、簡単に天皇(大王)の実在性否定にはつながらないはずです。
論者の学んだ学問が文系であれ理系であれ、合理的な論理を積み重ねたうえでの史実の科学的探究という点では同じのはずであり、学んだ学問により結論が異なるはずがないと思っていますので(論者の能力・素養により、分析が異なることはあっても)、総論的には、「文系・理系」という言い方は本来、適当ではないと考えています。最近、「理系」という立場を前面に出した著作も歴史分野でかなりあり、すぐれた業績もまたそれなりにあるのですが、「理系」とか「考古学」とかと断れば文献の無視・無知でよい、文献無視が許される、ということにはならないはずです。
また、記紀や外国史料の存在などからいって、そこに書かれる記事を頭から否定したうえで、議論を展開するのは、史実の立証責任について誤った責任転換であり、往々にして歴史の安易な切捨てにつながるもので、歴史研究者としては、採ってはならない姿勢だと考えます。「理系」と自らいわれる方々に、「立証責任」という考え方が総じて稀薄であることも気になります。津田左右吉博士の論理の粗雑性を自覚しないのでしょうか。彼の大学者の研究姿勢と研究結果(結論)とは、まったく別物です。

ともあれ、この関連で宝賀会長の旧稿をリライトしてもらい、「系譜からみた古代資料の情報操作」として本HPに掲載しましたので、関心があればご覧下さい。
 
  (08.6.5 掲上)

 
  関連して    理系の見方と文系の見方  
        


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