理系の見方と文系の見方


                           宝賀 寿男


 ※本稿は、『古代史の海』誌第35号(2004年3月)に掲載された拙稿の本論(T)及び第37号(同年9月)に掲載された補論(U)を基本にして、ごく若干の補訂をしたものであり、当時の事情の下で書かれていることに注意されたい。また、「文系・理系」という語を目にして、改めて本HPに掲載する次第です。
  (最近の樹堂の感触も多少書いてみたいと思います。)

 
T 本論
 
  1 はじめに−少し長い前置き−

  『古代史の海』では、故秦政明さんの編集時代に、会員相互に的確な批判をする形で「議論を起こそう!」という主張をしておられますが、同誌第34号の「会員ひろば」に掲載された「小林滋氏の所論を読んで」という下司和男氏の論説(以下、「下司論説」と書きます)については、私も、多々考えさせられるところがありました。この下司論説には、私の名前も出されておりますので、当事者の一人との認識をも持って、同論説を中心に関連するところについて若干論じたくなりました。
 
  まず、この下司論説についての一読感は、なるほど、これが「理科系」の老練な「学究」の書く内容なのかと驚き、かつ寒心した次第です。その言葉遣いは丁寧で、文章はよくこなれていますが、表面上の言語装飾を取り払って、同論説の主旨をズバリ言えば、「文科系の学問をした、自然科学も分からないアマチュアが、自然科学の専門家が最新の理論と科学装置・技術を用いて出した結論の、しかもその概要にすぎない歴博(国立歴史民俗博物館)の発表に対して、何を批判できるのか。その批判は誤解に基づくものか内容を理解しようとしない姿勢に因るものばかりだ。そもそも、専門学術的な論考も、関連する国際文献さえも読まず、著者への確認など基本的な作業さえしていないのではないか」、ということになるのではないでしょうか(もし、こうした私の端的な理解が誤っていれば、ご指摘いただきたいところです)。
  仮に私のこの理解が正しいとするならば、これは小林滋氏の「“弥生時代の開始時期”を巡って」という論考に対してその手法・結論などの全てにわたる全面的な否定という内容の文章になります。しかし、どこかに誤解ないし即断があるとすると、読者への誤誘導という悪影響が大きい、ということにもなります。そして、書いた当事者ではない私が一読しても、酷い誤解があちこちで目立ちます。おそらく、この辺の事情については小林氏自身がきちんと反駁ないし説明をされるものと思われます。
 
  小林・下司両氏が論じられた分野は、下司氏が専門とされる自然科学の分野ではありません。遙か太古のこととはいえ、不可逆的な「歴史」の分野の事象が対象であり、人間(人類、種族)がこれまでなしてきたことについての真実発掘とその評価という学問的作業のはずです。こうした作業を考えると、自然科学信仰はほどほどにして、冷静な考察と議論をまずお願いしたいものです。実は、この問題は、自然科学に対する「信仰」とか、下司氏が小林氏に対していわれる「自然科学的な年代計測法、に対する不信論」というレベルの問題ではなく、あらゆる学問の成果(ないし仮説)に対して「疑問をもつ姿勢」という問題なのだと思われます。

 本居宣長が『玉勝間』などで「師の説にななづみそ」「師の説なりとて、必ずなづみ守るべきにもあらず」と言われたように、「師の説になづまざること」は重要であり、相手が師匠・先学であれ、その道の大家・権威であれ、自分の頭で考えて、ときには実際に手足を動かして、主張する内容や論理に疑問があれば、それを問い質していくことは、学問の基礎だと思われます。多角度からの適切な懐疑こそ科学進歩の源泉ではなかったのかということです。これは、自然科学でも人文科学でも同様なことだと考えます。
 こうした「懐疑」を「不信論」と表現することは、読者を誤誘導する評価の「すり替え」だと私には受け取られます。「自然科学への不信論」といわれると、普通にこれを受け取る人々は、なるほどその程度の頑迷固陋な頭脳が書いたとんでもない暴論だと感じるものです。
 加えて、下司論説は一見学術的な検討を装っているわりに、論理・言葉のすり替えと粗さ、憶測と決めつけは、目を覆いたくなるほどのものがある、と私には考えられます。しかも、具体的な問題箇所の指摘がほとんどない、抽象的な非難だけです。同誌に掲載される紙数に限界があると考えてのことなら、いろいろな対処法・表現法があると思われます。
 問題は、これが心底正しい学術的アプローチだと信じ込まれておられるようであることですが、その場合には、根底に悪意がなくても、氏がこれまで学究として禄を食んでこられた以上、厳しい批判・反駁を受けてもやむを得ないところでしょう。いったい、自然科学の分野では、下司論説のような論調が一般にまかり通っているのでしょうか。


  2 自然科学系とそれに対比される学問系(人文・社会科学系?)の思考方法

 下司論説には、ある基調が一貫して流れていて、それが嫌というくらい眼に着きます。
 それは、「論ずると長くなりますので、機会があれば別に書いてみたいと思っています」と紹介される「理系の人間と文系の方々の間での、自然科学に対する見方の相違」ということです。それは、同論説の最初の部分にも現れる表現、すなわち「私のような自然科学系の者から見ますと、小林氏の自然科学の手法に対する理解や、それに対する批判の論理には大きな違和感を覚えます」ということでもあります。

 まことに見事なくらい割り切った二分割の思考法です。ここまではっきりと宣明されれば、私としては感嘆するほかありません。こうした単純明快な思考法をもって自然科学系の分野で長年の学究生活を送られてきたのでしょうか。私としても同様に、こうした「論理には大きな違和感を覚えます」と言わざるをえませんし、だからこそ敢えて当拙文をものした大きな動機となったわけです。下司氏には是非とも続編を書いていただきたいと希望しますが、下司氏の表現を借りれば、私としても、その「「勇気」には敬意を表します」ということになります。しかし、こう言い返されたとき、氏は如何思われるでしょうか。
(仮にも年齢・学歴の次元に還元して考えられることはないと思いますが、もしそうだとしたら、個人的にはまことに残念ながら、私も小林氏も、昔風の年齢表現でいえば、いい加減老齢に近づいてきました。……実は、この表現ばかりではなく、下司氏の表現を借りたらどう表現されるのかと氏のなされた表現範囲内で試みた個所があります。読者の皆様には、多少の見苦しさをご寛恕いただきたいとお願いいたします。)
 
 下司氏の文章から理解されるところでは、@小林氏や私(宝賀)及び秦政明氏は文系であり、白崎昭一郎氏(『古代史の海』の前身誌の編集者)や下司氏は理系であって、A文系の人間の自然科学の成果に対する見方は誤っている、ということではないかと受け取られます。ここで、@Aと番号を振ったのは、文章中に二つの見解が示されていることを現したものです。しかし、これら@Aは正しいのでしょうか。私には、いずれも疑問に思われますので、以下に敷衍して記すことにします。
 
 @について

 白崎氏は医学系の学問をなされていますが、下司氏の学歴・経歴の詳しいところは承知しておりません。ご本人が自然科学系と申告されていますから、そのように受け取っておきます(物理系の学問をされてきたようにも受け取られますが)。一方の小林氏は二十代の大学生ころ経済学の、私は法学の学問をしてきたことは否定しません。そして、秦氏と言えば、その私宛の書簡に拠りますと、「理学部に入学し、後に転部して文学部哲学科を卒業」されたとのことです。
 私の友人には、理工科系・医系の学問を学んだのち、法学ないし経済学をさらに履行した者もかなり多く(その逆も少数ながらあります)、文・理両系の仕事を現実に両立されている方もおられます。もちろん、社会に出てからは大学時の学問に加え、まったく別の系統の社会勉強などを余儀なくされることも多いものです。
 こうした往時・若年のときにしてきた学問だけで二分類する思考法は、それだけで疑問なことがお分かりではないかと思われます。象牙の塔にいて実社会の経験のない方にはついては、そのお考えはよく分かりませんが。

 経済学には経済分析の重要な手法として統計学・数学の知識が不可欠であり、私の見るところ、小林氏はこうした知識を相当持っていると思われますし、私自身も小林氏とかって職場を同じくした経験もあり、就職してからこの関係分野の知識・見方をかなり徹底して叩き込まれました。もっとも、私には練達したという自信はありませんが、考え方の一端は学んだつもりです。勤務先では、政府経済見通しの作成などをはじめとして、統計的処理や数字の見方を知らないでは仕事にならない職場でもありました。かつ、様々な論理的思考の訓練も随分受けてきたと記憶しています。
 法学についていえば、ご承知のように、基本的には社会的に衡平な論理を追求する学問です。往時、加藤一郎教授(かつての東大総長)から、そういう趣旨を教わりました。もっと言えば、あるルールの下で起きた事件(争論)について、基礎となる真実をあらゆる手段・資料で先ず探求し、その分かってきた結果を十分な衡平(バランス)感覚で論理的に判断して、最も妥当な解決を探る思考方法についての学問です。法の女神テミスは、もともと「自然の法則」といった意味から転じた古代ギリシャの神であり、片手に秤(衡平)、片手に剣(正義の実現)を持って両目を布で目隠し(感情に左右されない冷静・慎重さの必要性を表現)している像がよく知られています。わが国の最高裁や検事総長室などにもテミスの像があるそうですが、弁護士のバッジにも秤が鎮座しています。法の本質はバランスにあり、衡平にありとして、秤の鎮座するバッジに誇りを持って活動していると或る弁護士会では言っております。

 歴史学が人文科学の一分野として位置づけられるのは、人間の行動を科学することにある思われます*1。かって学問の分野は狭く、異なる学問が互いに関与することは少なかったのですが、最近では学際の拡がりが急速であり、歴史学分野にも考古学・言語学・地理学・人類学などの学問や自然科学の成果・技法が大いに取り入れられるようになりました。暦学や民族・民俗学、神話・神祇学・祭祀などに関して言えば、歴史分野への取り入れ方はまだまだ手薄ではないかとも思われますが、総じて言えば、たいへん結構なことであり、ある種の視野狭窄的な議論(これが何を指すかは受取手にお任せします)が、科学の一分野たる歴史学の分野では通用しなくなりました。ないしは、「そのはずです」と私は思っています。
 
  ここで、十分に気をつけたいのは、歴史の事象・事件は絶対に不可逆的だということです。ごく当たり前のことですが、「過去は誰にも変えられません」。そこには、様々な手法・技法、様々な角度からの検討・検証(験証)はできても、追試はできないということです。歴史研究には実験がないのです。下司論説では、「自然科学的測定の結果は、必ず追試が可能なのです。追試による検証の結果、誤りであったということになれば訂正すればよいのです」と気楽に言われます。
 これは自然科学の分野ではそうなのかも知れません(率直に言って、私には分かりません)。しかし、こと歴史の分野に限って言えば、明らかに誤りです。この基礎的認識の部分から下司論説には勘違いがあります。従って、その上に立つ論理が如何に尤もらしく見えても(私にはそう見えませんが)、それは「砂上の楼閣」に過ぎません。
 こうした論理にさえ気をつければ、思考ないし分析・評価の方法には理系、文系の差なぞ、無いはずです。いうまでもなく、合理的な論理のない学問は、「科学」ではあり得ません。
 
 次ぎに、理系の学問をしてきた人々は、みな下司氏のような考え方になるのでしょうか。私は、これも大きな疑問だと考えています。むしろ上記のような考え方に立つ限り、下司氏の錯覚か独りよがりに過ぎないと思われます。例えば、下司氏はその記述から見て光谷氏の年輪年代法の算出数値を支持しているように思われますが、これについて理系の学問をしてきた人からも疑問ないし課題がかなり提出されています*2。それは、基本的なデータを光谷氏が公開しない2022年現在に至るまで未公開)ため、他の第三者からは検証すらできないからです。この辺の事情は小林氏が幾つかの論考で指摘しており、年輪年代法の数値が他の手法により導かれた結果とたまたま合致したとしても、これは検証でも追試でもありません(他の手法で得られた数値がそのまま正しいとは限らない)。こうした言葉のすり替えには、十分注意したいものです。

*1 茅野良男氏は、人文科学について、「人間の文化を創造する真の人間性と,人間を客体化し対象化する科学・技術をもその契機とする真に人間的な事柄とに関する,基礎的諸学と解すべきであろう。」と記述されます(平凡社版『世界大百科事典』)。
  *2 例えば、「毎日新聞」2001年6月10日東京朝刊に掲載された藤森照信氏の『日本の美術(第421号) 年輪年代法と文化財』に対する書評をあげておきますが、そこでは「世界中でさまざまな年代決定法が試行錯誤されてきた。一番有望視されたのは放射性炭素法だが、古くなるほど誤差が拡大し、論議を左右するほどの決め手にならない。」「年輪年代法も遺物のDNA分析もそうなのだけれど、考古学の科学分析は日が浅く、どちらもまだ研究者が一グループしか日本にないという根本問題がある。科学には不可欠の相互批判、他者による追試確認の体制がととのっていないのである。」と指摘されております。
 
 Aについて

 文系の人間の自然科学に対する見方は誤っているというのは、下司氏の誤解に過ぎないと思われます。文系、理系の学問に優劣はとくにありません。研究対象とする分野が違うだけです。見方が誤るとしたら、ひとえに個人の判断の問題なのです。何度も繰り返して恐縮ですが、年輪年代法にせよ、炭素14年代測定法にせよ、それだけの問題ではなく、これらに基づいて出される数値(試算値)が「歴史の分野」に密接に関わることなのです。
 炭素14の経年による減少理論は、物理学の導くところです。しかし、それが理論値通りに減少しない期間が、かなり長い期間、紀元前代にある(結果として、歴史年代が古く算出される傾向がある)からこそ、実年代との乖離が生じることも、また自明なことです。その場合、その乖離をどのように補正していくか、すなわち「較正曲線」をどのように描くか、が大きな問題であり、時代・地域などにより大きな差が出てきます。この辺は誰も異論のないところだと考えます。さらに、年輪年代法では、対象が樹木という個別具体的な生き物だけに、生息地などの差違により、もっと様々な個体差異が生じます。
 日本列島という細長く南北に延び、しかも地形に高低が激しく、海洋に囲まれて河川が多く、総じて多湿・多雨であって、気象条件に変化が大きいうえ、火山などの造山・造島活動が古来激しい地域において、理論値と実数値とが乖離するのはいわば当然のことです。世界的に見ても、特異な地域といえます。火山活動に関して言えば、例えば、中国本土を見ますと、全欧州ほどの広大な地域にあって古来から有名な温泉地は僅か二個所くらいしかありません。楊貴妃が浸かったという華清池(西安近郊)とケ少平が失脚時隠棲していた従化温泉(広州北方)です。そして、日本列島には、紀元前の時期に鬼界カルデラの大爆発があり、その灰は遠く宮城県あたりまで飛んだとされます。日本の河川にしても、その急流ぶりには明治にやって来た「お雇い外国人」の技師が驚いたほどです。こうした地理的気象的条件の相違が著しいからこそ、国際的には学問的手法としてほぼ確立したといわれる年輪年代法が、これまで日本に適用できなかったわけです。
 多くの研究者が試みたものの、唯一光谷氏だけが学問的に成功したと称されています。しかし、だれもその結果について検証しておりません。これは永遠に検証できないはずです(現在まで、験証はなされない)。この辺の問題点は、小林氏が多くの例をあげて指摘しております。かつ、光谷氏の算出した数値は、少なくとも文献学や従来の考古学の手法で出されてきた年代数値をかなりの期間、遡上させていることは確かです。
 また、炭素14年代測定法による数値は、その較正曲線をわが国の年輪年代法による数値(要は光谷氏の数値)に依存している事実に目を閉ざしてはいけないと考えます。考えてみれば、それ以外に実年代に迫れる方法は、日本列島では他にないからです。そうすると、両者の数値がほぼ合致するのは全く当たり前のことです。下司氏は、国際標準較正曲線がそのままわが国に妥当すると考えておられるのでしょうか*3。この辺への疑問は、まったく基本的な疑問であり、「強い不信感」という表現で片づけられるものでしょうか。私には、重大な言葉の「すり替え」に感じます。
 わが国の年輪年代法のような裏付けのできない数値で、炭素14年代測定法による数値を裏付けようとしても、裏付けにならないことは論理的に自明ではないでしょうか。こんなことに、文系、理系の違いが有るはずがありません。
 
  下司氏にはあるいは誤解があるようにも思われますので、お断りをしておきますが、私も小林氏も、自然科学の学問的成果や理論・手法を否定しているわけでは毛頭ありません。ただ、国際的な学問成果がそのまま日本列島に適用になるのかは、その置かれた条件を考えるとき、上記のようなきわめて難しい問題があると痛切に認識しているだけです。従って、氏がいわれるように、国際的な文献資料をいくら多く読みこなしたとしても、まったく解決しない問題であるわけです。要は判断力、論理思考能力の問題ですが、下司氏はどのような国際的文献を読み込んだ上で、小林氏を論評しているのでしょうか。
  机上の理論(欧米では実地を踏まえた理論でしょうが)から算出数値という結論に至る過程には、手順を追っていくつかの段階があります。わが国の研究に関して、その過程のなかに疑問を感じているのですから、かりに国際的な文献をいくら読みこなせても、解決には殆ど近づきません。誰か欧米の学者で、日本列島に関してこの問題を上手く解決した人がいるのでしょうか(年輪年代法にせよ、炭素14年代測定法にせよ、適切な国際文献資料をご教示いただければ幸いに存じます)。案ずるに、氏にこうした問題意識がないからこそ、一つ覚えのように「欧文の国際誌が全く参照されていない」と注意されるものではないでしょうか。意味のないことをやるのは、時間と費用のムダといえます。

 日本の専門誌・専門的論考でも、具体的に詳細な根拠や具体的なデータが示されていないものがかなりあります。これは否定できない事実です。下司氏は、小林氏の参照した文献が一般向けの著書が多いと言われますが、そうした資料しか公表されていない事項が残念ながらかなり多いという事実に目を瞑ることはできません。光谷氏の著作・公表は殆どがそうしたものです。
 ある高名な考古学者の事績を調べていて、いわゆる「学術的」な論考(根拠や資料が詳細に附記されている論考を、こう呼んでおきます)が殆どないことが分かって、たいへん吃驚した記憶があります。これらの場合に、個別に当該学究に対して問い合わせても、お答えいただけるのは、むしろ大変稀ではないでしょうか(この辺は私の実感です)。考古学の分野でも、遺跡の発掘などで公式の調査報告書がきわめて遅れたり、入手しにくい場合がかなりあります。それらの場合には、ある学説の発表に対して他の研究者は批判することはできないのでしょうか。そうした批判が許されないというのなら、先に一方的な発表をしたもの勝ちということになります。
 どのような形で学説発表ないし学問的主張をするかは、その当事者たる研究者の責任だと私は考えます。一般向けの公表記事だからといって、それがいい加減なもので済むものではありません。歴博が今回、あのような形でしか資料を発表しなかったのは、それで判断してくださいということではないでしょうか。それとも、当事者以外は結論の是非を云々するなということでしょうか。学問的な公表には常に公表責任が伴うものです(一般的に、学説批判は総じて言えば、批判とともに責任が伴うはずであり、匿名の批判は基本的に許されないはず)。そして、定説なり通説なりを覆そうとするときは、多くの具体的で説得力のある根拠が必要となります。下司氏の主張にかかわらず、私は、専門学会での発表資料も含めて歴博の資料はきわめて不十分なものだと考えています(新井宏氏にも、ほぼ同様な指摘がある)。

 下司氏は、「これまでの「定説」とかけ離れた数値が自然科学的な測定によって与えられた場合、その測定方法に明確な誤りがないと判断される限り、発表結果を一先ず受け入れ」るのが筋だと書かれていますが、そこにも大きな誤解があります。理論的な是非は、研究者であればできるでしょう。しかし、その数値が従来の数値と大きく異なるとき、「一先ず受け入れ」るというのはまったく無理な話です。これまでの学問の成果として築き上げられた「歴史の流れ」の大系を崩すからです。そこに歴史の問題が絡むとき、誰が新説の「明確な誤り」の有無を判断し指摘できるのでしょうか。生身の学問の神はどこにも存在しないのです。しかも、測定方法の実践についての具体的な資料や根拠が十分に示されないときは、誰も判断できないことになります。
 法学的に言えば、これは“挙証責任”を新説の提出者に有利なように身勝手に転換させたものとなります。こんな論理のすり替えは、決して許されるものではありません。「歴史に関係する問題」という観点を無視することはできないはずです。歴史的事実についての見解は、多方面からの検討を要し、その判断が多くの関係する内外の学説に影響を与える相互作用をもつことを忘れてはなりません。歴史大系(歴史像)というのは、大きな歴史の流れのなかで総合的体系的に合理的な構成をされるものなのです。
 
 さて、ここまでの論理展開において、文系、理系で相違があるものでしょうか。私は無いと考えています(もし有るとすれば、具体的にご指摘いただきたいと希望します)。これまでの私の所論を繰り返しますと、理系・文系と分けて考える下司氏の立場には到底与しえないということです。そして、下司論説について、小林滋所論に対して「自然科学者らしい的確な批判であろう」「反対説の問題点を指摘した」と評価される白崎昭一郎氏に対して、この表現に限定しての問題提起でもあります。彼は、ごく最近の考えのなかでも、「文系・理系」という表現をしますから、この表現がお好きなのでしょう。

*3
 下司氏があげられる今村論考「縄文〜弥生時代移行期の年代を考える−問題と展望」『第四紀研究』40巻6号、2001年)を読むと、次の諸点が注目されます。
@ 今村氏の出す数値が較正曲線として国際標準たる「INTCAL98」をそのまま用いていることが分かりますが、この基礎は年輪データに基づくことが明らかにされます。しかし、国際的な年輪データは、そのままでは日本に適用されないことが光谷氏の研究でも明らかにされるのに、それがC14法による数値算定にあたって較正曲線としてどうして使用できるのか、という疑問があります。光谷氏によってすら、「これまで縄文晩期や弥生前期遺跡の年輪年代データは得られていない」とも、今村論考は記述しています。
A「弥生移行期においてはC14 年代較正曲線が約350年にわたってほとんど変化しない期間がある」のに、どうして実年代が決められるのか、という問題です。今村論考では、「宇宙線強度の増加によりC14が異常に増加したと推定されている」と記述しますが、それに加え、日本列島各地の長い期間の活発な火山活動は、実際に影響がないのか、と問いたくなります。
今から約6300年前(C14年代値)には、九州南方の鬼界ケ島周辺で大火山爆発があり、「アカホヤ火山灰」を、九州全体は勿論、日本列島広域にまき散らし、瀬戸内海、河内平野、紀伊半島辺りでも約20センチ以上堆積させたとされます。これに限らず、火山活動が昔から活発な日本列島において、国際標準と同様なC14 年代較正曲線をそのまま使って出す数値には、疑問を感じざるを得ません。あくまでも、1つの参考値として取り扱うのが学問的な姿勢のはずです。
 
 
 3 若干の付言

(1) 春成秀爾氏の執筆した「炭素14年代にもとづく弥生時代の開始年代」という文に下司氏が拘わられるようなので、参考までに見たところ、奇妙な表現と感じられるものがいくつかありましたので、その一部を併せて挙げて(A、Bと「 」は私が便宜上付けましたが、あとは原文通りです)、これに対する私見を示しておきたいと思います。
 A 他の年代測定法との整合性 「炭素年代によって得られた弥生前期の年代は、年輪年代とは整合的である。なお、中国では西周代の炭素14年代の測定をすすめているが、文献記録・年輪年代と矛盾が生じていない点は、この方法が妥当であることを証明しているといえるだろう。」
 鉄器の問題 「今回の測定結果に反対の立場をとる研究者は、弥生早期〜中期の鉄器の存在や普及が中国よりもはるかにさかのぼることを問題にしている。しかし、弥生早・前期の鉄器は出土状況が良好といえないものが少なくない。現状では鉄器の問題は、それ自体の研究を進めるべきであって、炭素年代の否定のために利用すべきでないと考える。」
 
 私見:いずれも重大な論点であって、根拠や資料が全くない形で説明されるような事項ではありませんが、少なくとも次のような批判はありえましょう。
@ 炭素年代と年輪年代とは整合的であっても、何ら裏付けにならないことは上述したことです。
A 中国の文献記録は、仔細に検討してみると、周の時代(私見では、晋の文公以前か)では年代が長く間延びしている傾向があり、このことは宮崎市定氏が『中国古代史論』でも言及されています。その場合、それぞれが間延びしていれば、両者が仮に整合的であっても、裏付けにならないものです。しかし、いったい、どういう根拠や資料でこのような言い方ができるのでしょうか。
また、中国の春秋時代には、国・地域によって幾つかの暦が併存し、しかも称元法により年代の表記も変わってくるなど、年代上の多くの問題点があることを専門学者の平勢隆郎氏は、その著作(分かり易いところでは、中央公論社『世界の歴史2』など)で記述しています。 ※なお、下線を引いた二つの漢字は正しくは、「勢」は「」、「隆」も「」です。
 
@ 中国の鉄器使用については、始用時代が春秋戦国の間、すなわち前五世紀頃とみられたり、秦の興隆の要因として鉄製兵器が考えられるなどの事情があり(『中国考古学研究』所収の関野雄氏の論考など)、また、中国に隣接する西北朝鮮では前四〜前三世紀が使用開始時期とみられるなどの事情があります(井上秀雄著『古代朝鮮』、李丙Z著『韓国古代史』)。こうした先進近隣地域の鉄の歴史を抜きにして、日本列島に先に鉄器が普及するはずがありません。誰が鉄鍛冶技術を開発し、伝えたのでしょうか。
この辺は、どのような民族(部族)が鉄器文化を担ったのかという「人間の要素」を考慮する話でもあり、これを無視した歴史はありえません。
(以上、A@〜B@については、拙稿「塩の神様とその源流」〔『日本塩業の研究』第25集に所収〕でも触れていますので、上記に加え参照されたい)
A 「弥生早・前期の鉄器は出土状況が良好といえない」とは、まことに奇妙な表現・論理です。現実に鉄器が使われていなければ、出土しないのは当然です。邪馬台国所在地論争に関して、畿内地域に鉄器出土が少ない事情の言い訳を想起させます。
なお、鉄器研究をされる方がどのような目的で進めるかは、その研究者の判断の問題であって、「炭素年代の否定のために利用すべきでない」というのは余計なお世話ではないかと思われます(何を根拠に論じるかは、論拠の是非の問題であって、こんなことを良心的な研究者が口出すことなのでしょうか)。
 
(2) 最近の文献学者は、文献探究の努力を放棄して、安易に考古学的な知見(もっといえば年輪年代法、AMS法などに基づく知見)に依拠しすぎるのではなかろうか。そういう疑問を持たざるをえない場面に、最近いくつか遭遇しますし、これはきわめて問題ある学問姿勢と考えられます。
例えば、高森明勅氏は神道学・日本古代史を専攻される大学教官とのことですが、その近著『謎とき「日本」誕生』(平成14年〔2002〕11月刊行、筑摩書房)では、倭国の首都邪馬台国の所在地については「考古学の出番だ」と記し(同書207頁)、池上曽根遺跡や武庫庄遺跡の年輪年代を無批判で受け入れた記述(同186頁)をされています。しかし、どのような形で、こうした考古学的な知見が出てきたのかを十分考えてもらいたいものです。加えて、高森氏が専門とされる神祇・祭祀関係の研究も、文献資料・地名学・言語学などを含め、邪馬台国所在地問題に欠かせない視点だと私は考えます。同書に高森氏がいくつかの卓見を示されていることもあり、この辺が残念に感じた次第でもあり、例示として取り上げました。
  繰り返しますが、古代史探究に際して、考古学だけで決められることはまずありません(当たり前の話ですが、考古学は万能ではなく、限界があるということです)。総じて考古学者に多く見られる文献無視(とくに日本の文献無視)や単眼的な思考・発想法も、極めて気になります。邪馬台国所在地問題は本来文献学の分野であり、考古学的な知見はその傍証ないし裏付けの一つでしかありえません。
 

 4 おわりに

 人間の絶えざる営みとそのなかの事件が歴史となる以上、主体となる人間を無視した歴史学はあり得ないはずです。弥生時代はその担い手(種族・部族)なしに日本列島に勝手に自生したものではないのです。
 自然科学の重要性とその最近の進歩は十分に認めるものですが、無批判なその受容は、歴史学の基礎を危うくします。残念ながら、わが国で現在活躍される考古学者や歴史学関連分野で自然科学的な手法で年代数値を発表されている研究者においては、記紀などの日本の文献資料や神道・神祇関係の知識が乏しいか殆ど無視される方々が多く見られます。本稿中に中国のことを多少引き合いに出したのも、事情を知る方々にはその理由がお分かりかと推察します。
 いずれにせよ、「歴史の流れ」を無視して出てきた結論については、たとえ「科学的な手法」という衣をまとったものでも、十分懐疑的に批判的に様々な角度から考えていく必要性を痛切に感じています。それが「歴史分野における科学研究者」としてのバランス感覚の問題なのです。理系であれ、文系であれ、こうした総合的なバランス感覚が判断にあたって必要なことはいうまでもないはずです。

 以上に長々と述べてきたことは、本来わざわざ言うべきことではないようにも思い、その意味で忸怩たる思いもあります。ただ、そうした基本的な認識を確認することも、「初心忘るべからず」で必要ではないかとも思い、あえて発表した次第でもあります。
 最後にまた繰り返しますが、歴史は常に不可逆的で、個別・具体的なもののはずです。
 
 
    U 補論
 
 『古代史の海』誌第35号に拙稿「理系の見方と文系の見方」(以下、「先稿」という)を掲載していただき、第34号掲載の下司氏のお考えに異議を唱えたものですが、第36号掲載の下司氏の論考(「小林滋・宝賀寿男氏のご意見を拝読して」という表題。以下、「下司論考」という。著作権の問題があるので、この補論の内容から受けとめてください)を見る限り、私の真意が伝わっておらず、遺憾に思うところです。そのため、補論として本稿部分を書いた次第です(第36号誌には、編集者中村修氏による「文系の目・理系の目」などもありますので、詳しくは同誌の関係号をご覧下さい)。
 
 先稿(T)で言いたかったのは、主として次のような趣旨です。
(1) 文系とか理系とか言う形で学んできた科学分野によりその人の論考・論調をみるべきものではなく、各個人の論考により個別に判断されるべきこと、
(2) 歴史は不可逆的であるから、同様な条件のもとでの実験・検証あるいは追試はできないこと。とくに時代が古く遡るほど情報が少なくなり、日本列島の自然環境に著しい変化があった可能性があるため検証には注意を要すること、
(3) 新説を提起する場合は、その提起者には挙証責任立証責任。いま流行の「説明責任(Accountability)」にも通じる)があり、ブラックボックスのような新説提示は許されないし、これを十分な批判なしで受け入れてはならないこと。
 
 ところが、今回の下司論考を読んで、その独断的な論調・定義や議論のすり替えに改めて驚いたところです。同論考は、とくに「歴史の不可逆性自然環境の変遷も含めて)」の意味を理解されていない点で、重大な問題があると思われます。
 炭素14法や年輪年代法によって得られた数値は、下司氏の言う「自然科学的な手法によって得られた一つの「史料」」では決してありません。それは、「資料」ですらなく、「資料」の解釈試論)の一つしかすぎません。氏の語義には、恣意的なものがあると思われますので、参考までに標準的な『広辞苑』の定義を示しておきます。
 そこでは、「史料」の説明として、「歴史の研究または編纂に必要な文献・遺物。文書・日記・記録・金石文・伝承・建築・絵画・彫刻など。文字に書かれたものを「史料」、それ以外を広く含めて「資料」と表記することもある。」と記されています。おそらく、後段の用い方が一般的ではないでしょうか。当該数値がその資料にすら該当しないことは、上記の定義から見ても明白なことです。
 
 このほか、随所に「変ですね」と思われる個所がありますが、あまりに多くてあげきれません。その主な点を以下に「簡潔」に数点(順不同)だけあげるに止めたいと思います。というのは、本誌上でこれ以上掲載を続けることは様々な問題もありましょうし、当方の文意が通じないこと、及び罵詈雑言の羅列では冷静な議論ができないことで、かなりの苦痛も感じるからです。私の「経歴」などについての挑発的表現にも、個人的には疑問に思いますが、その辺はさておいて、氏の論説に納得できないことを明確に最小限、記しておきたいと思います(なお、他の拙論で書きましたように、下司氏の適切なご教示にはありがたく受けたものもあり、こうしたポイントを絞った具体的な議論ならおおいに歓迎するところです)。
 
 「挙証責任」の意味が本当に分からないのなら、非難の文章を書く前にせめて『広辞苑』(勿論、例示にすぎません)くらい引いてほしいとも思われますし(そもそも、「挙証」の意味すら分からない人が『古代史の海』誌を購読・議論しているとは考えられません。「挙証責任」は決して、「ギョーカイ用語」ではありません)、「責任転嫁」と「挙証責任の転換」が区別できないとしたら、これは「国語力」の問題です。もちろん、文意自体についてもそうですが。
  また、「文系・理系」という語も誰が言い出したことなのでしょうか(また、各々の定義はどう考えるのでしょうか)。「私のような自然科学系の者」とか、個別の名前を列記したうえで「白崎氏や私のような理系の人間と文系の方々との間」という表現は、誰の文章にあるのでしょうか。おそらく「禁反言」という言葉もご存じないのではないかと思われます。
 
 中国の古代年代については、先稿でも記したように、それが長く延ばされていることは宮崎市定氏も指摘しているものの、具体的に定量的には記述していません。このテーマを中心に取り上げて論じているわけでもないので、こうした取扱いは許されるものと考えます。定量的な表現をするためには様々な困難があることも多分にあり、紙数の節約から定性的な表現になる場合もあります。そもそも、下司氏は、中国の古代年代(とくに春秋時代以前)について、どう考えておられるのでしょうか。
「私が、不思議に思うのは」、一々文献を数多く挙げなければ、読んだり参照したりしたことにならないし、学説の批判・検討ができない(してはならない?)と下司氏が思い込まれている様であることです(白崎氏にも、ほぼ同様な傾向がありますが、これがいわゆる「理系」の特徴なのでしょうか)。関係する文献・資料を闇雲に多数あげれば、それらを読んで正しく理解したことになるのでしょうか。中心となる議論に必要十分な範囲で、とくに自分の主張や説明の裏付けに必要十分な範囲で、文献・史料等をあげれば足りるはずであり(「蛇足」という語もあります)、そのときの私の中心テーマは、「文系・理系」ということでした。
 
 春成氏記述の取上げ方については、先稿でも記述したことを繰り返すことになりますが、「どのような形で学説発表ないし学問的主張をするかは、その当事者たる研究者の責任だと私は考えます」。つまり、発表した形でその内容を批判されてもやむを得ないということです。
 「学術論文」以外は批判してはならないということでしたら、誰がその批判対象を決めるのでしょうか。仮にそれ以外の論考や説明とともに、読んでもらいたければ、註や参考などでその旨を書くべきです。もちろん、それは批判する側にもあてはまることですが。
 
 「論文はそれ自身で完結していることが原則です」と氏は言われますが、これは書き手の意識の問題であり、受取手(読み手)によっては議論が完結していない(説明不足?)と判断されることも多々あります。テーマが大きく複雑なものであれば、読み手の全てに対し、一つの論考だけで記述内容の全てがきちんと説明・立証できるものでもありませんし、ときに掲載頁数等の制約もあるでしょう。だから、論文の完結性は読み手の問題でもあり(とくに、自身が納得がいかない論考や理解できない論考に対しては、説明不足と批判・非難する傾向のある研究者もおられます)、書き手だけの問題では必ずしもないということです。書き手に論考としての完結性の意識が求められるのは当然のことですが。
一方的な決め付けの羅列なら、論考は短い文章で済みますが、その反論のためには総じて文章が長くなります。発端となる決め付けがひどいほど、そうした傾向が強まるものです。まず相手方の批判すべき個所を紹介し、次ぎに自己の立場・定義をしっかり説明しなければ、議論ができないからです。他人の文章は長々しい駄文だと非難する前に、自ら顧みられることはないでしょうか。(そして、下司氏に本誌の編集者をお願いしたわけでもありません
 
最後に、やはり強調しておきたいのは、「新説の挙証責任」を十分に考える必要があるということです。新説を徒らに提起して学界に混乱を引き起こした例は数多くあります(「殷鑑遠からず」と繰り返しておきます)。定説であれ新説であれ、あるいは多数説であれ少数説であれ、どちらの説に対してもきちんとした批判・検討が必要なことは言うまでもありません。この議論のために、「挙証責任」という見方はたいへん重要なものです。これを「ギョーカイ用語」といわれる意識自体が大きな問題だと考えています(普通の国語能力が読み手にあれば、字面だけで分かるはずです)。

  ともあれ、肩の力を抜いて楽しく古代史の研究や議論をしませんか、勿論、これは蛇足の言ですが。(当初稿は平成十六年六月下旬までに記
  
   (08.6.8 掲上。その後、ごく若干、分かりやすいような表現になるよう追補した。趣旨は不変です)


 ※文系理系の議論について  クマネズミさんの記事もご覧下さい。
   地球温暖化などの議論も見えますが、興味深い点が多々あります。
                       理系・文系(上)    理系・文系(下)



 <最近の樹堂の感触>
 
 戦後初めてともいえる理系の鳩山首相の誕生のもと、これまでのわが国の社会・政治の制度見直しが進んでいる。いま、様々な不況を経験してきて、多くの制約のあるなか、わが国社会を活性化するために多くの点で必要なことだ、と総じて感じられる。
 
 ところで、その鳩山首相の初仕事的なものが、国連総会におけるわが国の二酸化炭素の削減努力の言明というのは、疑問も大きい。上記クマネズミさんの記事にもあるように、現在進行しているように見える地球温暖化の原因について、自然科学者によって見方が違っていて、二酸化炭素が温暖化の元凶とは必ずしも言えないからであり、わが国の産業構造からいって物理的に無理な目標設定のようでもあるからである。
 
 偶々、ある鉄鋼業界で長く仕事をしてきた人と話をしたとき、25%削減は現実に実行された場合には、わが国の鉄鋼産業にきわめて大きなマイナス影響を及ぼし、ひいてはわが国の産業全体にも損失の波及することが大きいと憂慮していた。鉄鋼にも用途に応じて多くの種類があり、高度の技術性を要する製品はどの国でも作れるものではないという事情もあり、これまでのわが国鉄鋼業界の製品優位性まで損なわれるようになったら、これは産業界全体にとっても一大事でもある、という趣旨だと受けとめたところである。
 温暖化の原因が太陽の黒点の加減に因るのではないかということもいわれて、それが本当なら、人類として直接の対処策はないことになる。二酸化炭素が地球上で無闇に急激に増えることは好ましくないことも分かるが、削減とか抑制とかを主張する欧州方面の人々に、なんらかの思惑があるのではないかという感触も聞く。だから、冷静にこの問題を取り上げて検討し、わが国と地球によって何が良いことなのか、どこまでが実行可能なのかを総合的合理的に考えることが必要なのであろう。物事には必ずしも一面的ではないものがあるから、多種多様な視点からの検討とそれらを総合的に総括するということである。
 
 当面、現在の政府施策が継続することが望ましいのではないかと感じているだけに、あまりにも無理な施策や言明で、みずからの足を引っ張らないでほしいとも感じる。もちろん、いろいろな試行錯誤もあろうから、施策の検討を進めるなかで誤りが分かったら、速やかに方向転換する柔軟な姿勢も備えてほしいと思われるところでもある。
 
 (09.10.23 掲上)


 本稿が自然科学を学んできた方々の歴史・考古学分野における研究を、一概に否定するものでは決してありません。いわゆる「理系」と称する方々が、自然科学の特性を活かした研究・議論をするわけではなく、歴史知識や歴史関係の各種技術について、自らの無知・無認識をカバーするくらいの意味で「理系」と言われることに疑問を感じただけの話です。これまでも「理系から見た」と銘打った古代史関連本がいくつか発表されているが、総じて言えば、「私は歴史学の知識がありませんが、私論を提示する」と表示しているようにも受け取られます。これは、もちろん誇張的な表現ですが、歴史学が「総合的な学問」として発展することが望まれるものです。

 最近では、たしかに理系分野で長年仕事をされてきた新井宏氏『理系の視点からみた「考古学」の論争点』という著書を出されており(2007年刊)、その思考方法と内容には基本的になんら違和感がありません。立派な業績だと評価しておりますが、そこに「炭素十四法によって弥生年代は遡上するか」などの論考もあり、ここまでに述べてきたこととほぼ合致すると私は感じています。理系から見ても、文系から見ても、基礎に適切な知識と判断力があれば、合致する結論があると思われます。
 同書の取り上げる論争点の全ての結論について、全てに納得・賛同と言うわけではありませんが、概ね了解しています。こういう優れた成果をあげておられるので、いわゆる理科系を含め様々な分野の方々が、的確な歴史基礎知識としっかりした論理構成で古代史分野でおおいに活動されることを、これからも期待しております。遅ればせながら、記事を掲載する次第です。

 (15.7.7 掲上) 


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