「松木武彦著『列島創世記』を読む」について小林 滋 一
@ 総評 貴兄(:宝賀氏のこと)が『列島創世記』を批評する基本的姿勢は、年来のきわめて合理的かつ包括的な古代史理解に基づくものであって、そうした視点からなされる様々の指摘には、私のような専門外の者が立ち入る隙間などあまり見出せないところです。
特に、この書評の中で何度も繰り返されている点ですが、「国内的な人的要素」や「国際的な視野でのバランスや要因説明」を十分配慮すること、「言語学・人類学・民俗学や祭祀研究、各種自然科学など関連する多くの諸分野を総合」して考えるべきことは、「上古史分野」を分析していく上できわめて重要な指摘であって、そういう方面をほとんど無視した記述に終始する『列島創世記』は大変問題の多い著作だ、と心底納得させられます。
A そうした貴兄の書評は、私なりにまとめてみますと次のようです。
(イ) 総論的には、「認知考古学」を中心に、次の問題点が指摘されます。
a.「本書は「認知考古学」という新しい手法で書かれている」が、それが「文献を無視し、政治勢力の動向・消長を顧慮せず、そうしたなかで恣意的に心理的なものについて想像を巡らすものであるのなら、それは科学としての歴史には不要なものである」。
b.すなわち、「認知考古学」が、「考古学の本来もつ限界・制約のうえで、更に心理的要素の探究ということになると、それ以前のことすら解釈でしか分からないのに、もう一度解釈ないし推論を重ねることになる。心理学自体は科学であっても、こうした二重の解釈ないし推論を重ねることで出てくる歴史関係の結論に関して、どのような検証が実際にできるのだろうか」。
c.なお、本書は、「認知考古学」のみならず、「むしろ年代論や言語・文字など別のところ」にも問題がある。すなわち、「上古史分野には説が分かれていたり仮説状態にあるものが多いのに、結論的なものが理由や説明を殆どしないまま展開されて」いる。
(ロ) 個別論的にも、次の問題点が指摘され、本書著者の見解が批判されます。
a.「考古学の独壇場ともいえる時代は、日本の場合、だいたい五世紀までとみてよい」との著者の見解に対し、評者は、それは「津田左右吉博士以来の戦後史学の立場にある極端な文献否認の考え方」であって、「日本列島の五世紀」について「韓地・漢土などの海外まで通じてみると、この時代の文献が決して乏しいわけでもない」と批判します。
b.「箸墓古墳を端的に「三世紀中ごろに出現した」と記述する著者の見解」に対して、評者は、「箸墓古墳や纏向遺跡などで本書に示される年代数値」は、「いわゆる自然科学的な手法を通じるという年代値を基に、一挙に百年近くも繰り上げられた」ものだが、それは「きわめて危険な判断であ」って、「十分な根拠に乏しいものである」と批判します。
c.「巻末に年表が付けられるが、この年代設定と付けられる記事」には問題があるとして、評者は、「本書の年代観は、従来の見方を大幅に繰り上げるものである」が、「古墳時代の始期に関係する巨大古墳の出現も、国際的な視野を合わせた国内政治の動向のなかで考える必要がある」と批判します。
(ハ) 本書評の末尾では、結論的に、「言語学・人類学・民俗学や祭祀研究、各種自然科学など関連する多くの諸分野を総合し、その地域においては中長期的な展望をもって、かつ国際的な視野のもとで、上古史とその流れを考えていくべきである」と述べられます。
B これ以上付け加えるべきものはあまり見当たらないと考えます。それに元々、書かれていることをすべて議論する必要もなく、要というべきところを批判しさえすれば、本書全体を批判することにもなると考えられます。ですから、これ以上私が書き続ける必要もおそらくないのでしょう。
ただ、そうしてしまうと何か寂しい感じにとらわれもします。そこで、やや第三者的になって、本書と論点を考え直してみたのが、以下の二の文です。
二
あえて著者の方に視点を近づけ、『列島創世記』の立場に立ってみたらどうなるか、と考えてみました。あるいはもしかしたら、次のように著者は反論するのではないでしょうか? (イ) 本書は、上古史分野における「文献」や「年代数値」につきことさらめいて議論するものではない。それらについては、学界で一応認められているところ(多数説と考えられるところ)に従っているまでのこと。
〔特に、「年代数値」に関しては、「コラム1物の年代はどうしてわかるか?」の末尾のほう(P.60)で、「記年資料からリレー式につなぐ考古学的手法によってきた研究者と、歴博のグループやそれを支持する研究者との間で激しい論争が展開されていて、決着はやや先になりそうだ。この本では、歴博側のデータを私なりに調整した年代を用いておくことにした」とか、「年代を巡る論争」について「帰趨を見守っている」というように、いわば傍観者的な観点に立って書かれているところからも、著者の基本姿勢は窺われるのではないかと思われます。
また、「文献」(「文字記録」)については、「5世紀までは残された文字記録の量や信憑性がまだ十分でな」いうえに(P.10)、「縄文時代以前は文字記録がない」ことから、「4万年を一貫した方法論で描くには、文字記録によらず、物質資料のみを対象とする必要がある」(P.13)、と述べられています。〕
(ロ) 歴史を記述する上で「文献」や「年代数値」は極めて重要な事柄であるにしても、本書では、そういった事柄は外から与えられたもの、いってみれば与件とし、それらを前提にした上で、大きな上古史の動きを新しい手法を使って描き出そうとするものだ。したがって、本書に関し時間をかけて議論する意味があるのは、新しい手法を使って描き出された上古史の流れの方だ。
〔変な譬えで恐縮ですが、「文献」からわかることや「年代数値」を“外生変数”とし、「認知考古学」等の成果によって作られる“構造方程式”にそれらを代入してシミュレーションしてみるといった感じなのかもしれません。とにかく、「文字記録によって綴られた歴史と、物質資料によりつつ自分自身を見つめることで描きだされるもうひとつの歴史とを織り重ねていく」(P.351)などとあるように、著者は、「歴史学(文献史学)」と「ヒューマンサイエンスに根差した新しい科学としての考古学」(P.350)とをとりあえず分けて考えているように思われるところです。〕
(ハ) 大きな上古史の流れを述べる際に、本書が拠って立つ指針は次の3つ。
a.「認知考古学の成果を取り入れ、そうした方法論を一貫した軸として、新しいヒューマン・サイエンスの一翼を担うべき人類史と列島史の叙述をめざす」(P.15)。
(「人工物や行動や社会の本質を心の科学によって見きわめ、その変化のメカニズムを分析する認知考古学」)
b.「地球環境の変動が歴史を動かした力を、もっと積極評価すること」(P.15)。
(「とくに、環境変動による人口の増減やその分布の流動・定着のリズムは、社会の構造化やその変化の、最大の原動力といえるだろう」)
c.「「日本」という枠組みを固定的に連続したものとしてとらえない」(P.16)。
(「「日本」という枠組み自体が歴史的な積み重ねの産物であることを十分に認識し、国家の歴史を超えた人類史の中の日本列島史を綴ってみたい」)
(ニ)本書で得られたものを、上記の3つの指針に即してまとめて整理すると、次のようになる。
a.「環境が社会に及ぼした影響の評価」という点では次のように言えよう。
「4万年の列島史を動かした根底の力が気候の変動だった」(P.346)。すなわち、「縄文・弥生・古墳のいずれの時代の開始も、それに先行する時代の後半に顕著になった気候変動―寒冷化・温暖化―への人びとの対応のなかから出てきた、社会の解体と再編成の動きの帰結だったと理解できる」(P.347)。
例えば、「縄文時代から弥生時代への移行は、第二寒冷化期に入ってしばらくたった縄文時代後期に東日本を中心として動植物資源が減退し、それに依存して定着する集団的伝統の強い社会から、個人や小集団の才覚で資源を求めて動く機動的な社会へと移り変わったことが出発点になった」(P.346)。
b.「ヒューマン・サイエンスに根ざした人工物の分析」からは、次の点が明らかになった。「人口が定着する温暖な時期には、地域に共通する文様のパターンや環状集落・環濠集落にみられるムラの形の強調など、集団的なアイデンティティを示す方向に現れる」が、「人口が流動する寒冷な時期には、ムラとは別のところにモニュメントが造営されるとともに、個々の墓や住居を入念につくったり、威信を醸し出す道具が現れたりするなど、個人のアイデンティティを表示する物質文化が発達する傾向がある」(P.349)。
c.「日本という枠組みの形成過程の再考」という点では次のように言える。
「日本列島の社会は、その枠組みをつねに流動させながら外部の社会と絶え間なく交流し、そこから新しい技術や思想や文物をみずからの文化のなかに取り入れ、時には文化そのものを変革することによって、前進してきた」(P.350)。
例えば、「大陸から伝わった雑穀の栽培や水稲農耕が縄文から弥生への移行を決定付け」たのだ(P.350)。
(ホ) 本書を批判するのであれば、「文献」や「年代数値」に関することもいうまでもなく重要だが、むしろこうした本書の中心的なテーマを取り上げている記述について具体的に行うべきだ。というのも、仮に、「文献」や「年代数値」に関する本著作の記述に誤りがあるとしても、それらはあくまでも“与件”であって、上記ニにまとめた上古史の大筋の流れを改める必要があるとは思われないから。
三
いうまでもなく、貴兄からは、「文献」や「年代数値」に関する事柄と上古史の流れとを切り離して議論するなどまったく考えられない、両者は一体のものなのであって、前者の取扱い方が間違っていれば当然のことながら後者も間違っているのだ、といった再反論がすぐさま提起されることでしょう。そして、そのような主張は、私も完全に正しいと思います。 ですが、当初からそう言ってしまうと、それ以上議論は進まないとも思われます。
そこで、迂回的に、仮に「文献」や「年代数値」に関する本書の基本的な姿勢は認めたうえで、その場合にも著者の主張する事柄は受け入れ可能なのかどうか、特にそこで著者が拠って立つ内在的な論理に問題はないのか、といった観点から若干議論してみてはと思います。
としても、以下のものは、貴兄が「例えば、高地性集落を心理的観点から考える記事が本書にあるが、疑問が大きい。この問題だけ取り上げても、書くことが多いが、長くなるので控えておく」と注記されている点を、論点は異なりますが、オモテに書き表してみたまでのことに過ぎず、いわば蛇足というべきものかもしれませんが、これも1つの考えとして受けとめてください。
さて、議論するといっても多くの論点がありますし、すべてについて分かるわけではありませんから、本書で取り扱われている実にたくさんの論点から極く僅かなものを選ばざるを得ません。以下では、とりあえず上記二の段の(ニ)のaで結論的に言及されている点を取り上げてみましょう。
(イ) この点については、本書第3章の「保守と変革」の節(P.146〜)でより詳しく書かれています。
まず、定説が述べられます。すなわち、「縄文時代の後半に入る約4500年前」、「大きな環状集落がなくなるという現象」がみられるが、この「集住から分散居住へという変化が起こった理由」として最も有力なのは、「ふたたび寒冷化しはじめた気候の変化によって」、「4500年前ごろは環境が大きく変わり、それまで頼っていた食料がとれなくなって人口が減ったから、とする説」である。
こうした定説にさして問題はなさそうに思えますが、著者は次のように主張します。
「たんにそのために人が減り、集落が小さくなった、という完全に受身の対応だけではなかったろう。環境の変化に対して、個人や集団がそれをどのように認識し、どのような意思決定をし、……、という主体的な営みの跡をあぶりださなければならない」(P.146〜P.147)。
そして、「環境が変化するなどして、それまでやってきたことがしだいにうまくいかなくなったときには、従来のやり方から逸脱した動きをとるほうが、逆に成功しやすくなる」という見方―極めて常識的であり、ことさら特記されなければならない「見方」とは到底思えませんが―にたって(P.154)、この現象は次のように説明できると本書は述べます。
「環状集落に集まっていた個々の集団が、不安定になった資源をもっとも効率的に獲得できるときと場所を求めて、それぞれ単独に居を営む時間が、しだいに多くなっただろう。それにつれて、いつどこに居を構え、何をどう収穫するかといった選択が、個々の集団やそれを率いるリーダーにゆだねられる機会も増えていったと考えられる」(P.155)。
(ロ) しかしながら、本書の以上のような記述には様々な問題点があると思われます。
a. 気候の変化「のために人が減り、集落が小さくなった、という完全に受身の対応」とありますが、どうしてこのことが「受身の対応」であって、「主体的な対応」でないのか理解できません。人が条件変化に「対応」する場合は、いつでも「受身」であり、かつ「主体的」ではないでしょうか?というのも、そもそも「対応」とは、与えられた外的な刺激に対して人がとる行動のことではないかと考えられるからです。前半が「受身」であり後半が「能動」(→「主体的」!)でしょう。
b. 「個人や集団がそれをどのように認識し、どのような意思決定をし、……、という主体的な営み」とありますが、「人が減り集落が小さくなった」場合であっても、「個人や集団」が状況を「認識」し一定の「意思決定」したうえでもたらされる事態なわけで、「人が減り集落が小さくなった」ことと、本書で言う「主体的な営み」とを分離して議論することなど何の意味もありません。
c. 要するに、「人が減り集落が小さくなった」とは、単に客観的な“表現”に過ぎず、「受身」とか「主体的」といった観点から議論される事柄ではないと考えられます。
d. それでも「主体的」という点を強調したいのであれば、例えば、上記イにある定説に基づきながら、「ふたたび寒冷化しはじめた気候の変化」により、「それまで頼っていた食料がとれなく」なったことから、人は食料を求めて移動したために「人が減り集落が小さくなった」、と“表現”すれば十分なのではないでしょうか?
e. 加えて、「環状集落に集まっていた個々の集団が、不安定になった資源をもっとも効率的に獲得できるときと場所を求めて、それぞれ単独に居を営む時間が、しだいに多くなった」とありますが、この場合、「それぞれ単独に居を営む時間が、しだいに多くなった」とする根拠はどこにあるのでしょうか?
というのも、常識的には、「不安定になった資源をもっとも効率的に獲得できるときと場所を求め」るには、移動せずに残された人たちは、ヨリ集団的行動をとる必要性が高まるのではないかとも考えられるからです。「個々の集団」がバラバラになれば、少なくなった食料をヨリ少なくしか確保できなくなってしまうものと考えられます。
f. それに、「単独に居を営む」とありますが、実際のところは、「数組のカップルとその子供たちからなる、10〜20人ほどの小規模な集団ごとに暮らす」(P.146)ようになっただけのことです。それでどこが「単独」なのかといいたくなります。
さらに、それまでの一般的な環状集落については、「大きなまとまりが5〜10軒、小さなまとまりは2〜3軒ほど」で、「大きなまとまりでさえ、部族のイメージにはほど遠い。20〜50人ほどの人数、集落全体でも100人程度だろう」(P.112)とされています。とすれば、こうした事態の変化はいわば程度問題であって、ことさら「単独に居を営む」と特記するに値するか疑問なしとしません。
g. ここらあたりのことは、本書では「集団から個人への変化」(P.151に見られるタイトル)というくくりで大きく把握されているようです。ですが、第3章の記述は、あくまでも「環状集落に集まっていた個々の集団」に関することでしょう。例えば、「意思決定の主体が、個々の集団という小さな単位になることによって」(P.155)とあります。なぜ、「個々の集団」と「個人」とが同じことのように議論されてしまうのか、理解するのが困難です。
h. また、「東から西への流れを主流として列島内の人の移動が活性化したことは、生きていくための行動戦略を、集団ではなく個人が決める比重が高まったという、先に推測した社会状況と関連するものだろう」(P.158)とあります。この「先に推測した社会状況」というのは、本書P.155の「いつどこに居を構え、何をどう収穫するかといった選択が、個々の集団やそれを率いるリーダーにゆだねられる機会も増えていった」ことを指しているのでしょう。とすると、P.155で書かれている「個々の集団」のことは、P.158の記述には見当たりませんが、どこに行ってしまったのでしょうか?
i. さらに、P.158で言う「人の移動の活性化」と「個人が決める比重が高まった」こととはどのように結びつくのでしょうか?「どこで暮らし、何をするかの意思決定に、それまでのような集団の制約があまり働かなくなる」のはどうしてなのでしょうか?仮に、大挙して人が移動するのであれば、言うまでもなく「集団」がその「行動戦略」を「決める」のではないでしょうか?
j. 加えて、ここらあたりで使われている「集団」とは何を指しているのでしょうか?「集団ではなく個人が決める」とは具体的にどのようなことを意味しているのでしょうか?
k. そうしてここから、次の論点―上記Cニのb―に移っていくのです。とはいえ、キリがないのでモウ余り細かいことは申し上げません。
ただ、「個々の墓や住居を入念につくったり、威信を醸し出す道具が現れたりするなど、個人のアイデンティティを表示する物質文化が発達する傾向がある」という場合〔この記述は、本書第3章における「縄文時代の後半になると、…、集団全体よりもむしろ個々人のアイデンティティや相互の差異を表す「凝り」が、人工物に盛り込まれる動きが顕著になった」(P.151)という記述に対応するのでしょう〕の、「個人のアイデンティティ」とは何を意味するのでしょうか?まさか、古代の人たちが「自分探し」をしてその「アイデンティティ」を探索しているとは思えないのですが?
l. それに、本書の第2章では、「環状集落最盛期の縄文時代の社会」では、「集落のメンバーを互いに対等とするメッセージが、そこに盛り込まれているだろう。その半面、墓に入れた品物の種類や数の違いからは、個人どうしの社会的な差異もまた認められていたことがうかがえる」とありますが(P.115)、縄文盛期における「個人どうしの社会的な差異」ということと、縄文晩期における「個人のアイデンティティ」とはどのような“差異”があるのでしょうか?
四 総括
本書は、上記二の段の(ハ)で取り上げた3つの指針に従って上古史の大きな流れを描くものです。とはいえ、そのうちの2つの指針で言われていること(上記二の段の(ハ)のb、c)は、これまで刊行されている種々の概説書でも様々な形で取り上げられてきたものであり、本書ではそのウエイトをアップさせているとはいえ、それほどの新奇性は見当たりません。本書の特色としたら、何といっても「認知考古学」の成果を取り入れながら全体が叙述されていることでしょう(上記二の段の(ハ)のa)。 ところが、上記三の段で僅かながら垣間見たように、その点で本書は様々な問題点を抱え込んでいるように考えられます。すなわち、小さな点は目をつぶるとしても、提示されている見解につき、そのように考える根拠が、第3者でも検証可能なように具体的に明示されていないこと(上記三の段の(ロ)のe)や、キーとなる重要な用語にもかかわらず、それが酷く曖昧に使われていること(上記三の段の(ロ)のa、g、jなど)などを大きく指摘できるでしょう。
こうして見ると、やはり本書はせいぜい「小説」としか受け止められないように思えるものの、「小説」として読んでみても、あちこちで躓き躓きしなければならず、終わりまで果たして辿りつけることやら甚だ心許なくなってしまいます(注)。
上古史の概説書として一般に読まれるものを書くのであれば、やはり貴兄が指摘するように、「文献」や「年代数値」をまずしっかりと押さえてその枠組みを固めることが先決であり、そうした上で、さらに「認知考古学」の成果を取り入れたいというのであれば、その根拠を明示するなど慎重な手続きをとる必要があるものと考えます。
といっても、ここで種々指摘したことは、単なる批判であって、本書で述べられているのとは別の考え方も可能ではないかと言っているに過ぎず、何もことさらな案を提示しているわけではありません。どんな内容にせよ、著者が多大な労力と時間を投入して新しい内容の著書を世に問うたこと自体に対しては、賛辞を惜しむものではありません(要は、これを踏まえて学界で活発な論議がなされれば良いことだと思われます)。とはいえ、発表する際には、ありうる批判を封ずるように予め措置・説明しておくのが著者の努めの1つだったのではないかと思われます。
(注) 上記B(二の段)以外で非常な違和感を覚えたのは、例えば、「環状集落」に関する説明です。すなわち、本書P.74では、縄文時代の集落において、「居所を環の形にするというのは、…、後期旧石器時代前半の環状のキャンプ地と同じだ。メンバーどうしの親しみと対等性を醸し出す自然な位置関係を、居場所空間にあらわしたものだという点は、おそらくホモ・サピエンスに共通した認知とアナロジー能力に基づくものだろう」とあり、実際にその前を読んでみると、P.42に「3万年前のヒトが、居場所を環に並べたことは、かれらの間でそうした対等の関係が意識され、ホモ・サピエンスならではのアナロジーの能力によって、その関係を空間的な形に表現した結果といえるだろう」と述べられています。
ですが、たくさんの言葉が費やされていながら説明になっているのでしょうか?「ホモ・サピエンスに共通した認知とアナロジー能力」とは何を意味しているのでしょうか?これ以上の説明がなされないのであれば、単に人にはそうした“本能”が備わっていると述べているのと差異はありません。要するに、トートロジーに過ぎないのです。
また、「縄文人もまたホモ・サピエンスである以上、表情認知の基本原則は私たち現代人と同じだったと考えていい」(P.134)とありますが、そんな重大事を根拠を何も提出せずに「考えていい」などと断定しても構わないのでしょうか?世界各地のホモ・サピエンスの上古から現代に至る表情認知が同じであったというのは、現代人の一人合点とするほうが自然です。
さらに、「複雑な脳がつくる複雑なヒトの社会」(P.136)とは、洒落としても程度が低すぎます。
(08.5.31受け)
<樹童の感触>
ご見解を提示いただきありがとうございました。改めて、上古の歴史を取り扱う難しさを感じるものです。そして、貴見を読んで関連して感じたところを、以下に雑感として書き添えてみます。
(ご承知の貴兄〔小林滋様〕に対して、改めていうことではありませんが、問題の整理の一つとして提示してみた次第です。内容的に若干の重複もあります) 1 歴史の流れを考える場合、一つの大きな基軸として時間というものを考えざるをえません。本書の著者も述べられるように、「歴博のグループやそれを支持する研究者との間で激しい論争が展開されていて、決着はやや先になりそうだ」ということであり、考古学者の多数説というのが現在、どちらになっているか分かりません。ある意味で、歴博グループの年代観に立って書かれた最初の通史ということなのでしょう。だから、こうした通史が全体的に整合性がとれていれば、歴博年代観の傍証にもなるかもしれません。しかし、本書を通読して、年代的にやはり大きな問題点を露呈したと考えるものです。
また、本書は日本の歴史シリーズの一翼ですから、編者に与えられた条件のもとで五世紀までを著者の力量のもとで記述したものですから(著者と編者との間での意見すりあわせがどの程度あったのかこれも不明ですが)、この所与の条件設定をした編者のほうに責任のかなりの部分もあるのかもしれません。
2 人的な要素(とくに政治的な要因)を排除して考えれば、社会の変動要因として気候が大きな要素になるのは確かでしょうが、やはり人的要素の排除ということ自体に大きな問題があると考えられます。というのは、大陸の匈奴や高句麗の分裂・移動、新国家建設に見られるように、政治権力の争い、端的には後継者争いが大きな社会変動を巻き起こしております。弥生時代には北九州中心であった政治勢力が、古墳時代には近畿中心に移るのも、根底に同様な後継者争いがあったとみられるからです。わが国の上古の支配階層が大陸から渡来した東夷ツングース系統(高句麗と同系)の流れを引いている事情を無視できないからです。
現代わが国の考古学者は総じて「騎馬民族征服説」に否定的ですが、それは習俗・祭祀・伝承などを無視するからであり、江波氏のいう騎馬民族征服説が疑問なのは時間的な把握に間違いがあったからにすぎません。ここでも、時間把握の重要性が出てきました。現在のところ、文献中心のアプローチでしか歴史の時間把握ができないと考えられ、それは次の3の項をご覧いただけば分かるはずです。
3 弥生時代の始まりを気候で説明することには無理があると思われます。というのは、まず、炭素14法で求められる年代数値を国際較正基準を用いて修正して使われるにしても、いわゆる「二四〇〇年問題」があるからです。
以下は、新井宏氏の記事(「
」内の表現。(注))を踏まえて表現しますと、「今から二四〇〇年ほど前に生じていた較正不能期の問題」があるからです。「紀元前八世紀から前五世紀までの約三百年間、暦年は変化しても炭素十四年は、ほぼ一定値で推移しており、同一の炭素十四年に対応する暦年に二百年も差異が生じてしまう場合がある」ということです。そこで用いられるのが欧州や北米の樹木を基準とした較正図ですが、「一般的な認識として地域差はないとされているが、厳密な意味で東洋あるいは高度、緯度が異なる地域で、そのまま使用できる保証はない」のです。新井氏は他の事情も踏まえて、結論的には、「「二四〇〇年問題」のように、炭素十四年が一定値を示す期間が三百年も続く場合は、数十年の差異でさえ数百年の差異に繋がる危険性がある。弥生時代の開始年代の議論は、まさにこの「二四〇〇年問題」の最中にある」とされます。
かつ、樹木の成育を考えれば、日本列島のように南北に長く地が連なり、かつ火山が多く活動が活発で多湿多雨な地域において、欧米の較正基準をそのまま用いることの危険性が強く認識されます。樹木から年代を測定する年輪年代法の問題点がここに出てくるからでもあります。
新井氏は、そのうえ、北九州には「海岸効果」もあって、これらも併せて年代値が古く出る可能性の高いことを指摘されます。この「海岸効果」説については、判断が難しいのですが、日本の地理・風土の一般論からして、精度があがったとされるAMS法といえども、そこから機械的に算出される年代値には疑問が大きなものといえます。素のままの数値がそのまま利用できないとなると、数値の操作・判断が問題になるということです。これら危険な要素を捨象した議論は暴論に近く、取扱いは慎重にするのが合理的な姿勢ではないでしょうか。
(注)新井宏氏は多くの論考を発表されていますが、これらのポイントをまとめた形で、『理系の視点からみた「考古学」の論争点』という書を最近刊行されました(大和書房、2007年8月)。いわゆる自然科学的な数値が、処理によりいかに判断が変わるかを知る意味でも、一読がお薦めできる書といえます。ここでの「 」内の記事も、同書から引用しました。 4 弥生時代の始まりについての人的要素も無視できません。というより、弥生時代については、この関係の要素がむしろ最大だと考えられます。この時代を特徴づける稲作・青銅器という文明(本書でも、水稲農耕が縄文から弥生への移行を決定付けたと見えます)は中国大陸にいたタイ系の民族が担ったもので、日本列島でも竜蛇信仰をもつタイ系種族(海神族)が大きな役割を果たしましたが、その移動契機を考える必要があるからです。
すなわち、中国春秋時代の終わり頃に、山東省の地に移動していた、もとは江南にあった越の国の残滓国が滅ぼされて、その関係種族が分散し、その一部が朝鮮半島南部を経て日本列島の北九州に渡来した可能性が大きいからです。このなかで、弥生時代の開始年代も自ずと制約されます。こうした要素を物や気候だけから把握できるのでしょうか。私は、「4万年の列島史を動かした根底の力が気候の変動だった」という著者の見解におおいに異議を唱えるものです。
考古学は紀元前の時代であっても、決してその独壇場ではなく、国際的な視野から中国や朝鮮半島の人間活動の歴史を様々に考慮する必要があるのです。
(08.5.31掲上)
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