T 「岩本(岩元)」姓の出自−奈良時代の大穴持神社史料 宮永正二郎様 標記について、奈良時代の光仁天皇の勅により、鹿児島桜島の鳴動を鎮めるため「大穴持大明神の西国守護日記」が残されており、現社司「谷口巌様のご指導によれば、
そこに「常洲近江庄主橘氏宮永家上下二拾五人《注=【宮永家】四人兄弟、岩本氏の一族》」として「岩本(元)氏一族」として姓が残されております。大穴持大明神は奥州津軽山鎮座とあり、岩本氏一族が奥州にて大穴持大明神を古来守護されていたのかはよく分かりません。 大穴持明神は大国主の若きときの名とされていますが、奥州は当時、光仁・桓武両天皇にとっては、朝庭に「まつろわない」蝦夷経略の地、 大国主に関しては、名前のとおり、当時、海路、奥州津軽山まで経略されていたともおもわれます。西国下向は奈良・平城京拠点だとおもわれます。 ●【大穴持神社】インターネット情報の読み方と意味 (手紙による願い出により、社司・神主 谷口巌様より、以下の回答をいただいた。) ◎【代宮司 宮永家に伝わる者にいう。】 大穴持大明神 大穴持社司社家 谷口相模 「右大明神ハ昔奥州津軽山ヘ鎮座候處爲西國守護神下向可有旨勅命ヲ以常洲近江庄主橘氏宮永家上下二拾五人《注=【宮永家】四人兄弟、岩本氏の一族》ニテ神廟ヲ守護シ罷下リ日州《日向の国》串良島串島》沖ニテ《風波》候ヘ共神《の力》寄特《「共」不要》ニテ串島ヘ御着船、其ノ地串島《ノ》守護野邊氏《「ノ」は不要》人ヲ頼十七日滞留夫ヨリ福山《「福島」は間違い》ヘ御着……《「福山にははかばかしき御船無きにより陸地の岡、山に人数をかけて道を作らせ敷根まで御通りになられた。」》【福山は黒酢で有名な地。小村は福山西方山越えで敷根を挟んで次の村】 敷根ヨリ船ニテ隅州《大隈の国》福瀬之渡ニ着船《此》ノ時越保元年辛丑三月五日ニテ候、福島村【小村の北方の隣接村。《昔は水路続きだった。》】へ假殿出來、其後小村ヘ本宮作有之、祭田過分ニ相付大宮司ヘ大屋敷着被下由申傅候云々」 式内社
大隅國囎唹郡 大穴持神社. 旧県社. 大己貴命. 配祀 少彦名命,大歳命 ... 大穴持神社. 祭神
大己貴命、少彦名命、大歳命. 創建年代 ... 以上前後三回にわたる正史の記事から、官社としての大穴持神社創始の歴史は明らかである。
... www.genbu.net/data/oosumi/oonamoti2_title.htm 社司・宮司 谷口家について(筆者文通により教えていただいた情報) ・谷口家と大穴持神社のかかわりは、初代「谷口左膳様」以前は不明 初代 谷口左膳様 ・・・ 第五代 谷口相模(善次)様・・・・ 第十代 谷口眞園様(巌様の祖父) 第十一代谷口友衛様(巌様の父) 第十二代(現) 社司・宮司 谷口巌様 ご子息(巌様長男)谷口学様(鹿児島神宮の権禰宜・大穴持神社禰宜) 宮永の地名は北陸・白山の地、三重、九州柳川・中津に多くあります。 |
U 樹童の感触・検討など
ご検討の提示、ありがとうございます。貴見を踏まえて、以下に私の感触・検討などを示しておきます。 囎唹郡式内社の大穴持神社の祠官家が宮永氏であったことは、『薩藩旧記』に見えており、同書の「宮永諸兵衛」の名前から見て、日向の諸県君の流れを汲んでいることが窺われます。この関係を少し丁寧に書きますと、次のとおりです。
1 薩隅日三州の宮永氏関係では、日向古族で日向国造族の諸県君の流れを汲む宮永氏(東諸県郡国富町の本庄八幡宮祠官家)がまず想起されます。その系図は『新風土記』2−2に記載され、近藤安太郎氏の著作『系図研究の基礎知識』第一巻69頁に転載されます(内容的には若干の混乱と疑問あり)。その分家というのが、本庄川を溯った東諸県郡綾町大字南俣の八幡神社の社家にあります。
2 囎唹郡の式内社に大穴持神社(鹿児島県霧島市国分広瀬)があります。この創祀関係の記事が『続日本紀』には、次の三度見えます。
(1)淳仁天皇の天平宝字八年(764)十二月、鹿児島の地に一異変が発生して、十数年間続いたこと、
(2)称徳天皇の天平神護二年(766)六月、大隅国に神が新島を造って震動が止まなかったこと、
(3)最後に光仁天皇の宝亀九年(778)十二月、天平神護年間に大隅国の海中に神が新島を造って、その名を大穴持神ということ。
これらの「神造三島」は、現在の隼人町の海上にある辺田小島・沖小島・弁天島と考えられているとのことです。
3 大穴持神社の近世の祠官家は、宮永とも谷口ともいったことが知られます。
曽於郡(桑原郡)国分郷の大穴持神社の神主に宮永相模、大宮司宮永諸兵衛と『薩藩旧記』に見えるとのことであり、「宮永諸兵衛」の名前から見て、日向の諸県君の流れを汲んでいることが窺われます。『三国名勝図会』には、「延喜五年正月、社司谷口某が呈状に、初め社は宮洲に在りて神体は石像なりとあり、……」と見えます。
そうすると、上記の「宮永相模」は、貴信の「第五代 谷口相模(善次)」に当たることが考えられます。
4 薩隅の谷口氏は名族で、太田亮博士は、平姓種子島氏族とも藤原姓ともいうとし、「日置郡谷口より起こりしか」と記します。
その一族として、「囎唹郡清水郷弟子丸城内の守公神社司に谷口美濃、また同郷北辰妙見社司に谷口弾正あり。又串良柏原、肝付高山等の名族たり」と記し、日向にも谷口氏があったと記します(『姓氏家系大辞典』タニグチ条第7、8項)。
そうすると、薩摩の日置郡谷口(現日置市伊集院町下谷口及び鹿児島市上谷口町)の発祥は疑問であって、むしろ日向の宮崎市北川内町谷口を考えたほうが妥当ではないかと思われます。この地は、本庄川が大淀川に合流してその下流南岸にあります。また、その八キロほど南方に宮崎郡清武町の谷ノ口があります。
守公神社は大隅国総社であり、国庁の所在地であった霧島市国分府中にあって、いまは祓戸神社とよばれます。祭神はイザナギ・イザナミ両神のほか瀬織津姫神などとされています。国分広瀬の大穴持神社の北五キロほどに位置しますから、両社の谷口氏が同族であったとみられます。なお、薩摩国総社も同名の守公神社で、薩摩川内市御陵下町にあり、さらに三河でも相模でも、国庁の所在地(愛知県豊川市国府町的場、神奈川県中郡大磯町国府本郷)に守公神社があります。これら守公神社の祭神は、おそらく大隅の同名社と同じで、お祓いの神たる瀬織津姫神が祭神であったと推されます。
このように宮永氏、谷口氏が薩隅の古族末裔とみられますが、これら一族が宝亀九年の創祀以来一貫して大穴持神社を奉斎してきたかどうかは不明です。また、薩隅の岩本(岩元)氏との関連もとくに管見に入ってこないので、ここでは取り上げなかった次第です。
(09.3.2 掲上)
疑問の「越保」年号について 09.7.5受け ○事実判明による修正 「野邊氏は串間の室町時代の地頭(守護)」と判明。 谷口家第五代宮司「谷口相模(善次)」様は(現)第十二代(現) 社司・宮司 谷口巌様から遡って七代先で人生60年として420年遡る1579年となり、相模氏は室町時代の人と推量できる。参考室町時代(1336年 ・ 1573年)・永禄11年(1568年)) 式内社
大隅國囎唹郡
大穴持神社.
旧県社.
大己貴命.
配祀
... 大穴持神社.
祭神
大己貴命、少彦名命、大歳命.
創建年代
宝亀九年(一七七八)
... 以上前後三回にわたる正史の記事から、官社としての大
穴持神社創始の歴史は明らかである。
... 曽於郡(桑原郡)国分郷の大穴持神社の神主に宮永相模、大宮司宮永諸兵衛と『薩藩旧記』に見えるとのことであり、「宮永諸兵衛」の名前から見て、
... そうすると、上記の「宮永相模」は、貴信の「第五代
谷口相模(善次)」に当たることが考えられます。
●【大穴持神社】インターネット情報の読み方と意味 (手紙による願い出により、社司・神主 谷口巌様より、以下の回答をいただいた。) ◎【代宮司 宮永家に伝わる者にいう。】 大穴持大明神 大穴持社司社家 谷口相模◎『神社佛閣帳』、大穴持大明神 《
》内、宮司谷口巌様の加除修正・注釈、【
】内、筆者の補足・修正 「右大明神ハ昔奥州津軽山ヘ鎮座候處爲西國守護神下向可有旨勅命ヲ以常洲近江庄主橘氏宮永家上下二拾五人《注=【宮永家】四人兄弟、岩本氏の一族》ニテ神廟ヲ守護シ罷下リ日州《日向の国》串良島《串島》沖ニテ《風波》候ヘ共神《の力》寄特《「共」不要》ニテ串島ヘ御着船、其ノ地串島《「串間」ノ》守護野邊氏《「ノ」は不要》人ヲ頼十七日滞留夫ヨリ福山《「福島」は間違い》ヘ御着……《「福山にははかばかしき御船無きにより陸地の岡、山に人数をかけて道を作らせ敷根まで御通りになられた。」》【福山は黒酢で有名な地。小村は福山西方山越えで敷根を挟んで次の村】 敷根ヨリ船ニテ隅州《大隈の国》福瀬之渡ニ着船《此》ノ時越保元年辛丑三月五日ニテ候、福島村【小村の北方の隣接村。《昔は水路続きだった。》】へ假殿出來、其後小村ヘ本宮作有之、祭田過分ニ相付大宮司ヘ大屋敷着被下由申傅候云々」 (誤謬修正)「其ノ地「串島」(誤)《ノ》守護野邊氏」中、守護「野邊氏」は「串間」(正)の地頭。 (鎌倉時代にはじまる守護・地頭は両用適宜使われる。例えば「越前・富樫家」も地頭とも守護とも称されている) (注)史跡・名勝から串間の歴史を探ろう 自分たちの住んでいる串間市の史史跡・名勝から串間の歴史を探ろう 自分たちの住んでいる串間市の史(PDF)串間市にはどのような史跡・名勝があるかDVD(くしま歴史浪漫2007)を視聴して話 ...
もっと詳しく調べるためにはどのような方法があるか ...
野邊氏について・・・串間及び末吉の地頭.
野邊氏の墓.
日明貿易・・・龍源寺.
千野湊(本城)
...(社)串間青年会議「歴史資料」○室町時代 野邊氏について・・・串間及び末吉の地頭.
野邊氏の墓. 日明貿易 龍源寺 千野湊(本城) 倭寇 (日向灘海道をゆく 南九州の海商人たち 三又たかし) 足利義昭 永徳寺 金谷神社(ふるさと再発見 宮崎の謎 三又たかし) 櫛間城跡 教育委員会に遺物 図面 石造阿弥陀如来像(市木郡司部地区、室町時代後期の磨崖物)○江戸時代 秋月氏 串間(高鍋)藩主
◎『三国名勝図会』に「延喜五年(九○五)正月、社司谷口某が呈状に、初め社は宮洲に在りて神体は石像なりとあり、今木坐像なり、其宮洲は今の社地を距ること午方八町許りの海中にあり、前に出せる神造三嶼の一、後海に没れ、潮退時は徒渉すべしといへるもの是なり」とある記事を参酌するなら、延喜五年(九○五)正月当時はすでに宮州は海面下に没していたともとれる。
◎しかしながら、本社の由緒について『神社佛閣帳』は別説「道中記」があり、『神社撰集』は、これを異説と批判して「明治四年五月縣社に列す」としている。道中記中、「野邊氏」は室町時代の串間・末吉の地頭(江戸時代の藩主は高鍋管轄「秋月氏」)との史実が串間青年会議所のPDF資料に明記されており、この関係からみて、神なる宮洲の島崩れは、文明噴火(文明3〜8年、1471〜1476年)に起こり、「辛丑」二千年紀「1481」年に、室町時代末期以降、大穴持神社宮司・第五代「谷口相模」氏によって記されたものと推定される。 ○島崩れのあとの脱出は、舟で佐多岬沿岸沿いで都井岬「串間」に出たか/または鹿児島(錦江)湾岸何れかの地から陸路「串間・守護野邊氏」を頼り17日間滞留した。以後、桜島北方「福山」に辿り着き、舟なく、敷根越えのための山道を開拓して、敷根にてやっと舟を得て、小村(現、國分広瀬)東方水路をよぎり、小村後背地の「福島の瀬」に着き仮宮を造営、爾後、本宮を神名帳所載の本社所在の地・現在地「小村」(霧島市國分広瀬に移したとの解釈がとれる。 参考 室町時代1336-1568 第八代足利 義政 在位1449-1473、第九代足利 義尚 在位1473-1486、(略) 第十五代足利 義昭在位1568-1588 〔櫻島噴火・背景史料〕 (1)文明噴火(文明3〜8年、1471〜1476年) ===二千年紀で近辺の辛丑 1421、1481 (2)安永噴火(1779年11月7日(安永8年9月29日)〜翌年1780年8月6日(安永9年7月6日)===二千年紀辛丑 1721、1781 (3)大正噴火(大正3年、1914年、瀬戸海峡を埋めて大隅半島と桜島を陸続き)===二千年紀で辛丑の年1901,1961 (4)昭和噴火(1935年(昭和10年)1939年(昭和14年)11月、1946年(昭和21年)1月から爆発が頻発するようになり同年3月9日〜溶岩流は鍋山付近で南北に分流し北側は4月5日、南側は5月21日同年11月頃終息===二千年紀で前後の辛丑の年1901,1961 |
「越保元年辛丑」の比定についての修正 12年09月受け 神造り島「宮(瀬)洲」の島崩れは、社伝{延喜5(905)年以前におこっており}、有史著しい桜島爆発によってではなく・・・{筆者、現に進行中の錦江湾内・火山造島活動下でおこったオソレが大と思料}・・・相模氏の年代想定は、串間市の歴史:「地頭・野辺氏」の南北朝・室町前期の年代と重なります。 一方、現、第十二代谷口巌様より遡ること、有難くも皆様ご長寿であり、8代遡るとして「600年強」の昔、元号双立した「南北朝時代」と比定。南北朝時代の元号・干支辛丑は、二千年紀「1361」年がこれに該当し、南朝 : 正平16年、北朝 : 延文6年、康安元年3月29日 と比定されます。 「越保」はもともと存在しない号であり、探しても意味なく、天智38天皇・中大兄皇子の長期称制期を「越年」と称したように、越年の間違いと解しておきたいと思います。 (12.11.4 掲上) |
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