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最近の文献学者、考古学者といった専門家の著作や研究は、専門分野に特化して、総合的に歴史全体の流れを追ってはいない、という風潮がかなり強く見られる。このため、非専門家の研究者による歴史把握はどうなるのかという意味で、双方を対比して史実把握の見方、結論をみてみるのも一案ではないかと思われる。 1 ここで取り上げた書『本当は謎がない「古代史」』 (ソフトバンク新書)については、著者の八幡和郎氏は東大法学部を出た元通産(経産)官僚であり、評論家になってからは歴史関係の著作もいくつか出されているが、歴史研究を大学・大学院で学ばず、これを職業としていないという意味で、古代史学の非専門家である。
なお、本書で取り上げられた問題点やキャッチコピーは次のとおりである。
本書の著者が非専門家だから、残念なことに歴史知識や記事などの点で、簡単な誤記もいくつか見える。例えば、有名な壇林皇后橘嘉智子を「ちかこ」と訓んだり「千嘉子」と書いたりし、「安録山」(一個所)、「習宣阿曾麻呂」とか武家清和源氏の祖を「源常基」という誤記もする。そのほかにも誤りがあり、これらことは、誰か専門関係者にチェックさせればよいのに、その辺の労を払わないことが惜しまれる。こうした歴史知識の欠如を自覚せず、堂々と所説を展開する度胸の良さには、やや驚くところもある。
これらの辺も含めて、本書が新書版という紙数制約もあるから、記事には説明と歴史知識がかなり粗い面もある。だから、個別の諸点の分析・結論や記事では、突っ込みどころは多々ある(なお、いわゆる「専門家」の著書でも、歴史関係者や出版元の校正過程は経ているはずだが、誤りがないわけでもないし、突飛な議論や前提・結論がおかしなものは多々あることに留意)。
2 しかし、これら欠点を補って、総合的には良い面がある。「イデオロギー」・宗教と「商業主義」が古代史を歪めるとして、自らの信じる合理史観と論理的思考で古代史の流れを一貫して検討しようとする姿勢は、文献無視傾向の強い考古学者や主観史観的な文献学者よりはよほどマシだと思われる面がある。古代日本の歴史の流れを大局的にとらえ、できるだけ合理的論理的に古代の事件を検討・把握しようとしており、専門家ではないことで却って「傍目八目」の効能も十分ある。専門家といわれる研究者たちにも、素朴すぎる文献理解に立った「常識」やおかしな論理展開が多数見られるからでもある。歴史諸問題について、思考や結論の制約が著者にはないという前提のもとでの合理的な論理追究が、まず本書のメリットとしてあげられる。
著者が記紀を盲信しているとの読者評も一部にあるが、これはおそらく誤解か悪意の表現であろう。つまり、「盲信」ということではなく、合理的な歴史全体の流れとして検討を加えてみると、記紀の神武以降の個別記事が総じて信頼できる(「神武以降は説得的な史書である」という表現)とか、「記紀の記事はそうデタラメではない」と言っているにすぎない。皇国史観については、排除の姿勢もしっかりもっている。そのアンチテーゼの津田学説は一大仮説であっても、その結論は真理ではないし、史実と異なることも多々ある。なんでも、天皇制保持・強化などの政治的利用を基にした歴史の改竄とか「造作」と簡単に片づける姿勢は、問題が大きい。その多くは、そういう研究者自身の理解の悪さや視野が狭窄なことに由来するものでもあろう。
だから、本書の著者が記紀を基本として物事を考える姿勢は、古代史分野における論理の組み立て方としては、むしろ当然であろう。著者の見方や結論をアナクロニズムだと斬るのは、むしろ津田史観と戦後歴史学の幻想に囚われた立場からのものか。同様な題名のもとで問題提起をする書『古代史はどうして謎めくのか』(関裕二著、新人物文庫667)もあるが、津田史観や考古学主流派の見方にとらわれた面のある同書よりは、はるかに優れた合理的な分析・指摘もしている。
3 勿論、本書で多少断言的に書いてある記事にも、仮説が多く、独自の主張や誤りもかなりある。本書の項目の立て方が、命題を掲げて、それに関する「ウソ」「本当」というポイントを簡略に掲げるが、これに関しても合理的な指摘ともども疑問も多々ある。
例えば、第三章の「畿内勢力が筑紫に初登場したのは邪馬台国が滅びてから」という個所を取り上げると、第1項の命題「崇神天皇のもとで大和統一から本州中央部制圧へ」の関係でのウソ「崇神天皇の即位で葛城王朝から三輪王朝に皇統が交替した」、第2項のウソ「邪馬台国は筑紫から大和に東遷した」、第3項のウソ「神功皇太后は卑弥呼に着想を得た神話的な架空の人物である」というのはその指摘通りであろうが、第2項の本当「筑紫地方にはヤマトタケルも足を踏み入れられなかった」というのは、三角縁神獣鏡や各種古墳副葬品などの徴表や畿内型古墳・国造配置などから言って疑問が大きいし、第3項の命題「卑弥呼は九州の女酋長。神功皇太后こそ倭国初代女王」も、卑弥呼の九州在住は確かだとしても、「女酋長」という表現は疑問であり、かつ、後半の「神功皇太后こそ倭国初代女王」の部分も疑問が大きい(「皇太后」という表現にも、疑問が大きい)。
しかし、合理的総合的に歴史の大きな流れのなかで物事を考えていけば、著者が言うように、いわゆる「古代史の謎」もかなり減るのも確かであろう。例えば、「邪馬台国は大和朝廷の前身だという可能性は、普通には完全に排除されるべきものだろう」などという鋭い指摘も多々あり、これだけで、多くの歴史問題が解決されうる。畿内の国と北九州の邪馬台国の並立構造という多元的な地域国家を考えるのも、彼だけの独創ではないが、当時の日本列島の政治状況からすれば、考古学者主流派の単純な一元論よりは遥かに合理的である。
そもそも、古代史の分野において、確定的な説がきわめて少ないが、それには「謎」とはいえないものもかなり多いという事情もある。論理的・合理的に考えていけば、論争が収束あるいは終息して然るべきものでも、「三角縁神獣鏡魏鏡説」のように、いまだに各種議論や考古学年代体系の基礎、あるいは定説的な存在として残るものも多い。こうした摩訶不思議な事情が古代史関係ではいくつもあり、専門家たちがその論理展開の基礎においてあることがむしろ不思議な学説・見解も多い。この辺が学界の閉鎖性と専門学者の限界を示している。
文献学や考古学の専門家そしてマスコミ関係者にあっても、呆れるほど奇説・珍説や我田引水の見解が多く、徒に「謎」のまま残しているのもそれだけ多い。考古学の大家・森浩一氏は、仲間うちの考古学者について、「考古学者の文献の読み方はしばしば恣意的です。都合よく読み間違えていることがあります。……(間違いに)気がついても一生変えない人もいる」と指摘される(『三輪山の考古学』126頁)。
こうした事情にもあるから、本書は、それら非論理的な立場の人々、先入観が強かったり、イデオロギー的色彩が濃い学究たちなどに対する大きな警鐘でもある。その意味で、専門家ないしその亜流の研究者たちが本書の記事や議論を粗い議論だと批判して簡単に切り捨て、片づける姿勢はむしろ疑問が大きい。評者が本書を良い評価でみる所以でもある。
4 なお、記紀の年代だけを調整・補正して把握すれば、その記事は総じて合理的な古代史の流れだと著者は言うが、この辺にも二つほどの問題がある。
その第一は、著者が補正して本書での分析に用いている年代観が正しいかどうかの問題であり、第二は、実は古代史料で個別の補正を要するのは年代という点だけではないということである。
前者については、年代修正をすれば記紀は古代史の重要史料に成りうると八幡氏がしているものの、この問題を深く、多方面からの具体的な検討・吟味していないため、彼の年代修正は崇神天皇について三世紀中葉頃の人(「崩年干支」の示す年代案の一案でもあるが、とくにこれには触れずに年代推定をしている)とみるなど、やはり問題があり、中国史書等も信頼できないとしながら、成立が新しく、しかも年代遡上が大きい朝鮮半島の『三国史記』新羅本紀に記す倭国による新羅侵攻年代をそのまま受け入れる矛盾もある。
それでも、「大和朝廷が北九州に支配を及ぼしたのが、邪馬台国の時代よりも一世紀もあとの四世紀半ばごろであることは動かしがたい」という著者の大局的年代観には基本的に誤りがない(崇神と景行・ヤマトタケルとの年代間隔が空きすぎるから、もう少し突っ込んだ年代検討をすることも望まれる)。
後者については、「地域と人」すなわち、事件報道の5W1HのうちのWhereとWhoという点の適切な把握が必要だという問題点もあり、その辺の認識が著者に乏しいのは惜しまれる。記紀神話における「天孫降臨の地・日向」や「大己貴神の居た出雲」は、歴史時代の旧国名の「日向、出雲」ではなく、具体的な比定地域が明らかに異なるのである。すなわち、「出雲」と関係のない隼人が盤踞する未開の地、南九州に天孫が降臨するはずがないし、『出雲国風土記』に天孫降臨関係の話がまったく見えないなど、これまでの歴史の流れと矛盾する。だから、天孫降臨伝承が後世の為政者によるいい加減な作り話だと結論するのは、論理の大きな飛躍であり、短絡的である。
戦後の古代史学主流は、津田史学の素朴な記事把握に因む粗雑論理と記紀切捨ての基礎に展開してきた事情にある。人が天上から降りてくるはずがないという切捨て論理も、北東アジアに多く見られる「降臨伝承」についての認識が乏しいことによる。太陽神崇拝が強く鳥トーテミズムがある種族では、その移動元や先祖の居住地を「天(天空)」と捉える見方がある。海の宮に関する伝承も、筑前から対馬にかけて分布する(上記の例についていえば、記紀神話の「日向、出雲」は、ともに筑前海岸部とみなければ、話の辻褄が合わない。これに限らず、「出雲」という語は様々に誤解されている)。記紀の「熊襲」の地域についても、一般でも学究でも、南九州の地という先入観が強すぎる。こうした古代の地域・移動の概念について、著者の問題意識が乏しいという欠点がある。
人ないし神が必ずしも同一の者を指さないこともかなりあり(同一名詞で複数の該当者がいる場合もある)、そうした例として神代の素盞嗚神、天日矛などや、記紀の倭建命あるいは武内宿祢なども考えられる。また、その逆で、一人の者・神が複数の名前をもって史料に現れる場合も多々あるから、この辺の人物・神の見極めも古代史ではきわめて重要なのである。
ともあれ、自分の頭で合理的実態的に古代史を考えるための一つの材料として本書を用いれば、それなりに有用である。八幡氏が最後にエピローグで言うように、「古代史の諸問題は現代につながっている」。実際、現代まではともかく、古代に続く中世までは、「古代史の諸問題」がしっかりつながっているのだから、中世史といっても、中世だけでの検討はありえないなど、大局的に大きな歴史の流れとして物事を考え、史実の原型に迫ることが歴史研究には必要だからでもある。
5(補論)古代史の謎を少なくするための方法
補論として、評者なりに、わが国の古代史にはなぜ謎とされるものが多いかを考えてみる。その答としては、史料がまず乏しいうえに、それが断片的であることが多く、かつ、当時代に記録されたものがきわめて少ないという当たり前のことが先ずあげられる。だから、この前提を踏まえて、古代史の諸問題をもう少しかみ砕いていくと、次の諸点があげられる。
@歴史の大きな流れを大局的に捉えて、少なくとも中世まではつながるような長いスパンで問題点を考えることが必要である。
A個別的には、事件報道の「5Wと1H」という要素を押さえた具体的な問題検討がなされてこなかった。とくに、古代は中世と異なり、時間(When)と場所(Where)、人(Who)の具体的把握が必要なのに、これら諸点がほとんど検討されないまま、ごく素朴に理解され、そのうえで歴史解釈が為されてきた事情がある。
B先入観や特定のイデオロギーに基づく解釈・検討がなされてきた。この点も史実の原型探索には大きな阻害となるから、戦前のような皇国史観や天皇制排除の左翼史観などの特定のイデオロギーには極力とらわれないように検討することが必要である。学界には、先学の考え方に制約される傾向が多く見られるが、これも当然、問題が大きい。
C史料文献学単独、考古学単独では問題解決に導かれることが少ないのに、視野狭いままで結論がなされたことが多かった。他の関連・近接分野の学問成果を適切に受け入れたうえで、総合的な視点で問題解決がなされなかったということであり、かつ、多くの仮説が一人歩きしても、これを具体的な事情などを踏まえた適切な検証がなされなかった。
ともあれ、各種資料を基礎に総合的に考えれば、どこまでが確実に言えるのか、をまず考え、次にそれら諸点を踏まえて、仮説を立て、その仮説が歴史体系のなかで妥当するかどうかを、様々な視点から何度も検証し、その繰返しのなかで、より適切な歴史像とその大系を構築していくことが必要であろう。そうすると、これらの試行錯誤のなかで、多少の留保点が残っても、古代史の謎というものは次第に少なくなっていくものと思われる。もちろん、そのなかで考古遺物の発掘もまだ続くから、それらからも新しい知見が期待される。
(2011.8.6掲載) |
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