大野九郎兵衛の出自と杏葉紋(試論)  
 
 
  一 赤穂の大野九郎兵衛
 
 芝居『忠臣蔵』で有名な赤穂浪士関係の悪役・不忠者のなかには、赤穂藩家老で開城に際して開城恭順か籠城か、分配金のやり方などの方針で大石内蔵助良雄と対立した大野九郎兵衛があげられる。九郎兵衛はさらにお家再興の件などでも対立し、家中の反発を招いたということで出奔し京都に出て、その後に遠からず衰死したともいわれるが、赤穂を出た後の行方は不明である。ただ、これらの行動は大石良雄と打合せ済のもので、悪役を買って出たとも、大石良雄が失敗した場合に吉良上野介を襲う作戦だったともいわれて、必ずしも悪役ではなかったという説もあるが、いずれも伝説の域を出ず、この辺は判然としていない。
 それはともあれ、九郎兵衛の実名は知房といわれ菊屋太夫あての書状、『大石家義士文書』所、また京都では伴閑精とも称したといわれる。その父も同名の大野九郎兵衛といわれ、財政をもって赤穂藩に仕えて塩田開発などに功績があって家老に取り立てられたとされているようである。
 『赤穂義士史料』下巻の最初に収載された文書は、藩主の浅野家(当時は浅野内匠頭長直で、長矩の祖父)が常陸笠間から播磨赤穂に入封した正保二年(1645)のもので、「浅野内匠頭内 大野九郎兵衛」が他の重臣とともに署名しているから、この時点で大野氏は既に家臣であったことが分かる。元禄の大野九郎兵衛知房の生没年は不詳であるが、大石良雄より年長だったのは確かのようで、子息の大野群右衛門には娘もいたとのことであり、元禄十四年(1701)三月の刃傷事件当時は六十歳くらいかという説が有力である。とすれば、その56年前の正保二年の大野九郎兵衛は知房の祖父か父くらいだと考えるのが、妥当であろう。大野九郎兵衛家の禄高は六五〇石とも千石ともいわれるから、これらの事情からは一代の成上りとはいえない。
 
 
二 大野九郎兵衛と伊予の大野氏
 
 さて、大野九郎兵衛の出自・系譜については、これに言及した史料は管見に入っておらず、先祖がどのような事情で赤穂藩に仕えたのかも不明である。ある切っ掛けから、その出自に関する手がかりを感じたので、以下に試論として記してみる次第である。
 大野という姓氏・苗字は各地に多くある。『姓氏家系大辞典』には約50もの項目があり、その出自がまちまちであることを示しており、大坂城の豊臣秀頼の寵臣大野修理治長の系譜さえ明らかではない。藩主の浅野氏の立身出世も秀吉の引き立てによるものだから、濃尾よりは常陸か播磨赤穂の周辺から考えていったほうがよいのかもしれない。播磨にも大野氏が居たが、ここで注目されるのは伊予の大野氏である。そこには、戦国期に「大野九郎兵衛」を名乗る土豪も居たことが分かる。
 伊予には越智郡に大野村があり、式内社の大野神社が鎮座し、この地に起った越智一族の大野氏も系譜に見える。しかし、戦国期には、喜多郡(浮穴郡)大野に起った大野氏がいくつかの流れで久万地方に存在していた。『姓氏家系大辞典』によると、喜多郡宇津村(現大洲市菅田町宇津)に大野城があり、大野三郎大夫直光(また直行)が居て、河野氏に追われたという。同郡中居谷村の橘城には大野三郎兵衛直澄・その子蔵人直範がおり、また浮穴郡東明神村には大除城(上浮穴郡郡久万町大字菅生)があって大野山城守直昌(なおしげ)がおり、河野氏が改易没落になったときに安芸国竹原まで随行した。浮穴郡総津村(現伊予郡砥部町総津)には橘城があり、大野九郎兵衛直周(『温故録』。『大洲秘録』には九郎兵衛直純と記す)が居た。
 これら喜多・浮穴郡の大野氏のいくつかは、江戸期には庄屋として続いたが、中世では「直」を通字としており、越智姓、藤原姓とも橘姓とも大伴姓とも称していた。地元の庄屋に残る『大野四十八家之次第』などの史料は、殆どすべてが嵯峨天皇の孫経王の後裔と伝えている。経王とは、越智一族の祖という為世が一伝に嵯峨天皇の落胤皇子とも孫とも伝えることに関連し、その為世の弟とも子ともいう越智経(藤大夫、経。相撲人として史料に見える)の子の富永が大野氏の祖とされることを意味するが、江戸期の所伝であるうえに、喜多・浮穴郡の大野氏は居住地等からしても、この流れではない。
 『大野系図』によると、天智天皇の皇子大友皇子から大伴旅人を経て、大野氏になったと伝えている。天文十七年(1548)に大野利直が菅生山大宝寺に寄進した鐘の銘には、「大伴朝臣大野利直」と刻されているところから、この当時、大野氏は大伴氏の出と自認していたことが知られる。この大伴姓の自称と居住地から考えると、古代久味国造の末流とみるのが最も妥当であろう。古代伊予の久米・浮穴郡を領域としていた久味国造は、山祇族系の久米氏族に出て、大伴氏族とは崇神前代に分れた同族であるから、大伴氏(のちに伴宿祢・伴朝臣という)を称しても不思議ではない。「大洲大野系譜」にも、当家大伴氏という記事が見える。もちろん、この一族が大友皇子や大伴旅人の後裔のはずはないが、これは許容の範囲内である。なお、系図によれば、「大野利直−友直、弟直昌が友直の跡目相続」とのことである。
 中世には親子代々、一定の通称を世襲する風もあったから、赤穂藩士の大野九郎兵衛家が数代(少なくとも二代)にわたり「九郎兵衛」の通称を踏襲したのは、伊予の大野九郎兵衛直周を先祖としていたことが考えられる。その実名という「知房」が本当なら、通字「直」とは異なるが、伴閑精とも称したことは、まさに伊予出自を示すものではなかろうか。
 
 
三 大野氏と杏葉紋
 
 赤穂の大野九郎兵衛の家紋が杏葉紋というのも興味深い。というのは、久米氏族にまつわる家紋の一つが杏葉紋であり、銀杏に関わる伝承が多いからである。以下に具体的にあげると、次のようなものが管見に入っている。
 
1 拙稿「法然の生家美作漆間一族の出自と系譜」(『家系研究』誌、第38号(2004/10)〜第41号(06/4))で記したように、美作国に繁衍した漆間・立石の一族は、宇佐から来た漆島君から出たとも、物部一族の漆部連の出ともいわれるが、実際には美作に古来居住してきた久米氏族の漆部連の出である。名僧法然上人もこの一族の出で、その伝承には銀杏に関するものが多く見える。
@ 立石一族が祠官として代々奉斎した高野神社は、延喜式内社で一宮(中山神社)、総社と並ぶ美作三大社の一つであり、鎮座地の二宮村という地名もこの神社に由来する。高野神社は地域の鎮守と同時に、立石一族の氏神でもあり、高野神社の社紋も二宮立石家の家紋もみな銀杏(杏葉紋)となっている。
法然の生誕地にある誕生寺(岡山県久米郡久米南町里方にあり、代々の住職は明治期まで一貫して漆間姓という)の寺紋及び浄土宗各寺院の寺紋も同紋であり、「法然上人絵伝」にある幕紋にも杏葉紋が描かれる。古刹の菩提寺(同県勝田郡奈義町高円)の境内にも銀杏の巨樹があり、法然上人が学問成就を祈願してさした杖が芽吹いたと言われ、推定樹齢900年と言われ、県下一の巨木で、昭和三年に国の天然記念物に指定された。
もと福山市長(第8代)、弁護士、歴史研究家、茶道家の立石定夫氏は、立石一族の出で、その著には『杏葉紋の族譜』(昭和61年)がある。
 
A 久米氏族は大和にもあって、奈良県宇陀郡曽爾村に鎮座の式内社・門僕神社も久米氏族が奉斎した神社とみられるが、同社境内の銀杏は県天然記念物となっており、その約四キロ西南方の大字山粕にも立石の地名が見えることも多少留意しておきたい。
 
2 阿波の名東郡芝原の久米一族は、三好長慶の同族で、伊予国喜多郡久米荘に起ったと伝えるから、古代久味国造の末流とみられるが、家紋は「二引両十文字」と伝えており(『故城記』など)、また久米安芸守義広の子孫と伝える家には銀杏紋を家紋としていた。
伊予の大野氏については、家紋は木瓜に二引両ということで、阿波の久米氏と「二引両」を共通にしていたが、後者には銀杏紋もあったとのことで、前者にも同様に銀杏紋(杏葉紋)も持っていた可能性がある。その意味で、赤穂の大野九郎兵衛の家紋が杏葉紋というのは、それを示唆するものと考えられる。
 
 
四 まとめ
 
 以上、かなり断片的な資料の寄せ集めのうえでの判断であるが、赤穂の大野九郎兵衛家の先祖が伊予の大野一族と推され、また、これと阿波の久米一族が同族であり古代久味国造の末流であったことが傍証されたといってよいのではなかろうか。この関係では、まだ隠れている資料も多そうであるが、それらが分かったときに考え直すこととして、とりあえず、このように考えておきたい。
 
  (06.9.19 掲上)



 <信州・呑舟様よりの来信 >  07.5.23受け

 
  上記の試案を興味深く読まさせていただきました。予州大野家を調べ始めた私にとってそそられるテーマです。
 予州大野家では九郎兵衛は当時の大野家の名乗りのようで系図上たくさんでてきます。直昌しかり直周しかりで分家宗家を問わず数代続きます。
 この試案に接し、秀吉の四国平定で没落後の大野九朗兵衛(どの人物か不明)が親交のあった安芸浅野家を介して赤穂浅野にたどり着いた可能性があります。概ね慶長5年以降は、大野家は離散していますので、赤穂の九郎兵衛は離散時は生まれておらず、離散後生まれた者と思われます。
 
 また、気になるのは、別の大野系譜に直昌・直之(直行)の弟、直周の兄に大野九郎兵衛直実がいて、その子は離散後「天野屋九兵衛と称し摂津大阪上平野町に住んだ」と記され、大阪平野町に天野屋が2軒あるとも思えず、あの忠臣蔵の天野屋利兵衛の屋号ではないかと考えています。
 
 もう一つ気になるのは、菅田城主大野直之の娘が中和門院の女房備後として仕え、慶長17年中和門院崩御に伴い尼となり、万治2年に逝去であるが、墓地は大阪平野に近い下寺町大連寺であり、親戚の天野屋や赤穂の大野九郎兵衛と交流があって、後の赤穂事件の時に宮中工作に一役買ったのではないかと想像しています。大阪大連寺に問い合わすと寺が焼失して当時の史料はないとのことでした。
 
 上記の関係が成立するなら、赤穂大野九郎兵は笠間からきた浅野家に1650年前後に仕官できて、赤穂の最大産業の製塩には瀬戸内製塩は分かる立場にあったので営業部長のような役回りをしていて、大阪商人になっていた親戚の天野屋に声かけて出入り商人となし、赤穂事件後は裏方に徹して内蔵助を側面支援していたのではないかと思われます。
 金に執着し自己中心の大不忠者と伝えられていますが、それは芝居の中の脚色であって事実とは異なるのでしょうが、もし上記の関係が証明されると悪玉九郎兵衛がいなくなって大石内蔵助が色あせてしまい忠臣蔵ファンはがっかりするかもしれませんが。
 
 この推定はいかがでしょうか?        
  
  (07.5.23 掲上)                 なお、塩神関係応答も参照のこと。


  <樹童の感触など>

 1 伊予の大野氏については、その後もとくに新しい認識をえないまま来ていますが、没落後の大野氏についての情報として、そのまま掲載させていただきます。
 
 2 大野治長の家系については、竹内専次編の『土佐諸家系図』第21冊に記載があります。内容の真偽が不明ながら、概略紹介しておきますと、
@ 修理介治長の父の大野左近大夫(初名弥左衛門、法名道軒)は、越前国大野郡の農夫であったが、柴田勝家の養女を上方の秀吉の許に送るときに同行して、それが立身のもととなり、五千石を賜った。
A 子の治長は、母は淀君側近の大蔵卿局で一万石を領し、大坂落城のとき生け捕れ誅されたとされるが、その実、讃岐に逃れて子孫が今にあり、と記し、子に信濃守治徳、壱岐守氏治、弥五右衛門があげられる。
B 治長の弟には、治主馬助、領千石)、治どちらかの房に誤記あり。京都で梟首というも、土佐高岡郡に逃れる。大坂陣没の一子あり)があげられる。
 
    (07.5.23 掲上)

  江戸後期の尾張の人、丹羽玄塘の著作『塘叢』六巻の三に「尾関源内家系」が見え、そのなかには「大野伊賀守−大野佐渡守−大野修理大夫(治長)・大野主馬(治房)・大野大禄(後に田辺と改)兄弟」と見える。大野佐渡守の弟には、尾関源内、大野才兵衛、尾関右近之助があげられる。
 さらに、大野伊賀守は濃州若宮地村に有し処、信長の召により尾州馬見塚村に屋敷城を賜るなどの記事が見える。

 これによると、大野氏は濃尾の人となり、美濃国大野郡に関係があったのかも知れない。
 以上の情報は、田中豊氏による『塘叢』の抜粋抄に拠りました。

   (09.3.5 掲上)


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