墳丘上に神社がある古墳

    

             墳丘上に神社がある古墳

                                              宝賀 寿男
   



 高尾山古墳の墳丘形態に関連して、墳丘上に神社や祭祀施設がある古墳について、考えてみた試論である。


 
 かつて茨城県の久慈川流域の古墳を調べた際に、墳丘上に神社がある星神社古墳と梵天山古墳との築造順などの相互関係(後述)について、当時はよく判断ができずに悩んだことがある。そのせいか、そのときは「墳丘上に神社がある古墳」は特殊な古墳だと認識したが、最近までの考古学情報を見ると、多数のネット情報が利用しやすくなったことで、全国にかなりの数でこうした形態の古墳があることが分かってきた。
 要は、考古学者は総じて神社祭祀について無関心なことが多いようで、このためこの同種形態の古墳にとくに注意を払わなかったのが、関係記事や問題認識があまりなかったことの原因だったのかもしれない。神社が祖先神祭祀や氏族の同質性・特色の開示に役割を果たしたことを考えると、この種形態の古墳の整理からなにか見えてくるものがあるかもしれない。とくに、最近発見されて保存問題が大きな注目を集めている沼津市の高尾山古墳でも、墳丘上に二つの神社が鎮座していたことで、古墳の存在が知られなかった事情がある。こうしたことなどで、検討する意義も種々ありそうである。
 
<参考> 国立国会図書館のレファレンス協同データベースには、所蔵の神道関連資料もあたったが、それらにほとんど記載がないとして、次のような質問がよせられ、応答がある。
「神社と古墳の関係について書かれた文献を探している。 全国的にみても古墳と神社が隣接していることが少なくないが、神道では死を穢れとしているのに、なぜ墓である古墳の近くに神社があるのかを知りたい。」
 これに対するお答えの概要では、次の文献@〜Cには神社と古墳の関係に言及した記述があるが、隣接している理由を明示したものはなく、文献@〜Bは古墳の上に神社があることについての記述だとされる。これら四つのいずれの文献でも、古墳と神社の成立時期が異なるのではないか、という見解のようだともされる。
 @小野泰博ほか編『日本宗教事典』弘文堂, 1985年。
 A森浩一著『古墳と古代文化99の謎』産報, 1976年。
 B重松明久著『古墳と古代宗教 : 古代思想からみた古墳の形』学生社, 1978年。
 C小野祖教著『神道の基礎知識と基礎問題』渋川謙一改訂.神社新報社, 1992年。

 
 レファレンス協同データベースの上記説明にあるように、本件についてはあまり端的に説明したものはないようだから、別途、具体的に考えていくしかなさそうである。
 上記のA森浩一著『古墳と古代文化99の謎』を取り上げて見ていくと、「23 古墳上の神社はいつ頃できたか」という項目(70〜71頁)があり、「古墳の頂上に祠のある例は多い」として、例として和歌山市の井辺八幡山をあげ、長らく古墳の認識がなかったとする。次ぎに、古墳上の神社としては、応神陵古墳の誉田山古墳をあげ、「前期や中期古墳には、埋葬が終わると、原則としては人が立ち入らなかったと考えているから、やはり古墳の意義が忘れられつつある時期での新しい信仰が生みだした参詣の形態であろう」と記される。ここで取り上げられる井辺八幡山は後期古墳であり、誉田山古墳は中期古墳とされる(なお、誉田山には江戸時代に後円部頂に誉田八幡宮の奥の院があった。その近隣の白鳥神社古墳は後期の墳丘長一二〇Mの前方後円墳で、後円部に白鳥神社が建つが、昔は峰塚古墳の上にあったともいう)。
 更に、伊勢神宮外宮の摂社、田上大水神社(式内社)及び田上大水御前神社は、小型の前方後円墳の上に社殿がある。しかし、車塚古墳の上に社殿が移建されたのは江戸時代になってからということで、やはり偶然かもしれない、とも記す。あとは、神社の境内の古墳の話などが記される。Cの『神道の基礎知識と基礎問題』でも、「神社と墳墓」の項(43頁)に、「神社と墳墓とが密接な関係があるといふのは、比較的稀であり、又、比較的後世のものが多い」という記事がある。
 これらは、古墳と祭祀とが同時期のものとせず、祠から社殿までの形態の神社祭祀がかなり後になってのものととらえている。しかし、そのように言えるのだろうか。同時期とはいえないまでも、ある程度早い時期に祭祀施設が設置された可能性もあろう。具体的な例をもとに次項以下で考えてみよう。

 
 重要な祖先を葬った古墳にあっては、永らくその周辺に祭祀遺物が見られる例もあって、神社という形態をとらないでも、古くから祭祀がなされたことを考えたほうがよい。例えば、四世紀中葉ごろの倭建命東征にあたって、東征軍の一翼を担い大きな役割を果たした尾張国造一族の本拠地域の諸古墳を取り上げてみる。
 尾張国山田郡の尾張戸神社(名古屋市守山区など)は、式内神社であり、その本殿が尾張戸神社古墳径二七Mの円墳か)の墳丘上にがある。同墳と近隣の大古墳・白鳥塚古墳とはいくつかの共通点があり、古式で両墳がほぼ同時期の四世紀前半ないし中葉頃の築造とみられる。同社は成務朝に宮簀媛(倭建命の妃)の勧請で尾張氏祖神を祀るとの所伝があるから、それが正しければ既に同朝(四世紀中葉頃とみられる)には古墳ができていたことになる。円墳という型式で問題なければ、これが白鳥塚古墳被葬者の妻の墳墓であって、この夫妻は宮簀媛の両親(尾張国造初代の乎止与夫妻)にあたるかもしれない。
 式内社との関連で言えば、北河内、大阪府四條畷市の忍岡古墳は、古墳時代前期の前方後円墳で、墳丘長が約八七Mあるが、後円部の墳丘上に忍陵神社(しのぶがおか)が鎮座する。昭和九年(一九三四)秋の室戸台風により同社の一部が倒壊したことで、その復旧作業中に竪穴式石室が見つかって古墳と分かり、碧玉製の腕輪や鉄製の刀剣類などの副葬品が出た。もとは赤山に鎮座する讃良郡式内社の津桙神社を江戸時代に現在地に遷座させ、近在の馬守社なども併せて当地にあった鎌足社(祭神は藤原鎌足)に合祀し、現在の神社名の忍陵神社と号したとされる。
 話を尾張に戻して、宮簀媛の墳墓とみられるのが、東海市名和町欠下にあった兜山古墳である。熱田神宮の摂社で同媛を祀る氷上姉子神社の西一キロの地(愛智郡の式内社。熱田神宮のほぼ南方、十キロ弱の地)に位置する。当該墳は四世紀中葉頃に築かれた円墳(径約四五Mで、現在は滅失)で、三角縁神獣鏡(同笵関係の鏡は知られない)・捩文鏡・内行花文鏡などの合計四面の鏡や一五〇個弱もの勾玉・管玉、碧玉製石釧九点、滑石製合子などが出土した。石釧・石製合子は東之宮古墳とも共通する。宮簀媛居住の館があったという旧社地の元宮(館跡は火上山頂の南方の高台)から東北方近隣の現在地に遷座した経緯からみて、宮簀媛の墳墓にふさわしい。この古墳が発掘された当時は、元の位置に白山社があった。
 尾張西南部の旧海部郡佐織町(現愛西市)千引には、宗像三女神を祀る奥津神社があって、三面の三角縁神獣鏡を伝来する。社殿が鎮座する小丘は奥津社古墳という古墳(径二五Mの円墳。墳長三五Mの前方後方墳説もある)であって、この古墳から一括出土した鏡とみられている。 
 宮簀媛の兄で倭建東征に随行して死去したという建稲種の墳墓とみられるのが、三角縁神獣鏡四面など多数の銅鏡や石製装飾品等の出土でしられる犬山市の東之宮古墳(墳長七二Mの前方後方墳)であり、その墳丘上にも小祠がある。ほぼ同時代の築造とみられる小牧市小木の前方後方墳、宇都宮神社古墳(墳長約五九M)でも、永享元年(一四二九)に後方部に社殿を建設する際、竪穴式石槨が発見され三角縁神獣鏡が出土した。このほか、尾張国造一族の墳墓とみられる守山白山古墳守山区守山)は、守山台地の最西端に二段築造で築かれた前方後円墳(墳長約九〇M)であり、後円部に守山白山神社の社殿が鎮座する。
 ここまであげてきた尾張などの諸古墳は、殆どが前期古墳であることに留意される。

 
 次ぎに、東国の常総では、古墳時代前期・中期の重要古墳のいくつかに墳丘上の神社が見られる。関係の考古学知見は、発掘調査の進展で変化するが、現時点までの考古資料を踏まえると、主な点は次のようになろう。
 常陸の古墳文化は、行方市(旧玉造町)の勅使塚古墳(常陸の前方後方墳で最大級。墳丘長六四Mで木棺直葬、方製重圏文鏡や底部穿孔壺形土器などを出土)などの前方後方墳の出現によって幕を開けたといわれる。常陸では、大きな河川の流域ごと主要水系単位で氏姓国造が置かれたと伝ええ、それら豪族が活発に古墳(前方後円墳、前方後方墳)を築造したから合計で四六〇基超も茨城県にある(うち、前方後方墳は十七基という)。もっとも、房総三国の千葉県では合計が七百基弱で、これが全国一とのことである(『前方後円墳集成』の関東東北編及び補遺編など)。
 常陸に大古墳が多いなかでも、茨城県最大規模のものが石岡市北根本の舟塚山古墳で、三段構築で墳丘長一八六Mの前方後円墳である。群馬県の天神山古墳に次ぐ東日本で第二位の大きさを誇る。その後円部上には鹿島神社がある。墳形等から五世紀中頃ないし後半の築造で中期古墳ともみられるが、出土した円筒埴輪がU式のようだとされるから、その場合には、五世紀前半かそれより前の築造も考えられる。同墳の陪墳とみられる前方部西側付近の円墳からは木棺が発見され、短甲・直刀・盾・帯金具などの副葬品が出土した。地域的には霞ヶ浦北岸部と恋瀬川流域を押さえた茨城国造一族の墳墓とみられる。同国造初代とされる応神朝の筑紫刀祢の墳墓に擬定されるが、概ね妥当か。舟塚山の後も、その北方近隣の府中愛宕山古墳(墳丘長は九六M。墳形が応神陵古墳に類似)など、近隣周辺で大古墳の築造が続くから、茨城国造は常陸最大の豪族だったとしてよかろう。
 同じ石岡市域でも北部(旧八郷町)には、先行する丸山古墳(同市柿岡。丸山一号墳)がある。墳丘長五五Mの前方後方墳で、粘土床をもち、内行花文鏡、銅鏃、勾玉、鉄刀などを出した。近くには佐志能神社(常陸国新治郡の式内社の論社の一とされるが、比定は疑問か)が鎮座するが、同地はもと茨城郡に属した。丸山古墳近隣には、それに続く佐自塚古墳という前期ないし中期古墳の前方後円墳(墳丘長は五八M。底部穿孔の壷形土師器などを出土)もある。ただ、石岡北部の古墳築造者が茨城国造の支族のようでもある。
 茨城国造本宗関係の墳墓は、地理的に見て勅使塚古墳から舟塚山古墳と近隣大古墳につながるのではなかろうか(大塚初重氏の見方に同意)。勅使塚古墳の西側近隣には、中期古墳の三昧塚古墳(行方市沖洲にある墳丘長八五Mの前方後円墳。金銅製馬形飾付冠、四神四獣鏡や武器・馬具などの副葬品)もある。三昧塚の東近隣には於岐都説(おきつせ)神社という古社があり、三昧塚と舟塚山とのほぼ中間地にあたる小美玉市(旧玉里村)の下玉里には愛宕山古墳(墳丘長六五M)があり、墳丘上に愛宕神社がある。同市上玉里に舟塚古墳(墳丘長八八M)という後期古墳もある。
 
 茨城国造と近い同族であった筑波国造筑紫刀祢の叔父で成務朝の阿閉色命が初代)は、その南西方の桜川流域を押さえたが、初期古墳とみられるのが土浦市の王塚古墳・后塚古墳である。王塚古墳は土浦市手野町の霞ヶ浦に面する丘陵上平坦面にあり、墳丘長は約八四Mの柄鏡式前方後円墳で、霞ヶ浦沿岸地域の古墳の中でもかなり初期のものとされる。後円部の頂には祠があり、天満宮とされている。埴輪の出土がなく埴輪の配列はなかった模様だという。北隣にはほぼ同時期に作られたとされている后塚古墳(前方後方墳で墳丘長は、五四Mあるいは約六五M)がある。型式から見て、后塚古墳のほうが先行築造か(塩谷修氏。『古墳時代の研究』第十一巻のU東日本のうちの「5茨城」)。
 この国造の領域には、桜川の上・中流域に中期ないし後期の筑波八幡塚古墳(つくば市〔旧筑波町〕沼田。墳丘長約九二Mの前方後円墳)や特異な石室をもつ後・末期の武者塚古墳もある。前者は後円部墳頂に八幡社が祀られており、「八幡塚」の名称はこれに因む。筑波国造の領域では最大の古墳であり、これが初代国造・阿閉色命の墓と伝えられるが、出土埴輪などからの年代はかなり後のものであり、国造になった者の墳墓であったことには違いない。
 
 茨城県水戸市袴塚の那珂川の西岸段丘上にある水戸愛宕山古墳全長約一三六M)では、その後円部墳丘上に愛宕神社の社殿が鎮座する。大型の円筒埴輪V式や須恵器を出した前方後円墳である。その東北側近隣に姫塚古墳(全長約五八Mも、消滅)などがあって、那珂川流域を押さえた仲国造初代とされる建借間(たけかしま)命の妃の墳墓という伝えがある。これが正しければ水戸愛宕山のほうは建借間命の墳墓となろうし、そうみられてもいる(県教育委など)。しかし、これに先行する常陸鏡塚古墳(東茨城郡大洗町磯浜町日下ヶ塚にある墳丘長約一〇五Mの前方後円墳。行花文鏡・変形四獣鏡、多種多量の滑石製装身具や各種鉄製品を出土)などもあって、この国造が成務朝に置かれたのなら、その次代ないし第三世代が五世紀代に築造の愛宕山古墳の被葬者となるか。茨城県で唯一、三角縁神獣鏡の残欠を出土した大場天神山古墳(水戸市大場町。全長約六〇Mの前方後円墳〔後方墳の可能性もあるか〕)も、仲国造の領域にあり、近隣からは底部穿孔土器も出た。
 
 久慈川流域では、底部穿孔壺形土器破片や円筒埴輪U式かとみられる埴輪を出した星神社古墳(最近の調査で全長百M、諏訪山古墳ともいう。常陸太田市小島町)があり、墳丘上に星神社(星ノ宮神社。妙見信仰に通じる)が鎮座する。これは、柄鏡式の墳形といい、前期古墳でも最古級である。久自国造に関係する梵天山古墳群常陸太田市島町)は久慈川に臨む台地上にあって、主墳・梵天山古墳は墳丘長一五一Mで、常陸第二の規模である。同墳は国造初代の船瀬足尼の墳墓と伝えられ、バチ形の前方部などからみて年代的にも最古級に次ぐ位置づけは妥当であろう。その陪塚からは滑石製模造品が大量に発見された。梵天山は星神社古墳の東南七五〇Mという近隣に位置する。いまは星神社古墳のほうが梵天山に先行するとみられ(『続・日本古墳大辞典』四三二頁、鴨志田篤二氏執筆の記事)、その場合には、初代国造の父・豊日連の墳墓の可能性もある。
 この辺が、十王台式土器の分布圏を押さえてきた首長ではないか、という見方もある。久慈川流域の同市久米には、前方後方墳かとみられる常光院古墳もある(墳長八〇〜九〇Mとされるが、大塚初重氏は、前方後方墳の大古墳として、全国で第十七位に3期で墳長九〇Mとして掲載〔東国の古墳と大和政権〕)。こちらは上記両古墳から少し離れて位置しており、豊日連の可能性とともに、倭建東征の久米集団のほうに関係があるかもしれない。この常光院古墳の上にも愛宕社があり、近隣に熊野社もある。
 久自国造の北側、常陸最北部の高国造については、北茨城市関本町の大塚古墳(夫婦塚古墳。墳丘長約九十M)が高帽山東麓にあって、墳頂上には大塚神社がある。これは高(多珂)国造初代の建狭日命の墳墓と推定されている(瀬谷義彦・豊崎卓氏の著『茨城県の歴史』〔一九六三年〕)。
 
 神社は関係ないかもしれないが、ついでに残る常陸の国造と関係墳墓にも触れておく(古代国造に関係が薄い霞ヶ浦の南部沿岸や北浦沿岸地域、利根川北岸地域、これらは鹿島郡あたりといえそうだが、これらの地域の中小古墳を除く)。
 筑西市(もと下館市)徳持の芦間山古墳(徳持古墳)も、底部穿孔壺を出す前期の大古墳であり、墳丘長の復元推定が一四一Mとされる。これは、小貝川流域を支配した新治国造一族の墳墓か。同国造初代の比奈良珠命の墳墓といわれるが、この初代は『常陸国風土記』には崇神朝の人とされるから、もうすこし後代の被葬者への比定のほうが妥当であろう。桜川市岩瀬の長辺寺山古墳も前期頃の大古墳(墳丘長約一二〇M)であり、円筒埴輪U式を出したとされ、芦間山より先行だとする見方がある。長辺寺山の西方近隣には、狐塚古墳という前方後方墳もある(墳丘長三六M)。筑西市には灯火山古墳という柄鏡式の前方後円墳(墳丘長は七〇M。もっとも芦間山の企画の1/2墳形縮小)もあって、古墳時代前期には新治国造はかなりの繁栄があった。筑西市には、鬼怒川の左岸の河岸段丘上にあって、墳丘上に船玉神社が鎮座する船玉古墳(古墳時代末期の方墳)もある。
 茨城県でも西はずれの取手市は下総国相馬郡に属したが、取手市吉田の大日山古墳(後期の円墳)では墳丘上に岡神社が建っている。
ここまでの記事において、上記の『茨城県の歴史』や大塚初重氏の『東国の古墳と大和政権』、『全国古墳編年集成』の茂木雅博氏の記述、『古墳時代の研究』『講座日本の考古学7 古墳時代』などや各種のネット記事を参考にさせていただいた
 
 ここまでで、墳丘上に祭祀施設がある主な例として常陸を取り上げたのは、上古代の房総や武蔵には物部氏一族の国造や同族諸氏の分布がなかったが(平安後期の武蔵北部には、久自国造支族が移遷してきて児玉党として展開する事情もあるが)、常陸の久慈川流域にはそれがあったという理由がある。また、物部氏の大売布親子は武蔵に足を踏み入れたかは不明であり、おそらく行かなかったということであろう。
 武蔵では、足立区の白幡塚古墳・伊興氷川神社古墳、本庄市の入浅見金鑚神社古墳、熊谷市の大塚古墳(熊野神社)など、房総では市原市の姉崎天神山古墳、富津市二間塚にある県下最大の前方後円墳・内裏塚古墳などに、墳丘上に祭祀施設が過去にあったり、現存する。武蔵では後期の円墳の上という例も多い。
 四国でも、愛媛県松山市(旧北条市)高田にある櫛玉比売命神社は、墳丘長約七五Mの前方後円墳(五世紀代の中期古墳とされる)の上に社殿が建つが、これは寛永年間に南方の小山上から移遷と伝える。北に隣接する八反地の国津比古命神社も古墳(墳丘長約四五Mの前方後円墳か)の上に建立される。両社ともに『延喜式』神名帳掲載の風早郡二座にあたる式内社であり、祭神は饒速日命夫妻という。両社を奉斎した風早国造は物部氏支流で、駿河・遠江の国造家と近い同族関係にあった。
 周防でも、山口県熊毛郡平生町佐賀にある前方後円墳・白鳥古墳は、前期末頃の大古墳(墳丘長一二〇Mで、二神二獣鏡や巴形銅器等や円筒埴輪Vを出土)であって周防国造一族の墳墓と考えられるが、同墳の上に古くから白鳥神社が建てられる。
 「前方後方墳」という古墳型式についても触れておくと、大塚初重氏は、「全国四五〇基の前方後方墳のほとんどが、三世紀の後半から四世紀代にかけての古墳であり、前方後方墳の大半は前期古墳です」と述べる(『東国の古墳と大和政権』、二〇〇二年刊)。この「三世紀の後半」という年代は、布留0式土器の年代を二六〇〜二九〇年代とみることを基礎とするが、箸墓古墳と密接な関係のある当該土器がそんなに早い時期のはずがない。いまでは、年輪年代法や放射性炭素年代法などを基礎にした推計値で更に繰り上げてみる見方もあるが、多数の試算推計値の一つにすぎず、むしろ関川尚功氏が言う四世紀初頭ごろまで布留0式の年代を下げたほうが妥当である。拙見では、その辺を踏まえて、前方後方墳の多く造られた時期を四世紀の前葉・中葉ごろとみているものである。

 
5 一応の総括

 上記のように、常陸古代の諸国造にあっては、初代ないしその後の数代のなかの初現期段階頃の国造当主の墳墓とみられる古墳には、墳丘上に神社など祭祀施設が後代に設けられたことがかなりの数、知られる。房総や武蔵にも、古墳の墳丘上に祭祀施設を設けた例がかなり多い。関東の前方後方墳の出現・分布にも見るように、この辺の時期は四世紀代の中葉頃の話であった。常陸の出現期の前方後方墳(丸山一号墳、狐塚古墳、勅使塚古墳など)でも、木棺直葬(高尾山古墳でなされる)や簡略な粘土床などが見られており、こうした「埋葬施設の構造にも、東海地方の政治的影響力が存在したものと指摘されている」(塩谷修氏の上記記事)。
 常総石枕が東海地方東部まで分布し、駿河東部の静岡県沼津市柳沢大廓の大廓遺跡を標識遺跡とする大廓式土器(駿河地域の古墳時代前期の壺形土器の様式)が房総から陸奥南部の会津あたりまで広く分布する事情からいって、常陸の前・中期古墳における墳丘上の神社・祭祀施設の設置も、駿河あたりに影響があった可能性がある。もっとも、墳丘上の祭祀施設の設置は、東国に数多いと思われるが、それに限られるものではなく、九州あたりまでも含めて全国的に分布が見られる。
 実は、本件問題を取り上げたのは、最近存在があきらかになり保存問題が争点となっている沼津市の高尾山古墳(墳丘長六二Mほどの前方後方墳)の年代的位置づけと被葬者の問題についての取組みが契機になっている。具体的に常陸の初期・前期の主要古墳を見ても、高尾山古墳の築造年代を三世紀代に繰り上げることはバランス的に不可能である
 当該の墳丘と周堀から出土した葬祭用の大量の土器は大廓式土器であった。畿内系土器(布留式甕)なども出土したとされる。同墳から出土した鏡も楽浪系の上方作竟半肉彫獣帯鏡で、三角縁神獣鏡配布以前のものとみられている。同墳の墳丘上には、もとは熊野神社と高尾山穂見神社の二社が鎮座していた。同様に前方後方墳で、同じ駿河(珠流河)国造関係の前期古墳とみられるのが、愛鷹山西南麓にある浅間(せんげん)古墳(富士市増川、全長九八M。未発掘で副葬品不明)である。この古墳でも、後方部墳頂に浅間神社が鎮座する。

 これまで見てきた諸事情を踏まえて考えると、高尾山古墳や浅間古墳が駿河東部で愛鷹山を中心とする一帯を領域とした古代国造、駿河国造一族の墳墓としてよいと思われる。そして、考古年代等を加味して総合的に考えると、浅間古墳の被葬者が珠流河国造初代の片堅石命で(原秀三郎氏の『地域と王権の古代史学』に見える見解に同意)、それより早い高尾山古墳のほうは、その父と推される物部氏の大売布命であろう、と拙見では考えている。なお、大売布命は、「国造本紀」に見える大新川命とも同人であるが、「天孫本紀」に物部片堅石連の父を十市根大連(大新川・大売布の兄弟)とするのは誤伝である。
 大和の物部氏の本拠が布留式土器の分布中心でもあり、物部氏は同族の出雲国造族の土師連氏と同様に古代の土器技術に関与して大きな役割を果たした。常陸の久自国造の祖・船瀬足尼は、大売布の子の豊日命の子であり、大売布・豊日親子は、奈良時代末期の延暦年間に成立の『高橋氏文』に見えて、景行天皇の東国巡狩に随行して房総あたりまで行って東国服属の重要な儀式に関与しており、この出来事などを通じて、駿河から常総まで大和王権のもとでつながることになる。

   (2015.12.30 掲上)


 <参考> 高尾山古墳の築造年代を「四世紀半ば以降」とみる見解を端的に出しているHP

       高尾山古墳の年代は、嘘!!考古学のでたらめさ


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