沼津の高尾山古墳の保存問題
沼津の高尾山古墳の保存問題宝賀 寿男 |
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いま静岡県沼津市にある高尾山古墳の保存の是非が大きな問題となっています。 東国最古級の貴重な古墳を適切に保存していけるよう強く願って、本稿の記事を書く次第です。なお、読み易さを考えて、最初に「沼津市など関係者への要望」という結論的なものを記しますが、これが先にあるものではないことを予めお断りしておきます。
問題の発端と視点 ここで問題となっている高尾山古墳は、静岡県沼津市の市街地、東熊堂に所在しており、もともと墳丘上に熊野神社及び高尾山穂見神社という二つの神社が鎮座していて、地元で古墳と伝えられてきたものの実態確認ができなかったのであるが、この所在地に道路を通す計画ができて、当該二つの神社も他地に移遷し、その後の二〇〇八〜〇九年度の発掘調査が行われ、古墳時代前期頃の前方後方墳と判明した。 本古墳の評価については、築造時期等について異論もあるものの、古墳時代最初頭(三世紀)頃とする見方が上記の発掘調査で打ち出され(この検討は後述)、その概要については、@墳丘全長62.2Mという、この時期としては日本列島屈指の規模をもち、A初期古墳の多くが丘陵上に築かれるのとは異なって平地に構築されたために墳丘盛土がよく保存され、B埋葬施設の朱塗り木棺から後漢末の青銅鏡や鉄槍・鉄鏃・鉄ヤリガンナ・石製勾玉など豊富な副葬品が出土した、C墳丘や周溝から北陸や近江系の土器が出土して他地域との交流が確認できる、という諸点から、畿内の最初期古墳と肩を並べる駿河の最有力首長墳と考えられる、と日本考古学協会では整理する。
このため、「高尾山古墳は駿河地域だけではなく、日本列島における初期国家形成過程の画期である、古墳文化形成を解明する上できわめて重要」だと結論されており(日本考古学協会の声明記事)、こうした評価は、沼津市教育委員会発行の調査報告書、沼津市教育委員会や静岡県考古学会主催のシンポジウムで繰り返し確認されてきた。こうした「学術的評価」については、実のところ、最近の考古学界主流派の考古年代及び古墳年代の遡上傾向とあいまって疑問の余地もあるのだが、上記結論(「」内の記事)自体は、どの立場からも揺るがないところではなかろうか。
それにもかかわらず、現在も都市計画道路の建設事業が進められており、このままでは駿河地域における古墳時代初頭の重要遺跡であり、駿河の歴史・文化的重要性を知る基点である高尾山古墳が永遠に失われてしまうことになる。
この辺までは、日本考古学協会の見方を基礎に記してきたところであるが、以下では、別の視点から冷静で合理的な検討を加えてみたい。というのは、考古年代を遡上させがちな学界の傾向と邪馬台国畿内説の立場から、邪馬台国問題を絡め、駿遠なども含め東海地方に邪馬台国敵国の狗奴国の所在をもとめる見方もあるからである。たとえば、遠江の久努が狗奴に通じるとか、高尾山古墳が年代的に狗奴国首長の墳墓にあたるとかいう妄説もでてきており、高尾山古墳の保存を望む会のChange.orgの表現にも、「西の卑弥呼と対峙していたであろう東の王、卑弥弓呼(ひみここ)。その墳墓であるかもしれない」とあるが、同会の果たす役割を高く評価するものの、これは行き過ぎの表現だとみられる。
このように、上古史の問題をなんでも邪馬台国問題に結びつける傾向が往々に見られるので、当該遺跡保存の必要性のあまり、無理な憶測まで引っ張り出し、それが古墳や土器の考古編年の時期遡上にまで影響を及ぼすことについては大きな疑問を感じる。もちろん、最初に記したように、邪馬台国問題を離れても、当該古墳の重要性とその原型保存の必要性については、なんら変わりないものであることもお断りする。
高尾山古墳の築造年代は何時か? 高尾山古墳がいつ築造されたかの問題が先ず出てくる。先に見た評価は、同墳及び周溝から出た土器や副葬品から判断されたものと思われる。青銅鏡や鉄槍・鉄鏃・鉄ヤリガンナ・石製勾玉という副葬品は、古墳時代の初期ないし前期頃としてよいと思われる。後漢末とみられる青銅鏡破砕片の副葬は、三角縁神獣鏡がおおいに入れられた時期(私は景行・成務朝の四世紀中葉頃とみているが)より前の時期としてよいが、これが更に三世紀代まで遡るかどうかはむしろ疑問がある。 おそらく、関係者が三世紀代とした主な理由が、周溝等から出土の土器が庄内式ないし布留式の併行期としてみられ、庄内式土器が三世紀初頭頃からという見方に基づいているであろう。これが、現在の考古学界主流派の見方かもしれないが、やはり遡上しすぎの感もあり、従来からの見方である庄内式土器は三世紀後葉頃からということでよさそうである。しかも、東海・東国系の土器について、畿内の庄内式・布留式との対応関係も、東海・東国系のほうを若干遡上させすぎという感もある(赤塚次郎氏の土器編年では、廻間T式の開始が庄内式の開始とパラレル、廻間U式末葉〜V式前葉が布留式の開始とパラレルとされるというが、この対応関係には相対的に東海系のほうにやや年代遡上があるのではないかとみられる。現に、東海地方の土器編年関係でも研究者はマチマチで、赤塚編年は古く見積もりすぎとの見方もあるという)。
具体的には、周溝からは、古墳時代前期初頭(年代遡上論は、土器にも及んでおり、この立場では西暦二三〇年頃との見方がある)の東海地方西部の濃尾平野の土器型式(廻間U式。ないしV式ともいう)をもつ高杯・器台が出土し、主体部(埋葬部)の棺上からは古墳時代前期(同、西暦二五〇年頃)のものとみられる土器が出たとされる。この結果、古墳時代の初頭(同、二三〇〜二五〇年頃)に造られた前方後方墳だと沼津市教育委などから評価されている。
棺のなかから出た鉄鏃の一部には、矢が抜けないよう「逆刺(かえ)り」の細工をもつ当時の最新式の鉄鏃が含まれていて、奈良県のホケノ山古墳や長野県松本市の弘法山古墳で出土した鉄鏃よりも後の時代のものだと判明した事情もある。ホケノ山古墳の年代評価については、布留0式ないし1式とされており、一方で三世紀代とみる見方があるとともに、他方、四世紀前葉頃という見方もある。橿考研編集の最新報告書『ホケノ山古墳の研究』(二〇〇八年)では、「ホケノ山古墳中心埋葬施設から出土した木材の14C年代測定」(奥山誠義氏執筆)でその中心年代は四世紀前半と改定されている事情もある。
だから、土器や古墳の考古年代観にもよるが、高尾山古墳が二五〇年頃の築造という考古年代評価は、あくまでも年代遡上傾向にある立場からの見方だということに十分留意される。
こうした評価や考古時期の見方に違いがいろいろあるのだから、もっと別の面も併せて総合的に考えてみる必要が出てくる。その面とは、前方後方墳の古墳型式と高尾山古墳の墳丘上にあった二つの神社、という問題がある。すなわち、古墳や神社について、どの氏族が築造したのか、祭祀したのか、誰が古墳の被葬者か、という人・氏族についての具体的な問題を考えないでは歴史問題の実態把握、年代把握ができないものでもある。
前方後方墳の意味 高尾山古墳の「前方後方墳」という古墳形態は、出雲などの特定の地域を除いては、古墳時代前期という短期間だけに集中して築かれた傾向がある。総じて、前方後円墳に対して小規模なものが多い。分布は出雲及び吉備・毛野に多いが(出雲は全期にわたり、後二者では前期前半に限定)、これら地域を例外的なものとして、畿内や東国では、前方後方墳は四世紀中葉の特定の一時期(垂仁・景行・成務朝頃で約四十年間とみるのが私見)に限って、おおいに現れる。この型式の古墳に副葬される鏡には、重圏文鏡、内行花文鏡、画文帯神獣鏡、キ鳳鏡などのほか、三角縁神獣鏡があるとされ、三角縁神獣鏡が副葬鏡の主体とされないから、同鏡の盛行期よりも若干早い(垂仁・景行朝頃が主か)、とみられる。巨大な前方後方墳が畿内大和に集中すること(全長百M超の規模で見ると、大和に五基を数えるほか、両毛に計三基、越中・美濃に各一基とされる)にも留意される。 前方後方墳の起源については、近江とか東海ないし東国とかみる説もあるが(東海地方起源説は赤塚次郎氏ら。白石太一郎氏は狗奴国の系譜とみる)、これは疑問が大きい。規模の大きい前方後方墳は上記のように大和に集中してあり、他の地域に比べ大和でとくに築造時期が遅いとはみられないから、大和を中心とする前方後円墳体系のなかでの古墳型式としてよいと考えられる。都出比呂志氏は墳形と規模から前方後方墳は前方後円墳体制という政治秩序の中では少数派的なあり方だと考える。
わが国最大規模の前方後方墳は、特異形態の西山古墳(後述)を除くと、奈良盆地東部の大和古墳群の波多子塚古墳であり、全長が約一四五M、周濠から都月型(特殊器台型)という古型式の円筒埴輪片が出ている。
以上に述べてきたいくつかの特徴から、所在地・氏族系譜を基礎に大和の主な前方後方墳の被葬者につて考えてみると、西山古墳が物部氏十市根命、赤土山古墳一一〇Mが和邇氏大口納命、新山古墳一三七Mが葛城氏宮戸彦命、波多子塚古墳一四〇Mが倭国造長尾市宿祢、に各々の被葬者を比定するのが妥当なようである。いずれも垂仁朝(ないし景行朝)当時の大和朝廷を構成する大豪族の族長で、王族ではなかった。波多子塚の次ぎに築かれた下池山古墳一一五Mは、倭国造の長尾市の次代当主(成務朝頃の五十野宿祢か)とみられる。この下池山古墳からは、倭製内行花文鏡一面(倭製で超大型)や硬玉製勾玉などの玉類、碧玉製石釧、鉄剣・鉄刀・鉄槍・ヤリガンナや朱が出ている。
前方後方墳の初源形態が見られて同型の古墳数も多い濃尾地域に邪馬台国と対立した狗奴国があったとする見解も考古学者のなかにはある。これに対し、広瀬和雄氏の強い反論がある。すなわち、その分布の「範囲は前方後円墳に対峙した一個の政治的版図をもつというふうに截然と空間的分節化はできない」(同氏『前方後円墳国家』)、「墳丘規模や威信財・権力財などの副葬をみても、前方後円墳が前方後方墳よりも優位」「前方後円墳と前方後方墳の併存は、各地の首長層に政治的なランク付けがあったことを物語」る(同氏『前方後円墳の世界』)、という指摘があり、こちらが概ね妥当である。
駿河の前方後方墳と物部氏族 東国の前方後方墳を見ると、静岡県では六基ほどである(辰巳氏は四基で考える)。辰巳和弘氏の検討でも、それぞれが古墳時代前期にはじまる首長墓系譜のなかに最古級に位置づけられ、各地域に一基ずつしか築造されていないこと、広く中部地方を見ても、長野県松本市の弘法山古墳、新潟県西蒲原郡巻町の山谷古墳、岐阜県美濃市の観音寺山古墳、愛知県豊橋市の市杵嶋神社古墳などは、いずれも各地域における最古級の首長墓であること、が指摘される。こうした状況を見ると、この当時に何らかの古墳築造企画の規制が朝廷内にあったのかもしれない。
個別に静岡県で言うと、富士市の浅間古墳を最大規模として、ほかに駿河では静岡市清水区(旧清水市)庵原町の牛王堂山三号墳(墳長七八M)、遠江では磐田市の小銚子塚古墳(墳長四六M)、浜松市井伊谷の北岡大塚古墳(墳長四六M)、袋井市の蔵王権現神社古墳(墳長四九M)などがあげられる。
このうち、牛王堂山三号墳は廬原国造の領域にあり、墳長七八Mで三角縁神獣鏡を出土して、それが三重県桑名の出土と伝える鏡と同笵(同型)とされるから、倭建命東征に関与した廬原国造初祖の墳墓の可能性がある(被葬者や粘土槨・木棺等の点で、富山県氷見市で最近発見の柳田布尾山古墳との関連性もありそうである)。「国造本紀」には、この国造は成務朝に「吉備武彦命の児、意加部彦命」が定められたと記される。
浅間古墳のほうは、増川古墳群1号墳ともいい、愛鷹山西南麓の高台にあって駿河湾を一望できる位置にあり、内部発掘調査がなされないため詳細は不明だが、周濠の痕跡があり、葺石・円筒埴輪の存在が認められる。その墳長が九八Mほどで(かつては一〇三Mという数値がとられた)、後方部頂上に浅間神社が祭られる(浅間神社は沼津市域にも多く、七社ほどある)。前方部は比較的未発達で、前期形式の墳丘とされ、これまでは四世紀の後半ないし末頃に築かれたとみられてきたが、これに続くのが近隣の東坂古墳で、これとの関係から考えると、時期はもう少し早めでも良い。なお、浅間古墳から北西一キロほどの地に琴平古墳(直径三一Mの円墳)があり、ここでも墳丘上に琴平社が鎮座する(大古墳の近傍の円墳は、所伝等から見て、主墳の妻あたりの女性が被葬者、と拙考ではみている事情もある)。
東坂古墳のほうは墳長六〇Mほどの前方後円墳で、倭製内行花文鏡鏡・四獣鏡や玉類・琴柱形石製品・石釧、鉄剣・鉄刀などを出土した。この組合せは下池山古墳にかなり似ているが、これら副葬品からは四世紀後葉頃ではないかとみられる。この古墳に遅れる五世紀代とされる沼津市の神明塚古墳(墳長五四M)でも、墳丘上に神明社がある。
原秀三郎氏は、「浅間古墳は珠流河国造初代の物部片堅石連公の墳墓とみるべきと考える」として、『旧事本紀』の「天孫本紀」に駿河国造の祖と見える物部片堅石連公(十市根大連の子と記載)、「国造本紀」に成務朝に設置の珠流河国造に定められたと見える片堅石命(同、大新川命の児)を、この古墳の被葬者に想定する(『地域と王権の古代史学』)。この見方は妥当であろう。
さて、駿遠の主要前方後方墳を見たところで、高尾山古墳について見ると、もとは墳丘頂に熊野神社と高尾山穂見神社の二社が鎮座しており、これは、浅間古墳と同様の形である。熊野神社は、物部氏族や同族の出雲国造が各地で多く祭祀した。直葬木棺のなかには、大量の水銀朱や破砕鏡(獣帯鏡)一面、鉄槍・鉄鏃、ヤリガンナ、勾玉という副葬品があった。この一帯、愛鷹山の東南麓では弥生後期から古墳時代初期にかけての大規模な集落遺跡(足高尾遺跡群)が知られ、被葬者はその首長(族長)として、「スルガ(珠流河)地域の王」とされるが、「王」としての実体はともかく、この辺りの見方、すなわち駿河地域の族長としての位置づけには賛意を表しうる。駿河湾に近い丘陵の先端に位置する小山の上に築かれた古墳の占地事情も、これを裏付ける。
大和での物部氏の本拠、石上神宮付近には列島最大の前方後方墳たる西山古墳がある。同墳に築造年代的に隣接・前後する小半坊塚古墳及びカンス塚古墳はともに消滅していて、これとの比較対照になりにくいが、西山古墳の概要は次のようなものとされる。
西山古墳は、石上神宮の西南一キロほどの近隣の天理市杣之内にあり、全長が約一八五Mという巨大な前方後方墳である。全国に約三百基あるとされる同型墳のなかでは、最大規模である。自然地形を最大限に利用した三段築成で、段築の二段目より上部は前方後円という珍しい形をとる。杣之内古墳群の中でも現存では最古級の古墳とみられ、朝顔形埴輪U式を出土する。既に盗掘を受け、鏡(神獣鏡かという)・鉄鏃片・石鏃・鉄製刀剣類の破片、車輪石片、勾玉・管玉などの出土を伝えるが、具体的には不明である。被葬者としては、古墳3期とされる年代から、垂仁朝頃の物部連の遠祖・十市根が推定される。
ちなみに、高尾山古墳の西北1キロほどの足高尾上の鉄工団地内には、全国でも珍しい上円下方墳(上段が直径約九Mの円形、下段が辺約十二Mの正方形という型式)の清水柳北1号墳が復元されており、八世紀初頃の古墳とされる。 高尾山穂見神社の意義 長い間(おそらく浅間古墳と同様、かなり早い時期から)、高尾山古墳の墳丘上にあった熊野神社と高尾山穂見神社は、同古墳を保護する役割を果たしてきており、その周辺にあった古代氏族が同墳ともども先祖を祀ったものと考えられる。このように神社が当該古墳の被葬者を示すものであるばかりか、ここ一個所ばかりではなく、熊野神社・穂見神社の同名社が駿河・甲斐・信濃に多く分布している事情にも留意される。このことは、その祭祀を行った後裔氏族も同様に駿甲信三国に分布したとみられるとともに、それら関係社のなかでの本源的な位置づけを有するとみられる。
東熊堂の穂見神社は江戸末期、弘化三年十月(一八四六)に山梨県の高尾山穂見神社より分祠をうけて、まず東熊堂荒久の地へ祀り、次ぎに明治二一年(一八六八)になって交通の便から熊野神社境内上の地に移したと伝える。だから、この所伝によるかぎり古い由緒はみとめられないが、なぜ勧請されてきたのかも含め、簡単に切り捨てられない。
「穂見」は当地ではホヅミと訓み穂積に通じる。物部氏の源流、原始姓は穂積であり、嫡宗は穂積臣氏につながり、そこから崇神朝ないし垂仁朝に物部連の系統が分岐した事情もある。だから、源流たる甲斐の穂見神社の創祀がそうした早い時期のことであれば、ホツミに通じる氏の名をもつ一族・後裔が同社を祭祀・勧請したとみられる。
駿甲信三国の穂見神社を管見に入ったところであげてみると、次のとおりである。甲信のほうでは神社名をホミと訓み、稲穂に因む食糧の女神、保食神(倉稲魂命、豊受大神や水神・除汚染神の瀬織津姫神・菊理姫とも同体)の祭祀が多いが、この神は五十猛神の妻神で、物部を含め天孫族の始祖神の一人であった。この保食神こそ、富士浅間宮の祭神の原型とみられ(現在は木花開耶姫命が祭神とされることが多いが)、大岡牧のなかにも岡宮(浅間宮)がある。
穂見神社の駿河の鎮座地では、 @穂見神社 (富士市)−静岡県富士市大淵。現山梨県南アルプス市高尾の穂見神社を勧請と伝える。祭神は穂穂手見命という。
A穂見神社 (沼津市)−静岡県沼津市根古屋(興国寺城跡内)。江戸末期の安政四年に山梨県高尾の本社「高尾山穂見神社」から分祠という。
B穂見神社 (御殿場市) −静岡県御殿場市御殿場。
甲斐では、巨麻郡の式内社に穂見神社があげられ、次のC〜Gの五社はその論社とされ、ほかの地にもある。
C高尾穂見神社 (南アルプス市)−富士川上流域、櫛形山の北東中腹の山梨県南アルプス市高尾。祭神は保食神。太々神楽は南アルプス市の無形民俗文化財で、古色の大きな神楽殿をもつ。福島の安積郡穂積村(現・郡山市域)にある式内名神大社の宇奈己呂和気(うなころわけ)神社では、瀬織津比売(保食神と同体)が祀られ、太々神楽を伝える。出雲二宮の佐太神社や石見一宮の物部神社など、物部氏関係諸社でも神楽を伝える。
D穂見神社 (韮崎市)−山梨県韮崎市旭町上条南割。山岳信仰の仏教、修験道との習合が行なわれ、別称が苗敷山権現。祭神は天之底立命・豊受姫命(保食神)など。
E穂見神社 (韮崎市)−山梨県韮崎市穴山町稲倉。倉稲魂命を祀り諏訪神・素盞嗚神も合祀し、神楽殿をもつ。巨霊石がある。
F八幡穂見神社(中央市)−山梨県中央市布施。倉稲魂命・誉田別命を祀る。創祀事情は不明も、仁安元年(一一六六)より前に創祀。
G穂見諏訪十五所神社(北杜市)−山梨県北杜市長坂上条。祭神は保食神で、合祀神が多数。太々神楽を行い、神楽殿もある。
H穂見神社 (富士吉田市)−山梨県富士吉田市松山。
信濃では、
I穂見神社 (上田市)−長野県上田市大屋。高尾山白鳥穂見神社の別称。
J高尾山穂見神社 (諏訪市)−諏訪市清水。山梨県の高尾(旧中巨摩郡櫛形町)がもとの鎮座地で、祭神は保食神。
K穂見神社(茅野市)−茅野市宮川。
以上に見るように、これら地域に合計で十余社の同名社が分布する。なかでも、甲斐国巨麻郡の式内社(南アルプス市高尾に鎮座の穂見神社に比定するのが最有力)の例などで高尾の地名と関連するから、物部氏族の分布からも考えると、沼津のほうが本来は源流にあったものかもしれない。熊野神社も、巨麻郡などにあって、甲斐国四所の霊場として、巨摩郡小河原の熊野(甲府市国母の熊野神社で、式内の笠屋神社の跡地に鎮座という)、八代郡八代の熊野、山梨横井の熊野、都留郡岩殿の熊野とあげられる。 駿河の物部氏の支流とみられるものが信濃にある。信濃国高井郡には越智神社(須坂市幸高、中野市越などに論社)があって『延喜式』神名帳に掲載されており、駿河から信濃に展開した物部氏族が奉斎したものか。『三代実録』貞観九年(八六七)三月条には、信濃国高井郡人従八位上の物部連善常が山城国へ移貫したと記される。長野県や平城宮から出土の木簡にも、信濃の更級・埴科・小県郡などで物部を名乗る人々が見え、善光寺平一円には太々神楽が分布する。 甲斐でも、『正倉院宝物銘文集成』の記事には天平勝宝四年(七五二)に「巨摩郡青沼郷物部高嶋調壹匹」とあり、巨摩郡青沼郷(甲府市青沼あたりで、上記の国母の東北近隣)に物部の居住が知られる。もと巨摩郡に属した南アルプス市十日市場(上記の高尾の東方近隣)の神明石動社では、合祀後に天照皇大神及び可美真手命(物部遠祖)を祀るとされる。「物部高嶋」なる者は、駿河物部の流れだったか。山梨郡には式内の物部神社(石和町松本)があり、同郡加美郷には物部色布□が居た(『平城宮発掘調査出土木簡概報』31-32上)。
高尾山古墳の被葬者と推定される大売布命とその一族 ここまで見てきた諸事情から見て、高尾山古墳の被葬者としては、物部氏の祖・十市根命の弟で、垂仁・景行朝に活動が見える大売布(おおめふ)が考えられる。また、被葬者の活動時期や古墳築造の時期については、三世紀前半という早い時期ではなく、それより百年ほど遅い四世紀中葉頃とみるほうが妥当である。
総じて言うと、現在の考古学界主流派では年輪年代法・炭素14年代測定法などによって、総じて考古年代の遡上傾向が強いが、これら自然科学的手法により求められた年代値については的確な検証がなされていない事情がある(あくまでも粗い参考値程度の意味)。従って、考古年代の遡上には十分な留意が必要であり、本件に関しては、大和での「古墳出現期前後」に駿河で築かれた前方後方墳という評価は疑問が大きい(それより少し遅れる)ということでもある。
被葬者推定の理由を以下に確認的に記し、大売布一族の意義を記すことにする。
高尾山古墳の東南近隣で、富士山・愛鷹山の東側を南流する黄瀬川が、伊豆から来る狩野川に合流する下流部の右岸に駿河郡駿河郷があり、ここらが珠流河国造の発祥地とされる。この駿河郷が現・沼津市大岡あたりとみられている(『大日本地名辞書』では、同郷を沼津市西部の駿河湾沿岸部とするが、「珠流河」〔おそらく黄瀬川のことか〕の語義から見ても疑問)。この地には平安後期に大岡牧がおかれ、その管掌者たる大岡氏(牧氏)がいたが、早くに系譜を失ってか藤原姓を称した。おそらく古代珠流河国造の末流とみられ、この辺りに古くから国造一族が居住したことが分かる〔註〕。
〔註〕たまたまであるが、北条時政の後妻・牧の方に関して、本HPでは、牧氏や大岡牧などに関して記事を掲載しているので、ご関心の方は、次の記事をご覧下さい。 杉橋隆夫氏の論考「牧の方の出身と政治的位置」を読む 大売布とその近親一族の系譜は、『旧事本紀』のなかの記事でもきわめて錯綜しており、きちんと説明すると長く複雑になるので、ここでは別途で検討した結論を簡単に記しておく。 先にも見たように、駿河国造の初代とされる物部片堅石連公については、『旧事本紀』自体の記事も混乱があって、かたや十市根大連の子とされ、他方では大新川命とされる。その系譜原型は、十市根の兄弟とされる大売布の子であり、大売布は「天孫本紀」に兄弟としてあげる大新川(大新河)や建新川とも同人であった。記紀には大売布とか大新川の名は見えないが、「天孫本紀」では大燈z命が垂仁天皇に侍臣として仕え、若湯坐(わかゆえ)連等の祖と記される。『姓氏録』でも、大売布が山城神別の真髪部造の祖(その次に記載の今木連が真髪部造の一族かは判断しがたいが。系譜は久自国造支流)、和泉神別の志貴(しき)県主の祖とだけ見える。
ところが、『高橋氏文』には意富売布(大売布)と表記されて、子の豊日連(同書に大伴造の祖と記される。『姓氏録』未定雑姓和泉に掲載の大部首と同族)と共に景行天皇の東国巡狩に随行し、その役割を果たしたことが見える。物部氏については、履中朝に国事執政に任じたと『書紀』に見える伊弗大連より前の歴史が戦後の学界で否定されがちだが、それより百年ほども先の傍系祖先の活動が、物部氏とは関係のない阿倍氏族の膳臣氏の家記にきちんと残って、現在の『高橋氏文』の記事のなかに見えることは重視して良い。この辺は、津田博士流史学の造作論がなんら及ばないところである。
「天孫本紀」や『高橋氏文』の記事からは、大売布が元はどこに居住したのかは不明だが、今回の高尾山古墳の存在を知ってからは、もと大和国十市郡に居たのが先に駿河国駿河郡駿河郷あたりに下向していて、そこで子と共に景行巡狩に参加、随行したことも推される。
駿河国造の初代とされる片堅石の父の代に既に東国に来ていたということで、その子・片堅石の兄弟の代に近隣の遠江の遠江国造(その子の代に久努国造〔遠江国山名郡久努郷〕の分出)や関東の久自国造(常陸国久慈郡)を分出した。また、故地の大和やその近隣畿内には志紀県主や若湯坐連(『姓氏録』では左京・摂津・河内に掲載)も遺し、更に駿河・遠江国造の分流が遠く四国伊予の小市国造(越智郡)・風早国造(風早郡)にもつながった。こうした一族の大きな足跡を全国各地に残しながら、大売布自体の存在や位置づけが物部氏系譜のなかで稀薄になったのは、後裔氏族が物部氏本宗と縁遠くなって祖先系譜も曖昧化した故でもあろう(一族で見れば、後に越智氏が孝霊天皇後裔と称したり、志貴県主から出た中原氏が安寧天皇後裔と称した例もある。平安前期の『姓氏録』編纂の時点でも、一族の河内神別の若湯坐連や未定雑姓和泉の大部首〔両氏は大売布の後裔〕の条では祖先を胆杵磯丹杵穂命と表示するが、この神は因幡の伊福部臣や別族と認識される山代国造〔三上祝・凡河内国造の一族〕の祖神として見える名でもあった)。
高尾山古墳の前方後方墳という古墳型式は、兄の十市根が被葬者とみられる西山古墳の型式とも符合する。また、物部同族では、大阪府茨木市室山の紫金山古墳は、穂積氏の祖・建忍山宿祢(大水口宿祢の子で、娘は倭建命妃の弟橘比売。垂仁・景行朝頃の人)の墳墓とみられるが、従来墳長一〇二Mの前方後円墳とされてきたが、最近では前方後方墳の可能性もあるとされるようになった。おそらく、後者の可能性のほうが大きいのではなかろうか。 なお、遠江国造関係にも触れておくと、「国造本紀」では成務朝に置かれたと見え、初代は伊香色雄命の児、印岐美命とされるが、「天孫本紀」では物部印岐美連公は十市根大連の子で、駿河国造の祖・片堅石の弟とされて、「志紀県主、遠江国造、久努直、佐夜直等の祖」と見える。これが、同書に新河大連の子とされる物部大小木連公(佐夜部直、久努直等の祖)とも同人となる。遠江のほうの前方後方墳は、それぞれ墳長が四十M代後半と規模がかなり小さいが、磐田市寺谷の小銚子塚古墳(これに時期が少し遅れる銚子塚古墳は墳長一〇八Mで静岡県第三の規模とされ、三角縁神獣鏡・巴型銅器・銅鏃が出土)が遠江国造の初祖で、袋井市鷲巣の蔵王権現神社古墳(久野城址付近。現在、神社の社殿が建つ場所が、前方後方墳の後方部とみられる)のほうは久努国造の初祖の墳墓ではないかとみられる。 常陸の久自国造関係では、久慈川支流域の常陸太田市久米町の台地縁辺にある前方後方墳の常光院古墳(墳長八〇〜九〇M)が大売布の子の豊日連(初代国造の船瀬足尼の父)の墳墓という可能性もある(地域的に別の可能性も残るが)。この古墳でも墳丘上に愛宕社があり、近隣には熊野神社(同市大方町)がある。円筒埴輪の出土が知られるのみである。
これら駿遠及び常陸の関係一族の墳墓を見ていくと、総じて言えば、初代の墳墓はやや小さめの前方後方墳で墳丘上に神社等祭祀施設をもつものが多い傾向にあり、第二代目(四世紀後半頃の成務朝に国造任命をうけた者が多い)の墳墓が規模をかなり拡大する傾向がうかがわれる。こうした東国の諸国造の大祖に位置に、本件古墳の被葬者と目した大売布があたるということである。
墳丘上に神社がある例は、尾張の海部郡にも尾張国造関係で興味深い例があるので、併せてこれも見ておく。 尾張西南部の旧海部郡佐織町(現愛西市)千引には、宗像三女神を祀る奥津神社があって、三面の三角縁神獣鏡を伝来する。社殿が鎮座する小丘は奥津社古墳という古墳(径二五M円墳。また、墳長三五M前方後方墳説もある)であって、この古墳から一括出土した鏡とみられている。これら三面がそれぞれ黄金塚(東槨)・黒塚・椿井大塚山と大分県石塚山などの出土鏡と同笵関係があるとされ、「三角縁神獣鏡の中では最古の鏡群に属し、東海地方の古墳発生を考える上で貴重な資料である」とされる。奥津社祭神が女神で、円墳被葬者が女性に多く、三角縁神獣鏡が倭建・景行の両遠征に関係深いという事情を考慮すると、奥津社古墳は海神族の流れを汲む尾張国造一族の宮簀媛(倭建命妃。ないしその近親女性)が被葬者の可能性があろう。もし、これが前方後方墳なら、犬山市犬山にある東之宮古墳(全長七八Mの前方後方墳で、宮簀媛の兄の尾張氏建稲種が被葬者か)とも対応するか。
おわりに このように見ていくと、物部氏系国造の多くが東海地方及び関東に濃密な分布を示すのは、大売布一族の景行東国巡狩の随行に基づく十分な理由があったということにもなる。問題検討の際に、安易に邪馬台国・狗奴国という問題に結びつけないように留意すると共に、高尾山古墳と密接な関連を有するとみられる浅間古墳や近隣諸古墳についても、的確な発掘調査を行って、これら愛鷹山麓の上古史について全体像を把握することが望まれることを付記しておく。
ここでの検討の結論的なものは、最初に掲げたが、同様に九州縦貫自動車道の建設のなかで見つかった久留米市の祇園山古墳が、道路設計をすこし変更して、墳裾をすこしかすめる形にしたことで、保存がなされた事例も想起される。同墳は、もともと高良祠官諸家の祖先・日往子尊の墳墓という伝承もあったとのことで、地元で強い保存運動が起きて、なんとか保存がなされたものである(ただし、その後の保存が適切かどうかは問題もあろう)。私は、久留米の現地に行き、この古墳(実際には「弥生墳丘墓」というべきもの)を見てきたが、現在までの存続を考えていなかった「卑弥呼の冢」に比定するのが妥当だと今は考えている。
※卑弥呼の冢と祇園山墳丘墓について 遺跡は一度取り壊したら復元不能なものであるから(しかも、調査自体も時代により進歩していく事情があるが、破壊したらそれができない)、こうした貴重な文化資産をきちんと保存し、後代に遺していくのが現代人としての責務でもあろうし、高尾山古墳についても同様に言えるものである。たいへん重要な本件古墳について、関係者が知恵を出し合って、適切な調査・保存がしっかりなされるよう、切に望まれる次第である。 (2015.7.20掲上。その後、適宜追補) 関連して 墳丘上に神社がある古墳 についても検討を加えましたので、ご覧下さい。 高尾山古墳の保存を望む会 の change.org で署名運動中です。 (IE8以下ではopen不能の模様) どうぞご協力下さい。 |
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