(その後の動向) 

   AMSに関する最近の朝日新聞の記事について

                                         小林 滋 

@ まず2003年6月第3週の月曜日(03年6月16日)の夕刊に、小林紘一氏(日本AMS研究協会会長)の自然科学的手法 軽視した考古学(「揺れる年代―AMSショック・上」)と題する文が掲載されました。(なお、AMS [Accelerator Mass Spectrometry、加速器質量分析])

 その趣旨は、次の通りです。

 a.「そもそも年代の確定とは、考古学のみならず人類学、地質学、宇宙・地球科学などのすべてにわたって、自然科学的手法により研究され議論されるべきもの」だが、「我が国の考古学では自然科学的手法は必ずしも重要視されてこなかった」。

 b.「今回の一連の報道の中で、AMSは「最新の年代測定法」と紹介されている」が、「欧米諸国で開発されたのは25年も前の1978年のことであ」り、「AMSは「最新の年代測定法」などではない。欧米では既に精密分析技術として認知され」ている。

 c.「日本のAMS研究は、…現在では8ヵ所の研究機関で行われ、研究者は100名を超えている」、「時代区分の見直しを迫る今回の事態は、しばらくは議論を呼ぶだろうが、その最大の解決策が、測る実物の数を増やすことにあるのは、だれの目にも明らかだろう」。
 

 ですが、少し冷静に内容を咀嚼してみますと、いろいろ疑問点が出てきます。
  先ず、aの「年代の確定」とはどういうことなのでしょうか?いくら自然科学の発達が著しいといっても、文献史料のない時代について「年代の確定」などできるのでしょうか?どんなに頑張っても、一定の誤差範囲を含む「推定」の域を出ないことは明らかです。

 また、「そもそも年代の確定とは、‥‥自然科学的手法により研究され議論されるべきもの」と宣言していますが、少なくとも歴史時代の文献資料(わが国のものだけに限らない)の及ぶ範囲(間接的に検討可能な範囲も含めて)においては、「自然科学的手法」によって得られたデータは、本来、第一次資料にはなりえないのではないでしょうか? 歴史的年代に起きた事件などについて、「自然科学的手法」では具体的な地名・人名などの固有名詞についてなんら明らかにできないからです。つまり、「歴史とは何か」という根本問題にもつながることになります。

 さらにbですが、これでは、今広く使われている「較正曲線」が作られたのがいつのことなのか、どういう理由で作られたのか、そしてどのように作られているのかについて、筆者はすっかり見ない振りをして済まそうとしているといわれても全く反論できないでしょう。あるいは、ほんとうに知らないのでしょうか。いずれにせよ、科学的良心的な議論とは言えないはずです。

 従って、cで「その最大の解決策が、測る実物の数を増やすことにある」と述べられておりますが、それもさることながら先ず以って行うべきは、獲得されたデータ(その基礎的あるいは傍証的な資料も含む)を広くいろいろの研究者に検討してもらうべく、関連するデータを徹底的に公開し検討することではないかと考えるところです。要は数だけの問題ではないということです。小林会長が結論的に言われる「最大の解決策が、……だれの目にも明らか」なはずでは、決してありません。質の問題を数量にすり替える論法は、疑問の大きいものです。

また、学問の個別特殊性、それが妥当する地域の特性をなんら考慮せず、“世界標準”という言辞ですべて一般論(理念論)が妥当するという学問的姿勢が問題が大きいことは言うまでもありません。これまでの考古学が土器編年のみ重用し自然科学的手法を軽視してきたと認識されたうえで、「日本の考古学も、科学であるべきだと願っている」とも小林氏は記述されますが、氏は「科学」の意味をほんとうに理解されているのでしょうか。検証のされない科学は、それがどれほど自然科学的な手法を装っていても「科学」とはいえないものです。一般に、手法から結論に至までに多くの段階があり、多方面からの検証が必要なことは、殆ど自明のはずです。

 なお、この記事には、「名古屋大学・年代測定総合研究センターのAMS測定器。2台保有するうちの1台。約4億円。年間測定件数は約2千」との説明つきで測定器の写真が麗々しく掲載されています。4億円もする高価な機器で測定するからには、間違いなどあるはずがないと言いたいようです(測定件数もさりげなく記載することで、有効活用していることをPRしてもいるようです。しかし、これだけ高価な機器を用いて誤った見解を鼓吹することの莫大な損失をまったく自覚していないことに驚きます)。厳しい言い方かもしれませんが、この程度の粗雑な内容しか記述できない方が会長をつとめておられる「日本AMS研究協会」というものの実態はどのようなものでしょうか、ともいいたくなります。

 
<備考> 筆者の小林紘一氏とは、現在TSIの研究者(もと東京大学原子力研究総合センター・タンデム加速器研究部門主任、助教授)で、加速器質量分析法/β線測定法による炭素14年代測定および炭素14トレーサー濃度測定を行う日本初の民間企業加速器分析研究所(IAA)にもその創業に参加するべく01年1月に東大を退官され取締役部長を務められた経歴を有しており、2001年12月に「第3回考古科学シンポジウム」で開会挨拶をされていますが、本来、歴史学とはなんらご縁のない研究者のようです。氏を会長に日本AMS研究協会の役員名簿には、運営委員として中村俊夫(名古屋大学)、今村峯雄(国立歴史民俗博物館)などの諸氏が見え、事務局に上掲タンデム加速器研究部門がなっています。
 また、03年2月15日(土)に東大で開催された高精度14C年代測定研究委員会(第四紀学会の研究委員会の一つ)の第2回シンポジウムに際しては、中村俊夫(名古屋大学年代測定総合研究センター)、辻誠一郎(国立歴史民俗博物館)の両氏がオーガナイザーとなっており、
こうした人脈が今回の問題提起の基盤にあることに留意されます。

A 次の日の火曜日(6月17日)の夕刊には「揺れる年代―AMSショック・下」が掲載されました。前日に引き続いて小林紘一氏が書いているのかと思いましたら、こんどは学芸部の宮代栄一記者による記事尾を引いた登呂での不信感でした。

 当該記事の趣旨は次の通りです。

 a.「考古学の年代決定にAMSによる放射性炭素年代測定を応用しようという試みは、80年代以降、実は地道に進められてきた」。

b.
しかしながら、縄文時代に関しては、自然科学的な年代測定を行うことは普通になってきつつあるものの、「弥生時代以降となると、考古学界には、依然としてC14による年代測定への不信感が存在する」。


.その背景として、「60年代に行われた登呂遺跡などのC14分析」の結果(「同時に出土した試料の年代が食い違う結果を示した」)が尾を引いているが、また「年代を補正する較正曲線への不信もなお根強い」。これは、「考古学者の理化学嫌いの傾向に加え、較正曲線が整備途上であることが不信の材料を提供している」。

d.すなわち、較正曲線は、「古い大木の年輪調査などによって90年代から急速に整備されてき」ているものの、「国際標準として使われているINTCAL98は欧米中心のデータに基づいており、日本で使うと誤差が大きいのではという考古学者も少なくない」。

  e.しかしながら、「今村峯雄教授(核放射科学)らが日本で測定した約1200年分のデータとINTCAL98とを比較したところほぼ重なっており、平均では18年程度しかずれていないことがわかった」。

 f.さらに、「型式の明らかな土器に直接こびりついている良質の試料複数が一致した傾向の測定値を示せば、説得力が増してくるだろう」。今村教授も、「今後は、弥生早期ー前期にかけての測定数をさらに増やしていきたい」と言っているとのこと。
 

 この記事は、前日の小林紘一氏の寄稿のいい加減さ、曖昧さを補っています(その結果、小林氏の文章は何の価値もないことになります)。
 その点を除けば、この記事で情報として意味があるのは、せいぜいのところeの点だと思います。しかし、具体的にどのようなデータを比較したのか、比較の手法に問題がないのか、「平均では18年程度しかずれていない」というがその判断が正しいのか、その他の問題点も含めてどうして今村教授らの結論が正しいのか、などの説明がありません。また、この記事の脇に記載されている春成秀爾教授の談話にも、「箱根のスギで紀元前270〜後900年ころの年輪の各部分を炭素年代測定した結果、較正曲線のカーブとほぼ重なることがわかり、日本でも世界基準が使えるのは検証済みだ」とあります。

 ですが、この記事でも春成教授の談話でも明示されてはいませんが、INTCAL98を日本で検討する際に使われた「箱根のスギ」の暦年代(「紀元前270〜後900年ころ」)とは、非常に問題の多い「年輪年代法」によって得られた数値であって、決して「検証済み」の話ではないのです。日本の風土の特殊性からいって、国際的な基準の一つともされる年輪年代法が妥当しにくいことは周知の事実のはずです。それを、わが国では光谷氏一人がこの難関を克服したと称して年代計測値を出し、この計測値を誰も検証していない事情にあります。

 
B なお、国立歴史民俗博物館による記者発表(5月19日)の当事者の一人である今村峯雄教授の論考考古学におけるC14年代測定(『考古学と化学を結ぶ』第3章、UP選書278、2000.7)を本棚の奥から引っ張り出してきましたら、次のような記載が見つかりました。

 a.「AMS法の方がβ線測定法より信頼できるというのは誤解である。C14年代の較正曲線に用いられている基準データはガス・カウンター計数やシンチレーション・カウンター計数によるβ線の測定によるものである」(P.71)。

 b.「高精度年代測定のための「国際基準」がまとめられたのは1986年からである。1993年に改正があり、さらに1998年にINTCAL98として、最も新しいデータに基づいた2万4000年までの較正曲線が発表された」(P.60〜61)。

 こうした記述からも、今回朝日新聞に掲載された記事の問題点を指摘することができます。
 前者(a)に従えば、上記記事(5/17日)に記載されているAMSについての次のような記載は大きな誤解を招くことになります。

 「80年代に測定感度が格段にアップしたAMSが登場し、データの精度が向上」 

 すなわち、AMSを使えば「従来の方法に比べて検出感度が千倍から1万倍と高いため、測定に必要な資料の量が画期的に少なくな」ったのでしょうが(5/16日記事)、そのことが直ちには「データの精度の向上」には結びつかないと考えられます。  
 更に、後者(b)に従えば、わずか5年前に最新のデータに基づく較正曲線が発表されたのであって、5/16日に掲載された小林紘一氏の文章中にある「AMSは「最新の年代測定法」などではない」という主張は、その根拠が頗る薄弱になります。
 
  研究機関や研究者の著名さ、あるいは大新聞の記事という見せかけに誤魔化されないようにしたいものです。それにしても、朝日新聞の文化学芸関係者はどうして弥生年代繰上げに熱心なのでしょうか。

 
(03.6.21掲上)

 

  「弥生、500年さかのぼる」新説に厳しい質問相次ぐ との報道

  朝日新聞の報道によると、5/25開催の日本考古学協会総会では、関心の高さを反映して超満員で、時間を延長して行われた質疑応答では、出席者から「年代が古いほどいいという意識があるのではないか」「新説通りなら、日本列島の鉄器の使用開始が紀元前800年となり、中国と肩を並べる。そんな技術が当時の日本にあったのか」などの厳しい質問が相次いだとされる。

  発表者である今村峯雄教授が、AMSを使った測定法で、弥生早期から前期の炭化物11点を調査した経緯を説明し、中国・後漢の墓から出土した木片を測定した結果が実際の年代と符合したことなどを根拠に「AMSを用いた年代測定は信頼できる」と述べ、これに対して、「資料の数が少なすぎる」「もっと精度の高いデータがほしい」といった指摘もあった、とされる。その説明くらいでAMS法の結果の信頼性が考えられるのだろうか、この辺にも検証がなされていないことについての思込みの状況がうかがわれる。

  当日の考古学者の反応はかなり健全なようであるが、少なくとも発表者側は説明責任の重さを十分受け止めて適切な行動をとることが期待されるところである。
 
(樹童 03.6.21掲上)

  読売新聞の03.6.22(日)朝刊11面の日曜解説欄では、「弥生時代いつから?」の題で、@土器、稲作、金属器が3点セット、A自然科学的アプローチC14測定法、B求められるデータ蓄積情報公開という3項目に分けて文化部片岡正人記者が平易に書いている。

  そこでは、日本考古学協会の総会で、今回の発表に対し、「時代をいかに古くするかでねつ造事件が起きた。今回も同じ疑念を感じる」という痛烈な批判があったとし、「研究グループは今後、データを積み重ねると同時に公正な情報公開が求められる」「学界も鵜呑みや黙殺を排し、考古学の立場から積極的な検証を行うべきであろう」と結んでいる。

   基本的にはほぼ妥当な指摘であるが、留意したいのは「データの蓄積」という点であり、これだと、同じ手法で分析すれば、それが一定のやり方で進められる限り、結論は同じになるだけである。要は、AMS法で出される数値はそれだけでは意味がなく、これに「較正曲線」と組み合わせて年代補正をした数値が計測値とされている事情があって、「較正曲線」が重要な問題である。端的には、この問題曲線がきわめて問題の大きい年輪年代法に依存していることである。すなわち、この年輪年代法には、情報公開がなんらなされず、従って検証がなされていないという現実がある。従って、「データの蓄積」という数量の問題ではなく、手法の検証という質の問題であり、ここに目を覆うことは許されない。
 
  歴史の把握には、その流れと交流という問題がある。弥生文化の成立には、それを担う人々ないし種族の問題があり、それを片岡記者が「土器、稲作、金属器の3点セット」で捉え、「戦国時代を迎えた中国や朝鮮半島から九州へ大量に難民が渡来し、稲作とともに金属器を伝えた」と記すわけでもある。この表現が必ずしも正確とは思われないが、概ねは妥当であろう。

  私なりにそれを補えば、@「戦国時代を迎えた」という時期はやや誤解を招きやすく、春秋後期〜戦国前期頃と幅を持たせたほうがよい、A「難民」という表現も問題で、烏合の衆の難民が文化的政治的に力を持つことは疑問であり、端的には稲作・金属器などの関係で中国沿岸部に居住した越系種族としたほうがよい、B「金属器」というが、弥生文化の成立に関わるのは青銅器であり、決して中期ないし後期に普及するようになる鉄器ではない、ということである。
  片岡記者が書くように、弥生時代でも紀元前二世紀以降は、年代の分かる中国の貨幣・銅鏡などからある程度確実な年代が推定されるわけで、こうした中国文物が出土しない時期においては、土器型式の変化の度合いから年代を推測されてきたのも確かである。しかし、それでも弥生文化の成立時期はその文化の特色から自ずと時期が定まるものである。これは大局的な年代把握であって、自然科学的装いのアプローチとる研究者が表現する「大雑把」な年代把握では決してない。

  こうした人々や文化・事物の国際交流などを通じて、弥生時代という時代区分があったということであり、こうした歴史観をもたない自然科学系の研究者がC14とか年輪年代で空中から忽然と文物が湧き出るような主張をしても、まったくの空論にすぎない。いったい、弥生時代を五百年も繰り上げて、その期間の文化・文物をどう考えるのだろうか。これでは、空想の檀君神話のもとにその墓を捏造して、建国時期を大幅に遡上させた北朝鮮地域の某国家と同様である。

 (樹童 03.6.22掲上)



  小林滋様の本HPに掲載した諸論考については、これらを多少異なる角度から整理して、「“弥生時代の開始時期”を巡って」という論考として『古代史の海』誌(第33号、2003年9月)に発表されました。併せて、お読み下さい。



  弥生時代開始時期の再考  南海様の問いかけに対する応答です。  (11.12.6掲上)

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