歴博発表の弥生時代開始時期について

(問い)歴博の弥生時代が遡るという発表についての議論では、かつての、 形質の継続する弥生人骨や初期酷似土器が、広範囲に分布している、という着目がなくなっていますが、なぜでしょうか。
 歴博が、水田稲作は400年かけて北九州から中部日本まで伝播した、と言っていることを否定する、有力な論点だと思うのですが。
 何か問題があったのでしょうか。 もしご存知でしたらお教えいただけないでしょうか。

 これに関して、遠賀川式土器や国立科学博物館のHP「日本人遥かな旅展」等の提示もありました。
 
 (南海様より、2011.10.26受け)



  <樹童の感触> 弥生時代開始時期の再考
 
 「弥生時代の開始年代」というテーマは、問題が大きすぎて簡単に概略記述をすることはきわめて難しいが、@「弥生時代」をどのようなものだと具体的に把握・理解したうえで、次ぎに、Aその開始時期を総合的に、できるだけ客観的に考える、ということになる。だから、弥生時代の初期に使われたとされる土器(早期後半の夜臼〔ゆうす〕U式土器と前期前半の板付T式土器)に付着した炭化物の放射性炭素(炭素14)年代を自然科学的手法で測定して、その算出値(推計値)だけで一義的に決められるということは、学問的にありえないはずだと考える。自然科学的な年代測定法の算出した数値(本来、幅のある数値で、要調整でもある)だけを基に弥生時代の年代を論じて、従来の定説から一挙に約五百年も遡上させることは、問題が大きいことが分る。
 ご指摘のような様々な視点を総合的な考えていくことが必要であるが、以下に、とりあえずの整理を記しておきたい。
 
 まず、「弥生時代」については、もともと明治中期に東京府本郷向ヶ岡弥生町(現東京都文京区弥生)の向ヶ丘貝塚(弥生町遺跡)で発見された土器が、発見地に因み弥生式土器と呼ばれたことに由来するし、 当初は、この土器の使われた時代ということで「弥生式時代」と呼ばれたのは、周知のことである。ところが、当該土器自体がほんとうに弥生時代の製品だったのかという疑問も提起された事情もあり、「水稲耕作技術」を基礎とした生活体系全般が先ず北部九州へ伝わり、次いで日本列島に広域普及した時代を言うのが今は一般的ではないかと思われる。
 厳密には、A水田稲作技術の受容の生活(すなわち、灌漑式水田稲作が始まり、これを基本とする生活)が始まった時期に見える突帯文土器(これを、従来の縄文晩期ではなく、弥生早期とみる)の段階という立場、B突帯文土器・無文土器の両者を止揚した遠賀川式土器の成立(そのうち、板付T式土器を最古の弥生土器として、これに始まるとみる)とか、環濠集落の出現を指標とする立場、とがあるようであり、後者の時期のほうが若干遅れるが、「水稲農耕に基礎を置く農耕社会の成立」ということにほぼ通じよう。このうちどちらかというと、後者のB説で捉えるほうが確実な把握であって、妥当ではないかとみられる。とくに、遠賀川式土器が無文土器の系譜をその主たる系譜として受け継いだ(家根吉多「遠賀川式土器の成立をめぐって」『論苑考古学』)とされるから、「渡来者の参入なしには弥生文化の成立が考えられない」という立場(後述の白石氏の見方)から考えると、渡来集団のもたらした朝鮮系無文土器が重視される。だから、弥生土器の定義対象が変わったということもできよう。
 縄文時代に焼畑による陸稲(熱帯ジャポニカ)が日本列島に伝わっていてその農耕が行われても、また、近年、いわれるように、水稲である温帯ジャポニカが「従来の縄文晩期」の時期に既に伝播していたのだとしても、それが北九州一帯ほどの広域で本格的なものではなく、散発的であったとしたら、直ちに弥生時代の開始ということには問題が大きいと思われる。従って、板付T式土器より前の夜臼式土器などの時代を、「早期」という言葉であっても、弥生時代のなかに位置づけるのは慎重であったほうがよいという立場にもつながる。
 先にあげた「水稲耕作技術」は技術であるが、それを含む生活体系全般の伝来まで考えると、稲作の技術だけの伝来ではないことに、十分留意をしたい。全般的な生活体系をもつ特定の種族集団が列島外から北部九州の玄界灘沿岸部にかなりの数で移住したことによって、弥生時代が始まったと考えるものでもある。白石太一郎氏も、「水田耕作をはじめとする新しい生産技術や文化をたずさえてやって来た渡来者の参入なしには弥生文化の成立が考えられないことはいうまでもない」と言われる(「弥生・古墳文化論」『岩波講座 日本通史第2巻』)。
 近年になって、福岡・佐賀・山口などの地域の弥生時代遺跡で、縄文時代人とはかけ離れた長身・面長(高顔)という特徴を持つ人骨が多数発見されて、渡来系集団を考えざるをえないとされる(ただし、弥生時代を形成する渡来人でも、大別して渡来時期・発祥地などが異なる二系統があったと思われ、これを一括りで一系統として把握するのは問題があると思われるが)。金関丈夫氏も、これら遺跡の人骨の形質的検討から、日本列島に稲作を伝えたのは朝鮮半島からの渡来系弥生人(北部九州型弥生人)だとした。水稲耕作技術に関連して、青銅器文化も同時に伝わっているということで、これも一つの目安となろう。
 考古学者や自然科学者では、人種論や習俗・祭祀などの要素をきちんと検討せず、とかく無視しがちであるが、こうした人的な要素を考えないのは、歴史研究においては空理空論にすぎない。検証されない年代値仮説を基に、歴史の大きな流れを考えずに古代の年代を論じても意味がないということである。
 
 温帯ジャポニカ稲温帯日本型稲の淵源が中国の長江(揚子江)中・下流域の江南にあったことは、現在は歴史学界でかなり広く認められている。当地の古代越人が竜蛇信仰や入れ墨・潜水漁法という習俗をもっていたことも知られるから、この越人集団の一派が水稲農耕の担い手として最終的に北九州にやってきたとみるのが自然であり、これにより日本列島の弥生時代が始まったとするのが自然だと言うことになる。
 江南からうまく海流に乗れば、直接、北九州あたりに到達することも不可能ではないといわれるし、また、少数でも熱帯ジャポニカ渡来もあったようだから、中国大陸方面からの直接的な渡来もまったく否定するものではない。しかし、稲作の担い手の「集団移動」という点を考えれば、江南山東半島→韓地南部→北九州、という経路が稲の伝播の大部分を占めたとするのが無理ないところであろう。これは「間接説」といわれ、考古学者の岡崎敬氏により提起されたとされる。
 最近までに、中国の淮水以北の地域におけるコメ資料の出土は着実に増加してきており、「なかでも山東省栖霞揚家圏の竜山文化にともなった短粒米の出土は、淮水以北における先史時代のコメの存在を主張したのみならず、山東半島の先端という出土位置からして、この地方からの西朝鮮への伝播を強く支持することになった」とされる(下條信行「稲の伝播と農業技術の発達」、『古代を考える 稲・金属・戦争』所収)。
 短粒米たるジャポニカの弥生稲作が朝鮮半島南部から北九州に到来したという見方は、日本及び韓国の殆どの研究者に共通だとまでいわれる。極東アジアにおけるジャポニカ種の稲の遺伝分析において、中国東北部からはジャポニカ種の遺伝子が確認されないことなどの証拠や、中国東北部・朝鮮半島北部の気候の寒冷な事情も、併せて言われている。
 韓地南部には、韓国の忠清南道扶余郡草村面に松菊里(ソングンニ。しょうぎくり)遺跡があって、そこで韓地でも初期段階の水稲耕作がなされたことが知られるから、その辺が日本列島移動への中継地であった可能性がある。松菊里遺跡の年代は、従来の日本の時代区分で言えば、縄文末期から弥生時代にかけての時期とされる。この遺跡は、初期農耕の大規模な集落跡であって、1974年の発見からこれまで11回にわたる発掘調査によって、無文土器や磨製石器(石鎌・石包丁、石鏃や石剣・半月形石刀など)、青銅器(遼寧式銅剣・銅鑿・扇形銅斧)、管玉などとともに多量の炭化米が出土した。これらの事情等から、おそらく紀元前五、四世紀ごろから当地で盛んに稲作が行われたことを裏付けるとされる。この遺跡は、約七〇ヘクタールの広域にわたり、石鎌・石包丁・三角形石包丁・袂入石斧・柱状石斧など農耕具類と、小さい石剣および口縁がやや広がり胴部がふくらんだ「松菊里型土器」と丹塗磨研土器が特徴的である。
 この遺跡の十数基の石棺墓・甕棺墓は、住居と同様、遼寧式銅剣(日本の細型銅剣の原型とされる)等青銅器などの副葬品から、紀元前五、四世紀頃に築造とみられており、これが年代値のメドとされている。無文土器は、紀元前七世紀頃から紀元前後頃までの土器だと韓国ではみられており、この範囲におさまる。朝鮮半島では無文土器・支石墓の遺跡から籾痕(もみこん)土器や炭化米が検出されるので、この点からは、遅くとも紀元前六世紀ころにジャポニカ(短粒種)に属する米の稲作が存在したことは確実だという見方もある。
 同遺跡では、中央に大きな柱穴があり、その両側に小さな穴を設けた楕円形の竪穴住居跡が六十余りの多数見られる。この住居は「松菊里型住居」とよばれて、日本列島でも、江辻遺跡(福岡県糟屋郡粕屋町。板付遺跡の北東約8キロに位置)など北部九州を中心として西日本一帯において、弥生時代前期から中期にかけて主流となる円形住居の祖形となった。この型の住居は、九州より東でも、岡山県の南溝手遺跡、愛知県の朝日遺跡、神奈川県の大塚・歳勝土遺跡などにも類似のものが見られるから、急速に広域普及したものか。
 このほか、周囲に環濠と柵を巡らした集落構造など、松菊里遺跡は佐賀県の吉野ケ里遺跡との共通点が多く、吉野ケ里遺跡発見当初から関連して注目されてきた遺跡でもある。唐津市の菜畑遺跡で見つかった炭化米と松菊里遺跡で出た炭化米の形状が酷似していると、和佐野喜久生(わさの・きくお)佐賀大学教授は指摘する。
 以上に見るように、松菊里遺跡は、様々な点で日本列島の稲作の母体であった可能性がある。佐々木高明氏は、「松菊里遺跡などでは、日本の弥生文化の原型とみられるものがすでに形成されていたことが知られる」とまで書いている(「畑作文化と稲作文化」『岩波講座 日本通史第1巻』)。
 
国立歴史民俗博物館(歴博)の見方では、弥生時代開始時期の上記大幅繰上げの主張を踏まえて、春成秀爾氏は「弥生の始まりを考えるには、殷(商)が滅亡し西周が成立するころ(紀元前11世紀)の時代背景を検討しなければならなくなった」と、東アジア全体の古代像を再検証する必要までを指摘した。これは従来の通説的な見方であった稲作の紀元前五〜同四世紀ころというのを、おおきく変更するものである。しかし、実際にそれでよいのだろうか。東アジア全体及び日本列島の古代像を十分検討することは重要であるが、その結果は、かえって以下の諸点に見るように、歴博の見方には大きな疑問があるといわねばならないことになった。春成氏はご自身で提起した問題になんらかの答を出しているのだろうか、と問わざるをえない。
 
(1) 従来説では、中国の戦国時代の混乱によって大陸や朝鮮半島から日本に渡ってきた人たちが水稲農耕をもたらした、とされてきた。これは、稲作開始時期の見方に対応するものでもある。中国戦国時代の混乱はわかるが、殷の滅亡が稲作の担い手にどのように影響したというのだろうか。殷は鳥・敬天信仰などから、もともと東夷系の種族とみられているから、南方起源の稲作には関係ないはずである。また、殷の滅亡時期も、実際にはもう少し遅かったという可能性があり、中国春秋時代以前の年代が若干遡上気味に間延びしている傾向があるとの指摘もある。
 
(2) 弥生時代の開始時期を推定する方法として、当時の土器型式が基礎とされていた。すなわち、弥生早期・前期には時代を追って数種類の土器が現れたが、一つの様式の土器が使われた年数を例えば百年ほどと推定し、それに様式の総数を掛け合わせて、早期・前期が続いた期間を求めるという手法である。ほぼ確実だとみられる弥生中期の開始時期を基礎に、そこから遡らせて推定された弥生の始まりは紀元前五世紀から前四世紀ということで、これが定説になったとみられている。
近年は、年輪年代法や放射性炭素年代測定法などで、古墳時代ひいては弥生時代の年代を遡らせて算定する傾向が出てきた。こうした自然科学的手法による数値は、幅がある数値を調整・評価することで求められるが、これまで検証がなされておらず、当時の炭素の濃度状況や日本列島の地理の特殊性などを考慮しないものだとして、批判も大きい。そうした手法による数値でも、古墳時代や弥生時代後期ごろまでは総じて100〜150年程度の遡上にとどまる傾向があるから、歴博の大幅な繰上げは、そこからでも突出していすぎる。いったい、弥生時代の終末期(=古墳時代の開始時期との境)をいつ頃までと歴博は考えて、その大幅に伸びた期間の土器変遷はどうだったと考えるのであろうか。これも含め、その期間の文化・文物はどうだったのだろうか。こうした視点が歴博見解にはまったく欠如している。
 
(3) 従来説に立ったときに、稲作農耕など弥生文化を裏付けて確実に弥生前期の土器とみられる遠賀川式土器が急速に西日本(伊勢湾、若狭湾以西の地域)に広がり、東北地方北部までの各地でもこれに影響をうけた同系とみられる土器(区別して「遠賀川系土器」ということもある)が発見されるようになって、「斉一性の強い土器が広範囲にわたって分布するのは、ごく短期間のうちに水田稲作を基盤とする弥生文化がこの地域に広がったことを意味している」という見方がなされるから、これは妥当な見方ではなかろうか。
 
 食糧生産としてもきわめて有為な稲作が数百年もかけて、ゆっくりと日本列島内に普及していったと考えるのは無理がある。そして、稲作の担い手は、江南から韓地南部を経て渡来した越人系の種族で海上交通に優れた技術を有したのだから、すくなくとも瀬戸内海を通じる近畿地方までの普及は早かったとみられる。稲作と遠賀川式土器のについての従来の「急速伝播説」は、現在でも妥当だと考えられる。越と越人の動向については、次ぎに述べる。
 
 東洋史研究者の岡田英弘氏も越人の役割を高く評価しており、その著『倭国』で、「越人の海上活動は、……燕人の朝鮮半島進出よりも一足早かったのだから、日本列島に弥生文化を持ち込んだのは、実は越人だったかも知れない」と記している。
 春秋時代後期から戦国時代にかけての越の動向を見ると、呉を滅ぼした越王勾践は、その都を現在の山東省の琅邪(一説に江蘇省連雲港)に遷し、諸侯と会盟して中原の覇者となった。この段階で、山東半島は越の領域におさめられた。紀元前333年頃、勾践の六世の子孫である無彊の代に、楚の威王の遠征によって無彊王は殺害され、越は楚に滅ぼされた。その際、一部の越王族が南方の?(現在の福建省地方)に逃れ、?越と呼ばれ弱小勢力になったとされるが、東方の黄海を経て韓地南部に逃れた集団があったことも、越の海上交通能力を考えるとありうることであった。もっとも、こうした越の滅亡以前にも、韓地には越人の勢力扶植があったとみられ、おそらく韓人の人種形成には越人という要素も基礎にあったのであろう。
 
 越の滅亡が、中国から韓地にかけての越人に大きな刺激を与え、これを契機として、越人の一部集団が日本列島まで到達したことは、想像に難くないし、多くの傍証があげられる。その場合、その到達時期は前四世紀の後半から前三世紀という期間ということになる。だから、従来の通説的な理解でも、若干早すぎるということでもある。
 青銅器技術では、越では銅の生成技術に優れ、1965年に湖北省江陵県望山一号墓より出土した銅剣は表面に硫化銅の皮膜が覆い錆びない状態で現在も保管されるといわれる。越人は竜蛇信仰をもつ夏王朝の流れを汲むと伝え、潜水漁法などの漁撈や海事に優れていた。『荘子』によると、当時の越の人々は頭は断髪、上半身は裸で入れ墨をしていたというが、この辺の習俗は『魏志倭人伝』に見える倭の水人の習俗に通じる。博多平野にあった奴国は、越人の嫡裔であったろうし、後漢の光武帝から下賜された金印には蛇鈕が付けられていた。
 日本列島の古代氏族のなかでは、阿曇連などの阿曇氏族、春日臣などの和珥氏族、三輪君・鴨君などの三輪氏族、尾張連などの尾張氏族などでは、海神後裔と伝えたり海人性が強く、後世まで竜蛇信仰を持ち続けた。阿曇連や和珥支流には入れ墨の習俗があったことが記紀などの史料に見える。和珥氏族のワニとは古代江南に棲息した「鰐」に由来したものであった。竜蛇信仰は各種文献や神祇資料に見え、三輪山の神・大物主命は蛇の化身など多くの神々が竜蛇あるいは鰐として現れる。吉備の地、岡山県倉敷市矢部では、竜を立体的に表現した土器の出土もあるが、吉備地方に古代から繁衍した吉備臣一族も、三輪氏族の支流に出たものであった(和珥氏族や吉備氏族では、後に皇孫だと系譜仮冒した事情もある)。
 
 最後に、一応のとりまとめをしておくと、明確な年代指標が少ない古墳時代及び弥生時代の年代把握にあっては、多くの指標・資料を用いて総合的合理的に検討されるべきであって、そのなかで歴史の大きな流れを無視してはならない。自然科学的手法も年代把握の一つの方法として参考にすることは言うまでもないものの、そこで出てきた年代値だけに拠って、極端な年代論を主張するのは、きわめて乱暴な話である。
 
 (2011.12.6 掲上)

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