県犬養三千代の祖系


        県犬養三千代の祖系
                                   
宝賀  寿男


 
 はじめに

 古代氏族の動向や系譜を長い期間、追いかけてきて、いまだ大きな謎として残っているのは、奈良時代前半の女傑・県犬養三千代を出した県犬養氏(あがたいぬかい)の系譜である。
 県犬養三千代は、七世紀後葉から八世紀前葉まで、天武、持統、文武、元明、元正の五朝に出仕し、和銅四年(七一一)には元明天皇から橘宿祢の氏姓を賜った(このときの正式な姓氏は、県犬養橘宿祢)。彼女は、最初の夫、美濃王(三野王)との間に左大臣橘諸兄・同佐為・牟漏女王を生み、次の夫たる藤原不比等との間には聖武皇后の安宿媛(光明皇后。孝謙天皇の母)を生み、内命婦として宮中にあって夫を諸方面で助けた。そのかたわら、同族県犬養氏の繁栄もはかり、県犬養広刀自を推挙して聖武天皇の夫人(安積親王・不破内親王・井上内親王の母)とした。三千代と広刀自はともに正三位に叙され、三千代のほうは死後に正一位と大夫人の称号を贈られている。その子・橘諸兄の時代には、一族の石次が同氏ではただひとりの参議に就任し(左京大夫・従四位下)、造宮卿の筑紫なども出て、当時の政界の動向に大きな影響を与えた。三千代の後裔からは仁明天皇を生んだ橘嘉智子(壇林皇后)も出すなど、天皇家の血脈にあっても関係が大きい。
 県犬養氏は、後に天平宝字八年(七六四)に「大宿祢」姓まで賜ったものの、橘諸兄が権力を失い藤原氏の様々な謀略事件などが続いたなどの事情のなかで次第に衰退していき、九世紀以降では振るわなくなった。その後裔も中世には残らず、適切な系図も伝わらない。このため、『姓氏録』に見える神魂命後裔と称する簡単な祖系記事以外は、具体的な系図や遠祖・一族がどのような変遷をしたかなどが知られない状態でもある。だから、県犬養氏の本貫地ですら不明である。
 私が多くの古代氏族の系譜を見てきたなかにあっても、その具体的な出自氏族すら確認できずにきた。東国にあった支流からは、天慶の乱の平将門の母が出たともされるから、県犬養氏一族は武士の発生とも絡むものであった。


 「犬養」を名乗る氏族

 犬養部(犬甘部)は、飼養した犬などを用い、大和王権が各地に設定し経営した直轄領たる御県・屯倉や、宮城諸門や大蔵・内蔵などの守衛や税の管掌に当たる品部であるとされる(『日本古代氏族人名辞典』などに拠る)。『日本書紀』には、安閑天皇二年(五三五)八月に諸国に犬養部を置くと見えるのが初見で、その三か月前に諸国におかれた屯倉の税務・警備などの管掌という職務があった。同書の翌九月条には、桜井田部連、県犬養連、難波吉士等に屯倉之税を主掌せしめる詔が出たことが見える。
 系図によると、この安閑朝の事件は県犬養田根連のときのこととされる。阿曇犬飼連の祖とされる倉海と鮪子(安曇部・辛犬甘の祖)の兄弟も、系図に安閑朝の人とされる(ともに『古代氏族系譜集成』参照)。
 犬養部を統率した中央の伴造氏族には、県犬養、阿曇犬養、海犬養、若犬養(稚犬養)、辛犬養、阿多御手犬養があげられる。なかでも、県犬養、稚犬養、海犬養の三氏は有力で上級伴造とされ、天武十三年(六八四)に「八色の姓」の制定の際、連姓から宿祢姓を賜った五十氏のなかに三氏があり、宮城十二門のなかには海犬養に因む安嘉門、若犬養に因む皇嘉門もある。皇嘉門は、当初は若犬養門といい、これを延暦十二年(七九三)に備前の若犬甘氏が造ったという所伝もある。
 上記のうち、阿曇犬養・海犬養・若犬養・辛犬養は海神族系、阿多御手犬養は隼人系の氏族とされ、県犬養のほうは山祇族系の模様だが、系譜は必ずしも明確ではない。ともあれ、これらはみな神別氏族であった。なお、黛弘道氏には「犬養氏および犬養部の研究」(『律令国家成立史の研究』所収、一九八二年刊)という詳細な論考があり、犬養関係の分布、役割等の研究がなされるが、犬養関係諸氏の系譜研究は殆どなされていない。


 県犬養氏の本貫地

 これら犬養諸氏のなかで最有力だったのが県犬養氏の模様で、たんに犬養とも称された。「県」については、朝廷直轄地の御県・屯倉を意味すると考えられるが、それが一般地名なのか、具体的な地名に基づくものなのか、また後者の場合、それがどこの地なのかという問題があって、この辺が定かでない。県犬養氏の本拠地が不明で、諸説あるからでもある。『姓氏録』でも、本宗の県犬養宿祢が左京にあげられるのみである。
 これまでに出された説では、@和泉の茅渟県とする説(黛弘道氏など)、A河内国古市郡(大阪府羽曳野市)とみる説(太田亮博士)、などがあった。
 たしかに河内国には、志紀郡大路郷に県犬甘宿祢真熊(戸主志貴県主忍勝の戸口。正倉院文書)がおり、古市郡人の従六位下県犬養宿祢小成が本居を右京一条に改貫したと承和元年(八三四)九月条に見えるが、これらは庶流とみられる。
 ところが、吉田靖雄氏の論考「行基集団と和泉国」(『新版古代の日本6 近畿U』所収、一九九一年)では、一二八九年書写の『和泉国国内神名帳』に大鳥郡条に「従五位上県犬甘秋松社」、和泉郡条に「従五位上河内川県犬養社」が掲載され、後者は『和泉志』に「在箕土路村」(岸和田市箕土路町)と記されると指摘する。この神社は、一九〇八年の合祀まで存続しており、箕土路村は久米田池の維持管理にあたる池郷の構成分子で、ここを本拠とする県犬養氏は久米田寺・久米田池・同池溝の造営に関与していたことが想定されるとし、「久米田寺が、県犬養氏を母とする橘諸兄を大壇越と伝承し、現在も古墳時代の小古墳を諸兄塚と称して祭っているのはゆえのないことではない」ということも、併せて指摘する。ここまで具体的な根拠を示されれば、箕土路村あたりが県犬養氏の本拠地としてよいと考えられる。
 『大阪府の地名』(平凡社の日本歴史地名大系28)等では、『和泉志』に拠り、和泉国和泉郡の八木郷域にあった犬飼村(犬養神社も鎮座)が後の箕土路村、いま岸和田市箕土路町になるという。吉備津彦兄弟による吉備平定のときに随従した「犬」こと犬飼建命の後裔ではないかとみられる者のなかに、美作一宮の中山神社の神主家・美土路(みどろ)氏が考えられる事情もある。『姓氏録』には和泉に若犬養宿祢しか犬養関係氏族は見えないものの、箕土路あたりに県犬養氏が本拠をおいていたとしてよさそうである。太田亮博士は、「和泉国日根郡犬飼村は、此の部(若犬養部のこと)のありし地かと云ふ」と記すが、和泉の若犬養氏についても明確ではないことが多く、多少の混同があるのかもしれない。


 県犬養氏の祖先の系譜伝承

 『姓氏録』の左京神別には、県犬養宿祢条に「神魂命の八世孫、阿居太都命の後」、次におく大椋置始連条に「県犬甘同祖」と記載される。ところが、これではあまりに簡単すぎて、古い時期の具体的な系譜が分からない。『姓氏録』では、「神魂命」が久米直や紀伊国造・爪工連・川瀬造など山祇族系の諸氏の遠祖神とされることが多い傾向があるから、そうした諸氏と同族かとまず推されるが、それ以上は分からないと言うことである。
 かつ、問題はその辺にもあって、実は天孫族系の鴨県主など少彦名神系統の諸氏も、同じく神魂命後裔と記されるから、極めて紛らわしい。このため、これまでこの辺の判別ができないでいた。これに加え、若犬養氏が尾張連の同族とする系譜をもっており(『姓氏録』和泉神別の若犬養宿祢)、和泉や吉備にその一族があると伝えることも困難の原因であった。神魂命と阿居太都命との間の七世代の名前が不明なことが最大の困難要因であって、これまで私は、大椋置始連が少彦名神後裔の葛城国造同族とする系図の存在(『斎部宿祢本系帳』で天羽雷雄命の後とする)もあって、阿居太都命の祖を天羽雷雄命かとも考えた面もあった。
 その一方、伊勢の安濃県造・安濃宿祢について、『姓氏家系大辞典』アノ条は興味深い記事を紹介する。それには、『多気窓』が古記を引いて、「安濃府生兼光は伊勢の人にして、安居太都命の廿九世安濃宿祢の裔なり」とあるとし、『姓氏録』大椋置始連条には「県犬甘同祖」とあり、安濃郡には延喜式内社の置染神社(津市大字産品。同市安濃の南方近隣)があり、爪工氏もまた同族で、いずれも神魂系統の氏なり、とするものである。爪工連は、安濃県造の後裔から出たと伝える。
 爪工連の系譜は『姓氏録』左京神別に見えて、「神魂命の子、多久都玉命の三世孫、天仁木命の後なり」と記される。これとほぼ符合する内容が紀伊国造の系図に見えており、同国造の祖・天道根命の弟の天命の子に天仁木命(爪工連の祖)、その子に胆津根命大田祝山直の祖)、とある。大田祝山直とは複雑な名の氏だが、『姓氏録』大和神別に見えており、「天命の子、天爾支命の後なり」とあって、当該系図と符合する。しかも、『姓氏録』の編纂者のなかにも「散位正七位下臣大田祝山直男足」とあるから、系図記載は確かなのであろう。
 多久都玉命とは、天手力男命と同神であり、平田篤胤は、この神が安居太都命と同じだとみるが、佐伯有清博士はこれを否定しており、確かめられないが、上記『多気窓』の記事が正しければ、安居太都命が紀伊国造族だということになる。
 延喜式内社として伊勢国安濃郡では十座をあげるが、そのうち小丹(おにの)神社がもと同郡小丹郷に鎮座とされ(現在は地震高波のため何度か遷座して、現在地の津市上浜町に鎮座)、主神を埴夜須毘売命(丹生女神)とするから安濃県造一族が奉斎したか。その南方一キロほどの津市の安濃川北岸に式内社論社とされる比佐豆知神社がある。同名社がその東北方で安濃川上流部にあり、現社名を比佐豆知菅原神社という(現社地の津市安濃町草生は、元の鎮座地より南東二キロほどに位置し、江戸期に遷座という。旧地のほうが安濃川上流部に近づく)。こちらが地域的にも、式内比定社なのであろう。ヒサヅチという神は難解だが、『神名帳考証』に言う「火雷命」に当たるものか(津市の同名社が愛宕町に鎮座するのも、火神を示唆する)。式内社の祭神が火雷神だとする見方が多い。
 また、式内社の阿由太神社は旧・安濃村安濃(現・津市安濃町安濃で安濃川中流北岸の台地上に同社が鎮座)にあるから、これが本来、安濃県の惣社的な存在だったか。主神の阿由太神は実体が不明であるが、安居太都命に通じるものか。丹生女神に通じる弥都波能売命も合祀される。阿由太(阿由多)神社は中世の土豪細野氏の城跡にあるが、細野氏は藤原南家流で工藤祐経後裔の長野一族とされるから、古代とのつながりは管見に入っていない。


 再検討と一応の総括

 これら諸事情があって、県犬養氏については、私は長い間、たいへん混乱し、当惑していた。そこで、上記の吉田靖雄氏の指摘を踏まえて、和泉国和泉郡の犬飼村、後の箕土路村あたりに県犬養氏の本拠があったとして、その祖系を再検討してみることとした。
 犬飼・箕土路を含む八木郷の近隣には、同郡の山直郷が位置した。この山直郷には、出雲国造同族の山直氏がおり(『姓氏録』和泉神別に「天穂日命十七世孫の日古曽乃己呂命の後」と記載)、現実に和泉国人の右大史正六位上山直池作が六国史(承和三年十二月条)に見えるので、その居住地と考えてきた。これが、大田祝山直氏の居住地でもあったと考えれば、神魂命の八世孫とされる阿居太都命は、上記の胆津根命の子か孫くらいにあたりそうである(神魂命の子孫という世代は、氏により異なる面があるので、明確に当該世代の位置を決めがたい)。いずれにせよ、崇神天皇の世代(概ね四世紀前葉)の一、二世代前の位置に阿居太都命がおかれそうである。そうである場合には、『倭姫世紀』に見える阿野県造の真桑枝太命が実在の人物であれば、阿居太都命の子孫にあたるのかもしれない。

 このように、系譜の流れが阿居太都命の前後でうまくつながれば、この者を山祇族系の紀伊国造一族の出とみるのが自然となる。山祇族は犬狼トーテムを強くもつから、犬飼の職掌としても適当であり、紀伊国造同族に久米氏もあったから、久米田池との所縁も十分考えられる。従って、県犬養氏の本貫を和泉の茅渟県とする説にほぼ賛同するということでもある。『大阪府の地名』(一二二九頁)では、「隣接する上泉郷(現和泉市・泉大津市)域を本拠とする和泉地方の支配的氏族である茅渟県主のもとで、大王家への貢納物などを保管する倉庫の管理・警備に当たった県犬養氏の存在も考慮しうるかもしれない」とも記している。
 なお、爪工氏についても併せて触れておけば、伊勢の安濃郡にもあって、六国史に「伊勢国安濃郡の人、右弁官史生正七位上爪工仲業に姓を安濃宿祢と賜う。神魂命の後なり」(貞観四年七月条)と見えるから、この辺も上記の諸事情と符合する。そうすると、県犬養の「県」は、安濃県の可能性もあるのかもしれず、その場合は県造にもなった犬養氏の意味かも知れない。爪工連は、天平六年の「尾張国正税帳」に某郡主帳外少初位上で見え、天平勝宝五年六月の伊勢国鈴鹿郡長背郷戸主には爪工連御垣が見える。爪工部は、大宝二年の「御野国本巣郡栗栖太里戸籍」や天平十二年の「遠江国浜名郡輸租帳」に見えており、爪工関係者は伊勢から美濃、尾張、遠江にかけて分布したのが分かる。
 ともあれ、県犬養と名乗るまで(安閑朝ないしそれ以前)は、一族は犬飼の技能をもって、たんに「犬飼、犬甘」と名乗っていたとみられ、『姓氏録』摂津神別には、「犬養」氏をあげて、田根連の後と記される。
 犬飼・爪工の東国支流がおそらく崇神前代ないし崇神朝に伊勢・美濃方面に展開し(天暦七年の伊勢国多気郡の近長谷寺文書に犬甘今生、大宝二年の御野国味蜂間郡春部里戸籍に犬甘部鳥売が見える)、その一派が更に、遠く吉備地方にまで移遷して活動したのではないかとみられる。すなわち、吉備の犬養・犬飼は、もともと美濃に在った三野・笠氏の先祖(吉備氏同族を称したが、実は山城の鴨県主支流)とともに、崇神朝には吉備津彦兄弟に随行して吉備地方に至って、美作を含む吉備広域で活動し、長く子孫を残したとみられる(「犬養・犬飼」の苗字は、現在、岡山県、長野県に多い)。岡山出身の政治家・犬養木堂はその末流であった。もっとも、爪工連や爪工部は和泉(『姓氏録』和泉神別の爪工連)や大和、信濃にもあったから、吉備犬養の先祖が吉備津彦兄弟に随ったのは畿内の和泉あたりの地であったことも考えられる。

   (2017.1.13掲上。2021.9.25に追補)
 
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