稲葉一鉄の先祖     

               −美濃の稲葉氏の系譜  ある中世系図の検討方法 (3)



  インターネット上のデータベース閲覧のなかで気づいたある中世ないし近世の系図を取り上げて、その検討を加えるものである。
  ここでは、『美濃国諸家系譜』所収の稲葉氏、一柳氏及び加納氏に焦点をあて、西美濃三人衆といわれ幕藩大名につながる武将稲葉一鉄の系譜を取り上げてみた。



 一 はじめに −稲葉一鉄のことなど−
 
 戦国美濃のすぐれた武将に稲葉一鉄がいる。この稲葉一族については、岐阜在住の林様と調査検討メールの往来を通じて関心をもちながらも、その 先祖の出自・系譜については殆どさしたる手がかりを得られないでいた。それが、『旧事本紀』の「天孫本紀」掲載の物部氏系譜を検討するうち、大矢口宿祢・ 大新河命の系統の物部氏一族が因幡や美濃の稲葉山を通じて、「稲葉」に強い愛着をもって行動する傾向が分かり、物部と稲葉との結びつきの強固さを認識した ところであり、この認識が一応の系譜解明につながったと感じたので、ここに提示する次第である。
 
 稲葉一鉄とその周辺の人物について、まず概観しておくと、次のとおり。一鉄の実名は通以・通朝・貞通・長通、最後は良通(一に義通とも書く)と何度も改め、彦六、右京亮、伊予守などと称し、一鉄(一鉄宗勢力大居士)と号したから、一般に実名よりは道号で通っている。父・通則と兄五人が大永五年(1525)八月の石津郡牧田の合戦で浅井亮政と戦い、皆揃って戦死した後に、方県郡長良の崇福寺の僧侶(宗哲)から還俗して実家の安八郡曽根城主を継ぎ、美濃守護の土岐氏に仕えた。その滅亡後は斎藤氏(道三、義龍)に仕えて、「西美濃三人衆」と呼ばれた。斎藤龍興のとき、織田信長に内通してその美濃侵攻を助け、以降は信長・秀吉に仕えて美濃国大野郡清水城主となった。多大な戦功を立て、文才も豊かであり、斎藤道三や春日局の縁者としても知られる。生没は1516頃〜1588年(享年七三歳ほど)とされる。
 父と同じく彦六、右京亮などと称した嫡男貞通(1546〜1603)は郡上八幡四万石、ついで関ヶ原の戦功で豊後臼杵藩主に転封となり、その子・彦六典通(1566〜1626)の子孫は豊後臼杵五万石の藩主として、また一鉄の庶長子の重通は父の死後に清水城主となり、その養子・佐渡守正成(1571〜1628。林惣兵衛政秀〔政三〕の子で、春日局の元夫)の子孫は山城淀藩主として、両大名家は近世に至った。
 この辺が稲葉氏について『日本史広辞典』『戦国人名辞典』などの記すところを基礎に整理したものであり、ほぼ信頼できそうな内容である。少し長々書いたのは、こうした基礎事実が稲葉一族の系譜解明に必要だと思われるからである。様々な所伝が見られる稲葉氏の系譜については、それだけ多く混乱が見られており、その整理と解釈は難解であるが、子孫の事績(清水城主、郡上八幡城主など)が先祖のものとして関係系譜記事に織り込まれて混在している傾向も多分にあって、基礎となるところをしっかり押さえて探究を深め、系譜を遡上させねばならないと考えるからでもある。
 豊後臼杵藩主であった稲葉家が明治になって宮内省に提譜した『豊後臼杵 稲葉家譜』という東大史料編纂所に残るが、この家譜では、家の祖を稲葉塩塵なる者として、そこから始め、その子が通則、その六男が一鉄となっている。どの諸史料を見ても、塩塵が中興の祖という位置づけが変わらないが、その所伝が伝説上の人物にふさわしく、実名を含めて混乱を極めている。そして、塩塵の父祖となると、一般には伊予の河野氏の出とされるもののの、伊賀氏(安藤守就の一族)と同族とする系譜もある。総じて、所伝が多いうえに信憑性に疑問がつくものが多く、林様に多くの史料・示唆をいただきながら、これまでほとんど確信をもてずにきた次第である。
 ところが、上記事情に加えて、美濃の戦国諸家については最も詳細で、かつ総じて比較的信頼性が高いとみられる『美濃国諸家系譜』(主に「稲葉氏之事」、「越智姓稲葉」の二書)と中田憲信編の『諸系譜』記載の「美乃中臣」系図を考慮して、一応の結論に達した。これに付随して、やはり河野同族といいながら、謎の多い美濃の一柳氏の系譜についても解明ができたと思われる事情にある。
 
 
 二 稲葉塩塵のこと
 
 一般に伝える塩塵の像は、美濃の稲葉氏の初代(中興の祖)で次のようなものである。
 伊予の越智姓河野氏の一族で七郎通貞といった。初め安国寺に入って僧侶(法名祐宗)になったが武勇を好み、寛正中(1460〜66)に伊勢神宮に参詣途中で群盗に会い、その数人を撃殺したことで武名を負い、自ら還俗した。諸州を巡って美濃に来たところ、守護土岐成頼が客遇しその一族の女を嫁せしめたという。稲葉氏を称して稲葉備中守といい、刑部少輔通富ともいい、本巣郡軽海城、次ぎに池田郡小寺城に居た。
 塩塵の名前もまた多く伝え、通貞・通高・通富のほか通兼(『新撰美濃志』の或説)、通弘、通長なども同人の可能性が大きいようで、還俗といい、実名の多さといい、祖父と孫は似通っている。塩塵の娘に斎藤道三の室となった者もおり、それが土岐頼芸の愛妾としても伝える深芳野(義龍の生母)だとも伝える。
 
 塩塵を巡る問題点は数多い。例えば、
@その父祖は誰だったか。河野通成(通直)の子、刑部大輔教通(通直)の子、弾正少弼通直の子という説、稲葉光兼の子という説などがある。河野宗家にも「通直」など似たような名前が多くて、具体的な人物に比定するのが難しく、この辺にも混乱要因がある。
A何時、どのような事情で誰が美濃にやって来たのか。美濃で土岐氏の誰に仕えたのか。塩塵のほか、通能(通義)の子の七郎通弘が美濃に来て、その子孫に出た通長が塩塵だという説もある(「河野系図」)。
B修行していた安国寺はどこか。同名の寺は、足利尊氏兄弟が貞和元年(1345)に国ごとに安国寺・利生塔の建立を命じたことで各地にあり、関連する地域では、安芸、伊予や美濃(揖斐郡池田町小寺)にある。美濃の安国寺は、守護土岐成頼(1442〜1497)が舟田の乱で敗北後に剃髪した寺で、稲葉白雲(光朝、通周ともいう。塩塵の第六子)の位牌がある。塩塵がどこの安国寺で修学したのか不明であるが、一鉄が幼時いた崇福寺に庶長子重通の位牌があるという点に加え、塩塵が山城の小寺城(池田山城)を築き一鉄までの三代がここに居た事情もあり、その近隣山麓の安国寺は無視しがたい。真年は塩塵が「寛正二年濃州ニ来リ池田郡安国寺ノ僧トナリ」と明記する(『華族諸家伝』稲葉久通条)。
C稲葉の苗字は、何に因むのか。稲葉通祐ないし稲葉光祐の娘婿、稲葉伊賀守光兼の子ないし跡継ぎなどの説、厚見郡の稲葉邑ないし稲葉山に由来、伊奈波(稲葉)神社に由来の説などがある。はたして、これらのどれかでよいのか。
D塩塵の生没年、享年はなにか。池田町本郷の養源院墓地には稲葉一族の墓があり、塩塵・通則等の名が見られて、塩塵は天文七年(1538)に没したと伝える。また、「越智姓稲葉」系図には、正長元年(1428)六月に享年六六歳で死去したと見える。

 これら諸問題がすべて相互に関連して結びつくことになるが、確実そうなところから押さえて行こう。塩塵が一鉄の祖父であったことは、異説がなく、これはまず確実とみてよい。そうすると、その生年がほぼ1450年代か(あるいは、1450年前後か)となり、土岐成頼より十歳ほど年下となるが、成頼(及び政房)に仕えたという所伝はほぼ信頼できそうである。そうすると、塩塵の成人・壮年期の主な活動時期を十五世紀の後葉の文明年間頃とみてよい。その嫡子の通則の生没が1480〜1525とすれば(生年を上掲「越智姓稲葉」に拠る。「臼杵家譜」だと1465生だが、これは少し早過ぎか)、塩塵の生年は1450年頃とみることは穏当であろう。
 こうした観点から、「越智姓稲葉」系図を見ると、塩塵の名を通高(始めは通富。稲葉七郎左衛門尉、刑部少輔)として、河野宗家の彦六郎通成(通直)の子に置き、その生没年を1363〜1428とするが、このうち下線部分は明らかに誤記である。同系図では、「通高−通宗−通以−通富−通則」と続けるが、通高と通富はまさに塩塵同人であるから、中間の「通宗、通以」の二代は問題がある。その記事を見ると、通宗には「刑部次郎左衛門大夫」という通称が見られるから、これは刑部少輔塩塵の子におかれるべき者だとみられる。また、通富の生没年が1452〜1508と記され(「臼杵家譜」にいう天文七年(1538)死亡説でも、92歳説だと、1447年生となる)、上記で仮置きした塩塵の生存期間(没年のほうは、『新撰美濃志』の或説でも1525年以降か)にほぼ符合するが、「通以」のほうは生没年が1416〜1494とされるから、これに依拠すれば、塩塵の父に置かれるべき者であることが分る。ただし、「通以」については、上記のように一鉄の名前ともされるから、塩塵の父の名とするのは疑問がある。
 ところが、その一方、「通以」の記事には、興味深いものがある。その要点をあげると、「稲葉源蔵、備中守、入道法名元塵」といい、本巣郡軽海城に住み、応仁二年(1468)より賀茂郡御座野の遠見山に要害を構えて移住したと記事にある。これに対応する記事が『新撰美濃志』に見えており、その本巣郡軽海西城条によると、「稲葉氏代々居住し、応仁二年稲葉石鹿入道、御座野村遠見山に要害を構えて移住した」と記載する。なお、賀茂郡御座野の地は不明だが、現美濃加茂市加茂野町稲辺一帯か。稲辺には稲葉池もある。
 この記事の対応と漢字の類似からみて、稲葉元塵と稲葉石鹿とは同人と考えられる(塩塵や意味から推するに、「元塵」するのが正しい表記か。とりあえず、以下ではこの表記でこの者を表す)。活動年代や法名からみても、塩塵の父とみてよかろう。ここに塩塵の父として、応仁頃の稲葉元塵が具体的に浮上してきたものである。この稲葉元塵が美濃古来の稲葉氏ということで、その家に塩塵が入嗣した可能性もないではないが、伊予の河野一族と塩塵との系譜つながりが上記の系譜検討で断たれる以上、年代的にも地域的にも、塩塵の実父としてよさそうである。塩塵が伊予から来たというのは、後世の誤伝(仮冒につながる捏造か。おそらく林氏と縁をもったことに因むか)と考えられるということである。また、「越智姓稲葉」系図は、「通以入道元塵」の子に置かれる通富入道塩塵とその兄弟の世代から以降は、総じてほぼ信頼してよさそうな感もある。
 
 
 三 稲葉塩塵の実系探索
 
  美濃には鎌倉期に既に稲葉氏を名乗る武家がいたとされる。それは、源頼朝の頃の人、秀郷流の伊賀伊賀守(佐藤伊賀前司)朝光の後裔であって、その三男の光資が稲葉三郎左衛門尉と名乗り、その流れだとされている。ところが、この系統は『尊卑分脈』に「光資−光房−光有−光之(伊勢守)」とだけ記して傍系を記さず、建武前代の者で終わっているし、「稲葉」の苗字も記されない。戦国期に稲葉一鉄と並んで西美濃三人衆に数えられる安藤伊賀守守就(道足入道)は、先に伊賀伊賀守(日向守)とも名乗ったから、伊賀光資の後裔であった可能性もある。守就は、織田信長に属したものの、武田氏に通じた罪で追放され、その二年後の天正十年(1582)に本能寺の変に乗じて旧領回復をもくろみ、旧城(本巣郡北方城)に拠ったものの稲葉一鉄に破られ一族とともに敗死した。
 この守就の父は、伊賀伊賀守定重と伝えるが、その先祖は不明であって、実際に伊賀(稲葉)光資の後裔であるかどうかの確認はできない。守就の一族で土佐藩の重臣として残った土佐藩重臣の安藤氏(守就の弟・郷氏は、山内一豊の姉との間に安藤左衛門佐可氏〔宿毛城主で、山内とも称〕を生んでおり、その子孫。明治には伊賀男爵)に伝わる系図によれば、守就の曾祖父の伊賀太郎左衛門光就(稲葉七郎伊賀守光祐の子という)の弟・光兼が稲葉七郎を名乗り、その子に塩塵が記される。しかし、この系図も『美濃国諸家系譜』所収の「藤原姓林氏」系図では、林一族のほうにも光祐或いは通祐と見える者もあって、この辺りには大きな疑問があり、安藤氏についても守就より前は直系のみのものであって、伊賀光資にも『尊卑分脈』所載系図にもつながらず、疑問もないではない。それでも、天正十年に安藤守就が討たれたときに、同時にその家老の稲葉長右衛門も討たれたというから、この者が安藤一族とすれば、鎌倉期の稲葉光資一族の後裔に安藤守就があたることを傍証するのかもしれない(こうした前提で見れば、安藤氏が初代にあげる光成という者は、世代的にみて、光資の弟・光重の孫にあげられる光盛にあたることも考えられる)。

 このほか、中田憲信編纂の『諸系譜』第二冊に「美乃中臣」という系図『古代氏族系譜集成』744頁にも転載)が掲載され、そこでは、美濃古族の末裔として平安末期の頼朝前代から稲葉氏が見え、戦国期まで十五世代にわたって稲葉氏が続いている。この系譜は出典も記されず、不思議な系図だと思っていたが、その意味するものが古代の物部連一族と稲葉(因幡)との関係を検討するうちに次第に浮かび上がってきた。
 まず、系図の概要から説明する。始まりは中臣宮処連勝海(敏達用明朝の排仏派)とされ、その孫・鳥麻呂(推古十六年紀などに「中臣宮地連烏摩侶」と見える)の弟に長良をあげて、これが美乃中臣(美濃国の中臣)の祖となると記される。中臣連の一族に中臣宮処連氏があったことは知られるが、それが中臣連勝海の後裔であって、その支族に「美乃中臣」が出たという主張が見られる。この一族が中世には藤原姓を名乗ったようであり、それも中臣の後裔ということになるのだろうが、検討してみると疑問が大きい。勝海連の後とされる長良は、美濃の方県郡長良や長良川の地名に関係するから、この辺からが美濃在地の家系となるし、本系図もここから信頼性が出てくると思われる。
 長良の十九世孫に厚見七郎安助がおり、その子に稲葉三郎氏安がいて初めて稲葉を名乗り、その子の稲葉三郎安顕が鎌倉御家人となって方県郡西郷を領した。その子の四郎安民が承久の乱のときに宮方になり茂井(大井戸か)で誅されたと記されるから、三郎安顕は鎌倉殿頼朝の時代の人であることが分かる。
 安顕の六世孫に加納四郎元重・稲葉九郎元慈兄弟が出て、この二人(上記の年代からみて、室町初期の人々)の以降は二系統に分かれて続き、前者は加納元重の九世孫の加納悦右衛門貞格(元亀三年〔1572〕討死という記事から考えると、その祖父におかれる通利の実子とみられ、実質的には八世孫)まで、後者は稲葉元慈の七世孫の稲葉太郎左衛門元茂(仕斎藤氏)まであげられる。なかでも、興味深いのは稲葉元慈の三世孫(曾孫)に元直・小次郎元通兄弟をあげ、小次郎元通の子に五郎元常・七郎通兼の兄弟をあげる点である。そして、かつてはあまり深い意味に気づかずに、「七郎通兼」が稲葉塩塵にあたるのではないかと漫然と考えていた。この一族の苗字としては、前掲の厚見・稲葉・加納のほか、岩崎・安江・戸部の苗字も系図に見える。
 実のところ、『古代氏族系譜集成』編纂時には、この系図の実体に気づかずにいて、そのまま中臣連の一族で美濃国東部に居た氏族の系図だと思っ ていた。ところが、美濃の物部氏を三野後国造を中心に検討を加えたとき、中央の中臣連とは別族の物部氏族であり、長良以降が同国造一族の系図であって、本姓が中臣美濃連ではないかと考えるようになった。

 物部氏は古来、軍事のほか神祇・祭祀にも与ったせいで、「中臣」を冠した中臣熊凝連・中臣葛野連・中臣習宜連の諸氏も物部同族であったが、中 臣美濃連も物部同族で三野後国造の族裔と考えられる事情にある。そして、厚見郡に起って稲葉を名乗った一族は三野後国造の後裔であったとみるのが自然であ る。そうした事情を列挙すると、次のとおりである。
(1) 三野後国造は美濃東部の稲葉山を中心とする厚見・各務両郡を主領域にしていたが、「美乃中臣」系図に見える苗字は、厚見郡(厚見、稲葉、加納)とその北方周辺の方県郡(岩崎)、武儀郡(戸部)から起った(安江は不明も、東濃に拡がる中世の名家だという)。一方、「越智姓稲葉」系図には稲葉塩塵・一鉄の一族の苗字・地名がいくつか見え、それらには今泉(厚見郡)、金山(各務郡か)、曽我屋・大洞・伊吹(ともに方県郡)という地名がある。
(2) 中臣美濃連の記事は、六国史に二回見えており、承和十年正月紀に山県郡少領外従八位上均田勝浄長ら九人が賜姓、次いで貞観六年五月紀に元各務郡人の僧承忍が還俗して本姓の中臣美濃連に復し山県郡少領に任じたというものである。これらを併せ考えると、均田は各務の一族で、各務勝は三野後国造の一族であったことから、同族の名乗る中臣美濃連の姓を賜ったとみられる(中臣美濃連という姓氏は、承和十年正月の賜姓により初めて生じたものではないとみる。六国史に見える人物が「美乃中臣」系図に見えないのは、こちらが本宗筋か)。
(3) 長良の六世孫に秋足という者をあげるが、この者は年代的にみて、『大日本古文書』所収の正倉院文書、神護景雲四年五月に見える「物部秋足」に当たる可能性がある。
(4) 全国に多く見える「稲葉」は、その殆どが物部氏族と密接な関係をもち、因幡国の稲羽郷・稲葉山を基礎とする形で、美濃国の稲葉山があった。因幡の稲葉国造と美濃の三野後国造とは、ともに物部氏の大矢口宿祢・大新河命の流れを汲み、系譜的に密接な同族であった(拙稿「「天孫本紀」物部氏系譜の検討」を参照)。美濃において稲葉氏を名乗ることは、重い意味があった。
(5) 加納氏は稲葉山南西麓の厚見郡加納村(茜部の北隣)に起こり、稲葉氏に属したが、臼杵稲葉藩の重臣にも加納氏があった。『新撰美濃志』大野郡清水邑(現揖斐郡揖斐川町清水)条には、加納悦右衛門は稲葉一鉄の家士にて、その父・加納雅楽助の時より清水村に住めりとあり、天正十年に安藤伊賀守主従を討ち取り高名を表すと見える。清水邑の東南近隣にも加納の地名(現揖斐郡大野町南部の大字加納)が見える。
(6) 稲葉塩塵は、「美乃中臣」系図に見える「七郎通兼」に当たるが、これは世代的にも妥当である。なお、その父の稲葉元塵は通にあたるとみられるが、『新撰美濃志』には「鹿」と書かれたことに通じるか。なお、加納氏の系統にも、七郎通兼と同世代に当たる通武以降五代にわたって「通」を通字にした者の系統が見えて、系譜がつながる。これは、七郎通兼の頃から河野同族を称し始めた事情があったのかもしれない。
 
 
 四 一柳氏と加納氏の系譜
 
  江戸時代に大名家となった美濃出身の一柳氏も、本姓は越智氏であって、伊予の河野氏の庶流と称した。その系図も難解であるが、厚見郡今泉村に住んだ刑部大輔高宣(一に宣高)・三郎左衛門通方兄弟から始まる系図を伝え、この兄弟が大永年間(1521〜28)に伊予から美濃にやって来て、土岐氏に仕えたとする。宣高の孫の一柳直末・直盛兄弟が豊臣秀吉に仕え、兄の市助直末は美濃国の軽海西城主となったが、天正十八年(1590)小田原の戦役のときに、緒戦の山中城攻めで戦死した。弟の監物直盛は尾張国羽栗郡黒田で三万石の領主となり、関ヶ原の戦いでは東軍に属して功があって、その子孫の二家(播磨小野、伊予小松)が幕藩大名として続いて近世に至っている。
 宣高の系譜は、河野通直(弾正少弼通宣)の子とされるが、疑問が大きい。ところが、「越智姓稲葉」系図には、稲葉塩塵通富の弟に通宣をあげ、「或ハ通盛、河野(ママ)刑 部少輔、土岐美濃守政房に仕え、厚見郡今泉に住む。一伝に、これ一柳氏の祖なり、云々」と記される。稲葉氏の「塩塵−通則−一鉄−貞通」という四代と一柳 氏の「通宣−宣高−直高−直盛」という四代は年代的にピッタリ符合するから、「越智姓稲葉」系図は一柳氏の正しい系図所伝を残していたことが分かった。
 『新撰美濃志』では、一柳宣高の所領が方県郡乗竹村(現岐阜市則武)、厚見郡日野村・今泉村とあげられる。厚見郡日野村は稲葉山東麓の岐阜市日野一帯であるから、地名の残らない「今泉」もその近隣か。いま岐阜市の今泉排水機場が稲葉山西南方の岐阜市桜木町二丁目にあるから、この辺が今泉村だとすると、その長良川対岸部には則武があることに気づく(美濃加茂市加茂野町稲辺の北隣にも今泉があることに留意)。
 この一柳氏の系譜も『美濃国諸家系譜』のなかに「河野家一族 一柳氏之事」としてあり、通宣以降は正しい所伝を示すものとみられる。通宣には、河野今泉刑部少輔として、実は稲葉備中守通以入道元塵の三男で、土岐成頼・政房に仕えたという記事が見える。通宣の子の宣高のときに、蹴鞠にすぐれたことにより一柳氏を名乗るようになったともある。この一柳氏の家臣にも加納氏があった。
 
  ところで、加納氏については先に、「加納元重からその九世孫の加納悦右衛門貞格」までの系譜が「美乃中臣」系図に見えると記したが、別途、『美濃国諸家系譜』の第六冊に「加納氏之家譜」という系図が所収される。この系図は、公家の中御門家から近江の浅井氏を経て近江国坂田郡の加納氏が美濃へ遷住したとの内容になっているが、加納氏を名乗るとされる前の前半部分は疑問がある(なぜ浅井氏一族の出としたか不明であるが、ともに物部一族の出ということに関係があったか)。
 ところが、初めて加納氏を名乗ったという五郎左衛門尉重久以降については、歴代の名前と活動年代の記事は割合信頼性がありそうである(地域関係記事には疑問もあるが、この系統は一時期、江北にあったものか)。坂田郡に加納の地名があり、近江出身の京極氏の「京極殿給帳」に千五十石の加納又左衛門が見え、同じく藤堂藩に加納藤左衛門も見えるので、加納氏が近江にあったのは確かであったとしても、近江と美濃の加納氏の関係は不明である。いずれにせよ、この重久系統は、紀州徳川家に仕えた加納氏の系譜につながる。
 活動時期や「重」の通字を考えると、五郎左衛門尉重久は寛正六年(1465)七月に六二歳で死亡したと見えるから、美濃の加納小三郎重通の子の世代に置かれそうである。その子の五郎三郎重秀は文明十年(1478)に四十余歳で死去して塩塵とほぼ同世代であり、その子の上野介秀重は大永二年七月に五九歳で死去したというから、備中守通則と同世代となる。その子の上野介(悦右衛門)重世は大野郡清水村にあったが、稲葉一鉄に攻められて、長男の兵庫助は討死し、本人は引退して子の雅楽助直世はこれに従い、その家老職となった。直世は天正十一年(1584)四月(一鉄が安藤道足を討ったときとも、安八郡楽田でともいうが、年次的には後者か)に四九歳で討死し、その跡を兵一郎清世(外記。子とも弟ともいうが、約二十歳年下)が継いで一鉄・貞通に仕えて臼杵に移り慶長十二年に五三歳で死去、その子の玄蕃が跡を継いで貞通・典通に仕えた。
 雅楽助直世の弟・悦右衛門重久は、勇猛絶倫の人で始め一鉄に仕え、後に家康公に仕えて慶長三年(1598)に六十余歳で死去した。その姉妹に堀太郎左衛門秀重(嫡子が久太郎秀政)の妻になった女性がいる。悦右衛門重久の子の数馬(大隅)重治は、家康の命を受けて紀州家の徳川頼宣に仕えた。その子が平右衛門久利で、その子の角兵衛久政兄弟の世代まで系図は記される(実のところ、久利・久政親子は後に吉宗将軍により大名〔上総一宮藩〕に取り立てられた松平支族の加納氏の先祖であるので、重治より後には疑問もある)。
 この系図では、「美乃中臣」系図と若干異なるが、重世の通称が「雅楽助」でもあったとしたら、『新撰美濃志』の記事がむしろ符合するといえそうである。同書には、加納外記、加納兵部も見える。この系統の祖の重久は、小三郎重通の子の位置に置かれる可能性を先に述べたが、小三郎重通の子の重武の系統にも悦右衛門貞格が見える。ほかに資料がないのでこの辺は判断しがたいが、二人の加納悦右衛門は死亡時期も異なる(貞格は元亀三年〔1572〕討死と見える)から、別人であって、加納の両系統は重複ではなく、両立すると一応、考えておく。

 
 (総括)
  以上の検討を通じて、これまで不明であった美濃の稲葉・一柳両氏の系譜の具体的な解明につながり、塩塵について最初にあげた様々な問題点もほぼ解答が導かれたと考える。塩塵や一柳氏の先祖が伊予の河野一族から出たというのも、系譜仮冒に過ぎなかった。
  それらの検討のなかで、「越智姓稲葉」などの系図を所収の『美濃国諸家系譜』や『新撰美濃志』が貴重な所伝を残すことを認識した。系図類はすべてが信頼できるものは一般に少ないのだから、どこから信頼性があるのかをよく見極めて、活用できる部分から系図原型と史実の探究につとめていく必要があ ると改めて認識する次第である。
 
  (2008.8.3 一応完了・掲上)
 


       美濃の稲葉・林氏と伊予の河野氏との関係
 

 <林正啓様よりの来信の主旨> 08.8.6
 
(1) 稲葉一鉄のご研究、拝読しました。
 稲葉氏については、異常なほど河野氏にこだわっていることも不審に考えておりましたが、貴説は、無理がなく自然な流れであるように思われます。
 
 稲葉氏が、なぜ河野氏に仮冒しなければならなったのかという疑問が多少残ります。
安藤氏、稲葉氏も、推測ですが、もとは伊賀稲葉氏の被官であったのではないかと考えています。伊賀稲葉氏流が、斎藤利永の勢威が高くなるにつれて、稲葉山城から美濃加茂方面に、移っていっております。
 安藤氏は、もと稲葉氏であったとされていますが、安藤氏に改姓したこと自体、理由が判然としません。多少、伊賀稲葉氏と姻戚関係があったのかもしれません。
 稲葉氏は、もともと名乗る姓がなかったのかもしれず、主家の稲葉姓を冒しはしたが、伊賀稲葉氏にはばかって、河野系図を使用することにしたやもしれません。もちろん何らかの姻戚関係があったのかもしれませんが。
 林氏は、「美濃国諸家系譜」によれば、斎藤利永の臣であり、おそらく斎藤氏の命で、伊賀稲葉氏を美濃加茂に追いやり、またその家督を冒した可能性も考えられます。
 
(2) 昨年、「美濃源氏フォーラム」で話しました折の資料を添付しました。
○通高と稲葉一鉄の祖父は、別人ではなかったかと推測しております。
○大徳寺開山の宗峰妙超と伊予の大通寺開山の峰翁祖一は南浦紹明の法嗣であり、誼があったと思います。
 宗峰妙超は、浦上氏であり、峰翁祖一の法嗣月菴宗光は山名氏と師弟関係があり、世阿弥の書にも出名する高僧です。通高が頼った浦上氏とは宗峰妙超に関係する人ではなかったかと思います。月菴宗光の法嗣香林宗簡は、大徳寺住持となっており、伊予河野氏と土岐氏が関係する文書は、主に大徳寺文書であり、峰翁祖一の臨済宗遠山派の後は、大徳寺が関与していたものと思われます。
 河野氏関係者の何人かが戦乱を逃れ、美濃へ来ていると思います。
○また、土岐頼康が開基の正法寺開山の嫩桂正栄は、臨済宗法燈派の法燈国師の法嗣であり、南朝方です。昭慶門院領であった大桑に庵居し、人事を途絶すること二十年とありますから、土岐頼康は、南朝よりの僧をあえて正法寺の開山としたことになります。
 土岐頼康は、南北融和政策をとっていたようであり、嫩桂正栄と椿洞の無文元選禅師は、何らかの関係があったと推測しております。後年、土岐頼康の養子康行が足利義満に嫌われ討伐されることとなった一因も、実は、こんなところにあったのではないかと想像しております。
○土岐氏と河野氏の関係が、想像以上に緊密であり、土岐氏の所領は土岐頼貞が足利尊氏から美濃守護を安堵される以前は、伊予の所領が中心であったと考えられます。
 八代守護土岐成頼の頃には、伊予の所領を維持する能力はなかったと考えられ、伊予大野氏に所領管理を依頼しています(大野系図)。大野系図には、土岐直氏が大野氏の養子となったと書かれているものもあるようですが、真偽不明です。いずれにせよ、土岐氏の伊予における所領は大野氏のものとなっています。
 しかし、なぜ河野系図を使用するに至ったのかという疑問が、残ります。
 
 
 <樹童よりの応答など>
 
 美濃の現地におられて、いつも貴重な観点からのご示唆ありがとうございます。
 貴見ではこれまでも伊予と美濃との緊密な関係を指摘されてきましたが、両地の距離的な隔絶感を考えると、不思議なところもあります。美濃の古代氏族を考えますと、両国の古代国造が同じ物部氏の大新河命系という所縁が長く後世までつながった可能性もあるのかもしれません。
 ところで、美濃の稲葉氏や林氏を考える場合、伊予からの移遷伝承をどのように考えるのかというのが大きな問題となります。いままで記してきたことも含めて、再考して整理してみます。(以下は「である体」とします
 
 氏・苗字を考えるとき、その起源の地域に具体的な地名があるかどうかというのが、かなりの決め手になりそうである。こうした諸事情から考えると、
(1) 稲葉という地名は伊予には見えず、伊予で稲葉を名乗る者が活動したとする史料があるとすれば、これは後世の追記か偽作文書の可能性がある。林のほうは、越智郡拝志郷(今治市市街地南方の拝志一帯)から起った拝志氏が河野一族に見えており、この一族が美濃に遷った可能性も考えられる。
(2) 美濃には早くも鎌倉前期に河野通信の子の河野太郎通政の系統が河野墨俣氏として入っており、南北朝期にも活動が見えるなど、河野一族の居住がある。
(3) 河野宗家の刑部大輔通堯が天授五年(1379)十一月に桑村郡佐志久原で討死し、河野一族が大きく衰えたとき、この一族で諸国に散った可能性はある。
(4) 美濃の林一族の系譜で良質のものはないが、各種の河野系図のなかでは、中田憲信が編纂した『各家系譜』五に掲載の河野敏鎌につながる「河野家譜略」(以下、「敏鎌家譜」という)はやはり参考になる。
(5) 「敏鎌家譜」や他の河野氏関係系図などにより、河野宗家の生没年代と通称を考えてみると、南北朝前期の六郎・遠江守通朝以降は惣領はほぼ「六郎」を通称とし、その子の六郎・刑部大輔通堯以降の家督は「刑部大輔」を称号として用いた傾向がある。
 
 これらの観点で、河野宗家の室町前・中期の系譜を総合的に考えてみると、様々な問題点があるが、一応、次のように整理される(多くの名前の変遷がある者は特徴的な名で表記)。この辺を押さえることが、美濃の林氏の先祖を考える基礎となる。
 鎌倉後期の弘安蒙古合戦の「六郎・対馬守通有(1250頃生〜1311没)」の子で南北朝期の「九郎・対馬守・伊予守通盛(1280生〜1362没。『太平記』に見)」の後となり、通盛の子の「@六郎・遠江守通朝(1304生〜64没)−A六郎・讃岐守・刑部大輔通堯(1335年頃生〜79没)−B六郎・対馬守通之(生没年不詳。家督継承は兄弟・通義の死去後であって、1409年に甥の通久に譲る)、その兄弟の九郎・伊予守・刑部大輔通義(1370生〜94病死)−C四郎・刑部大輔通久(1394年頃生〜1435討死。通義の遺腹の子ともいう)−D四郎・刑部大輔教通(?〜1500没。応仁の乱当時。対馬守通之の孫の通春と対立)」
 この整理のなかでは、とくに「九郎通義と六郎通之」の兄弟関係がとくに問題がある。一般の所伝では、九郎通義が六郎通之の二歳年上の兄とされるが、嫡流の「六郎」を呼称とする通之がなぜ九郎通義の弟なのか、理解しがたい。ときの将軍家の意向が働いて、弟のほうが家督にたてられたことは考えられるが。
 なお、河野氏の系図類では、総じて南北朝期頃から様々な混乱が見 られはじめ、「敏鎌家譜」でも通堯の世代辺りから疑問点が見られる(通義・通之を通堯の弟とするのは年代的にも疑問大)。河野宗家は、室町前期の通義の後 は通久の誕生の時期といい、生まれる子が極端に減少して庶流から養嗣が続くなど、宗家と予州家(通之の後の系統)との対立も相まって、氏としての勢いがな くなっており、こうした流れのなかで河野宗家から出て美濃の稲葉氏となった者が出たことは、まず考え難い。「敏鎌家譜」でも本来の系図部分には稲葉氏の記 事はまったく出ていない(横にある補記的な書込には稲葉・一柳氏の分岐が記されるが)。この点でも、美濃の稲葉氏が伊予河野氏から出たとする系譜の仮冒を傍証 する。
 
 美濃に来たという伝承のある河野一族が「七郎通弘」であり、来住時期を康暦元年(1379)とも応永二年(1395)ともいうが、通義が将軍義満の斡旋で細川氏との和解がなされ、本知行地が安堵された応永元年頃の後とするよりも、通堯が討死した「天授五年=康暦元年(1379)」頃のほうがやや妥当か。
 「敏鎌家譜」では、美濃林氏の祖・通弘を「河野二郎で、九郎通義の二男」とし、「初め越智郡拝志村に居し、応永二年に美濃入国、生没を 1370〜1420年、享年五十一歳」とするが、様々な点で疑問がある。上記2に見るように、年代的に九郎・刑部大輔通義の子ではありえないからである。通弘が初め越智郡拝志村に居し、その子に拝志三郎通厚をあげるのを見ると、通弘の出自が河野宗家ではなく、支族の拝志氏の出だと推される。
 拝志氏は九郎通盛の兄の四郎通種が拝志村に住んだことに起こり、その諸子の通時(六郎)、通任(四郎)、通貞(三郎)がそれぞれ拝志を号して建武年間に活動した。通任は「今岡」とも号し、宗家の通堯とともに活動したことも見える。稲葉貞通の養子になった佐渡守正成(春日局の夫)の家では、七郎通弘の名をあげず、林四郎通任の子の小太郎通扶の後だと伝える(『稲葉家譜』)。また、通時が得能太郎とも号したといい、美濃林氏の祖を得能氏とも伝える点からは、通時の後とされる可能性もある。
 
4 (一応のまとめ)  以上の諸事情から、美濃林氏の祖として、「七郎通弘」という人物が実在なら、拝志氏の通時ないし通任の子(ないし孫か)という系譜になると整理されよう。美濃林氏には、まったく別系の加越の林氏の後というのがあり、この関係もきわめて複雑である。いずれにせよ、美濃の林(拝志)氏が稲葉氏と関係をもつことが具体的に知られるのは、佐渡守正成に関してが初めだとみられ、伊予から来たという林氏から稲葉一鉄の家が出たという系譜は、まったく信頼できないものである。
 稲葉氏が河野氏の系に仮冒したのは、古族末裔でその系譜を明確にしがたい事情があったことで、ある程度系譜が分かる林氏の系譜を借りて、その先祖を架上させた可能性が考えられるが、この辺の事情は明確にし難い。
 
  (08.9.13 掲上、9.15追補)



 <林正啓様よりの再来信> 08.9.17受け
 
 河野氏関係ではいろいろ疑問点があります。例えば、    
@ 次の三人の高僧がなぜ、岩村から、はるばる伊予まで行き、河野氏関係の寺を開山したのか?
         恵那市岩村町  愛媛県旧北条市   
  峰翁祖一  大円寺開山    大通寺開山
  大蟲宗岑             宗昌寺開山
  月菴宗光             最明寺開山
 
 月菴宗光は、山名時熙と師弟関係にあり、世阿弥の「拾玉得花」に「月菴和尚云う・・・」とエピソードが記されている。(天野文雄氏)
 
 「五山禅僧伝記集成」著者玉村氏は、大蟲宗岑は誤りであり、大蟲全岑が正しいとされています。根拠は、大通寺、宗昌寺文書などと書かれていますが、このような文書はありません。宗昌寺には大蟲禅師像もあります。
 東大史料編纂所のデータベースで、大蟲宗岑語録も見ましたが、後世の人物であり、内容がありません。玉村竹二氏の誤りであると思います。
 「日本禅宗史」竹貫元勝著の法系図は、大蟲全岑としていますが、「五山禅僧伝記集成」から典拠したものと思われます。存在しない古文書を根拠とすること自体、おかしいと思います。
 
A 土岐頼康開基の正法寺開山は、臨済宗法燈派の嫩桂正栄。
 土岐氏は、無学祖元−高峰顕日−夢窓疎石の仏光派であり、「法燈派」が、なぜ正法寺の開山になりえたのか?
 嫩桂正栄−信仲自敬(正法寺二世)。
 また、正法寺には信仲の法嗣・梅隠祐常(後村上天皇の皇子惟成親王)が在籍。
 椿洞に、無文元選禅師(後醍醐天皇皇子)が、了義寺を開山していたことも考え合わせると、土岐頼康は、南北朝融和政策をとっていたのではないかと推測せざるをえない。
 信仲自敬は延文年中に大覚派の月心慶円(定林寺住)と入明し、帰朝後は、鎌倉寿福寺、正法寺、和歌山の興国寺に移る。
 月心慶円は、永源寺(滋賀)開山、建長寺五十八世。
 
B 「尊卑分脈」には、次のように見えます。
  a 藤崎十郎四郎泰綱(美濃守護代)の娘が河野弥九郎妻。
  b 源満政流の鳥羽院四天王佐渡源太重実の後裔となる小島孫五郎重連の娘が河野彦四郎道重妻。
 この河野氏は、おそらく美濃尾張の河野氏であろうと思われますが、稲葉氏の伝承以前から、河野氏は守護代の娘と婚姻関係があったことになり、美濃尾張において一定の地位と勢力があったのではないか? 
 
 など、考えてもわからない疑問があります。
 

 <樹童からのお答え>

  河野一族の系図類は、室町期の内容に関しては良本がなく、比較的良質とみられる一族の土居氏・得能氏の系図が東大史料編纂所のデータベースに 見えますが、河野宗家の人々については記されません。そのため、判断ができないことが多くなります。室町期の通義流の宗家と六郎通之系統の予州家の系図が もっと分かってほしいところです。
 
(1) 高僧に関して、美濃と伊予との交流がどうして行われたのか、いまのところよく分かりません。検討課題としておきます。
 
(2)「尊卑分脈」に見える a 藤崎十郎四郎泰綱(美濃守護代)の娘が河野弥九郎妻、 b 源満政流の小島孫五郎重連の娘が河野彦四郎道重妻、については、ご指摘を踏まえて考えてみますと、次のとおりです。
@ 「河野弥九郎」とは、時代的に考えますと、実名が資信で、系譜が鎌倉初期の通信−八郎通末−又四郎通次−弥九郎資信とみられます。小笠原一族の藤崎十郎四郎泰綱は美濃守護代とありますが、八郎通末は承久時に信濃国伴野庄に流されたという所伝がありますから、同庄を領有した小笠原一族と通末の子孫との通婚につながったと推されます。
A 「河野彦四郎道重」については、河野墨俣氏の関係者でみれば、『系図纂要』所収の「河野系図」のなかに見えています。承久時に信州葉広で誅されたという通政の子孫が、又太郎政氏−弥四郎信行−四郎太郎信盛−彦四郎通重と見えます。彦四郎通重の兄・弥太郎信俊の諸子に又太郎信貞・太郎三郎信有(貴史料に、建武時の活動が見える)・又四郎信広などがあげられています。
 
(3) 六郎通之の系統については、東大史料編纂所のデータベースのなかに「河野一族中氏系譜」というのがあり、そこでは次のように見えることが分かりました。

 越智通之 河野伊予守 刑部大輔通次男也、六郎対馬守
以下に記すのは、主な趣旨ですが、嘉慶二年(1388)三月に父通より初めて温泉郡湯之山などを賜り、康応元年(1389)に湯之山に城を修築して移る。応永元年(1394)八月に得能備中守通興の娘を娶り、同廿一年(1414)に風早郡日高城代の重見氏がにわかに背いたのでこれを攻め、翌同廿二年七月廿五日の御幸寺麓合戦で孫の犬法師丸(通元の子)や土居三郎・得能兵部ら三十余名とともに討死した。
通之の子女には、三男で民部大輔通元(1443年に京都で死)、讃岐守通重(1482年に湊山で死)、太郎四郎通忠(1468年に京都で死、64歳)と一女(土居三郎通員妻)がある。太郎四郎通忠の子女には、中伯耆太郎通家、大内兵庫頭通真、中宮内助通春、中孫四郎通元と二女がおり、これらが中氏の祖である(以下、省略)。
 
  この記事で、越智通之が刑部大輔通の次男とありますが、一般には「通」は刑部大輔通堯の弟とされており、この辺の関係がよく分かりません。「中氏系譜」には太郎四郎通忠の譜に元服時(応永十六年〔1409〕?とある)には「伯父屋形通義」が理髪したと記しますから、兄通義・弟通之という関係も示されます。越智通之が通義の跡を承けて、家督を継いだことは見えていません。刑部大輔通堯の討死が1379年ですから、「中氏系譜」の記事には疑問も残ります。
 
  (08.9.17 掲上)


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