前田利家の系譜 1 NHKの大河ドラマ「利家とまつ」が快調なスタートを切った(2002年正月)。戦国の世の利家夫妻の波瀾万丈な生涯といい、NHKならではの豪華キャストといい、前作の北条時宗と違って、史実に沿ってストーリー展開を進めれば、今後も高視聴率を維持していく可能性がある。その場合、疑問な内容が多い『武功夜話』(後掲の備考参照)がどの程度、物語のなかに取り入れられるのか、利家に都合の悪い幾つかの事件をどのように処理するのか、などがポイントとなろう。もっとも、既に時代考証家からの異論続出とかドラマとして割り切ってみたらという声も聞かれるところでもあるが。 海東郡荒子村(現名古屋市中川区域)の土豪の四男として生まれた利家の家系は、死後天神様として崇められた右大臣菅原道真を先祖として伝え、そのため加賀百万石の領地においては、子供の成長に応じ学問の神様・道真の木彫像を親が用意する習俗も今に残る。しかし、中世尾張の小土豪の家系が当時、正確に伝えられたのであろうか。白石の『藩翰譜』では、利家の父は記されても、利仁流藤原氏の別伝もあげられ、先祖の道真からの系図が前田家にきちんと備わっているという印象は受けない。 私は、金沢藩の支藩城下町であった富山で勤務した際、富山や金沢でいくつかの前田氏関係系図に当たったが、そのなかに割合整理された系図が唯一あった。それが、明治期の系図研究者鈴木真年翁の手になる『前田家系図』である。その前書きから当時陸軍参謀本部にいた翁が編集して直筆で記述し、富山の佐伯有敦氏に呈示されたものであることが分かり、現在金沢の市立図書館加越能文庫に所蔵される。この系図は、神代(ただし、遠祖を天照大神とせず、「意美豆努命一云健速須佐之男命」とする)から説き起こし出雲国造、その一族の野見宿禰から出、土師連を経て菅原道真、さらに利家までに至るが、道真前代部分はここではとくに取り上げない。 道真の後については同系図も含め真年翁関係資料を参照して記すと、その長男高規の五世孫従五位下修理進知頼が美作国苫田郡戸川に下向し、その子孫が有元・福光・殖月・鷹取や原田などの諸氏に分かれて国内の勝田・久米郡等で大いに繁衍し、美作菅党(菅家党)と呼ばれた。その活動が著しかったのは南北朝動乱期であり、『太平記』巻八に見える元弘三年四月三日の六波羅攻め大激戦のなか、京四条猪熊で美作菅家一族は宮方に属して多く討死した。その後も、この一族は播磨の赤松氏に従って存続・活動したが、そのなかで原田式部丞佐広は嘉吉の赤松満祐白幡城落城の時(1441年)、尾張国海東郡下一色に至ったと伝える。その子孫が美濃国安八郡前田村に居住の前田一族の女婿となって前田を号したとされ、さらに利家の祖父蔵人利隆(利成ともいい、海東郡前田城主与十郎種利の弟)の時に分家して荒子に移ったという。なお、美濃の前田氏は藤原利仁将軍の末流、斎藤一族の出といい、秀吉五奉行の一、三位法眼徳善院前田玄以はこの流れである。 この前田氏の系図については、中世系図は系図仮冒が多いという意味で、多角度から厳しくチェックしなければならない。前田氏の遠い先祖に遡る系図は、金沢の前田本家では現に保存されていなかったのである。鈴木真年翁はどこで、前田氏の系図を入手したのであろうか。現在荒子には利家生誕地伝承の残る荒子観音(天神)があるからといって、直ちに先祖道真の伝承は信頼できるのであろうか。『日本紋章学』に記すように、@前田侯爵所蔵の利家の父利春(利昌)の画像には平朝臣とあり、A『加邦録』に見える将軍家光が加賀藩主前田光高がその姓を菅原と改めたことを謗る歌の話、B『武蔵野燭談』に見える利長公に出自を尋ねて「利家以前は余これを知らず、此頃林道春をして之を調べしめ居る」旨を応られたという所伝、をあげて、著者沼田頼輔は「前田氏改姓の真相はこれを想像するにかたくない」と記している。 2 それでは、前田氏の菅原姓というのは疑問なのであろうか。この関係の問題は大きく三つほどに分けられる。すなわち、尾張の前田氏の先祖は美作菅家だったのか、美作菅家の先祖は菅原道真だったのか、前田氏の梅鉢紋はいつ始まったのか、という諸点であろう。 先ず第一の美作菅家を先祖とすることは、私は信頼して良いのではないかと考えている。前掲の尾張前田氏の中世歴代が具体的に記される系図は、鈴木真年翁関係の系図集を仔細に見ていくと、十五世紀中・後葉に尾張の原田氏から分かれて下野国足利に移住した一族に伝えられたことが推測される。すなわち、『百家系図稿』巻十所載の「原田系図」に拠ると、利家の三代祖となる原田与十郎佐友の兄・佐道が下野足利に移り、その子孫が二系(足利にあって上杉氏に仕えた系統と武蔵国高麗郡に居住の系統)に分かれて、そのうち足利のほうがより後代(佐道の六世孫で十七世紀後葉頃の人物)まで実名が記載されている。この子孫に伝えられた系図を真年翁がどこかで入手したのであろう。系図の流れや名・号は自然であって、内容的には疑う事情に乏しいと評価される。こうした早く遠くに分かれた支流が本宗家に失われた系図をきちんと伝えた例は、ほかにも幾つか見られる。 『寛永系図』には、道真公が筑紫にあって二子をもうけ、兄を前田と称し、弟を原田といい、その後、前田某が尾張国に移り住すという内容の記載があるのも、前田と原田との関係の深さを窺わせる。 美作国久米郡の原田氏については、数通りの系図が伝えられる。菅原姓では大きく二種あり、『作陽誌』には上総介平忠常の五男忠高の子孫とする平朝臣姓の系図(もちろん仮冒系図であるが)まで記載される。先に利家の父が平朝臣とあったことを述べたが、この平姓はこうした所伝に由来するものではなかろうか。美作菅家の原田氏は、菅原姓とも平姓とも称していたのである。 利家の出た荒子の前田氏は、同郡下一色(現・名古屋市中川区下之一色町)に居た前田氏を宗家としていて、この宗家は尾張前田氏第二代の原田与十郎佐治以来、「与十郎」を通称としていたが、第五代与十郎種定は天正十二年(1584)の小牧合戦の際、子の長種・利定とともに秀吉に味方し、家康・信雄連合軍に攻められ落城している。こうした尾張前田の庶流家の庶子として生まれ、信長の命により兄・利久に取って代わり当主となった利家の事情からみて、金沢藩主家に前田氏の中世歴代が伝わらなくともあまり不思議ではない。なお、現在、下之一色町と荒子町との位置関係は、前者の東北約三キロに後者が当たり、そのほぼ中間でやや下之一色寄り北方に本前田町・前田・前田西町の一帯(下之一色の北方約一キロ余)が庄内川を挟んで位置する。 美作・播磨から何故、遠い尾張国海東郡まで落ちてきたのか、この辺の事情は何ら記載がなく分からない。ただ、尾張のこの地域には郡名の「海部」で知られるように、古代から海神族系統の氏族、とくに和邇氏族・多氏族が繁衍していたという事情があり、下之一色の西方近隣には和邇部に由来する蟹江という地もある。これらの事情が美作と何らかの交流につながっていたのかもしれない。 3 次に、美作菅家が実際に道真の子孫であったのだろうか。私は、当初、この辺の系譜はほぼ信頼していた。しかし、菅家一族の有元氏でも原田氏でも数種の系図を伝えること、全国の菅原姓を名乗る武家諸氏の系図の殆どが疑わしいこと、などの事情から、疑問が増大してきた。結局、おそらく菅家一族も美作古来の豪族の末流であって、その場合、後孫が行方不明となっている備前国邑久郡の吉備海部直の族裔が古代のある時期に吉井川を溯上して定着したものではないか、と推測するようになった。あるいは、吉備弓削部や後述する和邇部臣との関連もあるのかもしれない(吉備弓削部については、ここでは殆ど述べないが、久米郡の弓削郷・賀茂郷の存在や菅家党諸氏の名字・祭祀などの事情に因るもので、最近ではこの方向にかなり傾いている)。 美作菅家一族の系図を見ると、原田氏の近親には播磨国の佐用郡や長田荘に居住するものが見える。利家の先祖として見える原田二郎兼知とその兄・佐用菅太知季のことであり、南都本平家物語には「播磨国佐用党、同国の在庁、利(ママ)季、兼知等云々」、『源平盛衰記』には「「播磨国佐用党、利(ママ)季、兼知を始めとして、七百余騎云々」と見える。 兼知の子の原田右馬允知貞は長田荘に居住し、承久合戦のなかで討死したが、その子・右馬太郎知明は美作国に帰住したと記される。この長田荘の地は、『和名抄』の賀古郡長田郷、いま加古川市尾上町長田となっており、住吉大明神を祀る古社尾上神社が鎮座する。『播磨国風土記』に見える古い地名であり、地名起源伝承として、昔、大帯日子命(一般に景行天皇と解されているが、年代などから成務天皇とするのが妥当)が和邇部臣の祖・印南別嬢のところへ妻問いで御幸した際にちなんだ起源譚が見える。佐用郡は美作に隣接する播磨西北部に位置し、中世以降、赤松一族が繁衍したことが知られるが、赤松一族にも佐用氏が見える。赤松氏は流布する系図では村上源氏の出とされるが、明らかに仮冒であり、私は、実際には古代播磨に繁衍した和邇部臣一族の末流ではないかと推測している。また、佐用郡に南接する赤穂郡には、海神族系倭国造の祖が居住したとも伝える。これら美作の原田氏を巡る事情は、その源流が海神族にあったことを窺わせる。 美作菅家一族はいずれも菅公の末裔と称して梅鉢紋を使用したことは、『日本紋章学』に見えるが、同書にあげられる梅鉢紋使用の諸氏には興味深いものがある。京の菅原姓公家六家のうち、五条家を除く高辻・唐橋などの五家はいずれも梅鉢紋を用いた。武家では、まず、同じ尾張国内で知多郡の大族久松氏(幕藩大名の久松松平氏)があげられ、公家高辻の支流と称する系図を持ち、梅鉢紋を使用した。しかし、この系図仔細に検討してみると出自仮冒があることが分かり、実際には古代知多郡の大族、知多臣・和邇部臣一族の末流と推される。また、北陸に梅鉢紋使用の諸氏が多く、加州江沼郡の敷地天神を氏神として崇めた斎藤氏などが梅鉢紋を使用した。斎藤氏は一族が美濃各地に天満宮を勧請したが、美濃の堀・前田などの諸氏は斎藤と同族と伝え、やはり梅鉢紋を使用した。 室町期の『見聞諸家紋』には加賀国石川郡の松任氏や大和国添上郡の筒井氏が同紋を用いたと記される。松任氏は利仁流藤原氏の富樫・林一族であるが、実はこの一族は海神族から出た彦坐王一族(和邇氏族と同族。一般にいう「阿倍氏族」は疑問)の道君の末流であったとみられる。林一族の山岸氏も、美濃国大野郡大洞村に遷住して、天神を信じ梅鉢紋を用いた。阿倍氏族という佐々貴山君や和邇氏族の後裔が繁衍した近江でも、梅鉢紋使用の氏は多く、佐々木一族の佐々木・深尾・竹腰などが同紋を用いた。大和国添上郡では、筒井氏をはじめ今井・辰市・中坊などの諸氏が用いた。沼田頼輔は、添上郡は菅原氏の発祥地であり、天満宮の信仰が行われた故であろうと記すが、そうではない。筒井等の諸氏は系譜に諸説(藤原氏とも三輪氏ともいい、他の説もある)あるものの、実際には添上郡に繁衍した和邇氏族の末流かとみられるし、中坊氏は柳生氏の一族であって、柳生氏も菅原一族の出とする系図を伝えるが、実は和邇氏族櫟井臣の族裔であった。 長々と『日本紋章学』の記述を基礎に梅鉢紋使用諸氏を概観してきたが、武家で梅鉢紋を使用した諸氏は菅原姓と称しても、実際には海神族とくに和邇氏族の流れを汲むものが多かったことが知られる。海神族はわが列島に稲作・青銅器などの弥生文化を伝え、北九州の奴国を中心に居住した。和邇氏族は記紀では孝昭天皇の後裔と称するものの、その奴国王家の嫡宗的な存在であり、この氏族には粟田臣、久米臣、柿本臣、葉栗臣、櫟井臣、葦占臣、根連、楊生首など、植物に関する姓氏がきわめて多かったことに注目される。美作菅家の「菅」も、菅原の菅ではなく、植物の菅であったのかもしれない。そうすると、その本来の出自は、播磨和邇部の同族(この場合、早い時期に赤松一族と分岐か)ないし吉備海部直の末流で、いずれにせよ、源流を海神族の一派とみるのが妥当であろうということになる。 菅公の子孫と称し梅鉢紋を使用した美作菅家の一族原田氏の一派は、その主・赤松氏没落の時、海神族が繁衍した尾張国海東郡に遷り、その地でやはり梅鉢紋を使用していた北陸出自の斎藤一族前田氏と縁組みして前田氏を名乗り、やがて英傑利家を出して、梅鉢紋使用氏族の多い加越能の地の太守となった。まとめてみると、こういう粗筋になる。長い歴史の中には様々な巡り合わせがあるが、本件もなかなか面白いものの一つではなかろうか。 なお、美濃の前田氏が起こった安八郡も、和邇氏族が多く居住した地域であり、美作菅家の一族にも前田氏があったことは系図に見える。勝田郡位田村八幡宮の社人に前田豊前が見えると『姓氏家系大辞典』に記載されるから、これもおそらく菅家一族の後裔であろう。そうすると、「前田」という地名自体が海神族に縁由深いものかもしれないし、古代筑紫の前田臣氏も海神族の流れであった可能性もあるかもしれない。 最後にもう少し附記しておくと、前掲『前田家系図』の件で鈴木真年翁が接触した佐伯有敦氏とは、私の最も尊敬する系図学者佐伯有清氏の祖父であることが分かった。有敦氏は明治に富山藩最後の藩主前田利同の東京の住居に寄寓しておられ、そのとき陸軍参謀本部に勤務の鈴木真年翁と出会った模様である。氏はのち栃木県に遷られたが、佐伯家は代々富山藩校の儒者をつとめ藩主の教育にあたってきた事情が寄寓の要因ではなかったか、とのお話である。有清氏もいわれるように、系図を巡る奇遇の一つと思われる。 たしかに富山県には立山の麓の集落に佐伯姓の人々が多い。この佐伯の一族は立山信仰と密接に結びつき、祖先は立山に鷹を追って入ったという立山開祖佐伯有若(あるいはその子・有頼)と伝えるが、これは系譜的には疑問があるのではないかと私には思われる。越中国司の子弟が任地に土着するという所伝には一般に疑問を感じるとともに、別に掲げた拙稿「越の白鳥伝承と鳥追う人々」で記述したように、伝承的にみて似通う古代鳥取部の流れではなかったかと考えるからでもある。 (02.1.16記。その後にも追補)
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