江戸山王社家の系譜 1 千代田区永田町にある日枝神社は、旧官幣大社の社格をもっており、江戸の産土神として「山王さん」の名で親しまれてきた。その沿革は不明な点が多いが、武蔵国入間郡河越の新日吉山王社から勧請されたものと伝え、桓武平氏と称する秩父一族の江戸氏ないしは太田道灌が奉斎者、勧請者といわれる。その本源は近江国の日吉大社であり、大山咋神(この神の実体は難しいが、鴨県主・祝部宿祢等の祖であり、『古事記』には、日枝山や葛野松尾に坐す鳴鏑神とされるから、少彦名神とするのが妥当か。同書に大年神の子とされるのは疑問。)を祭神としている。
この山王さんの社家の系譜を明治の頃の鈴木真年翁が収集していたことが、その系譜集所載の系譜や記事から分かる。当時の真年翁の系譜収集活動の徹底ぶりが日枝神社社務者が発行した『日枝神社史』(昭和五四年一月刊)から知られたので、改めて同翁に敬服する次第である。
同書によると、明治三年八月の当社現任の祠官は、復飾した社僧関係者を除くと、次のとおりである。
2 これら社家のうち、藤原姓小川氏を除いて、なんらかの形で鈴木真年翁関係資料に出ているので、それを紹介することにしたい。 (1)樹下(じゅげ)氏
近江の日吉大社の社家樹下氏(祝部宿祢姓)の一族であり、元禄十年(1697)五月に幕命により当社の神主職を継いだ。その系譜は、「江戸山王神主樹下家系図」として東大史料編纂所蔵『諸氏家牒』に掲載されており、その末尾に「明治三年庚午年八月七日以樹下資政家本写了 穂積臣真年」と記される。
真年翁には、『日吉社司祝部系図』(静嘉堂文庫蔵)等という編著書もあり、また、『諸系譜』第二冊にも樹下成真(山王第二代神主。豊臣秀頼の孫伊集院八郎久真の子とされる)の関係系譜が記されている。
なお、樹下氏の前の神主日吉氏の系譜も不明であるが、入間郡の名族に日吉氏がいたとされる(『姓氏家系大辞典』5049頁)から、この同族で武蔵古族の末流であったのかもしれない。おそらく、山王社の起源とされる武蔵国入間郡河越の新日吉山王社の祠官家の支族(知々夫国造同族か)であろう。
(2)千勝(ちかつ)氏
藤原姓を称するが、もとは忌部姓である。安房ノ忌部の支族が武蔵国都築郡の杉山神社を奉斎し、さらに大同四年(809)遷住して常陸国鹿島郡の千勝神社を奉斎した。『日枝神社史』によると、山王社神体が天正争乱のとき(天正十六年の小田原北条氏征伐か)、下総常陸に遷幸し、その際、千勝氏の祖勝吉が供奉して江戸城に遷るとある。同氏は、勝吉の子の代に主水家(興文の系統)と隼人家(季孝の系統)の二家に分れて、以降山王社家として続いた。
真年翁編の『百家系図稿』巻一には、「千勝」系図が掲載され、小治田朝(推古天皇朝)の忌部久米麻呂から始まり、その卅二世孫の式部信吉まで記され、信吉には「江戸山王神主トナル」と註されている。この系図がなぜ千勝というのか、その出典がどこにあったかは、私が『古代氏族系図集成』を編したとき(昭和六一年)には不明であった。おそらく、年代的に見て、信吉の子か孫かが勝吉であり、同家に伝えられたのが「千勝」系図であろう。なお、安房ノ忌部は、大山咋神の後裔である。
(3)宮西(みやにし)氏
肥後の阿蘇神社祠官宇治部宿祢姓の阿蘇氏の一族である。治承頃の大宮司阿蘇惟泰の後裔、宮西友徳が文明二年(1470)、太田道灌に仕え、その子孫の信友が山王社奉仕始祖と伝える。宮西氏の系図は、真年翁関係の資料集には端的には見えないが、上記『百家系図稿』には巻三の宇治部君など阿蘇氏関係系図が数編あげられている。また、真年翁と親交の深かった系図研究の同好の士、中田憲信が「阿蘇氏系譜」(『皇国世系源流』に所収)を整理し、その資料として宮西本、坂梨本などをあげているから、この宮西本は山王社家宮西氏の蔵本かも知れない。
(4)浦鬼(ほき)氏
長宗宿祢葛城の後裔で、神田明神の社家浦鬼氏の一族である。浦鬼大学の七世孫、神田明神の社家浦鬼延勝の二男、延貞(安永三年〔1774〕卒)が江戸山王社の祢宜職となると記される。その後裔は浦鬼大学家として明治まで至っている。
長宗宿祢葛城は、『続日本後紀』承和三年(836)十月十七日条に一族三人とともに長我孫姓から長宗宿祢を賜姓したことが見える。真年翁編の『百家系図』には、その巻六三に「辰」系図の名で長宗宿祢氏の系図が断片的に記載されている。それによると、事代主命の子の天八現津彦命の後裔として位置づけられる。真年翁著の『苗字尽略解』には、地祇ノ部大国主神ノ御孫の諸氏のなかに、「浦鬼ホキ 長統〔ナガムネ〕宿祢姓土佐国人」とあげられている。
なお、江戸の神田明神(現神田神社)は平将門の霊を祀ることで名高いが、同名の神田神社(丹波国多紀郡、近江国滋賀郡の式内社などで、大己貴命を祀る)と祭祀の経緯が同じかどうかは不明である。
(5)金丸(かなまる)氏
斎部宿祢色弗(シコフツ)の後裔と伝える。
前掲の『苗字尽略解』には、「小野オノ 斎部宿祢姓、安房国人……神余カナマリ、同 金丸カナマル、同 」と記載されるが、この金丸氏は山王祠官をさすものと考えられる。『姓氏家系大辞典』1598頁にも、「東鑑所載上総の金鞠氏は、後世金丸氏ともあるに拠れど、上総の金鞠氏は、房州神餘に同じく」と記されている。この神余氏は、天太玉命の後裔、壬申の乱の功臣忌部宿祢色弗の子が母縁により安房に遷住し、安房坐神社(名神大社)・后神天比理刀盗_社(大社)を奉斎し、安房郡司家ともなったが、このうちの郡司家の系統で雄族安西氏の同族である。
安房ノ忌部の後裔が前掲の千勝氏とともに山王社家に見られるところから、元禄頃の祠官に見える正木主膳も、おそらくその同族であって、安房国平群郡正木郷に起った正木氏から出たものではなかろうか。安房里見氏の有力家臣には、上総国大多喜城主正木大膳など正木一族が見られる。安房の洲宮神社(后神天比理刀盗_社)の祠官小野家の伝来文書によると、延長元年(923)に平将門は当時柴崎村にあった安房神社を訪れ、自身の飼っていた馬を神前に奉納したことが記録されているが、この安房神社は一説に神田明神の前身とされるから、上記浦鬼氏の例にも見るように、神田明神と山王権現の祠官家には互いに通じるものがあるのかもしれない。
なお、斎部宿祢の祖・天太玉命は『姓氏録』などでは高皇産霊神の子と伝えられるが、これは誤伝であって、実際には子孫である。斎部宿祢や安房忌部の遠祖は少彦名神(天孫族の天津彦根命の子)すなわち大山咋神となると考えている。
(6)諸井(もろい)氏
日本橋の当社御旅所預を世襲した家柄で、藤原姓を称する。
筑波大図書館には、「祝部宿祢系図 諸井本」という真年翁直筆の図書が所蔵されており、神魂命に始まり康範までの祝部氏の系図(他書に見ない貴重なもの)が記される。この「諸井本」とは山王社家の諸井氏所蔵本であることが『日枝神社史』を見て分かったところである。なお、この諸井氏については出自が不明であり、真年翁もなんら記していないが、武蔵北部の本庄辺りの名族に諸井氏があったとのことで、地域からみると古族の知々夫国造末流であったのかもしれない。
(7)小川(おがわ)氏
系譜は不明であるが、神主に次ぐ大祢宜の地位にあったことからみて、武蔵の国造古族の末流ではないかとみられる。そうすると、武蔵七党の一つ、西党には多摩郡小川郷から起る小川氏があり、その後裔という蓋然性があるのではなかろうか。
西党は、武蔵国造と同族の下海上国造の後であった他田日奉直氏の後裔、日奉宿祢姓であり、万寿二年(1025)に日奉宗頼が武蔵国多摩牧監に補されて下総国海上郡から遷住し、その後裔が多摩郡に繁衍したものである。平安末期に、宗頼の五世孫として小川太郎宗弘が出ている。元八王子村になった地域のなかに下一分方村があり、その地の鵜森神社の神主家に小川氏があったので、これと同族ではなかったのではなかろうか。真年翁関係の系図集では、武蔵の小川氏関係の系図は武蔵七党以外に見られない。
以上、『日枝神社史』をもとに鈴木真年翁の系図収集の手法を探究してみたが、おそらく他の神社の社家についても同様に追求したことが推察され、それが明治初期頃であったことで、散失する前の旧社家所蔵の貴重な系譜を採集し、現在に伝えたものではないかと評価される。
(05.2.28掲上、09.3.7修補) (備考)本稿は、「鈴木真年翁の系図収集先」の補論として書かれたものであり、同論考も参照されたい。 |