秀吉正室高台院の家系

                      秀吉正室高台院の家系

                                                         宝賀 寿男
 最近、出版社桃山堂の蒲池さんの示唆と刺激を受けて、秀吉とその一族・関係者の系図を研究するようになっている。あまり史料がなく、なにも言えないのではないかと当初、思っていたが、なかなか興味深い事情も浮上してきたので、ここに試論として提示してみて、皆様のご指摘・ご教示を仰ぐ次第である。


 はじめに

 秀吉の正室お祢(本稿ではこの名を主に使う。「祢々、ねね、寧子」ともいう)は、秀吉の関白就任とともに「北政所」と称され、天正十六年(一五八八)には従一位准三后になって豊臣吉子という名で位記に見え、秀吉没後は落飾して高台院と号した。その両親や姉妹・兄弟は知られていて、父が尾張国の杉原助左衛門定利(入道道松)で、母が朝日殿(杉原七郎兵衛家利の女)で、その次女として生まれている。ところが、この二つの杉原氏の系譜が問題であって、現在に伝わる桓武平氏の杉原氏という流れの系譜が実に疑わしい。
 そこで、本稿ではこれを検討して杉原氏の出自を探ってみることにしたい。     

 
 杉原氏とは何か、その問題点

 この杉原氏については、『尊卑分脈』桓武平氏にあげられる系図が有名であり、それによると、伊勢平氏の一派とされ、平貞盛の孫・正度の子で駿河守維盛(上総介宗盛の父)・下総守季衡の弟で、出羽守正衡(平相国清盛の曾祖父)の兄とされる安濃津三郎貞衡(帯刀長、左衛門尉、掃部助)の後裔とされる。貞衡の後は、その子の「貞清−清綱−維綱−良平−桓平」と続いて、この桓平(一に恒平)が文治五年(一一八九)の頼朝の奥州合戦のときに忠勤を励み、その子の宗平・光平兄弟から杉原一族が始まるとされる。すなわち、宗平は大和氏の祖、光平は杉原氏を名乗り、杉原・木梨・高洲等の諸氏の祖とされている。岡部忠夫氏の編著『萩藩諸家系譜』にはこれら四氏の系図が見えるので、杉原氏の系図検討には参考になる。本稿では、まず、『尊卑分脈』所載の系図が妥当かどうかの検討をする必要がある。
 杉原氏や大和氏は、室町幕府において「永享以来御番帳」などの御番帳や幕府の奉行人にこれら両氏一族が見えており、将軍直属の武家衆であった。杉原氏は備後国御調郡の杉原本庄を本拠とし、戦国期には備後国安那郡神辺(広島県福山市域)の城主として杉原氏が見え、長州萩藩毛利氏の家臣にも杉原・木梨・高洲・大和の諸氏があげられるから、中世の備後に勢力をもった一族と知られる。このような活動地域にかかわらず、伊勢平氏の出として、「安濃津、桑名、鷲尾、富津」という苗字を経ていると称しているのである。
 しかも、萩藩の上記家臣の家では、別の系図も伝えている。こちらの別系では、先祖の衡は「清盛四代の孫」と言われる。すなわち、小松内大臣重盛の子・三位中将維盛の妾は平家没落のときに秀衡を抱いて難を丹波国の「椙原」(すぎはら。兵庫県山間地で、杉原紙で著名な現・多可郡多可町加美区杉原のことか)の地に避け、陸奥国長世保に居た本家の長世保五代の良平が秀衡の子の恒平を嗣子として一族の棟梁に迎え、ここで一族は姓を椙原と改めたという。
 この異伝のほうは明らかに疑問であり、平家の御曹司維盛にこうした遺児があったことは史料に見えない。その先祖が陸奥の長世保に居たといいながら、その痕跡や一族を陸奥にまったく残さず、宗平・光平兄弟の子孫一族は備後に居住している。宗平・光平兄弟は備後へ下向して、宗平は神石郡父木野瀬原城主、光平は品冶郡中條の城主となったと伝え、光平は後に府中出口に八尾城を築いて移り住み、本郷木梨焼野の祖ともいわれる。「本郷木梨焼野」とは、備後国沼隈郡山手村銀山のこととされる。
 文治の奥州征伐に功績があったと伝える「桓平(ないし恒平)」なる人物についても、『東鑑』などの史料には見えない。
桓平の父とされる「桑名九郎良平」から後の人物は、桓武平氏の系図で比較的信頼性が高いといわれる越後の三浦和田氏に伝わる「桓武平氏諸流系図」(『中条町史』資料編1などに掲載)には見えないのである。伊勢平氏から宗平・光平兄弟へはつながらないということである。だから、宗平・光平兄弟が備後に所領を賜って伊勢の桑名から移遷した理由もなかった。そうすると、古来、この一族は備後に居たものではなかろうか。恒平が実際に伊勢平氏の一族に出ていたのなら、平家滅亡後にすぐ頼朝に属して戦功をたて従五位下摂津守に任じられたということは、史実として信じがたいものである。
 いったい、杉原氏の祖という平貞衡は実在した人物だったのだろうか。貞衡は正衡などの兄弟と異なり、端的には史料に見えず、その子孫も同様な事情もある。しかし、これについては、『為房卿記』の承暦三年(一〇七九)六月二日条に延暦寺山僧への防御のため動員された武士に「検非違使大夫尉平季衡、尉季国、右衛門尉正衡、同宗盛」と記事があり、このうちの季衡と正衡との間に見える「尉季国」が左衛門尉貞衡にあたるとみられる。また、貞衡の子の貞国の子孫が三河国吉良に住んで後世まで続き、多米・尾崎氏の祖になったという系図所伝もあって、貞衡の存在は認めてよさそうである。
 以上の諸事情を踏まえて、基礎から杉原氏についてさらに検討を加える。

 
 鎌倉・室町期の杉原氏の動向

 杉原氏の先祖が伊勢平氏の桑名恒平だということは、以上に見てきたように信頼できないが、先祖とみられる者が鎌倉期にもかなりの有力者であって平姓を名乗ったことは、『東鑑』などの史料から確かめられる。
 杉原氏始祖とされる光平について、『尊卑分脈』は「杉原流、伯耆守。杉原、本郷、木梨、焼野以下流」と記載されるが、『東鑑』建長四年(一二五二)五月十一日条に見える「伯耆前司光平」に当たるとみられる。そこでは、祈雨の賞を行うため小野沢修理とともに分遣すると見える。『経俊卿記』の宝治元年(一二四七)十一月八日条に「平光平」が伯耆守として見える。それらより前の時期に、『明月記』の記事に見える平光衡(嘉禄二年〔一二二六〕七月二五日条の除目記事に「任伊勢守平光衡」、安貞元年〔一二二七〕十月五日条に「従五位下平光衡」と記載)に当たるかどうかは可能性が低いのではないかと思われるが、幕府内の武家で「伯耆前司」で平姓と記されることは留意される。
 光平の甥で、宗平の長子として『尊卑分脈』にあげるのが「俊平 山城守従五下」であり、『東鑑』の同じ建長四年四月三十日条に見える「深津前司俊平」(「深」と見える書もあるが、おそらく誤記か)に当たるとみられる。「深津」は備後国深津郡に因むのであろう。
 俊平の弟に見える政平は『分脈』に「周防守。三重流」と註記されるが、『東寺百合文書』などの文書(『鎌倉遺文』に所収)には建長七、八年(一二五五、五六)に「三重左衛門尉政平」が見えており、東寺と土地領有を争い、その領知を放棄する旨の通知を東寺に出している。
 さらに、杉原光平の曾孫の清平(玄蕃允恒清の子。焼野流)は、正和三年(一三一四)六月廿九日付け文書に、幕府の六波羅奉行人に「杉原四郎兵衛清平」と見える。
 清平の次の世代が南北朝期、建武頃の人であって、又太郎信平・又次郎為平兄弟(光平の玄孫〔四世孫〕で、按察公真観の孫)が足利尊氏に従って尊氏から勲功で備後国木梨庄を賜り、木梨に鷲尾城を築いて居住したという。信平は木梨・高洲の祖とされ、その六世孫の越前守隆盛(元清)は毛利元就に属した。為平の流れは、その五世孫が豊後守理興であって、沼隈郡山手の銀山城主で大内氏の援助をうけて山名忠勝を神辺城に攻めてその城主となり、後に毛利元就に属した。その養子の播磨守盛重(妻は元就の姪)は神辺城主として勇名が知られ、吉川元春とともに山陰地方の制覇戦に参陣し、毛利方の重鎮として会見郡などの西伯耆の支配を担った。盛重の兄・兵庫頭直良が萩藩椙原氏の祖であった。
 一方、お祢の家系につながるとされるのは、光平の孫・玄蕃允恒清の系統である。その子の三位房心光の三世孫の「満盛−賢盛−長恒−孝盛−晴盛」と晴盛までの系の歴代が『尊卑分脈』に示されており、室町幕府に仕えて「兵庫允・助」の通称が多く見える。満盛の弟の政光は、文安二年(一四四五)の年号を記す今伊勢村(福山市仲村)の再興のおりの縁起に「領主杉原朝臣政光」と見えている。また、晴盛とその叔父の長盛が「永禄六年諸役人付」(永禄六年は一五六三)に一緒に見えており、幕府の部屋衆であった杉原長盛は永禄十二年(一五六九)七月に信長の命に依り自害している事情もある。
 恒清の兄・四郎忠綱の系統も、室町幕府の役人にあり、系図に「左近将監・伯耆守」の通称が多く見える。奉行人杉原左近大夫(伯耆守)、同じく杉原民部大夫入道などの名が当時の史料に見える。『尊卑分脈』には、忠綱の六世孫の彦太郎光親までの記載がある。これら杉原氏は、室町中期の『見聞諸家紋』にも取り上げられ、「剣巴紋」が収録される。
 以上に見るように、杉原氏一族は鎌倉中期から幕府の役人として平姓で見えているが、なぜ備後に定着したかは不明であり、伊勢平氏に系図がつながらないとしたら、実際には当地在来の古代豪族の末裔であった可能性がある。『福山市史』では、杉原氏は尾道市域北方の石清水八幡宮領椙原保の保司起源の在庁官人の出だとみられており、その場合、分布や勢力圏等などからみて安那・深津郡辺りを中心とした吉備穴国造(和珥氏族)の族裔とするのが妥当ではなかろうか。早くから京都の朝廷に出仕したことで、平姓を名乗り、官位を賜ったことも考えられる。

 
 お祢の実家の杉原氏の先祖探索

 先に触れたが、恒清の系統が尾張国愛知郡に移った杉原氏だという所伝もある。なかでも、同郡に居住した杉原七郎兵衛家利の流れが北政所お祢の生母の実家とされる。
 ところが、尾張の杉原氏のことが比較的分かるのは家利あたりからで、信長に足軽として仕えたくらいの微身であったから、その先ははっきりせず、実際に幕府役人の杉原氏の後裔であったかどうかには大きな疑問がある。家利の子が七郎左衛門家次で、レンジャク(連雀)商人をしたともいうが、秀吉に仕えて立身した。その妹・朝日殿は杉原助左衛門道松(名は家政とも定利ともいう)に嫁いで、木下家定やお祢を生んでいる。家次は、天正十四年の山崎の戦いののち、丹波国福知山城主となり、賤ケ岳の合戦ののちは所領も加増されて近江国内に三万二千石となった。京都所司代も兼ねたが、天文十二年(一五八四)に没した。享年五七歳という。
 この家は、子の伯耆守(弥平次)長房を経て、その子の伯耆守重長(母は浅野長政の娘)の代に後嗣がなく、外甥の重玄(竹中重常の子)を養子に迎えたが、重玄も子がなく若死したので、幕藩大名杉原氏は改易となった。長房の妹は従兄弟の木下家定の妻となり、木下宮内少輔利房(備中足守藩祖)などを生んでいるから、家利の系統とその女婿・杉原道松の家とは二重に婚姻を重ねている。ところが、家利、道松の家の系図が共にはっきりしないし、道松がもと林を称したという所伝もある。 
 現在に伝わる尾張杉原氏の系図については、備後・京都の杉原氏との関係を伝える系図は次の三通りほどある。先に、杉原氏の関係ある部分を「満盛−賢盛−長恒−孝盛−晴盛」と記しておいたが、この歴代を踏まえて、次の諸伝を考えてほしい。
 @東大史料編纂所蔵『諸家系図』第十四冊に所収の「平姓杉原」で、これでは、上記の伊賀守孝盛までが共通で、その子に兵庫助晴盛の代わりに「兵庫允盛」(「時」は誤記か)をあげ、その子の「伊賀守利盛(その兄弟に七郎左衛門家政もあげる)−十郎兵衛家長−家利」と続けるが、世代数が多すぎて接続に疑問がある。家利は、天文十八年(一五四九)に五八歳で死去したと伝えるから、利盛(天文六年〔一五三七〕死去と伝)、家長(弘治元年〔一五五五〕死去と伝)がその先祖にあげられるのは、疑問である。

A中田憲信編『諸系譜』第二冊にあげる「杉原家系」であり、平政綱から始まり、その孫の賢盛の子の長恒の弟に治部大夫隆盛をあげ、その子に七郎兵衛家利・孫七郎隆利を兄弟としてあげ、隆利の子に助左衛門道松(朝日村住、鉄砲張工)をあげる。この接合部にある治部大夫隆盛については、同家系では、「生美濃、移住尾張津島。弘治元年六月七日死」と記すが、『歴名土代』には、天文十九年(一五五〇)に杉原治部大丞平隆盛が従五位下に叙され、弘治元年(一五五五)に討死とあるものの、上記家利の生没年とは符合しない。また、隆盛の「生美濃、移住尾張津島」という点もなんら裏付けがない。治部大夫隆盛は家利・隆利兄弟の父ではなかろう。さらに、家利と道松とをつなぐ「孫七郎隆利」についても、同じく裏付けがなく、この系図にも疑問が大きいと考えられる。

B『美濃国諸家系図』第五冊に所収の「杉原系図」であり、これは京都杉原氏との関係を伝えるものの、上記@Aのいう恒清系統ではなく、恒清の兄の四郎忠綱の系統とされる。すなわち、忠綱の六世孫の伯耆守光親の流れとするものであり、『尊卑分脈』に見える光親には、次郎左衛門某・民部少輔光家・又右衛門親家・七郎左衛門家平の四人の子がいたといい、親家の系統ではその孫が道松とし、家平の子に七郎兵衛家利をおくものである。親家は尾州春日井郡に移居し、家平のほうは尾州海東郡に移居したとも記される。
伯耆守光親の諸子が実在したのなら、上記@Aよりは妥当ではないかと思われるが、尾張の杉原氏については、備後・京都の杉原氏ではなく、別地域の杉原氏だとする系図があるという『藤橋村史』の記事がある。これを十分に検討する必要がある。

 
 『藤橋村史』の杉原氏の記事

 美濃国揖斐郡(もとは大野郡)に藤橋村があったが、現在は揖斐郡内の他五町村と合併して揖斐川町になっている。その藤橋村域に「杉原」という地域があって、その東杉原(現・揖斐川町の北部、大字東杉原)に居たのが杉原氏で、その一族が尾張に流れてお祢の出た杉原氏となったと『藤橋村史』上巻(一九八二年刊)に記される。この記事をまず紹介する。
 それに拠ると、もとの出典が『美濃国諸旧記』であって、その巻之十一「城主所主諸士伝記」のなかに「大野郡杉原の住人は杉原六郎左衛門家盛」とあり、その記事には、
@当家の本姓は平で、「平相国清盛−重盛−惟盛−秀衡−伯耆守光平」と続けて、平家一族没落後に諸処に散在し、光ママ)は大野郡北山の奥に落ち入りて杉原村に居住し、杉原氏と改めた。
A光より数十世の後、杉原平太夫家幸があり、その子が杉原六郎左衛門家盛で、二男が杉原七郎兵衛家則で、故あって尾州愛智郡に移住し、一男二女があって、嫡子が杉原七郎左衛門家次で、二女は杉原助左衛門道松妻・七曲(浅野長勝妻)である、
と記される。ただ、最後に、故あって尾張国愛知郡へ移住した杉原氏が秀吉に属して栄えていったのに対し、「杉原在住の杉原氏の後が全く追求できないのは何故であろうか。今後の研究に待たねばならない。」と結んでいる。なんらかの形で、杉原家盛一族が滅ぼされたのであろうか。

 東杉原と「杉原」に関すること
 東杉原に鎮座するのは御山神社(祭神は大山祇神。旧村社)であり、創建年時は不明だが、往時は「深山神社」と称して本区字尾藏谷の深山に鎮座あったが、何れの時か現在地に遷座したといわれる。
 また、東杉原の隣の同町大字の鶴見にはいま藤橋城という現代建築物(西美濃プラネタリウム)があって、南朝の新田義貞が北朝の土岐氏に対抗するため造ったという「杉原砦」を模したとされる。旧藤橋村は、環境省の全国調査で『美しい星空』第3位の地に選ばれた事情があって建設されたものである。

 杉原氏が古来、この地域にあったとすれば、その系譜については次の諸事情を考慮する必要があろう。
  「杉原」に関しては、美濃から飛騨を隔てる北方の越中国婦負郡に杉原野があって、式内社の杉原神社がある。同社は富山市八尾町黒田に鎮座の神社が比定されるが、論社が同市婦中町の田屋及び浜の子にあって、それらは杉原彦命(杉原神)及び木祖神を祭神とする。木祖神はククノチ神(久々能智神)とされ、日本列島に杉などの多くの樹種を伝えたという大屋毘古命、すなわち五十猛神(天孫族の始祖神)に当たる。
 併せて木地師について言えば、山城にあった天孫族の一大支流、鴨族は、近江を経て美濃に入って、根尾谷・揖斐谷を含む本巣・大野両郡にまで進み、この一帯に本拠をおいて三野前(本巣)国造となった。本巣郡見延(美濃部。現在の本巣市見延)はその遺称地である。
 この鴨族移動の経路にあるのが近江国神崎郡(愛智郡)小椋谷であって、ここは古来、木地師集団の居住地・源流地で名高いが、全国の木地師は主に鴨族から出たとみられる。
 美濃の木地師が越前方面に向けて開いたといわれるのが、高倉峠(標高約984m)を通る峠道(現在は広域幹線林道塚線で、福井県南条郡南越前町〔旧今庄町〕瀬戸と岐阜県揖斐郡揖斐川町〔旧徳山村〕塚との間にある)であり、日本海の塩を美濃の徳山村へ運んだ道でもあった。

 
 
 一応の取りまとめと試論

 上記の『諸系譜』所収の系図では、京都の杉原氏支族が美濃一橋に居住し尾張に移遷したという記事は裏付けがなく、信頼性に欠けるが、もともと美濃の大野郡に在ったのなら、それが没落して近隣の尾張に流れても不思議がない。おそらく、『美濃国諸旧記』に示されるのが、最も自然な系譜ではなかろうか。ただ、その先祖が「清盛玄孫の伯耆守光平」というのは、先に述べたように疑問があるのはいうまでもない。
 今のところ、これくらいが管見に入った尾張杉原氏の系図であるが、史実に近いものとしては、『美濃国諸家系図』の「杉原系図」と『美濃国諸旧記』とを合わせて両者を調和的に考えたものくらいかもしれない。すなわち、杉原六郎左衛門家盛の弟が杉原七郎兵衛家則というのは疑問もあって、家盛の父・家幸は次郎左衛門某にあたるのではなかろうか。道松と七郎兵衛家則(家利)とが同族であったことについては、一応信拠しておく。
 このように考えた場合でも、杉原氏の先祖はますます不明となるが、敢えてその祖系を考えておくと、北方近隣の徳山村から起こった豪族・徳山氏(坂上姓というが、これは疑問)の同族であった可能性があるが、いずれにせよ、古代の三野前国造一族の末流ではなかったろうか。史料の乏しいなかで、ここに一試案として提示しておく次第である。

 (2013.1.4,1.5掲上。1.19追補)

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