(続・明智光秀の系譜U)


B 加藤四郎頼方 
 「宮城家系図」には明智頼秀の弟として、頼方をあげ、「加藤四郎主計頭」と見える。頼方は、加藤清正の四代先祖にあたる者であり、応仁の乱の時に尾張国愛知郡中村に来たという伝承が清正の家にはあった。この者が土岐一族から出たと伝える系図をかつて見たことがあるが、当初は信用していなかった。
 すなわち、鈴木真年翁は何に拠ってか、その著『史略名称訓義』の加藤清正の説明で、「祖土岐兵部少輔源頼定の庶子四郎頼方が、尾州中村に来たりて加藤新九郎景包婿となり、加藤氏を冒す」と記すが、これを当初は信じがたいと考えていた。清正の家の直接の先祖として応仁の乱の時代の頼方をあげる所伝(頼方−清方−清信−清忠−清正。清正の四世代先が応仁時の人ということで、年代的に妥当)があり、頼方の父祖探索が必要となる。
 上記の土岐兵部少輔源頼定とは、土岐明智氏の頼定であり、この者が頼方の父なら年代的に合わないが、頼方が頼定の一族で大叔父ということであるのなら、年代的には問題がなくなる。
 『姓氏家系大辞典』カトウ条の第10項によると、
 (@)加藤系図によると、「正吉(三郎)−頼方(三郎、中村に住む)……清正」とあり、
 (A)『尾張名所図会』には、「加藤清正は大織冠の末孫云々、加藤四郎頼方、当村に住す。その曾孫弾正右衛門清忠の二男にして……」と記載される。
 また、中田憲信編『諸系譜』巻七の「加藤系図」には、利仁流藤原氏の先祖から続けて、小隼人正吉の子に頼方を置く。
 頼方において、この系統では突然に「頼」という名乗りが出てくることから考えて、他家から養猶子で入ったことも考えられる。沼田頼輔博士は、『日本紋章学』で「明智光秀・加藤清正がこの紋章(註:桔梗紋)を用いたことが知られている」と記述し、東京帝室博物館所蔵の清正所蔵の槍の金具に刻んだ桐と桔梗紋を図示する。
 宮内庁書陵部所蔵の『中興武家系図』第四三では宮内少輔頼方を加藤安二郎家虎(小隼人正吉の曾祖父宮内少輔虎村と同人か)の子におき応仁乱時とするから、年代的にはこのほうが妥当かも知れない。
 以上に見るように、加藤頼方の系譜については、いくつかの問題点はあるものの、実系が土岐明智一族から出たという所伝は、信頼してよさそうである。

 
C 明智氏本宗の家督継承順 
 明智宗寂(宗宿。名は光安とされる光秀叔父)・光秀の系と沼田藩主家との関係はどうだったのか、どちらが明智本宗なのか。また、明智本宗(家督)の歴代とその相続関係はどうだったのか、などの問題があるが、ここではまず、沼田藩主家の先祖にあたる室町後期の人物について考察しておく。それまでは、この系統が明智家督といってよい模様である。
 
 問題は頼典(民部少輔)の位置づけ(頼弘の子か、頼尚〔上総介〕の子か)であり、「宮城家系図」と「土岐沼田系図」とで大きな相違がある。土岐沼田系図には「土岐文書」の記載と符合する点があるが、同文書自体の信憑性が疑われる面がこの辺にもある。
 「宮城家系図」にも「土岐文書」とは別の文書(明応四年〔1496〕三月二八日付け土岐明智右京大夫殿宛文書)が記載されていて、それによると、右京大夫頼弘の子の兵庫頭(ママ)頼典と兵部少輔頼定の兄弟は所領配分の件で争論があり、将軍義澄公は父の頼弘宛てに和睦させるように命じた文書を発出したとされる。この兄弟の争いについては、「土岐文書」のほうが「宮城家系図」より妥当と考えておきたい。)
 明智惣領家の家督は、応仁・文明時の頼弘以降は、土岐沼田系が伝えるように長子の頼典は家督から廃除されたものと思われ、次子の頼明→その子定明と伝えられて、十六世紀半ばに稲葉山城主斎藤氏により滅ぼされたということになろう。この家の滅亡時期については、定明の二歳の幼児・藤蔵定政(土岐愛茶丸)の三河亡命が天文二一年(1552)とされるから、土岐頼芸の美濃からの再度追放に際してその父定明が殉じたのかもしれないが、実際にこの時期だったのか、あるいは弘治二年(1556)に斎藤道三を討った斎藤義龍軍による明智城攻めと同じだったのかは確かめられない。
 なお、「宮城系図」では、頼定は武儀郡神野また多芸郡に住んだと記し、その子孫となる定明の子の定政は『藩翰譜』に多芸郡に生まれたと記される。光秀の先祖の系統は、一族としてもともと明智庄にあったもの、とも考えられる。
  鈴木真年翁『華族諸家伝』土岐頼知条では、「明智九郎頼基十一世土岐兵部大輔定明天文廿一年濃州没落時討死」と記される。上記のように明智氏歴代(@頼基−A頼兼〔頼重〕−B頼篤−C国篤−D頼秋−E〔弟〕頼秀−F頼弘−G頼定−H頼明−I定明)を数えると、頼基の九世(実系)あるいは十世(家督)となるが、「土岐沼田系図」よりは妥当であろう。

 
D 妻木氏の系統分岐  
 妻木氏は 土岐郡妻木郷(つまぎ。現土岐市域)に因る明智一族であり、光秀妻(後妻か)を出している。光秀の妻は、明智一族の妻木勘解由左衛門範熈の女とされ、『兼見卿記』でも妻木氏と見える。範熈の子の主計、その子の勘介も明智家中にあった。範熈の兄とみられる藤右衛門広忠は山崎合戦後に自害したが、その子孫は幕臣として残った。ところが、土岐明智氏の有力な分岐であり、江戸幕府の旗本として続いたにもかかわらず、妻木氏の系譜が必ずしも明らかではない。とくに、その初期段階が不明である。
 寛政系図や『百家系図』巻六には、土岐頼貞より「伯王」(おそらく妻木始祖)まで系が中絶と記されており、次の系(略載)があげられる。

 妻木郷については、暦応二年(1339)二月十八日の足利直義下文では土岐頼貞の譲り状に任せ、孫の頼重に安堵されたが、以後土岐明智氏に相伝された。また、妻木郷内の公文名は土岐島田満貞(「宮城系図」の伊予守兼貞に当たる)が領したが、応永七年二月に大徳寺如意庵に寄進された。
 
 妻木氏の先祖が「宮城家系図」に記載のように明智頼弘の弟・長門守頼範(頼熈)だとすると、この氏は室町後期に分岐したことになる。妻木頼範の死去の年が大永元年(1521)で享年65歳とされる。これが正しいとする場合、その生年が1456年となり、光秀の妻の父とされる妻木範熈はその孫くらいに当たることになる。範熈の兄とみられる藤右衛門広忠は、『百家系図』によると、天正十年(1582)に69歳で自殺したとあるから、その生年は1514年で、頼範(頼熈)とは58歳の差→これは祖父と孫との年齢差とするのが妥当であろう。なお、「熊本明智系図」でも、明智頼弘の弟・頼範を妻木氏の祖としていて、「宮城家系図」と共通している。
 妻木系図では、上記「伯王−兵部大輔−中務−藤右衛門広忠」というものがあるが、広忠の父を兵部大夫頼安とする所伝がある。兵部大夫頼安は、佐渡守広美の弟でその後継者か。妻木八幡の天文拾年(1541)の上葺棟札には、大檀那源広美、願主源頼安と見え、広美は天文十一年(1542)に死去したと「崇禅寺史」に伝える。これが正しければ、大永元年(1521)で享年65歳で死去した妻木頼範(頼熈)の子に相応しい年代となる。
 
 広忠以降は、その子の貞徳(伝兵衛、号伝入)−頼忠(家頼。雅楽助、長門守で妻木城主家)、頼忠の兄弟には吉左衛門之徳(頼久。上総妻木氏)、彦左衛門重吉(頼直、イに頼通。下郷妻木氏)があげられる。広忠系統の妻木氏は、水野氏や永井氏(両氏と明智一族との関係は下記参照)と婚姻をしていることにも留意される。妻木氏を存続させた重要人物の妻木伝兵衛貞徳の「伝兵衛」には、藤田伝兵衛秀行に通じるものがあろう。
 なお、妻木八幡神社所蔵の「妻木系図」では、妻木氏は土岐頼貞の弟・舟木頼重の子孫とするが、妻木郷の領有関係から考えるとこれは疑問が大きく、やはり明智一族とするのが妥当であろう。
 室町中期の明智本宗の頼秋まで、妻木村をその所領としていたことが史料に見える。すなわち、『新編美濃志』に応永三四年(1427)六月に義持将軍から土岐式部少輔頼秋に賜った証状に「美濃国妻木郷、武気庄内野所郷」を安堵と記される。この事情を考えると、妻木氏の分岐はこれ以降の時期となる。
 「妻木系図」に舟木頼重の曾孫と見える左衛門大夫頼照は、字形からいって妻木始祖の頼熈に当たるか。というのは、この字形類似に加え、妻木氏の系図の一伝に、明智頼秋の子の頼照を祖とするものもあるからである。「宮城家系図」に見るように、明智頼弘を頼秋の子とする所伝や、妻木の祖頼熈を頼弘の同母弟とする所伝があるので、妻木始祖が明智頼秋の子とされても不思議ではない。

 
E 浅野氏の系譜妻木氏との通婚に関連して
 妻木始祖とされる頼範について、室は浅野兵庫助長光の女と「宮城家系図」に記される。
 浅野長光は、浅野氏関係の系図に頼盛の子として見える人物であるが、この「宮城家系図」の記事に従えば、応仁・文明の頃の人と分かる。この時代把握には、大名家浅野氏の系譜考察にあたって重要な点がある。
 大名家浅野氏の系譜について、鈴木真年翁は、「浅野左衛門尉光時九世浅野但馬守頼達清洲ノ斯波家ニ攻ラレ居城ヲ捨テ西牧村ニ隠レ浅野家亡ブ叔父浅野又四郎頼盛四世浅野又右衛門長勝織田右府ニ仕ヘタリ子ナキヲ以テ…(中略)…弥兵衛長政ヲ以テ養子トス」と記される(『華族諸家伝』)。
 この関係の系図が『百家系図』巻42所載の「浅野系図」に見えており、@浅野左衛門尉光時からその子のA三郎光忠−B三郎太郎光盛−C又三郎国盛−D彦三郎頼隆−E彦三郎頼仲−F又三郎頼季−G彦三郎頼長−H彦三郎但馬守頼達(ただし、記載では頼逵と見える)、となっている。但馬守頼達の叔父で、彦三郎頼長(G)の弟に彦太郎(イに彦十郎)頼盛、その子に長光が見えている。これに拠ると、浅野宗家は応仁頃に滅びたことになる。
 しかし、浅野氏は後世でも見えるうえ、頼盛の子の長光には子として新六長秋が伝えられるとともに、又右衛門長勝の祖父(養父勝隆の父)の又右衛門尉長光(長満)は又三郎長保の子であって、二人の長光は同人ではない。従って、真年翁の記事には大名浅野家の系図に関して疑問がある。
 一方、大名家の祖先については、尊氏に仕え延文二年(1357)に死去した浅野根尾彦三郎長盛*と見えるから、この長盛が一説に頼盛の兄弟と見えるものの年代的に疑問が大きく、年代的に見て、又三郎国盛(C)の兄弟とされる大弐房良盛(浅野寺別当良乗)の子に長盛を置くのが妥当ではないかとみられる。
* 浅野氏の系図については、『古代氏族系図集成』645頁でも取り上げたが、そこでの表現を長盛の位置づけ等で若干変更していることに注意。ただ、長盛以下では変更はない。

 
F 原紀伊守光広
 「宮城家系図」には、光秀の叔父、兵庫頭光安の弟に原光広が見える。その「本名は光頼で、原弥太郎、忠左衛門、紀伊守」とあり、原伯耆守頼広の養子になったと記される。この者について、沼田頼輔著『日本紋章学』には、戦国時代になって土岐一門で美濃に割拠したものを挙げるなかに、「原紀伊守光広 恵那郡原城主」と見えており、沼田博士の出典は不明だが、「宮城系図」と符合する。光頼の子には久頼がいたと伝える(『可児町史』)。土岐原氏は、土岐頼貞(隠岐孫次郎)の兄、隠岐孫太郎定親の後裔であった。
 なお、沼田博士が同書であげた戦国期の土岐一族には、「明智遠江守光綱 可児郡明智城主、揖斐周防守光親 大野郡揖斐城主、蜂屋出羽守頼隆 加茂郡蜂屋城主、饗庭掃部助国信 大野郡饗庭住人、浅野十郎右衛門光同 土岐郡浅野住人、肥田玄蕃頭家澄 同肥田城主、妻木勘解由左衛門範広 土岐郡妻木城主、大桑治部兵衛定雄 山県郡大桑住人、池田織部正輝家 可児郡池田城主、多治見修理進国清 土岐郡多治見城主」などがいるが、肥田家澄、池田輝家や多治見国清については光秀家臣のなかでも取り上げた。

 
G その他「宮城家系図」に注目すべき点 
 尾張の諸氏との通婚が多いことに注目される。「宮城家系図」の記事が正しければ、信長生母(土田御前)も家康生母(伝通院お大)も明智一族の血を引くという仰天の事実となる。
 明智の通婚先として見えるのが、奥田氏(中島郡。斯波奥田持種の子孫に堀直政が出ており、幕藩大名)、桑山氏(海東郡。重晴は初期の幕藩大名の祖)、土田氏(濃州可児郡。この一族から出たのが幕藩大名生駒氏尾州春部郡小折住人〕の祖親正や信長生母)、水野氏(知多郡。幕藩大名。貞守の四世孫に信元・家康生母もあり)、大橋氏(海西郡津島の名族で、その一族から幕藩大名永井氏の実系の祖・長田広正〔永井直勝の祖父〕が出た)、犬山織田氏などである。これらのうち、堀田氏及び桑山氏について記しておく。
 
 堀田氏:大橋氏は同じ津島に居住の堀田氏と通婚・養子縁組を重ねており、明智一族にも光秀の叔母で堀田道空(斎藤道三の家老)に嫁ぐ女性がいて、その子の孫左衛門尉正種が光秀に仕えたと「宮城家系図」に見える。光秀家臣に堀田十郎兵衛(正種と同人ないしは従兄弟か)がいたことは知られる。この者は、のち堀田助左衛門尉、浅野孫左衛門尉といい、名は高勝。光秀の後に浅野長政に仕えたが、子孫は広島浅野藩の重臣であり、男爵浅野守夫の祖となる。『美濃国諸家系譜』では、堀田十郎兵衛の姉妹菊女は光秀妾とされ、その弟の堀田孫太郎は山崎表で忠死したと記される。
 なお、浅野高勝の関係系図によると、高勝は加賀守正貞(法名道悦)の子で、兄弟には図書助正高(秀頼七手組の頭で、大坂討死)や堀田帯刀正秀の妻が見える。堀田正秀の系譜・出自は不明であるが、その孫・加賀守正盛は春日局の縁者で将軍家光に仕えて下総佐倉の大名となった。
 
 桑山氏:藤原姓結城七郎朝光の後という親治が尾張国海東郡桑山庄(現在「桑山」の地名は見られず、海部郡甚目寺町桑丸の付近か。)に住んで桑山氏を称し、親治から数えて十代目が重晴とされるも、この系譜は疑問。家紋は桔梗であり、土岐一族の出自かとみられ、『土岐累代記』には土岐の同氏として「丸毛・桑山・世保」をあげる。桑山氏は代々修理大夫を称した。桑山重晴(1523〜1606)の幼名は彦次郎、初めは丹羽長秀の与力、次ぎに秀吉の与力となった。その父については、以則とも定久ともいうが、いずれも信頼しがたく、「宮城系図」の記事が正しければ、頼晴の「晴」を通字とした□晴という名が推される。
 桑山氏がなぜ藤姓を称したのか不明であるが、上述した明智一族の妻木右衛門、三宅兵衛などと共通するところがあるのかもしれない。この辺にも、土岐・明智一族が本当に清和源氏の出であったのだろうかという疑念を消せない要素がある。

 
3 光秀の先祖からの実系はどうなのか

(1) 明智氏の起源と初期段階の系譜

 
明智氏が南北朝期に起ったことは、『太平記』の明智氏関係記事からも分かる。
 同書の巻第二十五「住吉合戦事」に土岐周済房(土岐六郎頼清の弟)・明智兵庫助が楠正行と合戦したことが初見で、それ以降は巻二十六「四条縄手合戦事」に土岐周済房・同明智三郎〔三はママ〕、巻二十七「御所囲事」に土岐刑部大輔頼康・同明智次郎頼兼・同新蔵人頼雄、巻三十四「新将軍南方進発事」(延文四年〔1359〕)に土岐大膳大夫入道善忠〔頼康〕以下の土岐一族をあげ、同明智下野入道の名が見える。ここに見える明智氏は、「兵庫助、三郎〔三はママ〕、次郎頼兼、下野入道」と表記は変わっても、みな同人で頼兼のことと考えられる。しかも、次郎頼兼は、巻二十七の土岐刑部大輔頼康・同明智次郎頼兼・同新蔵人頼雄という並び方から考えて、土岐惣領頼康・頼雄の兄弟に位置づけられることも分かる。明智氏は、土岐頼康の弟・次郎頼兼から始まったということである。
 一方、土岐頼貞の子で六郎頼清の弟・九郎頼基については、同書巻三十二「山名右衛門佐為敵事」に長山遠江守と見える武士と推される向きもあり、この見方が疑問だとしても、九郎頼基のときには明智氏が名乗られなかったことになる。頼基が明智氏の祖とされるのは、子の頼重が、その従兄の明智次郎頼兼の猶子になってからであろう。長山頼基は、土岐頼康)が侍所頭人のとき、所司代を務めたという。長山氏については、土岐系図の末尾に「長山 号存孝〔頼貞のこと〕子孫非入一族云々但未系図見入一族之事」と記載される。
 
 次ぎに、明智始祖とされる頼兼と頼重との関係は同人かどうかの問題がある。
 「徳山本」(徳山ひさ氏所蔵本の「土岐家伝系図」)の土岐系図等には、頼康の兄弟として頼兼の代わりに頼重をあげる例もある。法名の「浄コウ(孝、皎)」に着目して、頼兼と頼高とを同人とみる見解もあるが、私見では、活動年代などからみて、頼兼と頼重とを同一世代としたほうが良さそうである。「宮城家系図」では、頼重について「室ハ山県郡伊志良住人長山遠江守源頼基女也」と記載されるが、これから見ても頼重は長山頼基の実子ではない。なお、頼重の法名は浄栄とされる。
 このほか、『新撰美濃志』の記述に留意される。同書では、@土岐頼基の子とされる(ア)明知彦九郎頼重、(イ)その子の土岐明知十郎頼篤という系と、A土岐頼康の弟とされる(あ)明知下野守頼兼、(い)その子明知十郎頼信という系をあげ、明知が二系統あるように記されるが、頼兼が頼重を猶子として、頼信は頼言とも記すものがあるから、「頼言=頼重」と考えておく。
 
〔結論〕 頼兼は長山頼基の猶子・女婿になって、初めて明智と名乗った可能性もあろうが、長山頼基の史料が乏しく判断がしにくい。なお、頼重の弟という頼隆(に同じで、澄は隆の誤記。下野守)・頼助(美濃守)は頼重の猶子にしたのかの事情で、彼ら兄弟も明智を名乗った。
 なお、頼隆・頼助兄弟の後の明智氏は、その後裔がどうなったかは具体的には系図に現れない。この、いわば「裏明智」ともいうべき一族の流れが気になるところ、おそらく尾張などにも展開したものか、とくに尾張の海東・愛知両郡における柴田・桑山氏などの諸氏について検討が要されよう。現存する系図資料に乏しいが、この一族の動向が分かれば、また別途、分かってくるはずのことが多いのではなかろうか。

 
(2)『尊卑分脈』に見える明智光重・政宣と光秀系統との関係

 光秀一族の系統には、「光」の通字が見られる。そうすると、光秀の家系は国史大系本『尊卑分脈』に見える明地彦六頼秀の子孫ではなかろうか、とも考えられる。
 この頼秀以下の部分は、本来の『分脈』の記載にはなく、国史大系本の上註に記されるように、「前田本」に附載したものとされる。その子・頼高及び孫の光高、曾孫の光重と三代にわたって「明地美乃」と記載されることに留意される。そうすると、頼秀の父は附載書込分に見える彦九郎頼重でよいかという問題点がある。代々の通称「明地美乃」に着目すると、明智美濃守を名乗った頼助(明智元祖の頼基の子)の子に頼秀を置くのが妥当かと考えられる。
 なお、頼秀は、「子爵家本」の下野守頼忠(法名浄皎だから、頼高と同人)の子にあげる頼英とも同人かともみられる。そうすると、頼助の兄の頼高の子孫とする案も考えられるが、先祖と子孫に「頼高」という名が重なって現れるので、上記のように頼助の子孫としておくのが一応妥当ではなかろうか。頼助は、「宮城家系図」に藤田氏の祖と記されるが、光秀の重臣として藤田伝五郎父子が見えるという事情もある。一方、頼高の子孫とされる日比氏は、端的には光秀関係者には見えない。この辺も、系図がよく伝わらず、問題を難しくしている。
 
 長享元年(1487)の常徳院〔足利義尚、1489死〕の「江州御動座在陣衆着到」には、興味深い記事がある。そこには、諸大名のなかに土岐政房があげられるとともに、その四番衆に「土岐明智兵庫助・同左馬助政宣」と見えている。明智兵庫助は、先祖の頼兼や光秀の叔父とされる光安(宗宿)も名乗っており、「宮城家系図」には光継に兵庫頭と記されているので、光秀の直系の先祖に当たる人物とみられる。この記載や下記『実隆公記』からいって、兵庫助と左馬助政宣とは兄弟と考えられ、年代的に見ると光秀の三代祖先(曾祖父)にあたるものか。兵庫助の実名は、頼宣(頼連とも同人か)、または光重とみられる。
 史料では、『実隆公記』の文明十六年(1484)三月十日の足利義尚の連歌会に出席した土岐明智頼宣にあたり、また『分脈』の光重にあたる者ではなかろうか。『実隆公記』には、文明十六年の15年後の明応七年(1498)閏十月十一日にも土岐明智玄宣、同政宣が連歌会に出席しており、土岐明智玄宣は、それまでに土岐明智兵庫頭入道玄宣などと史料に記されるから、土岐明智兵庫助(頼宣)の後身であることが分かる。
 
 この土岐明智兵庫頭入道玄宣と争ったのが、妻木村に関して土岐明智上総介親子であり(『伺事記録』延徳二年〔1490〕八月三十日)、また土岐明智兵部少輔頼定であった(『土岐文書』明応四年〔1495〕三月二八日)。この土岐明智上総介の実名は頼尚で、その子が土岐明智兵部少輔頼典とみるのが年代的に自然であろう。こうしてみると、十五世紀の後半には妻木村や明智荘に二系統の明智氏が併存し、所領の争論をしていたことが分かる。
 また、明智頼尚家でも争いがあったので、結果として十六世紀の初頭頃に兵部少輔頼尚は次男頼明を家督として、所領の妻木村、笠原村などを譲ったとされる。
 上野介頼明は、『土岐文書』永正五年(1508)五月二八日に足利義材(十代将軍義稙)の上洛に際して参陣を促されたと見える土岐明智彦九郎、同年七月九日に三条西実隆を訪問した土岐明智上野介に当たる。永正二年(1505)の妻木八幡神社の上葺棟札に見える大檀那源彦九郎も上野介頼明に当たるものとみられる。
 
 話を光秀系統の検討に戻して、
 『分脈』には光重の子としてあげられ、「明地十郎、文明時の人」と註される光兼は、「十郎」という名に着目してみると十兵衛尉光秀の祖父で、十兵衛尉光隆(光綱)の父にあたるのではなかろうか。光兼の記事の「文明時(1469〜87)の人」というのは、本来の記載位置がずれた結果という可能性があり、その一世代前の光重・政宣兄弟に本来付けられるべきものではなかったろうか。
 このように考えると、十郎光兼は、明智氏の系図に「光継」として現れる人物と重なることになる。一般に「綱」と「継」とは相互に誤用される傾向にあり、その意味で「光継−光綱」と続く系図には名前に疑問を感じざるをえない。なお、「宮城家系図」に光継の弟にあげる光鎮(明智四郎、滝島勘解由)は光秀の傍系祖先(大叔父)ではないかとみられる。
 

  (04.12.4掲上。20.10.31などに大幅追捕・修正あり)


 〔参考〕

  鈴木真年翁編の『百家系図稿』巻12には、別伝の「明智系図」が所収されており、信頼性には疑問があるが、他見がないため、一応の参考までにあげておく。

  その系図は、土岐頼清の男の源頼兼(明智三郎、下野守。住美濃国恵那郡明智、貞和五年正月三日四条河原師直方抽武功)から始まり、以下は「頼繁源太郎−頼重左衛門尉−頼冬下野守−光冬下野太郎−光英新太郎−光継十兵衛−光綱十兵衛〔諸弟省略〕−光秀十兵衛〔妹と弟禅僧宗三〕−光慶十兵衛」と記される。

 (05.8.8 掲上)


 
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