明智光秀の系譜 U(詳細版

          「宮城家系図」等の検討を通じてみる

                                       宝賀 寿男 


 本稿は、美濃源氏フォーラムにおける平成16・11・21での講演の準備として整理したものである。その内容には、時間的な制約もあって、ほとんど話されなかった個所もあるが、明智氏の系図と光秀の位置づけについて再検討を迫るものである。
 その後、若干の修補も加えている。




1 はじめに−研究の方法と明智光秀の概観

 明智光秀の系譜については、諸説に混乱が甚だしいが、まず注意すべきことは、これまでなされてきた議論の大勢を占める『大日本史料』第十一編之一(昭和二年〔1927〕刊行)の記事に依拠した説には要注意である。『大日本史料』といえば、東大史料編纂所が編纂した日本史研究の基本的な史料というべきものであるが、なぜこのように逆説的にいうのかというと、同史料の本来的な性格を忘れた議論がこれまで光秀についてなされてきたからである。
 この史料は、六国史の後から明治維新に至るまでの約千年弱の社会全般の出来事を年代順に記録するものであり、明治初年から修史局(東大史料編纂所の前身)などの組織により史料収集が始められ、明治34年に編纂物の刊行を開始して以来現在も継続して編纂事業が続けられており、その掲載史料も古記録から雑書に至るまで広範囲に収集し、それをほぼ原文のまま掲載すると特徴がある。歴史研究に当たっての信頼すべき基本史料といっても過言ではない。とはいえ、あくまでも編纂資料としての制約があることを忘れてはならない。すなわち、編纂時点までに分かっていた史料についてのその時点での編纂者の判断に拠っているということであり、しかも原典と突き合わせてみると抄録としての記載もかなりあるからである。

 光秀に関して具体的にいうと、同史料の〔明智氏一族宮城家相伝系図書〕(以下「宮城家系図」という)は、光秀の出自について進士信周の子という所伝を記載する史料として知られている。しかし、『大日本史料』記載の最初にあげられる頼弘について、同史料の註として「頼弘以前ハ、大抵前掲続群書類従本土岐系図ニ同ジ」と記載されるが、決してそうなってはいないことに留意される。
  そのことが、実際の「宮城家系図」と比べて見ればはっきり分かる。しかも、『大日本史料』記載の宮城家系図は、頼弘以降の系図部分でも原典の抄録にすぎないが、このような事情も記載されていないという問題がある。『大日本史料』は研究の手引きであっても、これだけに依拠するのは、本件に関しは問題が大きいということである。系図研究の基本姿勢として、できうる限り、その原典に当たる必要性が大きいことを実感する次第である。

  「明智氏一族宮城家相伝系図書」は、東大史料編纂所に謄写本が所蔵されるが、管見に入った限りでは、『大日本史料』以外に刊行本の記載がない。いま、同所のデータベースのなかにあって、インターネット上ですべてを見ることができるので、実際にご覧いただけたらと思う。なお、田中豊氏が代表の「歴史伝承フォーラム」では、印刷・刊行本として出されている。

 
 いわゆる中世関係の歴史学者でも、系図自体の知識に乏しい人が多いのが実態であり、著名な方でもその傾向がかなり多く見られる。系図検討に際しては、系図関係の基礎知識を踏まえて、多くの史料や歴史的事実と照らし合わせて、実地を踏まえ具体的に研究していくことが重要である。
  明智光秀については、この一族が滅びたため、同族で幕藩大名となった土岐氏関係の史料が主に利用されることが多い。同家の当主土岐頼知(ヨリオキ)氏が華族となって明治六年(1872)六月に宮内省に呈譜した「上野沼田 土岐家譜」以下「沼田家譜」という)の写本も史料編纂所に所蔵されており、この系図の抄録も上記『大日本史料』に記載されている。 この「沼田家譜」では、南北朝期の人から戦国期の定明(あるいは光秀)までの世代数が多すぎるという難点があることに留意しておきたい。この家もいったんは没落して、三河の菅沼氏に養われ細々と続いた事情があるから、「土岐家文書」がそのまま信頼できるかは要注意と言えよう。
 上記の「宮城家系図」については、多くの学究によってあまり信頼できない系図史料とみられてきたようである。たとえば、國學院大教授であった高柳光寿氏が著した吉川弘文館人物叢書『明智光秀』(昭和33年〔1958〕刊行)は、光秀研究の原点ともいうべきものであるが、そこでは、「宮城家系図」が悪書と評価されている。明智(三宅)弥平次秀満などの記事に誤りが多いことがその理由ではないかともみられるが、高柳教授は「宮城家系図」の原典に実際に当たって詳細に検討されたのだろうかと疑問を感じざるをえない。世に伝わる系図史料で完璧なものはまず殆どないといってよいが、「宮城家系図」もこの例にもれるわけではない。
 だからといって、同書を悪書と評価するのは極端であり(系図学の知識が乏しいことの露呈か)、個々的に見ていくと、むしろかなりの参考になる系図だと言いうるものである。とくに、初期段階の土岐氏の系図・所伝(とくに光定と頼貞との関係など)には貴重なものが残されると評価ができる。しかも、「宮城家系図」は一挙に成立したとは思われない事情や内容があるから、部分ごとに考えて行く必要もあろう。

 高柳教授の上記人物叢書には、ほかにも大きい問題点がある。それは、明智氏の拠った地について、「明智城(岐阜県恵那郡)」とあることである。この影響か、吉川弘文館の『国史大辞典』でも原田伴彦氏執筆の明智氏記事が同じく恵那郡明智町とあり、また『日本史広辞典』も恵那郡明智荘と記されるなど、このような明らかな誤説がいまだ辞典などに見えている(もっとも、これはそれぞれの執筆者の責任であろうが)。
 恵那郡明智は、頼朝の功臣加藤景廉の後裔となる藤姓加藤遠山一族が依拠した地であって、土岐一族の明智の苗字の起源地は明らかに可児郡明知荘であり、現在の可児市瀬田・広見辺りの長山〔明智〕城に拠ったことに疑いない。「宮城家系図」に見える明智一族には、柿田、瀬田、石森など可児郡明知荘の地名を苗字とするものがかなりあることにも注意しておきたい。
  なお、高柳教授のほか、『明智光秀』という書は、桑田忠親著(講談社文庫)と小和田哲男著(PHP研究所刊)とがあるが、これら学究が書いた光秀関係書でも、光秀の系譜は不明なものとなっている。

  加藤遠山一族のなかにも、明智(明知)を苗字とするものがあり、『姓氏家系大辞典』に「信濃、伊那郡、下條氏の家士に明智藤左衛門あり」と記されるのは、その族裔か。室町期の奉公衆にも見え、「文安年中御番帳」には、詰衆として遠山明智大蔵大輔 があげられる。
 加藤遠山一族の系図については、名古屋市の蓬左文庫に所蔵の「諸士系図」があり、その第四冊に「加藤遠山系図」があって、網野善彦氏が『日本中世史料学の課題』で紹介し検討を加えている。



 本稿では、明智光秀を主に取り上げ、その一族の系譜を検討していきたい。その際、光秀に関係する『大日本史料』所収の諸系図など多くの系図を基礎に考えていきたい。そのなかでも、とくに「宮城家系図」を再検討していきつつ、光秀関係の具体的な問題点としては、@光秀の出自、父祖の名前、A明智本宗の系統(沼田藩主家と光秀系統との関係)、B光秀妻の出自に関連して妻木氏の分岐過程、C明智一族の苗字などをとりあげたい。
 
 光秀については、「明智十兵衛尉」としての確実な史料初見は永禄十二年(1569)四月の文書とされ、その頃から活躍したことが分かる。その前年の永禄十一年の九月晦日(三十日)付けの妙顕寺文書には、「明智十兵衛尉光秀外三名連署状」もある。その数年前には光秀の活動があったようで、『細川家記』では、越前の朝倉氏に身を寄せていた足利義昭が永禄十一年(1568)に信長を頼って岐阜に来た時に光秀の登場があると記されていて、高柳教授は、この記事を肯定している。これ以降、光秀が信長の勢力下に入ったもので、『言継卿記』には、永禄十三年(元亀元年:1570年)二月三十日に「信長、岐阜城より上洛し、明智邸を宿所となして泊まり、三月一日に禁裏へ伺候」とあり、同年の姉川合戦の後には、「七月四日に上洛し、七日まで、信長は近習四、五騎、徒士三十人ばかりと共に、明智邸に滞在した。」と記録されていて、史料でも具体的な動向が見えている。
 光秀の生没年については、没年は天正十年(1582)六月であることは確かであるが、生年は享禄元年(1528)という説(「宮城系図」、『明智軍記』。この場合、享年は五十五歳)があるものの、確たるものではなく、大永六年(1526)説もある。いずれにせよ、織田信長(1534年生)の若干の年輩であったことになる。
 
 明智光秀の出自は、光秀が美濃土岐明智一族から出ているかとの問題でもある。
一般に、光秀の父は安芸守光綱(イに玄蕃頭〔十兵衛尉〕光隆、光国)、祖父は駿河守光継とされるようだが、これらの名前については確証がない。「宮城家系図」では、光継及び光綱は各々法名に光継寺殿、光綱院殿と記されており、法名と実名とが異なる可能性もあろう。また、安芸守や駿河守という父祖の官職称号にも、明智一族の用いた呼称からいって疑問がないではない。
光秀の父については、異説に進士信周(「宮城家系図」記載の異伝)、若狭小浜の刀鍛冶藤原冬広(『若州観跡録』)、土岐元頼(『美濃誌』)ともされるが、後ろの二者はまったくの問題外である。進士信周説については、後ろで詳細に検討を加えたいが、実際にはとりえない説である。これは、「宮城家系図」の十分な検討により結論されることになる。
 
 上記高柳著作では、まず「一 光秀の登場」として、「光秀の出自はどうもはっきりしない」と書き出す。『明智軍記』は信用できない記事が多くあり、光秀三女の玉が細川忠興の妻となったことで、『細川家記』には、光秀の出自を土岐下野守頼兼の後裔で、代々美濃国居住したが、父が明智城で戦死したときに逃れ、朝倉義景に仕えて五百貫文、その後信長に仕えて五百貫文を受けたという。この頼兼の後が明智氏だという所伝は、十分に傾聴されるべきものと思われる。
 静岡大学教授小和田哲男氏は、『永禄六年諸役人附』(1563年。『群書類従』第二十九に所収)の足軽衆の中に『明智』という姓があることから、光秀は室町幕府の役人として十三代将軍の足利義輝に仕えていたとしている。ただ、実名が記されず、足軽衆という身分は、奉公衆より低いことで、疑問も留保されようが、他に明智一族で幕府に仕えていた者もなさそうだから、当時の情勢から見て、光秀としておいてよさそうである。

 
   2 「宮城家系図」の具体的検討

  「宮城家系図」は、明智光秀が進士信周の子とされる所伝を記す系図として、割合知られている。
  私はまだ確認していないが、熊本藩主細川家に伝来の『明智光秀公家譜覚書』(以下「熊本明智系図」という)があり、紹介される内容が概ね「宮城家系図」と同じか似通っているので、同様な内容の系図が美濃と肥後に分かれて伝わったという意味でも、無視しがたいものがある。以下、具体的な個所について、同系図を検討していきたい。

 
(1) 宮城家系図の総論的な特徴 

 現存する宮城家系図は、基となった系図原型に何度か追加記述がなされたのではないかとみられる。例えば、
@明智本宗の最後の当主が大永六年(1526)卒去の頼定とみられるものであり、その暫く後の時期に一旦、同系図の基礎的部分本が成立したか、
この基礎的部分に対して、次ぎに
A光秀及びその一族・姻族(山岸氏)の系統の継ぎ合わせ、
B明智左馬助光俊〔三宅弥平次秀満〕系の追加、
C宮城氏系統の追加、等がなされたのではないか、
と一応グループ分けがなされると思われる。ただ、AとBの追加は同時かもしれないし、これら接合・追加の時期は明確にしがたい。いずれにせよ、これらの系図個所をすべて一括りで評価するのは、系図研究として問題が大きく、史料価値を殺すものとみられる。
 
  私が強調したいのは、個別の箇所について段階的に系図史料を評価すべきであるということである。内容的にみていくと、宮城家系図の@の部分は信頼性がかなり高そうである。鎌倉時代の土岐氏部分については別稿で検討したが、隠岐孫太郎土岐定親・孫次郎頼貞兄弟の位置づけやそれらの母親などについて、貴重な所伝を伝えていたことが分かった。その前の鎌倉期の歴代についても、参考となる点が多々ある。
  室町時代の人々についての個別論拠は後述するが、明智本宗の家督相続と世代数(本宗の頼典の位置づけ)などの理由で、かなり信頼性があるのではないかとみられる。
  この@の部分が本来部分といえそうである。その一部には混乱もあるが、明智一族の通婚先の記述も系図・史料に見える人物が多く、割合穏当な感じがある。ただし、明智氏初期段階の頼兼と頼重の関係に見るように、すべてが信頼できるわけではない。また、明智支族の分岐関係から見て、@の部分自体も明智本宗分と明智光秀系との2つの系図が接合した可能性も考えられる。
  この本来の明智系図に対して、A光秀系統などの系図が接合された痕跡がある。具体的には、本来別人の光継と頼典とを同人物にして接合部分とし、光秀一族をつなげたとみられる。その結果、光継と頼典との事績が合併されて一つの記事になり、両者の生没年などで矛盾をきたしている。すなわち、「宮城家系図」の記事には、同一人とされた光継の本名が頼典であるとされ、応仁二年(1468)生まれで、天文七年(1561)卒去と記されるにもかかわらず、享年を七一歳としている。この事績のほか、官職も民部少輔頼典、兵庫頭光継と分けられるべきではないかと思われる。
  なお、AとBの部分は疑問点がかなり多いが、信頼できそうな点もないわけでもない。(あとで、原紀伊守光広について述べる
 
  また、宮城氏と明智・三宅一族とのつながりについては、三宅弥平次光俊に五子があり、その長子三宅弥惣次宗俊(後に宮城弥十郎で、大野郡桂村に居住という。この桂村は山岸光信の居住地であったことに留意)の子の三人まであげる。系図の終わりは、年代記述では慶長十八年(1613)が最後であり、その直後の江戸初期くらいとなっている。しかし、まず弥平次光俊の長子が宮城弥十郎宗俊というのは疑問であり、宗俊は、「宮城」に着目すれば、「宮城家系図」に弥平次光俊の兄に掲げる宮城兵内舎人(光俊の兄というのも疑問か)の子か。
  この「宮城家系図」自体は、揖斐郡揖斐町の出口欽三氏所蔵で、大正十二年(1923)に謄写したものという記載が末尾にある。
  以下に、個別具体的な問題点について「宮城家系図」を見ていくことにしたい。

 
(2) 光秀の父の異伝としての進士山岸勘解由左衛門尉信周

 「宮城家系図」の本文には、光秀は明智玄蕃頭光綱(初名光隆、十兵衛尉)の子とされるが、光秀の譜を見ると、一伝として光綱の妹婿たる進士山岸勘解由左衛門尉信周の次男として記される。この人物がいわゆる「進士信周」として光秀研究家に知られる人物である。なお、この「宮城家系図」と同様の所伝を記すものに、「熊本明智系図」があり、明智光綱の甥で、光綱妹婿たる山岸勘解由左衛門尉信周の子とする。
 「宮城家系図」には、進士山岸氏についても説明があり、「明智進士両家は代々重縁となってきたが、進士は元来、氏ではあらず、官名によるものであって、もとは山岸と称した」と記されており、明智一族の通婚先としての山岸氏の系図についてかなりの具体的な記載がある。これらをまとめると、別添掲載の系図となり、長山遠江守頼基の子孫として、やはり明智一族とされる。しかし、長山氏は、土岐氏の出ではなく、美濃源氏を称した山県氏一族の出であった可能性がある。
 
 次ぎに、系譜本文のほうでは、明智光綱・光安兄弟の妹にあたる女子の譜註を見ると、その夫・進士山岸勘解由左衛門尉信周について、加茂郡蜂屋堂洞(どうぼら)城主とされる。しかし、これは明らかに事実の歪曲である。その事情を説明すると、以下のとおり。
 現在の岐阜県美濃加茂市蜂屋町にあった堂洞城は、稲葉山城の斎藤龍興攻略の前哨として永禄八年(1565)八月に織田信長が攻め、羽生野などで激しい戦いの末に攻略に成功した。反信長の堂洞城主・岸勘解由信周(のぶちか)・孫四郎信氏(一に信房)親子は、信長の密使・金森長近の説得を拒絶し、戦い敗れて義に殉じた岸勘解由は自決した。このように、堂洞城主は山岸ではなく、「岸」であり、この苗字は古代の岸臣(阿倍臣の一族で、敢臣族岸臣)に由来するとみられる。同県加茂郡富加町の羽生野辺りは、古代の半布里であり、半布里戸籍(大宝二年御野国加毛郡半布里戸籍)には「敢臣族岸臣目太」などが見える。岸信周は、蜂屋兵庫頭頼隆のあとを受けて堂洞城主となっていた。蜂屋頼隆は、信長の美濃侵攻のとき永禄七年(1564)に信長に降り、のち秀吉にも仕え越前敦賀城主となり四万石を領したが、子なくして蜂屋氏は断絶している。
 
 なお、「宮城家系図」においては、進士山岸勘解由左衛門尉信周を明智光綱の妹婿と記されるが、一般に妹婿とされるのは山岸光信であって、「信周」ではない。かつ、光秀の譜註には、石津郡多羅は進士家の居城と記しており、上記堂洞記事と反するうえ、山岸光信なら揖斐郡府内城主であって、これまた歴史的事実に反するものである。
 
 山岸勘解由左衛門光信は、斎藤道三〜龍興の時期の西美濃十八人衆の一人であった。光秀は、明智城落城後は揖斐(大野)郡桂郷谷汲村の母の実兄山岸光信に妻(光信娘という)と子を預け、美濃を離れたと伝える。光秀の庶長子光連は、山岸光信の子となったといい、秀吉に敗れた光秀に同行したとも伝える。なお、この西美濃十八人衆のなかには、竹中半兵衛重治や損斐周防守光親、相場掃部助国信など土岐一族の有力者も含まれていた。
 以上の歴史的事実を踏まえると、進士信周(進士山岸勘解由左衛門尉信周)なる人物は存在せず、光秀の実父であったはずがない。光秀の先妻といわれる女性の父であった山岸光信が訛伝したものにすぎないと結論してよかろう。

 
(3) 左馬助光俊(秀満)の後裔

 明智左馬助(三宅弥平次)の後裔に宮城氏が出たとするのは、疑問が大きい。落胤説は、例えば光秀の落胤問題を取り上げても、検証が不可能な場合が多いが、総じていえば、疑問が大きいといえよう。
 高柳光寿氏が「宮城家系図」を悪書と評価したことは前述した。弥平次秀満などの記事に誤りが多いことがその理由かとみられる。すなわち、『宗及茶湯日記』天正八年九月二十一日条に「三宅弥平次」、同九年四月十日条に「明知弥平次」と記述されており、明智左馬助として名高い人物がもとは明智を名乗っていなかったからである。
 しかし、「宮城家系図」の評価はそう単純ではない。その理由は先に述べたところであるうえ、三宅氏の出自についても同系図が述べるところでもある。それらに加え、「熊本明智系図」が「宮城家系図」と類似するという事情があり、おそらく両系図共に明智一族の三宅氏系統が保持・伝来したものではなかったかとみられる。熊本藩にも明智左馬助(三宅弥平次)の後裔と称する家があったという事情があるからである。
 
 明智秀満は、光秀の女婿で、俗称は左馬助光春として知られるが、実父は不明であり、光秀叔父の光安の子という系譜は疑問が大きい。その本名が三宅弥平次という事情からして、実際は三宅氏の出とみられるが(三宅藤兵衛の息か。後述)、それ以上の史料がない。その子孫と称する家が熊本藩中にあったので、まずこれを見ていく。
 元禄頃の肥後熊本城主細川家の重臣に三宅藤兵衛重経?〜1715)がおり、同家旅家老(二千石)で、赤穂浪士御預の請取支配人を勤めた。元禄十四年三月に用人となり、旅家老となったのは元禄十五年(1702)正月であって、同年十二月十五日、大石良雄以下十七名の赤穂浪士が細川家に御預となっている。実は三宅嘉右衛門次男で、三宅藤兵衛の養子となったもので、初名は百助重矩であり、養父の跡を継いで通称を藤兵衛と改めたという。三宅家は光秀女婿の明智左馬介光俊の末裔と称したが、左馬介の本姓は三宅である。三宅家は、光秀と細川家との縁故によって(光秀の女玉子ガラシャが細川忠興の室。その妾にも明智氏〔次右衛門の女という。光忠の女で、玉子の再従イトコか〕があった)、細川家に仕えたという。細川家においての家格は旅御家老・御家老着座であり、屋敷は熊本城二ノ丸、家紋は丸に三引両・桔梗である。
  その略系譜は、「三宅左馬介光昌−藤兵衛重則−藤右衛門重元−藤兵衛=藤兵衛重経」とされるが、三宅左馬介光昌は弥平次秀満のことで、藤兵衛重則は重利かとみられる。

  光秀が越前朝倉氏家臣の時代から従っている明智氏譜代の臣に、三宅藤兵衛(実名は不明も秀朝か)がおり(「明智軍記」)、呼称からみて、この藤兵衛の子孫が藤兵衛重経とみられよう。次ぎに、江戸前期の人物に三宅藤兵衛重利がいて、天草の乱の際に討死している。藤兵衛重利は三宅弥平次の子であって、山崎の合戦後に細川家に保護されるというが、これには確証がない。天正九年(1581)生まれという記録もあるため、年代的にみて明智家臣の上記三宅藤兵衛が近親(祖父)としてよいのかもしれない。重利は、慶長五年に細川家を辞去し唐津の寺沢家(寺沢兵庫頭堅高)に仕えたが、寛永十四年(1637)十月、天草の乱が起きると、天草を治めていた富岡城代として一揆軍と戦い戦死した。
 明智秀満は、光秀の死後、天正十年(1582)六月十五日に堀秀政に坂本城を囲まれ、しばらく防戦したが、光秀の妻子を刺し殺し、自分の妻も刺殺して、自らは腹を切っており、その父も捕らえられて殺されたとされるというから、その子孫が残るのはややおかしい感もある。ただし、左馬助秀満の死後に生まれたか、庶子的存在であったなどの事情があれば、話は別かも知れないが。
 
  「宮城家系図」には、三宅氏も明智一族として掲げており、明智頼秋・頼秀兄弟の弟に三宅越後守国朝をあげる。国朝は羽栗郡三宅(現・羽島郡岐南町三宅)に住んで、三宅と名乗ると記されるが、この所伝は一概には否定しがたい。
 というのは、三宅藤兵衛の名が秀朝ないし綱朝であれば、「朝」が三宅氏の通字的なものであるからである。同系図に光秀の叔父とされる光廉(明智勝屋甚助、明智十平次)について、三宅長閑斎とも書く資料がある。「勝屋」は美濃国石津郡の地名である。
  弥平次秀満(光俊)は、呼称からみて十平次とも呼ばれた長閑斎の子(猶子?)か女婿かではなかったろうか。弥平次光俊の弟には三宅孫郎光景もあげられるから、これら呼称からはこの兄弟の父(猶父?)に光廉はふさわしい。光廉は、同系図に天正十年六月十五日に坂本城で自害したと記されるから、最後まで弥平次秀満と共にあったことになる。「自害」と「捕らえられて殺された」ということは必ずしも矛盾するものではないが、三宅藤兵衛は、朝倉時代から見える譜代衆であり、本能寺の変時は勝竜寺城の留守居を務めたとあるから、この者が弥平次秀満の実父とするほうが行動からみて自然のようである。なお、三宅式部大輔秀朝と三宅藤兵衛との関係は不明であるが、ともに美濃時代からの家臣譜代衆といい、式部大輔秀朝は本能寺の変時は京都の仮所司を務めたというから、おそらく同一人ではなかろうか。
  以上の事情からみて、三宅弥平次などの三宅一族はやはり明智の同族としてよかろう。
 出典は、「細川家家臣先祖附」(熊本県立図書館所蔵複写本)、「肥陽諸士鑑」(松本寿三郎編『熊本藩侍帳集成』所収)。

 
(4) 「宮城家系図」に記載の明智一族諸氏

@ 明智氏滅亡の際の家来衆 
  弘治二年(1556)の守護斎藤氏による明智攻めの際、明智城では城将明智兵庫頭光安、弟の次左衛門光久があり、これに従う一族(太字は明智一族とみられる者)としては溝尾庄左衛門、三宅式部大輔秀朝藤田藤次郎、肥田玄蕃家澄池田織部正輝家奥田宮内少輔景綱、可児才右衛門、森勘解由など一族郎党合わせ約八五〇人が籠城したと伝える。
  これら諸氏が、殆ど皆、明智一族という「宮城家系図」は、話がややできすぎている感も、なきにしもあらずだが。その意味で、光秀家来衆に見える上記一族は、土岐沼田系統の明智氏の分岐と同系図に見えるものの、光秀系統の明智氏の分岐も混じるものかも知れない。
  このとき城兵はみな討死したわけではなく、池田織部正輝家、奥田宮内少輔景綱、三宅式部大輔秀朝、肥田玄蕃家澄などは、その後に光秀に従い、山崎合戦などに参加している。
  なお、@及び次のAに掲げる明智家来衆は、『明知軍記』など必ずしも信頼できるとはいえない史料に拠るものもあるので、この辺は多少注意を要するかもしれない。
 
A 光秀敗死のときの家来衆のなかには、妻木一族(藤左衛門広忠、勘解由左衛門範熈とその三子の主計頭範賢、忠左衛門範武、七郎右衛門範之)もいた。
  このときの家来衆には、三宅藤兵衛(式部秀朝と同人か)・周防守業朝(式部の子という)、溝尾庄兵衛茂朝(明智勝兵衛。五宿老の一)、藤田伝五郎行政(五宿老の一)・伝兵衛秀行父子、同藤三行久(行政の弟)、可児左衛門尉、肥田玄蕃家澄、池田織部正輝家、奥田宮内少輔景綱・清三郎(庄大夫、景弘か)などがあり、その殆どが土岐明智の一族かとみられる。このほか、進士作左衛門貞連、安田作兵衛国継や堀口三之丞、伊勢三郎貞興、堀田十郎兵衛などがいた。
  また、老臣隠岐五郎兵衛惟恒、家臣の今峰新介泰正、舟木八之丞も土岐一族の出自であり、石森九郎左衛門、瀬田左京、多治見修理国清も同様とみられる。
  溝尾庄兵衛茂朝は、明智勝兵衛ともいい、光秀五宿老の一とされる譜代衆で、光秀流浪時からの家臣であった。弘治籠城の溝尾庄左衛門の子とみられ、天正十年の家康上洛時には光秀と共に家康の饗応を務めた。山崎では一番の中備を務め、合戦後は光秀と共に行動して勝竜寺城を出、山科小栗栖で光秀が刺されると、光秀の介錯をし、首を薮の中に隠して、坂本へ退却、その後坂本城で明智秀満と共に自刃したといわれる。この溝尾氏の出自は不明も、「朝」の通字から考えると、三宅の一族ではなかろうか。ただ、「三沢小兵衛秀次」「三沢惣兵衛尉秀儀」という名乗りもあり、この辺は留保も要しよう。
  なお、藤田三、三宅兵衛と妻木左衛門などの明智一族は、清和源氏といいながら、「藤」の字を呼称のなかに用いる点にその源姓出自への疑念が湧くところでもある。もっとも、この辺は土岐一族が本当に清和源氏の出なのかという根本問題もあり、浅野長政も若狭小浜統治の時期には藤原姓を称していた。
 
 併せて、進士・山岸一族についても触れておく。
 進士作左衛門貞連:譜代衆で、山崎の合戦後は光秀と共に勝竜寺城を出て最後まで光秀に従った七騎のうちの一人であり、後に細川家に仕え忠興嫡子の忠隆付きになった。関ヶ原後の忠隆廃嫡時にも忠隆に従い加賀まで行くが、後に前田家預かりの身となった。元和から寛文にかけて金沢藩の侍帳に載る同名の人物は当人もしくはその嫡系と思われるとされる。
 安田作兵衛国継:本能寺の変事には本能寺に先陣を切って突入した明智三羽烏の一人で、森蘭(乱丸)の首級をあげたともいう。山崎合戦の敗走ののち、天野源右衛門と改称して羽柴秀勝、同秀長、蒲生氏郷に歴仕、九州平定の際には立花宗茂に属して軍功があった。その後、寺沢家に八千石で仕えた。
 こうして明智家臣衆を見ていくと、細川家や美濃出身の寺澤家に縁あって仕えたことが分かる。

  (続く) 
  (04.12.4掲上、05.6.12及び20.10.31などに追補)


 
 (続編へ)     要約版へ    系譜目次に戻る


戻る(系譜部トップへ)   ようこそへ